第8話 私の治療師になれ
アルヴァルドが朝まで眠ったという話は、凛が思っていた以上の速さで城中に広がったらしい。
廊下を歩くだけで視線を感じる。
すれ違う使用人たちは、凛を見ると慌てて頭を下げた。
昨日までは、明らかに「誰だ、この女は」という顔をされていた。
今日はそれが、
――この人が?
という顔に変わっている。
「居心地が悪い……」
凛は小さく呟いた。
「慣れろ」
隣を歩くローデリックが言う。
「無理です」
「陛下を三年ぶりに朝まで眠らせた女だ。当然だろう」
「だから、私が眠らせたと決めつけないでください」
「本人より、お前のほうが慎重だな」
「一晩ですから」
「エドガーも同じことを言っていた」
凛は少し安心した。
宮廷治療師として長くアルヴァルドを診てきたエドガーが、凛の方法を面白がりながらも、何でも鵜呑みにしないところは好感が持てる。
「それで、どこへ行くんです?」
「陛下がお呼びだ」
「またですか?」
「嫌なのか」
「嫌ではないですけど……」
昨日から、呼ばれてばかりいる。
そもそも自分は、ここに何日いることになるのだろう。
その答えが、まだない。
◇
案内されたのは、これまでの私室ではなかった。
大きな窓のある執務室。
長い机の向こうにアルヴァルドが座り、その横にはエドガー。
さらに、見知らぬ男が二人いた。
一人は五十代くらいの細身の男。
もう一人は、さらに年長で、いかにも厳格そうな顔をしている。
「リン」
アルヴァルドが顔を上げた。
「そこへ」
凛は指定された椅子へ座る。
「何かありました?」
「お前のことだ」
「私?」
年長の男が口を開いた。
「陛下。この者をこのまま城内に置くのは、やはり危険ではありませんか」
なるほど。
歓迎の会ではなさそうだ。
凛は黙って男を見る。
「出自も不明。身元を証明する者もいない。聞いたこともない国の出身だと言う」
「その通りです」
凛が答えると、男が少し驚いた顔をした。
「認めるのか」
「事実なので」
「リン」
ローデリックが小声で制する。
「でも、否定しようがありません」
凛はアルヴァルドを見る。
「私自身、ここがどこなのかまだ理解できていませんから」
「だからこそだ」
年長の男が続けた。
「陛下に近づけるべきではありません」
「ですが昨夜、陛下がお休みになれたのも事実です」
今度はエドガーが口を開いた。
「それも、この者の術によるものか分からない」
「術ではありません」
凛は反射的に訂正した。
「治療です」
「同じではないのか?」
「違います」
男が怪訝そうに眉を寄せる。
アルヴァルドが口元をわずかに緩めた。
「そこにこだわるらしい」
「大事なところです」
「分かった」
短く言ってから、アルヴァルドは男たちへ視線を戻した。
「素性が分からないことは、私も承知している」
「でしたら――」
「だが、敵意があるとも判断していない」
「陛下」
「少なくとも、私を害そうとする人間が、夜の茶をやめろだの、早く寝ろだのと延々言うとは考えにくい」
ローデリックが横を向いた。
笑ったらしい。
凛は少し不服だった。
「延々とは言ってません」
「十分言った」
「必要だったので」
「ほらな」
アルヴァルドが年長の男を見る。
「こういう女だ」
どういう女なのだ。
凛は言い返しかけて、やめた。
「当面、この城に置く」
アルヴァルドが告げた。
「陛下」
「決定だ」
低い声だった。
大声でも、威圧的でもない。
それでも、その一言で男は口を閉じた。
王なのだ。
凛は改めて思う。
森で最初に会ったときには、ただ疲れ切った大柄な男にしか見えなかった。
けれど今は、国を動かす人間の顔をしている。
「ただし」
アルヴァルドが凛を見る。
「お前にも聞いておく」
「何をですか?」
「この城に残る意思があるか」
凛は少し驚いた。
「……私が決めていいんですか?」
「なぜ決められない」
「王様なら、命令するのかと思っていました」
「必要ならそうする」
「するんですね」
「だが今回は違う」
アルヴァルドは真っ直ぐ凛を見る。
「お前を閉じ込めても、治療はできないのだろう?」
「できないというより、したくありません」
「なら、選べ」
その言葉に、凛は黙った。
選べ。
最近、自分の人生でその言葉を聞いただろうか。
結婚後は仕事を減らせ。
子どものことを考えろ。
三十四歳なら分かるでしょう。
皆、自分がどうするべきかを決めてくれた。
目の前にいる王は、凛を城に置きたいと言いながら、
最後は選べと言う。
「外へ出てもいいんですか?」
「一人では許可できない」
「ですよね」
「この世界について何も知らないお前を放り出すほど、私も無責任ではない」
「それは助かります」
「城にいる限り、必要な衣食住はこちらで用意する」
「その代わり?」
アルヴァルドが少し目を細めた。
「話が早いな」
「無料ほど怖いものはないので」
「お前の世界は随分世知辛いらしい」
「否定しません」
アルヴァルドは椅子へ背を預けた。
「私の治療を続けろ」
凛は彼を見る。
「それが条件ですか?」
「条件ではない」
「では?」
一瞬の間。
「私の治療師になれ」
部屋が静かになった。
エドガーさえ、少し目を見開いている。
「……私が?」
「ああ」
「宮廷治療師なら、エドガーさんがいますよね」
「いる」
「なら必要ないのでは?」
今度はエドガーが笑った。
「私は必要ないと言われた気がするが」
「違います」
凛は慌てた。
「そういう意味ではなくて」
「分かっている」
エドガーは面白そうに笑っている。
アルヴァルドが続けた。
「エドガーはこの国の治療を知っている。お前には、お前の知識がある」
「でも私は、この世界の薬も病気も知りません」
「だから、エドガーと共に診ればいい」
凛は少し黙った。
理にかなっている。
自分一人で何でも治せるとは思っていない。
むしろ、この世界の身体や病気が現代と完全に同じなのかすら分からない。
「報酬も出す」
「お金の使い方も分からないんですが」
「そのうち覚えればいい」
「帰る方法を探す時間は?」
「認める」
凛が顔を上げた。
「本当に?」
「ああ」
「黒い石についても?」
言ってから、凛はしまったと思った。
これまで、石に刻まれていた言葉までは話していない。
アルヴァルドの目が鋭くなる。
「黒い石?」
ローデリックも凛を見る。
もう隠す意味はないかもしれない。
「私がこちらへ来る直前、ノルウェーの古い監視塔で黒い石に触れました」
「それは聞いている」
「そこに、文字が刻まれていたんです」
「何と」
凛は少し迷った。
そして、アルヴァルドを見る。
「――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、門は再び開く」
誰も動かなかった。
アルヴァルドの表情から、わずかに色が消える。
「それを、最初から知っていたのか」
「知っていたというか……読めたんです。読める文字ではなかったのに、なぜか意味だけ分かって」
「なぜ今まで言わなかった」
「信じてもらえると思います?」
「今のお前の存在自体が、十分信じがたい」
「……それはそうですね」
凛は息を吐いた。
「だから、もしあの言葉が本当なら」
自分でも口にするのが少し怖かった。
「あなたが眠れるようになれば、私は元の世界へ帰れるかもしれません」
アルヴァルドは何も言わなかった。
ほんの一瞬。
何かを考えるように凛を見る。
「なら、なおさら都合がいい」
「え?」
「お前は帰るために私を治す」
アルヴァルドは淡々と言った。
「私は眠るために、お前の治療を受ける」
「ずいぶん合理的ですね」
「嫌か」
「いいえ」
むしろ、分かりやすい。
凛は少し考えた。
「では、私からも条件があります」
年長の男が目を剥いた。
「陛下に条件を?」
「治療するなら必要です」
アルヴァルドは驚きもしなかった。
「言え」
「一つ。治療について、私が危険だと思うことは無理にさせないでください」
「ああ」
「二つ。分からないことを、王命で答えさせようとしないでください」
「……私に?」
「患者としてです」
ローデリックが俯く。
「笑わないでください」
「まだ何も言っていない」
「顔が笑ってます」
アルヴァルドが小さく息を吐いた。
「続けろ」
「最後に」
凛は真っ直ぐ彼を見る。
「帰る方法を探すことを、止めないでください」
今度だけ、アルヴァルドはすぐに答えなかった。
数秒。
やがて。
「分かった」
それだけだった。
「では」
凛は手を差し出した。
「しばらくの間、よろしくお願いします」
アルヴァルドは差し出された手を見る。
「何だ」
「握手です」
「アクシュ?」
「約束したときに、こうするんです。私の国では」
アルヴァルドは凛の手を見る。
それから、自分の大きな手を重ねた。
温かい。
昨日、脈を取ったときとは違う触れ方だった。
「これでいいのか」
「はい」
「なら」
灰青色の瞳が、凛を見つめる。
「今日から、お前は私の治療師だ」
「仮、ですからね」
「分かっている」
「帰れるまでです」
「ああ」
短い返事。
なのに、なぜだろう。
アルヴァルドが凛の手を離すまで、
ほんの少しだけ長かったような気がした。




