私が着たいドレス
王都レグナリアで開かれる、王太子とリリアの結婚祝賀会。
その日までは、あと二か月ほど。
王都へ向かうことが決まってから、ヴァルグレン邸は少しずつ慌ただしくなり始めていた。
二か月。
一見すれば、十分な時間があるようにも思える。
けれど、国を挙げての祝賀会へ出席するとなれば話は別だった。
ドレスを一から仕立て、宝飾品を揃え、バハード王国からの祝いの品を用意する。
同行する者を決め、旅程を組み、セレディア側とも細かな調整をしなければならない。
まして、アルヴェインのドレスは既製のものではない。
採寸から始め、生地を選び、刺繍を決め、何度か仮縫いを重ねて身体に合わせていく。
そう考えれば、二か月という期間は決して長くなかった。
「二か月ですか」
予定を確認したセシルが、珍しく小さく息を吐いた。
「随分とお急ぎになられたのですね」
「……ええ」
アルにも、その意味はよく分かった。
本来なら、王太子の婚姻ともなれば、もっと時間をかけて準備するものだ。
けれど今回は、婚約破棄から始まった一連の騒動もある。
王家としても、一刻も早く正式な婚姻という形に収めたいのだろう。
「でしたら、急がなければなりませんね」
「はい。まずはドレスでございます、お嬢様」
セシルの言葉に、アルは頷いた。
◇◇◇
「本日は、こちらのお部屋をお借りいたしますね」
朝。
ヴァルグレン邸の一室には、大量の布地が運び込まれていた。
白。
青。
緑。
赤。
紫。
淡い色から深い色まで。
さらに刺繍糸やレース、装飾品、宝石の見本までが次々と卓の上へ並べられていく。
その中心に立っていたのは、一人の女性だった。
年齢は四十を少し過ぎた頃だろうか。
落ち着いた色合いのドレスに身を包み、髪をきっちりとまとめている。
派手な装いではない。
けれど袖口や襟元には細かな刺繍が施され、一目で仕立ての良さが分かった。
「改めまして。ヴィオラと申します」
女性はアルへ優雅に一礼した。
「ヴァルグレン家には、長くご贔屓にしていただいております」
「初めまして、ヴィオラ。アルヴェイン・ロゼリアです」
「存じておりますとも」
ヴィオラはにこりと微笑んだ。
「お会いできる日を楽しみにしておりました」
「私に?」
その意味を尋ねようとした、その時。
「ヴィオラ」
低い声がした。
アルが振り返る。
そこにはカイがいた。
その少し後ろには、レンもいる。
「お久しぶりでございます、カイ様」
「久しぶりだな、ヴィオラ」
カイは部屋いっぱいに並べられた布地を見回した。
「それにしても、すごい量だな」
「お二人で祝賀会へご出席になるのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、アルヴェイン様のお衣装だけを考えればよい、というわけにはまいりません」
「?」
「お二人で並ばれた時の調和まで考えさせていただきます」
「……そこまで考えるのか」
「もちろんでございます。それが仕立て屋の仕事でございますから」
カイは感心したように布の山を見る。
「そういうもんなんだな。頼む」
「お任せくださいませ」
迷いのない返答だった。
隣で、レンが小さく笑う。
「カイ、ヴィオラに任せておけば大丈夫だよ」
「なんでお前はそんなに詳しいんだ?」
「俺も何度か世話になってるから」
「左様でございます」
ヴィオラが頷く。
「レン様は、ご自分に似合うものをよくご存じですから、とても楽なお客様です」
「だってさ」
「……それ、俺が面倒な客みたいじゃないか?」
「まあ」
ヴィオラが上品に微笑む。
「カイ様はいつも『動きやすければ何でもいい』と仰いますので」
「ああ……それは言ってるな」
「ほら」
「レン、お前楽しんでるだろ」
思わず、アルが笑う。
その隣でセシルも小さく口元を緩めていた。
「では、始めましょうか」
ヴィオラがアルを見る。
「今回お仕立てするのは、セレディア王国での結婚祝賀会にお召しになるドレスでございます」
「はい」
「アルヴェイン様」
「はい?」
「どのようなドレスがお好みでしょう?」
「…………」
アルは答えようとして――止まった。
「セレディア王家の祝宴ですから、格式を考えますと――」
「アル」
カイの声が遮った。
「はい?」
「そうじゃなくて」
カイは少し考えるようにアルを見た。
昨日。
五騎士の皆に言われたことがある。
アルが何を好きなのか。
何をしたいのか。
これから少しずつ知っていけばいい、と。
「お前が着たいのは?」
「…………」
アルが瞬きをする。
「私が……着たいもの、ですか?」
「ああ」
「ですが、王家の祝賀会ですし……」
「そこはヴィオラが何とかするだろ」
「まあ」
ヴィオラが楽しそうに笑った。
「随分と信頼してくださるのですね」
「できねぇの?」
「できますとも」
「じゃあいいだろ」
「カイ様」
セシルまで小さく笑う。
「ヴィオラ様に対して、随分と乱暴な信頼の仕方でございますね」
「だって、できるんだろ?」
「ええ。できます」
ヴィオラは即答した。
そして改めて、アルを見る。
「格式については、私にお任せくださいませ」
ヴィオラが自信に満ちた目でアルを見る。
「アルヴェイン様には、アルヴェイン様がお召しになりたいものを選んでいただきましょう」
「私が……」
着たいもの。
好きなもの。
昨日から、何度も考えるようになった言葉だった。
アルは並べられた布へ視線を落とす。
これまでドレスを選ぶ時、まず考えることはいつだって決まっていた。
王太子の隣に立つのに相応しいか。
ロゼリア公爵令嬢として恥ずかしくないか。
王家の行事に相応しいか。
他国の使節からどう見えるか。
季節。
格式。
立場。
いつだって、自分が好きかどうかより先に考えるべきことがあった。
「……難しいです」
ぽつりと、本音が漏れた。
ヴィオラは急かさなかった。
柔らかく笑う。
「では、好きなものを選ぶのではなく、苦手なものを外してみましょうか」
「苦手なもの?」
「ええ」
その言葉に、レンがヴィオラを見る。
少しだけ口元を緩めた。
「いいね、それ」
「でしょう?」
ヴィオラは何枚かの布をアルの前へ並べた。
「こちらはいかがです?」
鮮やかな金色。
アルは少し考える。
「……綺麗ですけれど、私には少し華やかすぎる気がします」
「では、外しましょう」
何の未練もなく、金色が脇へ置かれる。
「こちらは?」
濃い紫。
「こちらも素敵ですが……少し重いでしょうか」
「では、こちらも」
次。
次。
一枚ずつ比べていく。
不思議だった。
好きなものは何かと聞かれると、答えられない。
けれど、これは違う、これは少し好き。
こちらより、こちら。
そうやって比べていくと、少しずつ自分の中にあるものが形になっていく。
「アルヴェイン様」
セシルが一枚の布を手に取った。
「こちらはいかがでしょう?」
柔らかなアイボリーだった。
白よりも温かくわずかに光沢のある、上質な生地。
アルは手を伸ばし、そっと触れてみる。
指先に滑らかな感触が伝わった。
「……好き」
口にしてから自分で少し驚いた。
セシルが微笑む。
「では、こちらを残しましょう」
「ええ」
今度は自然に答えられた。
ヴィオラが満足そうに頷く。
「とてもよくお似合いになると思います」
アイボリーを基調に細かな金糸の刺繍。
華やかではあるけれど、決して派手すぎない。
王族の祝宴にも十分な格を持たせる。
少しずつ、アルのドレスが形になっていく。
「では」
ヴィオラが別の色見本を広げた。
「差し色はいかがいたしましょう」
「差し色……」
「ええ。全体をアイボリーと金だけでまとめても美しいですが、アルヴェイン様でしたら、もう一色入れても負けません」
青。
紫。
緑。
赤。
様々な色が並ぶ。
アルはそれを見つめた。
そして今度は、それほど迷わなかった。
「……赤がいいです」
カイが顔を上げた。
「赤?」
「はい」
アルは赤の見本へ手を伸ばす。
「でも、明るい赤ではなくて……」
何枚かを見比べ。
一枚を選ぶ。
「もう少し深い赤がいいです」
ヴィオラの手が止まった。
「深紅、でございますね」
「はい」
「…………」
ヴィオラがちらりとカイを見る。
ほぼ同時にレンもカイを見た。
「なんだよ」
「別に?」
「何でもございません」
「絶対なんかあるだろ」
「カイ様」
セシルまで微笑んでいる。
「……セシルまで何だよ」
「何も申し上げておりませんが」
「顔がなんか言ってるだろ…ったく、みんなしてなんなんだよ」
アルも不思議そうに三人を見回している。
ヴィオラは何事もなかったように、深紅の布をアイボリーの上へ重ねた。
「素晴らしいと思います。これでしたら、深紅を広く使うのではなく、腰元や裾、それから刺繍の一部へ入れるのがよろしいかと」
「素敵……」
「宝石も合わせてみましょうか」
小箱が運ばれてくる。
その中には、いくつもの宝石が並んでいた。
アルの視線が、そのうちの一つで止まった。
深い赤。
光を受けると、内側に炎を閉じ込めたように輝く石。
「……こちらが好きです」
「まあ」
ヴィオラが微笑んだ。
そして、またカイを見る。
「だから何なんだよ」
今度はレンが耐えきれずに笑った。
「カイ、まだ分からない?」
「何が」
「本当に?」
「だから何だよ!」
そこで、アルもようやく気づいた。
「あ……」
自分が選んだ色を見る。
深紅。
そして。
カイを見る。
彼は普段、黒を基調にした装いを好む。
そこへ深い赤や金を合わせることが多い。
見慣れた色だった。
カイの姿を思い浮かべた時。
黒の次に、自然と浮かぶ色。
アルの頬が、少しずつ熱くなる。
ヴィオラが実に自然な口調で尋ねた。
「まあ。偶然でございましたか?」
「…………」
アルは答えなかった。
「アル?」
何も分かっていなかった本人までこちらを見る。
逃げたくなる。
けれど、アルはもう一度、深紅の宝石を見た。
自分で選んだ色。
好きだと思った色。
「……偶然では、ありません」
カイの目が見開かれた。
「え?」
「せっかく……」
恥ずかしい。
頬がどんどん熱くなる。
「せっかくカイ様と一緒に出席するのですから」
「…………」
アルは深紅の布へ視線を落とした。
「この色を見ると……カイ様を思い出すんです」
「…………」
部屋が静かになった。
「黒も、金も、カイ様によくお似合いですけれど……」
アルは小さく笑う。
「この深い赤も、いつも身につけていらっしゃいますでしょう?」
「……ああ」
「だから、少しだけ……私も身につけてみたいと思って」
カイが固まった。
レンはそっと横を向いた。
肩が揺れている。
「カイ?」
「…………」
「カイ様?」
「……聞いてる」
「顔が赤いねぇ」
「見るなよ」
「はいはい」
そんな二人のやりとりに、ヴィオラは満足そうに頷いていた。
「とても素敵なお色の選び方でございます」
「……ありがとうございます」
「では、この深紅を使いましょう」
「はい」
アルは小さく微笑んだ。
誰かに相応しいと言われたからではなく。
公爵令嬢だからでも、元王太子の婚約者だからでもない。
自分が、身につけたいと思ったから。
そのことがなんだか少し、嬉しかった。
「さて」
ヴィオラがぱん、と軽く手を合わせる。
「次はカイ様でございます」
「俺?」
「先ほど申し上げたでしょう。お二人で並ばれた時の調和まで考える、と」
「俺はいつものでいいだろ」
「いけません」
「なんで」
「今回は、アルヴェイン様のお隣に立つのですよ?」
「…………」
ぴたり。
カイが黙った。
レンが吹き出す。
「扱い方分かってるなあ」
「長いお付き合いでございますから」
「お前ら……」
ヴィオラが何種類かの布を取り出す。
黒。
金。
深紅。
そこまでは、いつものカイらしい色だった。
そして。
もう一枚。
ヴィオラが取り出した。
深い緑。
「今回は、こちらを加えましょう」
「緑?」
「ええ」
カイが布を見る。
深く。
澄んだ緑。
「なんで緑なんだ?」
ヴィオラは答えなかった。
ただ。
ほんの一瞬。
アルを見る。
レンも見る。
セシルも見る。
「…………」
カイの視線が、ゆっくりアルへ向いた。
アルの瞳。
そして。
手元の緑。
「……あ」
ようやく。
気づいた。
「まあ」
ヴィオラが楽しそうに微笑む。
「お気づきになりました?」
「…………」
アルも、自分の瞳と同じ色だと気づいたらしい。
「ヴィオラ……」
「はい?」
「もしかして……」
「何のことでございましょう」
しれっとしている。
完全に。
分かってやっている。
「どうなさいます?」
ヴィオラがカイへ尋ねる。
「もちろん、別のお色でも――」
「それにする」
即答だった。
「カイ様!?」
「それがいい」
「ですが……」
カイがアルを見る。
「アルが、俺を思い出す色をつけるなら」
一瞬だけ、照れくさそうに視線を逸らす。
「俺も、お前を思い出す色をつける」
「…………」
今度はアルが固まる番だった。
「まあ」
ヴィオラがにっこり笑う。
「では、決まりでございますね」
「ヴィオラ」
「はい?」
「絶対わざとだろ」
「何がでございましょう?」
「…………」
勝てない。
カイは諦めた。
レンは完全に笑っている。
セシルも。
いつもの穏やかな顔を保ちながら、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
◇◇◇
一通りの生地選びを終え、採寸へ移ることになった。
ヴィオラがカイとレンを見る。
「では、殿方は一度ご退室くださいませ」
「俺も出た方がいいか?」
「はい。これから採寸がございますので」
「ああ、そういうことか」
カイはアルを見て、素直に立ち上がった。
「じゃあ、終わったら呼んでくれ」
「かしこまりました」
カイが扉へ向かう。
レンもその後へ続いた。
「カイ」
「なんだ」
「顔、まだ赤いよ」
レンに言われてカイが手で顔を隠す。
「深紅だね」
「レン」
「何?」
「あとで覚えてろ」
「怖い怖い」
扉が閉まる。
静かになった部屋で。
ヴィオラがアルを見る。
「さて」
「……はい」
「素敵な婚約者様でございますね」
「……っ」
「ヴィオラ様」
セシルが少しだけ咎めるように呼ぶ。
アルは困ったように笑う。
「……そうですね」
そして、ほんの少しだけ閉じた扉を見る。
「とても素敵な方です」
セシルの目が柔らかくなる。
ヴィオラも。
今度はからかわなかった。
「では」
巻尺を手に取りながら、ヴィオラが言う。
「その方のお隣で、一番美しく見える一着をお作りいたしましょう」
「お願いします」
「ただし」
「?」
「カイ様のためだけのドレスではございませんよ」
「……え?」
「アルヴェイン様ご自身が、着たいと思えるドレスをお作りします」
ヴィオラは優しく笑った。
「ですから、完成までにもっとたくさん教えてくださいませ」
「何をですか?」
「アルヴェイン様のお好きなものを」
アルは少し驚いて。
それからゆっくりと笑った。
「……はい」
以前なら、その質問は少し困るものだったかもしれない。
けれど今は。
答えを探すことが、少し楽しみになっている。
柔らかなアイボリーが好き。
小さな白い花が好き。
甘い焼き菓子が好き。
夕暮れに明かりが灯り始める、あの町の景色が好き。
そして、深い赤を身につけたいと思った。
その色を見ると、あの黒い髪と少し不器用な笑顔を思い出すから。
そう考えるとまた頬が熱くなる。
「セシル」
「はい、お嬢様」
「完成が楽しみね」
「はい」
セシルは微笑んだ。
「きっと、とてもお似合いになります」
二か月後。
アルはこのドレスを纏い、王都レグナリアへ帰る。
かつて。
王太子の隣に立つための服を選び続けた街へ。
今度は。
誰かに選ばれたものではなく。
自分で選んだドレスを着て。
自分で選んだ色を纏って。
自分で選んだ人の隣に立つ。
そして、その男もまた。
アルの瞳を思わせる深い緑を身につけている。
その姿が王都でどれほどの注目を集めることになるのか。
さらに彼女と共に王都へ姿を現すのは、セレディアでも人気を集めるバハードの五騎士たち。
王都が彼らの来訪に沸くことになるのは、もう少し先の話である。
結婚祝賀パーティーまで、あと二か月。




