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プロポーズが「お嬢さん、俺の嫁にならないか?」ってどうなの!?  作者: SAKURA MOON


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新しい家へ


朝の支度を終えた部屋は、いつもより広く感じた。


荷物のほとんどが運び出され、見慣れた棚も、机の上も、すっかり寂しくなっている。


「とうとう、出発なさるのですね……」


ぽつりと呟いた声に、アルヴェインは振り返った。


セシルが、今にも泣きそうな顔をしている。


「なんだか……寂しゅうございます」


「セシル...」


アルヴェインは少し困ったように笑った。


「あなたも一緒に来るのでしょう?」


「それはもちろんでございます」


セシルは即座に答えた。


「アルヴェイン様をお一人で行かせるなど、できるはずがございません」


「それなら、寂しがる必要はないでしょう?」


「そうなのですが……」


セシルは部屋の中を見回した。


「住み慣れたこのお屋敷を離れるのだと思うと……」


「……ええ」


アルヴェインも、ゆっくりと部屋を見渡した。


幼い頃から使ってきた部屋。


朝、目を覚ますたびに見ていた天井。


何冊もの本を読んだ窓辺。


王太子妃になるため、何時間も勉強を続けた机。


嬉しかった日も。


悔しくて眠れなかった夜も。


十二年間、決められた未来へ向かって努力した日々も。


すべて、この部屋にあった。


そして、そのほとんどをセシルも知っている。


セシルは、長くアルヴェインのそばに仕えてきた侍女だった。


嬉しいときも、悲しいときも。


アルヴェインが王太子妃教育に疲れ果てて帰ってきた日も。


何も言わず、いつもそばにいてくれた。


ただ一度。


婚約を破棄されたあの日だけは、たまたま実家へ帰っていて屋敷を留守にしていた。


戻ってきたセシルに事情を話したときのことを、アルヴェインは今でも覚えている。


最初は、言葉もなく固まっていた。


そして――


『あんまりです!』


アルヴェイン本人よりも怒った。


大勢の前で婚約を破棄した王太子に怒り。


血の滲んだ踵のことを知って、また怒り。


最後には、


『どうして私がいない日に……』


と、ぼろぼろ泣いた。


まるで、自分のことのように。


そんなセシルを慰めているうちに、アルヴェインまで泣いてしまった。


今思えば、婚約破棄されてから初めて、誰かの前で素直に流した涙だったのかもしれない。


「……セシルが一緒に来てくれて、よかったわ」


「アルヴェイン様?」


「知らない場所へ行くのは、やっぱり少し不安だから」


アルヴェインが微笑む。


セシルは一瞬目を見開き、それから力強く頷いた。


「もちろんでございます。どこへでもお供いたします」


「ふふ。頼りにしているわ」


「お任せくださいませ」


そう言ったセシルだったが、もう一度部屋を見回して、


「……でも、やっぱり寂しゅうございます」


「もう、セシルったら」


二人で笑った。


けれど。


笑っているうちに、アルヴェインの視界も少しずつ滲んでいった。


「……わたくしも、寂しいわ」


声にした途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。


昨日までは、今日が楽しみだった。


新しい生活が始まる。


そして何より――


カイに会える。


そう思うと、胸の奥が温かくなった。


その気持ちは今も変わらない。


それでも。


ここを離れることが寂しくないわけではなかった。


「アルヴェイン様……」


セシルがそっとハンカチを差し出す。


アルヴェインは受け取り、目元を押さえた。


「ありがとう」


「嬉しいことと、寂しいことは……きっと、一緒にあってもよろしいのだと思います」


アルヴェインは少し驚いてセシルを見る。


やがて、小さく笑った。


「……そうね」


最後にもう一度、部屋を見渡す。


さようなら。


声には出さず、心の中で告げた。


嫌いになって出ていくのではない。


逃げるのでもない。


帰る場所を失うわけでもない。


ただ――


自分で選んだ、新しい場所へ向かうのだ。


「行きましょう、セシル」


「はい」


二人は部屋を出た。


扉を閉める直前。


アルヴェインはもう一度だけ振り返った。


そして静かに扉を閉めた。


***


廊下を進み、大階段へ向かう。


階下には、すでに父と母がいた。


二人とも、娘を見送るために待ってくれていたのだろう。


「お父様、お母様」


声をかけながら、アルヴェインが階段へ足をかけようとして――


ふと。


玄関の方に立つ人影に気づいた。


息が止まる。


カイだった。


迎えに来ることは分かっていた。


今日会えることも知っていた。


昨日の夜だって、それを楽しみにしていた。


なのに。


実際にその姿を見つけた瞬間。


――どくん。


胸が大きく鳴った。


どうして。


アルヴェイン自身にも分からない。


ただ、目が離せなかった。


カイもこちらに気づく。


目と目が合った。


また、鼓動が跳ねる。


頬が熱くなっていく。


どうしてこんなに緊張するのだろう。


昨日も会ったばかりなのに。


カイの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「アル」


その声とともに、微笑む。


「……カイ様」


アルヴェインの顔に、ぱっと笑みが広がった。


まるで花が咲くような笑顔だった。


それを見たカイが、一瞬だけ目を見開く。


そして。


そんな娘の様子を――父と母も見ていた。


二人は、ほとんど同時に互いの顔を見た。


昨夜。


アルヴェインは言った。


『私はまだ、カイ様を好きなのかどうか……分かりません』


『でも、今日カイ様に会えて嬉しかったのです』


『昨日の夜、カイ様に会いたいとも思いました』


そして。


『私は……あの方の隣にいたいです』


母はもう一度、娘を見る。


頬を染めている。


嬉しそうに笑っている。


カイはただ名前を呼んだだけだ。


それなのに。


あの子は、あんな顔をする。


母の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


――ああ。


この子はまだ、気づいていないだけなのだ。


父も同じことに気づいたらしい。


何か言いたそうに妻を見る。


けれど母は、小さく首を振った。


今は、何も言わなくていい。


自分で気づけばいい。


昨日、娘自身が言ったではないか。


これからカイのことを知りたい、と。


ならば――その時間を見守ろう。


アルヴェインはそんな両親の視線には気づかず、階段を降りようとした。


その瞬間。


カイが動いた。


「……?」


アルヴェインが一段降りるより早く、カイが階段を上がってくる。


「カイ様?」


返事はない。


カイはアルヴェインの前まで来ると――


「きゃっ……!」


身体が、ふわりと浮いた。


背中に腕が回り、もう片方の腕が膝の下へ入る。


気づいたときには、アルヴェインはカイの腕の中にいた。


「カ、カイ様!?」


「ん?」


「ん? ではありません!」


カイは何事もなかったかのように、そのまま階段を降り始める。


アルヴェインの顔が一気に赤くなった。


「お、おろしてください!」


「なんで?」


「なんでって……歩けます!」


「知ってる」


「では、なぜ抱き上げるのですか!」


「階段だから」


「階段は歩いて降りるものです!」


「転んだら危ねぇだろ」


「転びません!」


「分かんねぇだろ」


「分かります!」


二人のやり取りを聞きながら。


父と母は、揃って言葉を失っていた。


「…………」


娘が男性に抱き上げられている。


しかも、あまりにも躊躇なく。


父が一歩前へ出かけた。


母も何か言おうとした。


しかし――


二人とも止まった。


「もう……カイ様ったら……」


困ったように眉を下げる娘。


頬は真っ赤だ。


恥ずかしくて仕方がないのだろう。


けれど。


嫌がってはいない。


それどころか――


ほんの少し、嬉しそうだった。


母は何も言わず、その顔を見つめた。


父もやがて、出しかけた足を戻す。


二人はまた目を合わせた。


昨日までなら、母はきっと止めていた。


まだ結婚もしていない娘に何を、と。


けれど今は。


――もう少し、見守ってみよう。


そう思えた。


カイはアルヴェインを抱いたまま、最後の一段を降りる。


アルヴェインはほっと息を吐いた。


これで下ろしてもらえる。


そう思ったのだが。


カイはそのまま玄関へ歩き始めた。


「カイ様?」


「ん?」


「もう階段は終わりました」


「ああ」


「……下ろしてください」


「馬車まで行く」


「歩けます!」


「知ってる」


「カイ様!」


後ろで、父がとうとう吹き出した。


「あなた」


「すまない」


母に睨まれ、父は咳払いをする。


けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。


***


馬車へ乗り込む前。


アルヴェインは両親の前に立った。


いよいよなのだ。


そう思った瞬間、先ほどまでの恥ずかしさが消えていった。


「お父様。お母様」


父は優しく笑った。


「いつでも帰ってきなさい」


「……はい」


「何かあれば、すぐにだ」


「はい」


母は何も言わず、娘の襟元にそっと手を伸ばした。


乱れているわけでもないのに、形を整える。


幼い頃から何度もされた仕草だった。


「無理をしてはいけませんよ」


「……はい、お母様」


「我慢もしないこと」


「はい」


「それから」


母がアルヴェインを見る。


「『大丈夫です』も禁止です」


アルヴェインは少しだけ笑った。


「……はい」


母の手が止まる。


次の瞬間。


アルヴェインは、その胸に抱きしめられていた。


「お母様……」


「幸せになりなさい、アル」


堪えていたものが、込み上げた。


「……はい」


アルヴェインも母の背中へ腕を回した。


父も目元を押さえている。


「お父様……泣いていらっしゃるの?」


「泣いていない」


「あなた」


「……少しだけだ」


アルヴェインは涙を浮かべたまま笑った。


やがて母から身体を離す。


カイが少し離れた場所で待っていた。


急かすこともなく。


静かに。


アルヴェインが自分から歩き出すまで。


「……行ってまいります」


父と母が頷いた。


「行っておいで」


アルヴェインは馬車へ向かった。


***


馬車がゆっくりと動き出した。


アルヴェインは窓の外を見つめたまま、動かなかった。


父と母が見える。


セシルも別の馬車から、何度も屋敷を振り返っている。


父と母の姿が少しずつ遠くなっていく。


それでも二人は、ずっとこちらを見送っていた。


やがて門を抜けた。


屋敷が遠ざかる。


幼い頃から見てきた景色が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れていった。


アルヴェインは何も言わなかった。


一筋の涙が、頬を伝った。


隣に座るカイは、それを見ていた。


「……カイ様のところへ行くのが嫌なのではないのです」


アルヴェインが小さく言った。


「分かってる」


すぐに返ってきた。


「……寂しいのです」


「うん」


「昨日までは、今日が楽しみだったのに……」


「うん」


カイは、それ以上何も言わなかった。


泣くなとも。


元気を出せとも。


言わなかった。


ただ――


膝の上で握られていたアルヴェインの手に、自分の手を重ねた。


大きくて、温かい手だった。


アルヴェインは重ねられた手を見つめる。


カイは前を向いたままだった。


「……カイ様」


「ん?」


「ありがとうございます」


「……ああ」


アルヴェインは、小さく笑った。


それでも、もう一粒だけ涙がこぼれた。


今度は拭わなかった。


カイも何も言わない。


重ねられた手だけは――

アルヴェインが眠りにつくまで、離れなかった。


やがて眠ったアルヴェインの指から力が抜けても、カイはすぐには手を離さなかった。

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