正式な婚約
翌朝。
ヴァルグレン邸の応接室には、いつもとは少し違う緊張が漂っていた。
テーブルの上には、何枚もの書類。
そして、その向こうに座っているのはカイとレイだった。
「――というわけで」
レイが書類を一枚持ち上げる。
「これがロゼリア公爵家へ送る、正式な婚約の申し入れです」
「これに書けばいいんだな?」
「はい。内容はこちらで確認済みですが、念のためご説明します」
「ああ、頼む」
レイが書類の要点を説明すると、カイは頷いてペンを取った。
迷いはない。
さらさらと、自分の名を書き記す。
レイはそれを確認すると、もう一枚の書類を差し出した。
「次はこちらです」
「ここか?」
「はい」
簡単な説明を受け、カイはまた、ほとんど間を置かずに署名する。
「こちらもお願いします」
「ああ」
三枚目。
四枚目。
カイは次々と名前を書いていく。
その様子を見ていたレイが、ふと手を止めた。
「ずいぶん素直ですね」
「何が?」
「もう少し、書類が多いだの何だのと言うかと思いました」
カイは顔を上げた。
「アルと結婚するための書類だろ?」
「そうですが」
「なら、別に何枚あってもいい」
「…………」
「次は?」
レイは一瞬だけ黙った。
カイという男は昔からこうだ。
一度決めたことには、驚くほどの速さで突き進む。
しかも、その判断が大きく外れたこともないのだから、なおさら厄介だった。
「……こちらです」
「おう」
カイはまたペンを走らせた。
戦場でも決断の早い男だが、どうやら今回はそれ以上らしい。
しばらくして、カイがテーブルの上に並んだ書類を見渡した。
「ところでレイ、お前準備いいな」
「こういうことは、早急に取りかからなければなりませんから」
レイは淡々と答え、署名済みの書類を一枚ずつ確認していく。
――そもそも。
今回、アルヴェイン様まで王太子の結婚祝賀会に招かれた裏には、リリア嬢の思惑があるはずだ。
ただ祝福の席へ招きたいだけとは、到底思えない。
レグナリアへ赴けば、何か仕掛けてくる可能性もある。
ならば、その前に。
アルヴェイン様とカイの立場を、できる限り固めておく必要がある。
何をされようと、二人を守れるように。
「これで最後です」
「もう終わりか?」
今度はレイがカイを見る。
「……残念そうですね」
「いや」
カイはペンを置いた。
「これで結婚に近づいたんだろ?」
「ええ。少なくとも、一歩は」
「ならいい」
そう言って笑ったカイに、レイはわずかに目を細めた。
普段は書類仕事を好まない男が、今日は一度も面倒だと言わなかった。
アルとの結婚のためなら、どれほど手間のかかる手続きでも厭わない。
そこだけは、実にカイらしかった。
「じゃあ、次は何すればいい?」
「まずはバハード王への報告と承認です」
「ああ」
「その後、ロゼリア公爵家へこちらを送ります」
「分かった」
「正式な挨拶と両家の確認については、レグナリアへ赴いた際に行うことになるでしょう」
「なら、その時は俺が行けばいいんだな?」
「もちろんです。婚約の申し入れをした当主本人が、挨拶にも来ないわけにはいきませんから」
「分かった」
カイは迷うことなく頷く。
「全部やる」
「……そうでしょうね」
レイが書類を揃えたその時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのはセシルだった。
「アルヴェインお嬢様がお見えでございます」
「アルが?」
その瞬間、先ほどまで書類に向かっていた男が、露骨に顔を上げた。
レイがそれを見る。
「……分かりやすいですね」
「何が?」
「いえ」
セシルの口元にも、わずかな笑みが浮かんでいた。
「お通ししてもよろしいでしょうか」
「ああ」
返事が早い。
間もなくして、アルが部屋へ入ってきた。
「おはようございます、カイ様。レイ様」
「おはよう、アル」
「おはようございます、アルヴェイン様」
アルはテーブルいっぱいに広げられた書類を見て、目を丸くした。
「まあ……」
そしてカイを見る。
「もしかして……」
「ああ」
カイが笑った。
「俺たちの婚約の書類」
「――――」
アルの頬が、ふわりと赤くなる。
婚約。
昨日までも、結婚するという約束はしていた。
カイと生きていくのだと、自分で決めた。
それでも、改めてその言葉を聞くと胸の奥がくすぐったい。
「……そう、なのですね」
「ああ」
カイは少し照れたように笑った。
「ちゃんとしようと思って」
その言葉に、アルは目を細めた。
「はい」
そして、小さく。
けれど、とても嬉しそうに笑った。
「よろしくお願いいたします」
カイが一瞬、固まった。
「……アル」
「はい?」
「それ、なんか……」
「?」
「……いや。何でもない」
耳が赤い。
レイは何も言わず、書類を整え始めた。
セシルも何も言わなかった。
ただし二人とも、完全に同じことを考えていた。
――この程度で照れていて、結婚式は大丈夫なのだろうか。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
正式な婚約の申し入れは、バハード王の承認を経て、セレディア王国のロゼリア公爵家へ送られた。
そして数日後。
返事は、驚くほど早く届いた。
「――認めるそうです」
「早いな」
「ええ」
レイは届いた書簡を見ながら答えた。
アルもその場にいた。
「ロゼリア公爵からです」
カイが身を乗り出す。
「何て?」
「『娘が自ら望んだ相手であるなら、父としてこれ以上嬉しいことはない』」
アルの目が大きくなる。
「お父様……」
レイは手紙へ視線を落とす。
「婚約については、ロゼリア公爵家として正式に承諾する、とあります」
「……よかった」
アルが小さく息を吐く。
カイも、どこかほっとしたように笑った。
「それから」
レイがもう一通の封書を手に取った。
「正式な返書とは別に、カイ宛ての私信が入っています」
「俺に?」
「はい。こちらです」
レイが差し出した封書を、カイは受け取った。
封を開き、中の手紙を取り出す。
「…………」
最初の数行に目を通したところで、カイの口元が緩んだ。
「……なんだよ、これ」
「どうかしましたか?」
アルが不思議そうに尋ねる。
「ああ、いや……」
カイは手紙を見つめ、それからアルを見た。
「レイ、これ読んでくれ」
「私が、ですか?」
「ああ。アルにも聞かせたい」
「私にも、ですか?」
アルが目を丸くする。
「せっかくだからな」
カイは笑って、手紙をレイに差し出した。
レイは一度カイを見た。
「……よろしいのですね?」
「ああ」
「分かりました」
レイは手紙を受け取り、改めて目を落とした。
「では、お読みします」
そして、いつもの淡々とした口調で読み上げ始めた。
「『カイ・ヴァルグレン殿。よくぞ言ってくれた』」
「……?」
「『私は最初から君ならいいと思っていた』」
「お父様!?」
アルの顔が一気に赤くなる。
カイは逆に、少し嬉しそうだった。
「そうなのか?」
「知りません!」
「アル?」
「知りませんったら!」
セシルが横で口元を押さえている。
レイはさらに手紙へ目を落とした。
「まだあります」
「まだ!?」
「はい」
レイは淡々と読み上げた。
「『ただし、妻にはまだ言うな』」
アルが固まった。
カイが首を傾げる。
「なんで?」
レイは次の行を見る。
「『私が先走ったと知れば叱られる』」
「…………」
アルは両手で顔を覆った。
「お父様……」
カイが耐えきれずに笑う。
「いい親父さんだな」
「笑わないでください……!」
「悪い」
まったく悪いと思っていない顔だった。
レイが私信を置き、改めて正式な返書へ目を戻す。
「なお、両家の正式な顔合わせと残りの手続きについては、レグナリアへ来た際に行いたいとのことです」
カイの表情も変わった。
「分かった」
「祝賀会より前にロゼリア公爵邸へ伺い、両家で正式な確認を行う形になります」
「じゃあ……」
アルが呟く。
「お父様とお母様に、お会いするのですね」
「ああ」
カイが答える。
「ちゃんと挨拶する」
真剣な表情で言うカイに、アルは嬉しそうに少しだけ笑った。
「なんだか……不思議です」
「何が?」
「以前は、私の結婚というものは……私の知らないところで、すべて決まっていくものだと思っていました」
幼い頃に決められた婚約。
王太子妃となる未来。
自分の意思など関係なく、先に決まっていた。
けれど今は違う。
「今回は、私が決めたのですね」
その言葉に。
カイは静かに頷いた。
「ああ」
そして当たり前のように言った。
「アルが決めた」
胸が、温かくなる。
アルは小さく頷いた。
「……はい」
これは、誰かに決められた未来ではない。
自分で選んだ人と歩いていく。
初めて、自分で選んだ未来だった。
◇ ◇ ◇
――同じ頃。
遠く離れたユニリス王国。
王城の一室で、一人の少女が一通の報告書を見つめていた。
ルシエラ・ユニリス。
その指が、一行の文字の上で止まっている。
『カイ・ヴァルグレン卿、アルヴェイン・ロゼリア公爵令嬢との婚約を正式に申し入れ――』
「…………」
その先が、なかなか読めなかった。
分かっていた。
いつかこんな日が来るかもしれないことくらい。
カイから何かを約束されたことなど、一度もない。
自分の想いを受け入れてもらったこともない。
「……そう」
声が震えた。
「ご婚約……なさるのね」
笑おうとした。けれど、できなかった。
ぽたり。
報告書の上に雫が落ちた。
ルシエラは慌ててそれを拭う。
「……嫌だわ」
誰もいないというのに。
泣いているところを見られたような気がした。
「分かっていたでしょう……」
自分に言い聞かせる。
「カイ様が、いつか誰かを選ぶことくらい」
それでも。
悲しかった。
悔しかった。
羨ましかった。
――私が、よかった。
一度だけ、そんな言葉が胸をよぎる。
カイの隣に立つのが、カイに選ばれるのが自分だったなら。
そう願ったことくらい、何度もある。
だからその声が聞こえた時、最初は自分の心の声だと思った。
――奪われた。
「…………?」
ルシエラが顔を上げる。
誰もいない。
窓の外には、薄い雲に覆われた昼の空。
それだけだ。
――あの女に。
ぞくり。
背筋に冷たいものが走った。
「……違う」
思わず声に出した。
――あの女がいなければ。
「違うわ」
ルシエラは胸元を握った。
鼓動が速い。
悲しい。
苦しい。
それは本当だった。
アルヴェインという女性が羨ましい。
それも、本当だった。
けれど。
「アルヴェイン様は……私から何も奪っていない」
誰に言うでもなく、ルシエラは呟いた。
カイは最初から自分のものではない。
誰のものでもない。
彼が自分で選んだのだ。
「私は……選ばれたかった」
涙が頬を伝う。
「悔しいし、羨ましいわ」
それでも。
「だからって……」
報告書を握る指に力が入る。
「誰かから奪っていい理由にはならないでしょう」
――取り戻せばいい。
「何を?」
ルシエラの声が強くなった。
「私は何も、取られていないわ」
静寂。
それきり。
声は聞こえなくなった。
しばらくして、ルシエラは大きく息を吐いた。
「……何だったの」
怖かった。
自分の中に、あんな考えがあったのだろうか。
それとも――。
コンコン。
扉が叩かれた。
「ルシエラ」
聞き慣れた声だった。
「兄上……?」
「入るぞ」
扉を開けたのは、兄のアレクシスだった。
深い紺の上着に、アイボリーとアンティークゴールドの装飾。
左眉の上に残る古い傷が、窓から差す光にわずかに浮かんだ。
妹の顔を見るなり、アレクシスは足を止めた。
「……泣いていたのか」
「泣いていません」
「その顔で?」
「泣いていません」
「そうか」
アレクシスはそれ以上追及しなかった。
代わりに、ルシエラの手元を見る。
「ヴァルグレン卿の件か」
「……もうご存じなのですね」
「こちらにも報告が来ている」
ルシエラは少し黙った。
やがて、ぽつりと答えた。
「悲しいです」
「ああ」
「……でも」
ルシエラは報告書を見る。
「アルヴェイン様を嫌いには、なれません」
アレクシスが妹を見る。
「十二年間も王太子殿下の婚約者として生きて……それなのに、大勢の前で一方的に婚約を破棄されたのでしょう?」
「ああ」
「そして今度は、その方の結婚を祝うために王都へ呼ばれる」
ルシエラの眉が寄る。
「……ひどいわ」
「ルシエラ」
「私だったら、行きたくありません」
それは本心だった。
恋敵だからではない。
一人の女性として。
「なのに、アルヴェイン様は行かれるのでしょう?」
「そのようだ」
「…………」
ルシエラはしばらく考え込んだ。
やがて。
「会ってみたいです」
アレクシスが片眉を上げる。
「恋敵に?」
「兄上」
「事実だろう」
「……意地悪」
少しだけ、いつものルシエラが戻った。
それでも彼女は、もう一度報告書を見る。
「でも、本当に会ってみたいのです」
「なぜ?」
「カイ様が選んだ方ですもの」
まだ胸は痛い。
名前を見るだけで泣きそうになる。
それでも、顔を上げる。
「どんな方なのか、自分の目で見てみたい」
アレクシスは妹を見つめた。
そしてわずかに笑った。
「なら、ちょうどいい」
「え?」
「我々も招待されている」
ルシエラが瞬きをする。
「……まさか」
「ああ、そのまさかだ」
アレクシスは机の上へ、一通の封書を置いた。
赤い封蝋。
セレディア王家の紋章。
「王太子の結婚祝賀会にな」
ルシエラは、その招待状を見つめた。
◇ ◇ ◇
その夜、ユニリス王城の上空には雲が広がっていた。
星は見えない。
月も見えない。
厚い雲のさらに向こう、人の目には届かぬ場所で。
何かが静かに息づいていた。
ひとつの心に触れ。
そして――拒まれた。
ならば、ほかを探せばいい。
より深い亀裂を持つ者を。
より強い力を宿す者を。
太古よりこの世界に存在し、幾度となく人々を守ってきた、今や伝説となった存在たち。
その血を引く者が今、深い喪失の中にいることを、月は知っていた。
だが、月はまだその名を呼ばない。
ただ静かに、次に手を伸ばすべき者を――
見つけていた。




