帰ってきた令嬢
第23話 帰ってきた令嬢
結婚祝賀パーティーを翌日に控えた夜。
王都レグナリアは、すでに深い眠りの中にあった。
昼間は馬車と人で溢れていた大通りも静まり返り、ロゼリア邸の長い廊下にも人影はない。
そんな廊下を、アルは一人で歩いていた。
薄い夜着の上から羽織ったガウンの胸元を、指先でそっと押さえる。
眠れなかった。
明日になれば、大勢の貴族が集まる。
その中心にいるのは、かつて自分の婚約者だった王太子と、その新しい花嫁となるリリア。
怖いわけではない。
もう、あの頃とは違う。
そう思っているのに、目を閉じると胸の奥がざわついた。
気がつけば、足はこの部屋の前まで来ていた。
「…………」
アルは扉を見上げた。
こんな夜更けに、結婚前の女性が男性の部屋を訪ねる。
褒められたことではない。
分かっている。
引き返そうか。
そう思って一歩だけ後ろへ下がり――結局、戻った。
小さく息を吸う。
コン、コン。
控えめに扉を叩いた。
少しして、中から足音が聞こえた。
扉が開く。
「――アル?」
「こんな遅い時間に申し訳…………」
アルは固まった。
いつものカイではなかった。
騎士としての正装も、ヴァルグレン家当主としての装いもしていない。
シャツは寛いだ形に着崩され、首元も普段より大きく開いている。髪も整えられておらず、少しだけ乱れていた。
完全に私室で休んでいた男の姿だった。
「構わない。どうした?」
「い、いえ」
アルは慌てて目を逸らした。
耳まで熱くなっていく。
その様子を見て、カイが目を細める。
「……なんだ」
ふっと笑った。
「俺のこと、男として意識してくれてるんだな」
「……!」
アルはますます赤くなった。
カイは面白そうに笑っている。
なんだか悔しい。
「……カイ様ばっかりずるい」
「俺が?」
きょとんとするカイに、アルは唇を尖らせた。
けれど、それもほんの一瞬だった。
俯いたまま、ガウンの端をきゅっと握る。
「……カイ様に会いたくて来てしまいました」
今度は、カイが黙った。
「…………」
アルがおそるおそる顔を上げる。
「カイ様?」
「……はぁ」
大きく息を吐かれた。
「えっ」
何か悪いことを言ってしまっただろうか。
不安になったアルの前で、カイが一歩近づいた。
大きな手が、そっとアルの髪に触れる。
そして身を屈め――その髪に、静かに唇を落とした。
「……俺がいる」
低い声が、すぐそばから聞こえた。
「あいつらもいる。何も心配はいらない」
カイの指が、アルの髪を優しく撫でる。
「安心して休め」
胸の奥にあったざわめきが、嘘のように消えていく。
アルは顔を上げた。
「……はい!」
今度は、心から笑えた。
その笑顔を見て、カイもわずかに笑う。
アルは自分の部屋へ戻っていった。
カイは扉の前に立ったまま、その小さな背中が廊下の向こうへ消えるまで見送っていた。
ーーーーーーー
同じ頃。
ロゼリア公爵夫妻の寝室には、まだ明かりが灯っていた。
二人はソファに並んで座っていたが、なかなか眠る気にはなれなかった。
久しぶりに帰ってきた娘は、驚くほど穏やかな顔をしていた。
バハードでの暮らしを話すときも。
四人の騎士たちのことを話すときも。
そして――カイの名を口にするときは、特によく笑った。
それが、二人には嬉しかった。
だからこそ、明日のことが気にかかる。
セシルから、結婚祝賀パーティーの招待状を受け取ったときのアルの様子も聞いていた。
「……大丈夫かしら」
夫人がぽつりと呟いた。
「明日は、あの方たちと顔を合わせるのでしょう?」
「ああ」
「アルは笑っていたけれど……」
母親だからこそ分かる。
笑っているからといって、何も感じていないわけではない。
十二年という時間は、それほど簡単に消えるものではないのだから。
夫人は膝の上で指を組み、ふと目を伏せた。
そして思い出す。
少し前のことを。
ロゼリア公爵家に、一通の正式な書状が届いた。
封蝋に刻まれていたのは、ヴァルグレン家の紋章。
それは、カイ・ヴァルグレンからアルへの正式な結婚の申し込みだった。
書状を読み終えた夫人は、しばらく何も言えなかった。
「……あの婚約破棄から、まだあまり時間が経っていないというのに」
もう一度、書面へ目を落とす。
「早すぎないかしら」
夫はすぐには答えなかった。
妻と同じように、その書状を見つめている。
やがて、静かに口を開いた。
「時間は関係ないと、僕たちはもう知っただろう」
「……あなた」
「十二年だよ」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には十二年分の重みがあった。
「十二年そばにいて、あの子は血の滲むような努力をした。それでも駄目になったじゃないか」
王妃になるために。
国のために。
そして、いつか隣に立つはずだった人のために。
娘がどれほど努力してきたのか。
二人は、誰よりも近くで見てきた。
「だったら今度は、何年一緒にいたかじゃない」
父は妻を見た。
「誰といるときのアルが、幸せそうに笑っているか。それを見てやればいいんじゃないかな」
夫人は黙って夫を見つめた。
やがて、その表情が柔らかくなる。
「……そうね」
娘の顔を思い浮かべたのだろう。
「あの子、カイ様のお話をするとき……よく笑うものね」
「ああ」
父も笑った。
「僕は、それで十分だと思うよ」
夫人はもう一度、ヴァルグレン家の紋章へ目を落とした。
十二年という長い時間が、娘を幸せにしてくれるとは限らなかった。
ならば今度は。
時間ではなく、娘の笑顔を信じてみよう。
――あのとき、二人はそう決めたのだ。
夫人はゆっくりと顔を上げた。
「……あの方なら、明日もアルのそばにいてくださるかしら」
夫は少しだけ笑った。
「いるさ」
迷いのない答えだった。
「今日だって、ずっとアルを気にかけていたじゃないか」
それは父親として、娘の隣に立つ男を見ていたからこそ分かったことだった。
「明日のことは、カイ君に任せようじゃないか」
そして、穏やかに続ける。
「アルが自分で選んだ人だ」
夫人はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと肩の力を抜いた。
「……そうね」
窓の外には、静かな王都の夜が広がっていた。
明日、娘はもう一度、あの場所へ立つ。
けれど今度は。
十二年前から決められていた誰かの隣ではない。
自分で選んだ人の隣に立って。
ーーーー
同じ夜。
王宮の一室では、二人の男女が一つのベッドに横たわっていた。
リリアは王太子の胸元に身体を寄せていた。
その肩を、王太子の腕が抱いている。
「……明日、本当に来るのね」
「誰が?」
「アルヴェイン様よ」
王太子の視線が、わずかに動いた。
「当然だろう。ロゼリア公爵家の令嬢だ。それに今は、バハード王国からの使節団と行動を共にしている」
「そう……」
リリアは王太子の胸元に頬を寄せた。
「ねえ」
「なんだ?」
「……綺麗になっていたら、どうしましょう」
王太子が小さく笑った。
「何を気にしている」
腕に少し力を込め、リリアを抱き寄せる。
「俺が選んだのは、お前だ」
「……ええ」
リリアは微笑んだ。
そのまま王太子の胸に顔を埋める。
けれど。
彼女は見逃していなかった。
アルヴェインの名を出した、その一瞬。
王太子の返事が、ほんのわずかに遅れたことを。
◇ ◇ ◇
翌日。
王宮の大広間は、眩い光に包まれていた。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリア。
磨き上げられた床。
色とりどりの花が飾られ、楽団の奏でる音楽が広間を満たしている。
セレディア王国の有力貴族だけではない。
王太子の結婚を祝うため、各国から訪れた使節たちも集っていた。
華やかな衣装。
交わされる祝辞。
笑い声。
その中心に立つのは、王太子とリリアだった。
やがて、大広間の入口に立つ侍従が声を張った。
「――バハード王国使節団、ご入場!」
巨大な扉が開く。
広間に、わずかな静寂が落ちた。
最初に姿を現したのは、一組の男女だった。
アル。
そして、その隣を歩くカイ。
カイはヴァルグレン家当主としての正装に身を包み、その腕にはアルの手が添えられている。
アルもまた、この日のために仕立てられたドレスを纏っていた。
背筋を伸ばし、顔を上げている。
その後ろには、バハード王国の騎士として正装した四人。
レイ。
レン。
ソラ。
ユウト。
六人が広間へ足を踏み入れた。
ざわり。
空気が揺れた。
「……アルヴェイン様?」
誰かが呟いた。
「本当に……?」
「あれがロゼリア公爵家の……」
囁きは瞬く間に広がった。
彼女を知る者ほど、言葉を失った。
婚約を破棄され、この国を去った令嬢。
惨めに戻ってくるのではないか。
そう思っていた者もいた。
けれど、そこにいるアルは俯いてなどいなかった。
隣にはヴァルグレン家当主。
背後には、バハード王国の四人の騎士。
だが、彼らがいるからアルが輝いているのではない。
堂々と顔を上げて歩くアルの姿が、自然と人々の視線を集めていた。
背筋はまっすぐに伸び、歩幅は決して大きすぎない。
ドレスの裾を乱すことなく、一歩一歩、静かに歩みを進めていく。
視線の運び方も、微笑み方も、カイの腕に添えた指先の置き方さえも上品だった。
けれど、そこに堅苦しさはない。
以前のアルが纏っていた、間違えてはならないと自分を律するような張り詰めた美しさではなかった。
今の彼女には、どこか柔らかな余裕がある。
十二年かけて身につけた気品はそのままに、そこへアル自身の穏やかさが重なっていた。
「……すごいな」
隣から小さな声がした。
アルはカイを見上げる。
「何がですか?」
「みんな、お前を見てる」
「……!」
思わず周囲へ視線を向けそうになったアルに、カイは小さく笑った。
「前だけ見てろ」
その言葉に、アルも笑った。
「はい」
その瞬間だった。
リリアの表情が、歪んだ。
ほんの一瞬。
祝いの席に相応しい微笑みが消え、唇の端が引きつる。
すぐに元へ戻った。
おそらく、ほとんどの者は気づかなかっただろう。
けれど。
四人の中で、一人だけ。
紫の瞳が、確かにその瞬間を捉えていた。
ソラだった。
視線だけをリリアへ向ける。
そして何事もなかったように前を向いた。
口元は動かない。
笑いもしない。
今は、バハード王国を背負ってこの場に立つ騎士なのだから。
ソラだけではない。カイも、レイも、レンも、ユウトも。王太子とリリアに対しいい印象は持っていない。
それでも、誰一人として表情には出さなかった。
カイが静かに前を向く。
その隣で、アルも顔を上げた。
かつては、この場所へ戻ってくることを考えるだけで胸が苦しくなった。
けれど今は、不思議なほど穏やかだった。
隣にはカイがいる。
振り返れば、四人がいる。
昨夜、カイが言ってくれた言葉を思い出した。
『俺がいる。あいつらもいる。何も心配はいらない』
本当に、その通りだった。
アルは小さく息を吸った。
そして、前を向く。
もう俯く必要はない。
六人は、ゆっくりと広間の中央へ歩き出した。
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