それだけでよかった
アルヴェインへ突き刺さる、いくつもの好奇の視線。
十二年ものあいだ王太子の婚約者だった令嬢が、婚約を解消され、国を離れた。
その彼女が今、バハード王国の五騎士とともに王宮へ戻ってきたのだ。
何があったのかと探る視線。
値踏みするような視線。
そして、カイをはじめとする五人の美しい騎士たちと並んで歩くアルへ向けられる、妬みや僻みの入り混じった視線。
アルも、それを感じていた。
けれど――以前とは違う。
胸の奥には、確かなものがあった。
カイと四騎士への信頼。
一緒に過ごした期間は、まだ短い。
十二年という歳月に比べれば、ほんのわずかなものだ。
それなのに、どうしてこんなにも安心できるのだろう。
不安が押し寄せるたび、頭に浮かぶ。
カイの大きな笑い声。
静かに眼鏡を押し上げながら、いつも冷静に皆を見ているレイ。
穏やかな笑顔で、さりげなく人を気遣うレン。
口は悪いくせに、誰より早く異変に気づくソラ。
そして、どんな空気の中でも明るさを失わないユウト。
バハードで彼らと過ごした日々が、一つ、また一つと胸に浮かぶ。
それだけでよかった。
アルは静かに息を吸い、顔を上げた。
隣を歩くカイが、ほんの少しだけこちらを見る。
「……大丈夫か?」
小さな声だった。
周囲には届かない、アルだけに向けられた声。
「はい」
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
「大丈夫です」
カイはそれ以上何も言わなかった。
ただ、アルが添えている手を振り払うことも、必要以上に握ることもなく、そのまま歩調を合わせてくれた。
そのことが、嬉しかった。
やがて、一行は大広間の上座へとたどり着いた。
そこには、この祝賀の主役である王太子とリリアが並んでいる。
アルの足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになる。
かつて十二年間、隣に立つことを当然だと思っていた人。
その隣には今、別の女性がいる。
胸が痛まないわけではなかった。
十二年という時間まで、なかったことにはできない。
けれど。
アルは隣にいる男の気配を感じた。
背後には四人がいる。
――大丈夫。
もう一度、心の中でそう呟いてから、アルは進んだ。
王太子がアルを見る。
一瞬、その目に何かが浮かんだ。
驚きだったのか、それとも別の感情だったのか。
けれど、それはすぐに王族らしい微笑の下へ隠された。
「久しぶりだな、アルヴェイン」
「ご無沙汰しております、殿下」
アルは美しく礼を取った。
十二年間、身体に染み込ませてきた所作だった。
「元気そうだな」
「はい。おかげさまで」
それだけだった。
以前なら、この人の声色ひとつ、表情ひとつから機嫌を読み取ろうとしていただろう。
今は、もうその必要がない。
アルはリリアへ向き直った。
「このたびは、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます、アルヴェイン様」
リリアも微笑んだ。
完璧に整えられた、祝いの席にふさわしい笑顔だった。
けれど、その目はアルの隣へ向いている。
カイ。
そして、その後ろに控える四騎士。
再びアルへ戻ってきた視線に、ほんのわずかな棘が混じった。
「それにしても――」
リリアは口元を綺麗に弧へ変えた。
「すぐに次のお相手が見つかってよかったですわ。心配しておりましたの」
ほんの一瞬。
周囲の空気が止まった。
祝いの言葉にも聞こえる。
事情を知らない者なら、そう受け取るかもしれない。
けれど、アルには分かった。
これは心配などではない。
婚約を破棄されて間もないのに、もう次の男を見つけたのか。
そう言っているのだ。
そして、それはアルだけに向けられた侮辱ではなかった。
隣に立つカイを、まるで婚約を破棄された自分が、寂しさを埋めるために急いで見つけた「次の相手」でしかないように扱っている。
アルの胸の奥に、静かな熱が生まれた。
自分のことなら、まだいい。
けれど。
カイをそんなふうに言われるのは、嫌だった。
背後でも、わずかに空気が変わった。
レイの眼鏡の奥から温度が消える。
レンの柔らかな笑みが消えた。
ソラの紫の瞳が細くなる。
ユウトも口元から笑みを消していた。
そして隣のカイも。
何も言わない。
けれどアルには分かった。
怒っている。
それでも誰一人、口を挟まなかった。
アルはリリアをまっすぐ見た。
「はい」
穏やかに微笑む。
「あのとき、お二人が私との婚約を解消してくださったおかげで、私はカイ様と出会うことができました」
リリアの笑みが、ほんのわずかに固まった。
「それに――」
アルは少しだけ振り返った。
四人がいる。
「かけがえのない友人たちとも」
レイがわずかに目を見開く。
レンの表情が戻る。
ユウトは照れくさそうに鼻の下を指でこすり、ソラだけは露骨に視線を逸らした。
アルは再び王太子夫妻へ向き直る。
「今、とても幸せです」
それは強がりでも、意趣返しでもなかった。
本心だった。
「お二人も、どうぞ末永くお幸せに」
静かな沈黙が落ちた。
その隣で、カイが口を開いた。
「俺もだ」
アルが思わず見上げる。
「え?」
カイはアルを見ていた。
人目など気にしていないような、いつもの真っ直ぐな目だった。
「お前に出会えてよかった」
「カイ様……」
それからカイは王太子とリリアへ視線を戻した。
礼節を欠くことなく、静かに頭を下げる。
「この縁には、俺からも感謝しています」
アルの胸が、温かくなる。
言い返してくれたからではない。
守ってくれたからでもない。
自分がカイとの出会いを幸せだと思っているように、カイも同じように思ってくれている。
それが嬉しかった。
リリアは笑みを崩さなかった。
けれど、その視線は一瞬だけカイへ向いた。
――あなた、本当に女性を見る目がありませんのね。
そう思わずにはいられなかった。
アルは、その視線には気づかなかった。
カイが差し出した腕へ、もう一度そっと手を添えていたからだ。
「では、行こう。アル」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
四騎士も、その後に続く。
またいくつもの視線がアルへ突き刺さる。
好奇。
羨望。
妬み。
僻み。
けれど、もう足は止まらなかった。
十二年間そばにいたから、信じられるのではない。
一緒に過ごした時間が短いから、信じられないのでもない。
大切なのは、きっと時間の長さではなかった。
振り返らなくても分かる。
カイが隣にいる。
レイがいる。
レンがいる。
ソラがいる。
ユウトがいる。
それだけでよかった。




