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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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8/20

第8話 私の治療師になれ


アルヴァルドが朝まで眠ったという話は、凛が思っていた以上の速さで城中に広がったらしい。


 廊下を歩くだけで視線を感じる。


 すれ違う使用人たちは、凛を見ると慌てて頭を下げた。


 昨日までは、明らかに「誰だ、この女は」という顔をされていた。


 今日はそれが、


 ――この人が?


 という顔に変わっている。


「居心地が悪い……」


 凛は小さく呟いた。


「慣れろ」


 隣を歩くローデリックが言う。


「無理です」


「陛下を三年ぶりに朝まで眠らせた女だ。当然だろう」


「だから、私が眠らせたと決めつけないでください」


「本人より、お前のほうが慎重だな」


「一晩ですから」


「エドガーも同じことを言っていた」


 凛は少し安心した。


 宮廷治療師として長くアルヴァルドを診てきたエドガーが、凛の方法を面白がりながらも、何でも鵜呑みにしないところは好感が持てる。


「それで、どこへ行くんです?」


「陛下がお呼びだ」


「またですか?」


「嫌なのか」


「嫌ではないですけど……」


 昨日から、呼ばれてばかりいる。


 そもそも自分は、ここに何日いることになるのだろう。


 その答えが、まだない。


     ◇


 案内されたのは、これまでの私室ではなかった。


 大きな窓のある執務室。


 長い机の向こうにアルヴァルドが座り、その横にはエドガー。


 さらに、見知らぬ男が二人いた。


 一人は五十代くらいの細身の男。


 もう一人は、さらに年長で、いかにも厳格そうな顔をしている。


「リン」


 アルヴァルドが顔を上げた。


「そこへ」


 凛は指定された椅子へ座る。


「何かありました?」


「お前のことだ」


「私?」


 年長の男が口を開いた。


「陛下。この者をこのまま城内に置くのは、やはり危険ではありませんか」


 なるほど。


 歓迎の会ではなさそうだ。


 凛は黙って男を見る。


「出自も不明。身元を証明する者もいない。聞いたこともない国の出身だと言う」


「その通りです」


 凛が答えると、男が少し驚いた顔をした。


「認めるのか」


「事実なので」


「リン」


 ローデリックが小声で制する。


「でも、否定しようがありません」


 凛はアルヴァルドを見る。


「私自身、ここがどこなのかまだ理解できていませんから」


「だからこそだ」


 年長の男が続けた。


「陛下に近づけるべきではありません」


「ですが昨夜、陛下がお休みになれたのも事実です」


 今度はエドガーが口を開いた。


「それも、この者の術によるものか分からない」


「術ではありません」


 凛は反射的に訂正した。


「治療です」


「同じではないのか?」


「違います」


 男が怪訝そうに眉を寄せる。


 アルヴァルドが口元をわずかに緩めた。


「そこにこだわるらしい」


「大事なところです」


「分かった」


 短く言ってから、アルヴァルドは男たちへ視線を戻した。


「素性が分からないことは、私も承知している」


「でしたら――」


「だが、敵意があるとも判断していない」


「陛下」


「少なくとも、私を害そうとする人間が、夜の茶をやめろだの、早く寝ろだのと延々言うとは考えにくい」


 ローデリックが横を向いた。


 笑ったらしい。


 凛は少し不服だった。


「延々とは言ってません」


「十分言った」


「必要だったので」


「ほらな」


 アルヴァルドが年長の男を見る。


「こういう女だ」


 どういう女なのだ。


 凛は言い返しかけて、やめた。


「当面、この城に置く」


 アルヴァルドが告げた。


「陛下」


「決定だ」


 低い声だった。


 大声でも、威圧的でもない。


 それでも、その一言で男は口を閉じた。


 王なのだ。


 凛は改めて思う。


 森で最初に会ったときには、ただ疲れ切った大柄な男にしか見えなかった。


 けれど今は、国を動かす人間の顔をしている。


「ただし」


 アルヴァルドが凛を見る。


「お前にも聞いておく」


「何をですか?」


「この城に残る意思があるか」


 凛は少し驚いた。


「……私が決めていいんですか?」


「なぜ決められない」


「王様なら、命令するのかと思っていました」


「必要ならそうする」


「するんですね」


「だが今回は違う」


 アルヴァルドは真っ直ぐ凛を見る。


「お前を閉じ込めても、治療はできないのだろう?」


「できないというより、したくありません」


「なら、選べ」


 その言葉に、凛は黙った。


 選べ。


 最近、自分の人生でその言葉を聞いただろうか。


 結婚後は仕事を減らせ。


 子どものことを考えろ。


 三十四歳なら分かるでしょう。


 皆、自分がどうするべきかを決めてくれた。


 目の前にいる王は、凛を城に置きたいと言いながら、


 最後は選べと言う。


「外へ出てもいいんですか?」


「一人では許可できない」


「ですよね」


「この世界について何も知らないお前を放り出すほど、私も無責任ではない」


「それは助かります」


「城にいる限り、必要な衣食住はこちらで用意する」


「その代わり?」


 アルヴァルドが少し目を細めた。


「話が早いな」


「無料ほど怖いものはないので」


「お前の世界は随分世知辛いらしい」


「否定しません」


 アルヴァルドは椅子へ背を預けた。


「私の治療を続けろ」


 凛は彼を見る。


「それが条件ですか?」


「条件ではない」


「では?」


 一瞬の間。


「私の治療師になれ」


 部屋が静かになった。


 エドガーさえ、少し目を見開いている。


「……私が?」


「ああ」


「宮廷治療師なら、エドガーさんがいますよね」


「いる」


「なら必要ないのでは?」


 今度はエドガーが笑った。


「私は必要ないと言われた気がするが」


「違います」


 凛は慌てた。


「そういう意味ではなくて」


「分かっている」


 エドガーは面白そうに笑っている。


 アルヴァルドが続けた。


「エドガーはこの国の治療を知っている。お前には、お前の知識がある」


「でも私は、この世界の薬も病気も知りません」


「だから、エドガーと共に診ればいい」


 凛は少し黙った。


 理にかなっている。


 自分一人で何でも治せるとは思っていない。


 むしろ、この世界の身体や病気が現代と完全に同じなのかすら分からない。


「報酬も出す」


「お金の使い方も分からないんですが」


「そのうち覚えればいい」


「帰る方法を探す時間は?」


「認める」


 凛が顔を上げた。


「本当に?」


「ああ」


「黒い石についても?」


 言ってから、凛はしまったと思った。


 これまで、石に刻まれていた言葉までは話していない。


 アルヴァルドの目が鋭くなる。


「黒い石?」


 ローデリックも凛を見る。


 もう隠す意味はないかもしれない。


「私がこちらへ来る直前、ノルウェーの古い監視塔で黒い石に触れました」


「それは聞いている」


「そこに、文字が刻まれていたんです」


「何と」


 凛は少し迷った。


 そして、アルヴァルドを見る。


「――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、門は再び開く」


 誰も動かなかった。


 アルヴァルドの表情から、わずかに色が消える。


「それを、最初から知っていたのか」


「知っていたというか……読めたんです。読める文字ではなかったのに、なぜか意味だけ分かって」


「なぜ今まで言わなかった」


「信じてもらえると思います?」


「今のお前の存在自体が、十分信じがたい」


「……それはそうですね」


 凛は息を吐いた。


「だから、もしあの言葉が本当なら」


 自分でも口にするのが少し怖かった。


「あなたが眠れるようになれば、私は元の世界へ帰れるかもしれません」


 アルヴァルドは何も言わなかった。


 ほんの一瞬。


 何かを考えるように凛を見る。


「なら、なおさら都合がいい」


「え?」


「お前は帰るために私を治す」


 アルヴァルドは淡々と言った。


「私は眠るために、お前の治療を受ける」


「ずいぶん合理的ですね」


「嫌か」


「いいえ」


 むしろ、分かりやすい。


 凛は少し考えた。


「では、私からも条件があります」


 年長の男が目を剥いた。


「陛下に条件を?」


「治療するなら必要です」


 アルヴァルドは驚きもしなかった。


「言え」


「一つ。治療について、私が危険だと思うことは無理にさせないでください」


「ああ」


「二つ。分からないことを、王命で答えさせようとしないでください」


「……私に?」


「患者としてです」


 ローデリックが俯く。


「笑わないでください」


「まだ何も言っていない」


「顔が笑ってます」


 アルヴァルドが小さく息を吐いた。


「続けろ」


「最後に」


 凛は真っ直ぐ彼を見る。


「帰る方法を探すことを、止めないでください」


 今度だけ、アルヴァルドはすぐに答えなかった。


 数秒。


 やがて。


「分かった」


 それだけだった。


「では」


 凛は手を差し出した。


「しばらくの間、よろしくお願いします」


 アルヴァルドは差し出された手を見る。


「何だ」


「握手です」


「アクシュ?」


「約束したときに、こうするんです。私の国では」


 アルヴァルドは凛の手を見る。


 それから、自分の大きな手を重ねた。


 温かい。


 昨日、脈を取ったときとは違う触れ方だった。


「これでいいのか」


「はい」


「なら」


 灰青色の瞳が、凛を見つめる。


「今日から、お前は私の治療師だ」


「仮、ですからね」


「分かっている」


「帰れるまでです」


「ああ」


 短い返事。


 なのに、なぜだろう。


 アルヴァルドが凛の手を離すまで、


 ほんの少しだけ長かったような気がした。

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