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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第9話 お前は、いつ休んでいる?


 専属治療師になったからといって、凛の生活が劇的に変わったわけではなかった。


 変わったのは、城の中を自由に歩ける場所が増えたこと。


 そして――。


「リン様、お時間よろしいでしょうか」


 廊下を歩いていると、声をかけられるようになったことだった。


 振り返ると、若い女性が立っていた。


 城で働く使用人の一人だ。


「どうしました?」


「母が、ここ数日ずっと膝を痛がっていて……」


「転んだり、ぶつけたりしました?」


「いいえ。ただ、階段を上がるときにひどく痛むそうです」


「腫れてます?」


「少し」


 凛は足を止めた。


「一度、エドガーさんに診てもらっていますか?」


「薬草をいただきました。でも、できればリン様にも……」


 期待するような目。


 凛は困ったように笑った。


「私に診てもらったからって、特別なことができるわけじゃないですよ」


「でも、陛下を眠らせた方でしょう?」


「それ、城中で言われてるんですか?」


 女性は少し気まずそうに笑った。


「……かなり」


「やっぱり」


 凛は額を押さえた。


 どうやら、自分の知らないところで評判だけが先に歩いているらしい。


「分かりました。エドガーさんと一緒なら診ます」


「ありがとうございます!」


 女性の顔が明るくなる。


 凛はその姿を見送りながら、小さく息を吐いた。


「またですか」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 エドガーが、呆れたような顔で立っていた。


「聞いてたんですか?」


「聞こえた」


「膝が痛いそうです」


「それは聞けば分かる」


「では、一緒に診ましょう」


「リン」


「はい?」


「お前は陛下の治療師ではなかったのか?」


「そうですけど」


「朝から何人診た?」


 凛は指を折った。


「厨房の方の腰痛と、兵士の肩と……」


「もういい」


 エドガーがため息をついた。


「五人だ」


「まだ五人ですよ」


「まだ?」


 エドガーの眉が上がる。


「お前は朝から何も食べていないだろう」


「食べました」


「何を」


「パンを少し」


「それを食事とは言わん」


「忙しかったので」


「陛下には休めと言うくせに」


 痛いところを突かれた。


 凛は目を逸らす。


「私は大丈夫です」


「その言葉を昨日、お前自身が否定していなかったか?」


 今度は何も言えなかった。


「……覚えてたんですね」


「治療師なのでな」


 エドガーが少しだけ笑う。


「昼を食べてからにしろ」


「でも、待っている人が――」


「リン」


「はい」


「ここでは患者は逃げん」


「……分かりました」


 返事はした。


 したのだが。


     ◇


 結局、昼食を食べたのは、午後もかなり遅くなってからだった。


 それもスープを半分ほど。


 膝を痛めた女性を診たあと、エドガーにこの国の薬草を見せてもらった。


 現代で知っているものによく似た植物もあれば、まったく見たことのないものもある。


 作用を一つずつ聞き、簡単な絵と一緒に紙へ書き留めていく。


「これは?」


「熱を下げる」


「量は?」


「症状による」


「子どもにも使う?」


「使うが、半量以下だ」


「副作用は?」


「フクサヨウ?」


「あ……薬を使ったことで、別の具合の悪さが出たりしません?」


 エドガーが少し考える。


「胃を痛める者はいる」


「それも書いておこう」


 凛は再びペンを走らせた。


「リン」


「はい」


「もう夕刻だ」


「え?」


 窓を見る。


 外はすでに薄暗くなり始めていた。


「嘘」


「なぜ私がそんな嘘をつく」


「時間が経つの早すぎません?」


「お前が止まらないだけだ」


 エドガーが呆れている。


「陛下のところへ行くのだろう?」


「そうでした」


 凛は慌てて紙をまとめた。


「今日は眠りの状態を確認して、それから痛みを――」


「その前に」


「何です?」


「鏡を見てから行け」


「……?」


     ◇


 アルヴァルドの私室へ入ると、彼は机で書類を読んでいた。


 北葉茶はない。


 代わりに水差しが置かれている。


 凛はそれを見て満足した。


「ちゃんと続けてますね」


「約束した」


「偉いです」


「また子ども扱いするのか」


「褒めただけです」


 アルヴァルドが書類を置く。


「今日は何をする」


「まず昨日の夜について聞きます。眠れました?」


「ああ」


「どのくらい?」


「前日ほどではない。だが、四刻ほどは眠った」


 凛は少し考える。


 こちらの時間感覚にも、少しずつ慣れてきた。


「途中で目は覚めました?」


「一度」


「そのあと?」


「また眠れた」


「いいですね」


「その程度でいいのか」


「毎日六時間眠れなきゃ失敗、なんて考えたら、それ自体が負担になります」


「相変わらず、治すと言わないのだな」


「少しずつ良くなれば十分です」


 凛はアルヴァルドの前へ椅子を寄せた。


「痛みは?」


「昨日より軽い」


「では、少し動きを見せてください」


 アルヴァルドが立ち上がる。


 身体を左右へゆっくり捻ってもらい、痛みが出る位置を確認する。


「ここまで?」


「ああ」


「昨日より少し動きますね」


 凛はしゃがみ込み、傷のある右側を確かめようとした。


 その瞬間。


 ふらり。


 視界がわずかに揺れた。


 凛は咄嗟に机へ手をついた。


「……あれ」


「リン」


 低い声がすぐ近くで響いた。


「大丈夫です」


 反射的に答える。


 アルヴァルドの眉が寄った。


「何が大丈夫だ」


「立ちくらみです。急に立ったから」


「お前は今、立っていなかった」


「あ」


 確かに。


 しゃがんでいただけだ。


 凛は誤魔化すように笑った。


「少し疲れてるのかもしれません」


「座れ」


「でも診察が――」


「座れ」


 声は荒くない。


 けれど、逆らわせない響きがあった。


 凛は仕方なく椅子へ座る。


 アルヴァルドは彼女の前に立ったまま、じっと顔を見る。


「何ですか?」


「顔色が悪い」


「……それ、私が最初にあなたに言ったやつです」


「そうだったな」


 アルヴァルドの口元がほんの少し動いた。


「目の下にも影がある」


「仕返しですか?」


「診察だ」


「あなたは医者じゃないでしょう」


「見れば分かることもあるのだろう?」


 言い返せなかった。


 凛は小さくため息をつく。


「昨日、よく眠れなかっただけです」


「なぜ」


「環境が変わったからだと思います」


「それだけか」


 凛は答えなかった。


 夜になると、日本のことを考える。


 病院はどうなっているだろう。


 突然消えた自分を、家族は探しているのではないか。


 そもそも、こちらと向こうで同じように時間が流れているのか。


 誠司のことは、もうどうでもよかった。


 けれど、自分が築いてきた人生までどうでもよくなったわけではない。


「少し考え事をしてしまって」


「元の世界のことか」


「……はい」


 アルヴァルドは何も言わなかった。


 凛は立ち上がろうとする。


「では、診察の続きを――」


「まだ座っていろ」


「でも」


「リン」


 今度は名前だけだった。


 凛は諦めて座り直した。


 アルヴァルドが扉の外へ声をかける。


 ほどなく使用人が入ってきた。


「食事を」


「陛下のお食事ですか?」


「違う。この女のものだ」


「え?」


 凛が顔を上げた。


「いりません。あとで食べます」


 アルヴァルドの目が細くなる。


「あとで、とはいつだ」


「診察が終わってから」


「昼は食べたのか」


「……食べました」


「何を」


 嫌な質問だ。


「スープを」


「それだけか」


「パンも……朝に」


「昼ではないな」


 凛は黙った。


 アルヴァルドが深く息を吐く。


「お前は、いつ休んでいる?」


 凛は思わず顔を上げた。


「え?」


「昨日は私を診た。その前にはエドガーと薬草を調べていた。今日は朝から城の者まで診ていたと聞いた」


「誰から?」


「エドガーだ」


「告げ口……」


「報告だろう」


「同じです」


「違う」


 きっぱり言われた。


「お前は私に、眠れと言った」


「はい」


「仕事を減らせとも言った」


「言いました」


「食べろとも言ったな」


「そこまでは……たぶん」


「では、自分はなぜしない」


 凛は口を開いた。


 けれど言葉が出ない。


 忙しいから。


 慣れているから。


 自分は大丈夫だから。


 どれも患者がよく言う言葉だった。


「私は医者なので」


 ようやく出た言葉に、アルヴァルドの眉が上がる。


「それが理由になるのか」


「……なりませんね」


「ようやく認めたか」


 凛は苦笑した。


「患者さんに言われるとは思いませんでした」


「私は患者だが、目まで悪いわけではない」


 その言い方が少しおかしくて、凛は笑った。


 するとアルヴァルドの表情も、わずかに緩む。


「それに」


「はい?」


「お前が倒れれば困る」


 凛は一瞬、動きを止めた。


 アルヴァルドは何事もなかったように続ける。


「私の治療ができなくなる」


「ああ」


 凛は納得した。


「そういう意味ですね」


 なぜか。


 アルヴァルドは少しだけ黙った。


「……今は、そういうことにしておけ」


「何です、それ」


「食事が来るまで休め」


 話を終わらせるように言われた。


     ◇


 運ばれてきたのは、温かいスープと柔らかいパン、それに白身の魚だった。


「全部食べる必要はない」


 アルヴァルドが言う。


「食べられるだけでいい」


 凛は少し驚いた。


「私が朝あなたに言ったこと、覚えてたんですね」


「何を」


「急にたくさん食べると負担になるから、ゆっくりって」


「お前が言ったのだろう」


「そうですけど」


「なら、守ればいい」


 凛はスプーンを取った。


 温かいスープが、思った以上に身体へ染みる。


「……美味しい」


「そうか」


 アルヴァルドは机へ戻った。


 けれど書類には手を伸ばさない。


「仕事、しないんですか?」


「今はしない」


「珍しい」


「誰かに夜まで働くなと言われたのでな」


 凛は思わず笑った。


「いい患者さんになってきましたね」


「調子に乗るな」


 それでも声は以前ほど冷たくない。


 凛はパンをちぎった。


 静かな部屋。


 暖炉の火。


 窓の外には、北の国の夕暮れ。


 数日前まで、自分はこの男の存在すら知らなかった。


 それなのに今。


 食べたのか。


 眠ったのか。


 休んでいるのか。


 そんなことを互いに確認している。


 妙な関係だ。


「アルヴァルド」


 凛が初めて、呼び捨てで名前を口にした。


 言ってから気づく。


「あ……すみません。陛下」


 アルヴァルドが凛を見る。


 数秒。


「今のでいい」


「え?」


「二人のときは、アルヴァルドで構わない」


 凛は目を瞬いた。


「でも」


「治療中まで陛下、陛下と呼ばれるのも面倒だ」


「そういうものですか?」


「ああ」


 アルヴァルドは再び机へ視線を落とす。


「その代わり」


「何です?」


「私も、リンと呼ぶ」


「もう呼んでますよね?」


 沈黙。


「あ」


 今度は凛が笑った。


 アルヴァルドが少し気まずそうに視線を逸らした。


 この人にも、こんな顔があるのか。


 そのことが妙に可笑しかった。


     ◇


 その夜。


 自分の部屋へ戻った凛は、久しぶりに早く寝台へ入った。


 枕に頭を預ける。


 静かだった。


 不思議なくらい。


 目を閉じる直前、ふと思い出す。


 ――お前は、いつ休んでいる?


 医者になってから。


 誰かにそんなことを聞かれたことがあっただろうか。


 患者のこと。


 仕事のこと。


 家族のこと。


 誠司とのこと。


 いつだって、自分がどうするかを考えていた。


 自分が疲れているかどうかなど、後回しだった。


「……変なの」


 眠れない王を治すために来たはずなのに。


 今夜、先に眠りについたのは凛のほうだった。

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