いざ、セレディア王国へ
ある日の夜、ヴァルグレン邸の一室に四人の男が集まっていた。
レイ、レン、ソラ、ユウト。
扉は固く閉ざされ、カイだけが呼ばれていなかった。
「では」
レイが静かに口を開いた。
「王都へ向かう前に、一つ確認しておきたいことがあります」
その声は、妙に真剣だった。
「うん。俺も話しておいた方がいいと思う」
レンが頷く。
「ああ。これは大事だな」
ユウトも腕を組んだ。
ソラは椅子の背にもたれながら言う。
「こっちも気合い入れねーとな」
「もちろんです」
レイは眼鏡を押し上げた。
「王太子殿下の結婚祝賀会では、当然ながら酒が振る舞われます」
四人の間に沈黙が落ちる。
「したがって――」
レイが告げた。
「カイには、一滴も酒を飲ませません」
「異議なし」
レンが即答した。
「絶対にな」
ソラも続く。
「兄貴には悪いけど、俺も賛成」
ユウトも頷いた。
全会一致。
迷う者は一人もいなかった。
それには、理由がある。
◇ ◇ ◇
以前、五人で城下の酒場へ出かけた夜のこと。
その夜、五人は店の奥まった席で、珍しく周囲の目を気にせず酒を楽しんでいた。
最初は普通だった。
酒を飲み、くだらない話をして笑う。
いつもよりカイの声が大きくなっていることには、全員気づいていた。
だが、機嫌がいいだけだと思っていた。
――途中までは。
「なあ」
カイが突然、杯を置いた。
「俺たちの中で、誰が一番多く腕立て伏せできると思う?」
「さぁな」
ソラが答える。
「やってみようぜ」
「やらねぇよ」
「なんでだよ」
「なんでやるんだよ」
もっともな疑問だった。
だが、酔ったカイに理屈は通じなかった。
「よし。勝負だ!」
「人の話聞けよ」
カイが立ち上がり、袖をまくる。
それを見たユウトが、諦めたように立ち上がった。
「……やるのかよ」
「やるぞ!」
「兄貴、明日後悔しても知らねぇからな」
そう言いながら、ユウトも袖をまくる。
「いや、なんでお前までやるんだよ」
ソラが呆れた声を上げた。
「だって兄貴一人でやらせるわけにもいかねぇだろ」
「ほっとけよ」
「ソラはやらないの?」
レンが笑う。
「やるわけねぇだろ」
「負けるのが嫌だから?」
「……は?」
数秒後。
ソラも袖をまくっていた。
「レン。てめぇ、後悔させてやる」
「なんで俺が参加することになってるの?」
「煽ったのお前だろ」
「そうだけど」
その隣で、レイが深く息を吐いた。
「私はやりませんよ」
「レイ」
カイが呼ぶ。
「なんですか」
「負けるの怖い?」
「…………」
レイが眼鏡を外した。
「いいでしょう」
「レイまで!?」
結局。
五人全員が酒場の床へ手をついた。
「いくぞ!」
カイの声が響く。
「一!」
「二!」
「三!」
その時だった。
「……おい」
近くの席にいた男が、杯を持ったまま固まった。
「何やってんだ、あれ」
隣の男も振り返る。
「……待て。あれ、五騎士じゃねぇか!?」
その一言で、周囲の客が一斉に振り返った。
「えっ、五騎士!?」
「本当だ!」
「何やってんだ!?」
「腕立て伏せだろ!」
「見りゃ分かる! なんで酒場でやってんだよ!」
もっともな疑問だった。
だが、床に並んだ五人はもう止まらない。
「十四!」
「十五!」
「兄貴、速ぇって!」
「遅いぞ、ユウト!」
「酔ってんのになんでそんな元気なんだよ!」
ざわめきは、あっという間に酒場全体へ広がった。
「誰が勝つ!?」
「そりゃカイ様だろ!」
「いや、ソラ様じゃねぇか!?」
「ユウト様も強そうだぞ!」
「俺はレン様に賭ける!」
「勝手に賭けんな!」
ソラが腕立て伏せを続けたまま怒鳴る。
その声に、酒場がどっと沸いた。
「俺も混ぜてくれ!」
一人の男が立ち上がった。
「カイ様! 俺と勝負してください!」
「いいぞ!」
「よくねぇ!!」
カイが即答し、ソラが即座に否定する。
しかし、もう遅かった。
「だったら俺もやるぞ!」
「俺もだ!」
「五騎士に勝ったら一生自慢できるぞ!」
一人、また一人。
酒に酔った男たちが袖をまくり、床へ手をついていく。
気づけば、酒場の床には男たちがずらりと並んでいた。
「二十八!」
「二十九!」
「三十!」
「うおおお!」
誰かが叫び、誰かが数える。
もはや最初に誰が始めた勝負なのかなど、どうでもよくなっていた。
四十を超えたあたりから、一人、また一人と床へ沈み始める。
「もう無理だ……!」
「早ぇぞ!」
「お前やってみろ!」
「俺は応援する側だ!」
五十。
六十。
参加者はみるみる減っていった。
それでも五騎士は残っている。
「七十八!」
「七十九!」
「八十!」
「まだ全員いるぞ!」
「化け物かよ!」
「五騎士だぞ!」
「関係あるか!?」
酒場の熱気は、さらに上がっていく。
八十を超えた頃には、一般客で残っている者はほとんどいなかった。
床に転がった男たちが、五人へ声援を送っている。
「カイ様ぁ! いけぇ!」
「ソラ様負けんな!」
「ユウト様ぁ!」
「レン様まだいけるぞ!」
「レイ様、顔怖ぇぞ!」
「黙ってください!」
レイが腕立て伏せを続けながら怒鳴った。
酒場が爆笑に包まれる。
「九十八!」
「九十九!」
「百!!」
歓声が爆発した。
だが。
「よし、次!」
カイは止まらなかった。
「は!?」
四人の声が重なる。
「兄貴、百いったぞ!」
「だから?」
「だからじゃねぇよ!」
ソラが叫ぶ。
「まだいけるだろ!」
「何を目指してんだよ!」
百を超えると、さすがに四人にも疲労が見え始めた。
最初に動きが鈍ったのはレイだった。
「百……七……」
腕が止まる。
「レイ?」
レンが横を見る。
「…………」
「大丈夫?」
「問題……ありません」
「止まってるけど」
「…………」
「レイ?」
「少し黙ってください」
百十を超えたところで、レイが静かに床へ伏した。
「レイ様脱落!」
「言わなくて結構です!」
酒場が再び沸く。
続いてレン。
そしてソラ。
最後までカイに食らいついたのは、ユウトだった。
「兄貴……っ」
「なんだ!」
「なんで……そんな元気なんだよ……!」
「楽しいから!」
「理由になってねぇ……!」
やがて、ユウトの腕も止まった。
「無理……!」
床へ崩れる。
残ったのは、一人。
「まだいけるぞ!」
カイだった。
「もう相手いねぇよ!!」
ソラの怒声が飛ぶ。
それでもカイは笑っている。
「カイ様の勝ちだ!」
「強ぇぇ!」
「さすが五騎士の筆頭!」
「もうやめろー!」
声援なのか制止なのか、よく分からない。
カイはようやく身体を起こした。
「俺の勝ち!」
満面の笑みだった。
床に転がった四人が、その顔を見上げる。
ヴァルグレン家当主でも、北方軍を率いる将でもなく。
ただ勝つことが楽しくて仕方がない、少年のような顔。
四人にとっては、見覚えのある笑顔だった。
だからこそ、最後まで付き合ってしまったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「……あの笑顔は、また見たいけどね」
レンが苦笑した。
「せめて公式の行事ではない時に、飲んでもらいましょう」
レイが頷く。
「だな。王宮で腕立て伏せ大会なんか始められたら、たまったもんじゃねぇ」
ソラが吐き捨てるように言った。
「兄貴なら本当にやりかねねぇからな……」
ユウトが深くため息をつく。
こうして、カイの禁酒は四人の間で固く決定された。
しかし、彼らはまだ知らなかった。
カイ以上に警戒しなければならない人物がいることを。
◇ ◇ ◇
その後も、出発の準備は慌ただしく進んだ。
荷物の確認に、ロゼリア公爵家との書簡のやり取り。王太子の結婚祝賀会に関する最終調整。
ヴァルグレン邸では朝から人が行き交い、あっという間に数日が過ぎた。
そして――。
出発の朝が来た。
◇ ◇ ◇
まだ陽も昇りきらない早朝。
ヴァルグレン邸の前には、王都へ向かう馬車と護衛の騎馬が並んでいた。
吐く息が、朝の冷たい空気に白く溶けていく。
「お嬢様。こちらへ」
「ありがとう、セシル」
差し出された手を借りて、アルは馬車へ乗り込んだ。
座席へ腰を下ろし、窓の外を眺める。
ほんの少し前まで、ここは見知らぬ土地の見知らぬ屋敷だった。
それなのに今は、離れることに少し寂しさを感じている。
「アル」
声とともに、カイが馬車へ乗り込んできた。
「寒くないか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「疲れてないか?」
「まだ出発もしておりませんよ?」
「あ、そうか」
アルは思わず笑ってしまった。
「カイ様は心配しすぎです」
「そうか?」
「はい。もし疲れたら、ちゃんとお伝えしますから」
「……約束だぞ」
「約束です」
カイは満足そうに頷くと、アルの膝に掛けられた毛布を少しだけ整えた。
結局、心配することはやめないらしい。
やがて外から御者の声が響き、馬車がゆっくりと動き始めた。
アルは窓の外へ目を向けた。
屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
これから向かうのは、王都レグナリア。
生まれ育った街であり、十二年間信じてきた未来を失った場所。
胸の奥に、あの日の冷たさがわずかに蘇る。
けれど、隣にはカイがいる。
そして馬車の外には、レイたちもいる。
――今度は、一人じゃない。
アルは小さく息を吐き、もう一度窓の外を見た。
馬車は朝の街道を、王都へ向かって走り始めた。
◇ ◇ ◇
道中、何度か休憩を挟みながら、一行は街道を進んだ。
レイが組んだ行程は、アルの体調を優先したものだった。
もっとも、疲れる前に休憩を告げられるため、本人としては少々複雑だったが。
そして夕刻。
懐かしい街並みが、馬車の窓の向こうに現れた。
セレディア王国の王都レグナリア。
行き交う馬車。
石造りの建物。
遠くに見える王宮の尖塔。
それを目にした瞬間、アルの身体がわずかに強張った。
「アル」
隣から名前を呼ばれる。
「……はい」
「着いたな」
それだけだった。
怖いかとも、大丈夫かとも聞かない。
アルはカイを見て、それからもう一度窓の外へ目を向けた。
「はい」
今度は、きちんと前を見ることができた。
やがて馬車は、王都の一角に建つ大きな屋敷の門をくぐった。
ロゼリア公爵邸。
アルが生まれ育った家だった。
馬車が止まり、扉が開く。
先に降りたカイが、アルへ手を差し出した。
その手を取って地面へ降りた瞬間だった。
「アル!」
聞き慣れた声が響いた。
「お父様!」
屋敷の前には、父と母が立っていた。
アルが歩み寄るより早く、母が娘を抱きしめる。
「お帰りなさい、アル」
「ただいま戻りました、お母様」
懐かしい香りがした。
幼い頃から、何度も包まれた腕だった。
その隣で、父が穏やかに笑っている。
「元気そうだな」
「はい、お父様」
やがて父の視線が、アルの後ろへ向かった。
そこにはカイが立っていた。
先ほどまでの柔らかな表情が消え、カイは姿勢を正した。
「お久しぶりです」
深く頭を下げる。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
アルは思わず目を瞬いた。
普段のカイとは、まるで違う。
少し離れたところでは、レンが微かに笑っていた。
ソラも何も言わないが、どことなく面白そうな顔をしている。
「こちらこそ、よく来てくれた」
ロゼリア公爵は穏やかに笑った。
「あの夜以来だね。娘から君の話は聞いているよ」
「……そうですか」
「ああ。とても楽しそうにね」
「お父様……!」
アルが慌てて声を上げる。
公爵は楽しそうに笑うと、カイへ向き直った。
「長旅だっただろう。まずは中へ」
「ありがとうございます」
カイがもう一度頭を下げる。
そのあまりに礼儀正しい姿に、アルは思わず頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
ロゼリア公爵邸の応接室には、カイとアル、そしてアルの両親が向かい合って座っていた。
レイたち四人は席を外している。
婚約が正式に認められてから、カイがロゼリア公爵夫妻と顔を合わせるのは、これが初めてだった。
婚約破棄の夜は、あまりにも突然の出会いだった。
だが、今日は違う。
アルの婚約者として、改めて挨拶をするための席だった。
カイは、普段以上に背筋を伸ばしていた。
「改めまして」
カイが口を開く。
「このたびは、婚約をお認めいただき、ありがとうございます」
公爵は静かに頷いた。
「書簡でもお伝えしましたが、今日は直接、お約束したいことがあります」
カイは一度、アルを見た。
それから、改めて公爵夫妻へ向き直る。
「俺は――」
一瞬だけ、言葉を探した。
「私は、アルヴェインを生涯大切にします」
アルがわずかに目を見開いた。
慣れない言葉遣い。
それでも、一生懸命に伝えようとしてくれている。
「何があっても、彼女の隣にいます」
静かな声だった。
「必ず、幸せにします」
そう言って、深く頭を下げた。
少しの沈黙のあと。
「……顔を上げてくれ」
公爵の声がした。
カイが顔を上げる。
「君が娘を大切に思ってくれていることは、あの夜から伝わっていたよ」
「……はい」
「だが、今日こうしてアルの顔を見て、改めて安心した」
公爵は娘へ目を向けた。
「この子がこんなに幸せそうに笑う姿を、久しぶりに見たんだ」
その隣で、公爵夫人も微笑む。
アルの頬が一気に熱くなった。
「お父様……!」
「父親というのはね、案外よく見ているものなんだ」
「でしたら、言わないでくださいませ……」
「それは難しい相談だな」
父が楽しそうに笑った。
そして改めて、カイを見る。
「娘をよろしく頼む」
その隣で、公爵夫人も口を開いた。
「私たちの、たった一人の大切な娘です」
穏やかな声だった。
「どうか、よろしくお願いします」
「……はい」
カイは二人をまっすぐに見つめた。
「必ず」
短い言葉だった。
けれど、その声に迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
話を終えた後。
アルは母に呼ばれ、二人で部屋を出ていった。
扉が閉まる。
室内には、カイとロゼリア公爵だけが残った。
「カイ君」
「はい」
公爵は手元のカップへ視線を落としてから、静かに口を開いた。
「君の家族については、こちらでも少し調べさせてもらった」
カイの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……そうですか」
「すまないね。娘を託す相手だ。父親として、何も知らないままというわけにはいかなかった」
「いえ。当然だと思います」
公爵は頷いた。
「ご両親と、お兄さんが行方知れずになったことも聞いている」
カイの目が、わずかに伏せられた。
「……はい」
それ以上、カイは何も言わない。
公爵も、無理に聞こうとはしなかった。
「詳しい事情を尋ねるつもりはない。ただ、君にも辛い過去があったのだということは知っておきたかった」
「…………」
「辛いことを思い出させたなら、すまない」
「いえ」
カイは静かに首を振る。
「結婚する前に、一度……アルには俺から話すつもりです」
「そうか」
「はい」
公爵は静かに頷いた。
少しの沈黙のあと。
「カイ君」
「はい」
「何か困ったことがあったら、いつでも頼ってほしい」
「…………」
「頼りないかもしれないが――」
そこで、公爵は少しだけ口元を緩めた。
「こう見えて、公爵なんだよ」
カイは目を瞬いた。
思いがけない冗談に、少しだけ表情が緩む。
「それに」
公爵は穏やかに続けた。
「これからは、君も私たちの息子だ」
「…………」
カイは、すぐには答えられなかった。
その言葉を噛みしめるように、公爵を見つめていた。
やがて。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「ああ」
公爵も穏やかに笑った。
それ以上、カイの家族については触れなかった。




