第1話 お嬢さん、俺の嫁にならないか?
「アルヴェイン・ロゼリア公爵令嬢。君との婚約を、今日限りで破棄する」
王太子レオンの声が、華やかな大広間に響いた。
楽団の奏でていた音楽が止まる。
談笑していた貴族たちも口を閉ざし、いくつもの視線が一斉にアルヴェインへと向けられた。
驚き。
同情。
そして、隠しきれない好奇心。
――明日の社交界は、さぞかし賑やかになることでしょうね。
アルヴェインはそんなことを考えながら、目の前に立つ男を見つめた。
レオンとは十歳の頃に婚約した。
あれから十二年。
王太子妃となるため、礼儀作法はもちろん、歴史、政治、外交、語学、音楽――ありとあらゆる教育を受けてきた。
好きだった刺繍をする時間も減った。
友人との茶会も断った。
食べたいものより、王太子妃として相応しいものを選んだ。
着たい服より、王家の婚約者として相応しい服を選んだ。
いつしかアルヴェインは、自分が何を好きだったのかすら、よく分からなくなっていた。
それでも構わないと思っていた。
いつかこの人の隣に立つ。
それが自分の人生なのだと信じていたから。
その十二年間が――。
どうやら今、終わったらしい。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。
「まだしらを切るつもりか」
レオンが眉をひそめる。
その隣には、一人の令嬢が寄り添っていた。
リリア・ベルフォード伯爵令嬢。
柔らかな栗色の髪に、大きな琥珀色の瞳。
小柄で愛らしく、思わず庇護欲をそそられるような女性だ。
そのリリアが、怯えるようにレオンの腕を掴んでいる。
「君がリリアにしてきたことは、すべて聞いている」
「私が、リリア様に?」
「ドレスにワインをかけたそうだな」
アルヴェインは瞬きをした。なんですかそれ。
「それだけではない。階段から突き落とそうとしたこともあるそうじゃないか」
会場がざわめく。なんですかそれパート2。
アルヴェインはリリアを見た。
視線が重なる。
その瞬間、リリアはびくりと肩を震わせ、レオンの背後へ身を隠した。
なるほど。
――そういうことですのね。
もちろん、身に覚えなどない。
ワインをかけたこともなければ、階段から突き落とそうとしたこともない。
そもそも王太子妃教育に追われていたアルヴェインには、リリアを虐げるために後を追い回すような暇すらなかった。
「殿下。私は――」
「言い訳は聞きたくない」
ぴしゃりと遮られる。
アルヴェインは口を閉じた。
何かが、すっと冷めていくような気がした。
十二年間。
十二年も、この人の隣にいたのだ。
なのにレオンは、アルヴェインの話を一度聞くことすらしない。
「最後に何か言いたいことはあるか」
「……最後に、でございますか」
「ああ」
アルヴェインは少しだけ考えた。
言いたいことなら、いくらでもある。
身に覚えはございません。
証拠をお確かめください。
十二年間、私は何のために努力してきたのですか。
そして何より――。
一度くらい、私を信じようとは思ってくださらなかったのですか。
けれど。
目の前にいるレオンを見ているうちに、それらを口にする気が失せてしまった。
この人はもう、答えを決めている。
ならば何を言っても、きっと届かない。
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
アルヴェインはドレスの裾を摘み、王太子妃として何千回と練習してきた完璧な礼をした。
「これまで大変お世話になりました、レオン殿下」
「……それだけか?」
顔を上げると、なぜかレオンの方が戸惑っていた。
アルヴェインは内心で首を傾げる。
では、どうすればよかったのだろう。
泣いて縋れば満足だったのだろうか。
そんなことを考えたとき、ふとリリアの足元が目に入った。
薄桃色の美しいドレス。
その裾を飾る繊細なレースが、わずかにほつれている。
「リリア様」
「……は、はい!」
突然名前を呼ばれ、リリアが飛び上がりそうなほど肩を震わせた。
「ドレスの裾がほつれておりますわ」
「え……?」
「そのままですと、ヒールに絡んでしまうかもしれません。階段では特にお気をつけくださいませ」
「…………」
リリアが呆然とアルヴェインを見る。
アルヴェインは小さく微笑んだ。
「それでは皆様、ごきげんよう」
もう一度、一礼する。
そして背筋を伸ばしたまま、大広間を後にした。
誰にも、後ろ姿だけは哀れだと思われたくなかった。
泣いちゃダメ。泣いてやるもんか。
自身に注がれる視線を感じながら、アルヴェインは必 死に涙を抑えていた。
◇ ◇ ◇
「……へえ」
二階の回廊からその一部始終を眺めていた男が、低く呟いた。
片手にはシャンパン。
黒を基調とした軍装に身を包み、長い黒髪の前髪には一筋だけ金色が混じっている。
カイ・ヴァルグレン
北方の国バハードを守る五騎士を率いる男である。
「何ですか、その顔は」
隣にいた銀髪の男――レイが言った。
「どんな顔だよ」
「面白いものを見つけた子供のような顔です」
「失礼な奴だな」
「否定はしないのですね」
カイは答えなかった。
階下を見つめる。
アルヴェインの姿は、すでにない。
「しかし、趣味の悪いことをするな」
黒髪の男――ソラが、冷ややかな目を王太子へ向けた。
「大勢の前で婚約破棄とは」
「俺だったら泣くなぁ」
赤髪のユウトが手すりにもたれかかる。
「お前、婚約者いたか?」
カイが尋ねる。
「いないけど?」
「じゃあ安心しろ。破棄される予定もない」
「ひどくない!?」
「たしかに」
青みがかった黒髪のレンが一言だけ告げる。
「レンまで!?」
四人のやり取りを聞き流しながら、カイはシャンパンを一気に口に運んだ。
だが視線は、アルヴェインが消えていった扉へ向けたままだった。
婚約を破棄された。
しかも、あれだけ大勢の前で。
身に覚えのない罪まで着せられて。
それでも泣かなかった。
喚かなかった。
相手に縋ることもしなかった。
最後には、自分を陥れたかもしれない女のドレスのほつれまで教えてやった。
「はっ!……面白え」
カイが呟く。
「はい?」
レイが聞き返した。
カイは残っていたシャンパンを一気に飲み干した。
そして空になったグラスを、レイの前へ差し出す。
「持ってろ」
「嫌です」
「もう持ってんじゃねえか」
反射的に受け取ってしまったレイが、手元のグラスを見て眉を寄せる。
カイは笑いながら踵を返した。
「ちょっくら行ってくる」
「どちらへ?」
「決まってんだろ」
そのまま階段へ向かう。
残された四人が顔を見合わせた。
「……まさか」
ユウトがアルヴェインの去った扉を見る。
「追いかけるの?」
「でしょうね」
レイがため息をつく。
「何しに行ったの、あの人」
ソラが眉をひそめる。
「さぁ…」
とは言いつつも、口元は弧を描いている。
「もうちょっとしたら追いかけようぜ」
「そうですね」
レイは二つになってしまったグラスを眺めてから、カイの背中へ視線を戻した。
「さて――」
口元に、わずかな笑みを浮かべる。
「今回は何を拾ってくるのやら」
◇ ◇ ◇
王宮を出ると、冷たい夜風がアルヴェインの頬を撫でた。
「……ふう」
ようやく息を吐く。
誰も見ていない。
そう思った途端、右手が小さく震えていることに気づいた。
アルヴェインは左手でその手を包み込んだ。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
けれど、何が大丈夫なのかは分からない。
婚約を破棄された。
十二年間続いていた人生が、突然終わった。
父には何と説明すればいいのだろう。
母は。
公爵家は。
そして――。
明日から私は、何をすればいいのだろう。
王太子妃になる。
それだけを考えて生きてきた。
それがなくなった今、自分が何者なのかすら分からない。
不安が胸の奥から込み上げてくる。
けれど同時に。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ――。
胸の奥が軽くなったような気がした。
その感覚が何なのか、今のアルヴェインにはまだ分からなかった。
「お嬢様」
公爵家の御者が心配そうに駆け寄ってくる。
「お帰りになりますか?」
「ええ。お願い」
御者が馬車の扉を開けた。
今は家に帰ろう。
考えるのは、それからでいい。
アルヴェインはドレスの裾を持ち上げ、馬車へ乗り込もうとした。
そのときだった。
「――お嬢さん」
聞き覚えのない男の声。
アルヴェインは足を止めた。
振り返る。
王宮の階段を、一人の男が下りてくるところだった。
背が高い。遠目からでも鍛えているのがわかる体つき。黒を基調とした質の良い生地には赤と金色で装飾が施されている。
月の光と王宮の街灯の灯りを受けた黒い髪には、一筋の金色が混ざっていた。
ーーだれかしら。見覚えは、ない。
男は迷うことなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「……私でしょうか?」
「ああ」
どうやら人違いではないらしい。
男はアルヴェインの前まで来ると、足を止めた。
近くで見ると、かなり背が高い。
そして。
なぜだろう。
妙に楽しそうな顔をしている。
――どなたですの?
アルヴェインは必死に記憶を探った。
国内の有力貴族。
王宮関係者。
外国からの来賓。
これまで頭に叩き込んできた膨大な人物名鑑。
該当者なし。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「カイ」
「……カイ様?」
「ああ」
それだけ?
家名は?
爵位は?
所属は?
尋ねたいことはいくらでもあった。
だがアルヴェインが口を開くより先に、カイが言った。
「さっきの、見てた」
「……さっきの?」
「婚約破棄」
アルヴェインの頬が、ぴくりと引きつった。
できれば今、もっとも聞きたくない単語である。
「……そうでございますか。
それで、私に何か御用でしょうか」
「ある」
即答だった。
カイはアルヴェインを真っ直ぐ見つめる。
何を言われるのだろう。
同情?
慰め?
それとも、大勢の前で婚約を破棄された女を一目見ておこうという好奇心だろうか。
私が何をしたっていうの?なぜこんな惨めな思いをしなければならないの?
——教えて、神様。
けれど、そんな心の内を見せるわけにはいかない。
アルヴェインは公爵令嬢として身につけた完璧な微笑みを浮かべた。
すると。
カイは笑った。
そして、まるで今夜の天気について尋ねるような気軽さで――。
「お嬢さん、俺の嫁にならないか?」
「…………はい?」
アルヴェインは瞬きをした。
一度。
二度。
三度。
聞き間違いだろうか。
いや。
どう考えても今、この男は「嫁」と言った。
しかも。
初対面である。
アルヴェインは目の前の男を見上げた。
カイは冗談を言った様子もなく、こちらを見ている。
吸い込まれそうなほどまっすぐで透き通った瞳。
いえ――ちょっと待ってくださいませ。
私。
つい先ほど。
婚約を破棄されたばかりなのですけれど!?




