第7話 ……朝なのか
「リン様」
扉を叩く音で、凛は目を覚ました。
見慣れない天井。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど次の瞬間、昨日の出来事が一気に蘇る。
ノルウェー。
黒い石。
見知らぬ森。
エルグレン王国。
そして、眠れない王。
「はい」
返事をすると、扉の向こうから女性の声がした。
「陛下がお目覚めになりました」
凛は身体を起こした。
「今、何時ですか?」
「朝の鐘が鳴ったところです」
「朝……?」
昨夜、アルヴァルドが眠りについたのは、夜半より少し前だった。
この国の時間の区切りには、まだ慣れていない。
それでも――。
「ずっと眠っていたんですか?」
「はい。一度もお目覚めになっておりません」
凛はすぐに寝台を降りた。
◇
アルヴァルドの部屋の前には、ローデリックがいた。
凛を見るなり、歩み寄ってくる。
「リン。本当に朝まで眠られた」
「聞きました」
「夜中にも、朝方にも様子を見た。それでも起きなかった」
「起こしていませんよね?」
「お前にあれだけ言われて、起こすものか」
「なら、よかった」
凛はほっと息を吐いた。
ローデリックは、そんな凛を不思議そうに見る。
「もっと喜ぶと思っていた」
「嬉しいですよ。でも、一晩眠れたからといって、治ったわけではありません」
「……そういうものなのか」
「そういうものです」
それでも。
三年間、まともに眠れていなかった人が、朝まで眠った。
小さな変化ではない。
「入っても?」
「ああ。陛下がお待ちだ」
凛は扉を開けた。
◇
部屋には、淡い朝の光が差し込んでいた。
昨夜、窓を覆った厚い布が少しだけ開けられている。
アルヴァルドは寝台の端に腰掛けていた。
濃いアッシュブラウンの髪は、眠っている間に少し乱れている。
いつもの黒に近い服ではなく、白いシャツを一枚羽織っただけだった。
灰青色の瞳が凛を見る。
目の下の影はまだ消えていない。
顔色だって、一晩で劇的によくなるはずはない。
けれど。
昨日までとは違う。
瞳に、わずかに光が戻っている。
「おはようございます」
凛が声をかけた。
アルヴァルドは答えず、窓へ目を向けた。
朝の光を、確かめるように。
そして、低い声で呟いた。
「……朝なのか」
「はい」
「今は、本当に朝なのか」
「そうですよ」
アルヴァルドはしばらく窓を見たままだった。
凛は、その横顔を見つめた。
ただ眠っただけだ。
夜に眠り、朝に目を覚ます。
多くの人にとっては当たり前のこと。
けれど、この人にとっては違う。
「最後に、朝まで眠ったのはいつですか?」
アルヴァルドはしばらく考えた。
「……覚えていない」
冗談を言っている顔ではなかった。
凛の胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「身体の感じは?」
「妙だ」
「妙?」
「重い」
凛は表情を変えた。
「だが、不快ではない」
「ああ」
凛は小さく笑った。
「たぶん、それがちゃんと眠ったあとの身体です」
「こんなものだったか」
「久しぶりすぎて忘れたんでしょうね」
「……そうかもしれない」
アルヴァルドは自分の手を見つめ、ゆっくり指を握った。
「頭の中も静かだ」
凛は、その言葉を聞き逃さなかった。
「頭痛は?」
「ない」
「ふらつきは?」
「ない」
「右の痛みは?」
アルヴァルドが脇腹へ手を添え、身体を少し捻った。
「まだ痛む」
「いつもと比べて?」
「少し軽い」
「それならよかった」
凛は椅子を引き寄せた。
「脈を見せてください」
「目を覚まして、最初にすることがそれか」
「医者なので」
アルヴァルドは何も言わず、手を差し出した。
昨日より、ずっと自然な動作だった。
凛は手首へ指を当てる。
「大丈夫そうですね」
「お前がやったのか」
凛は顔を上げた。
「何をです?」
「私が眠ったことだ」
「それは、まだ分かりません」
アルヴァルドの眉が寄る。
「またそれか」
「またです」
「三年まともに眠れなかった私が、昨夜は六刻近く眠った」
「こちらの時間を私の感覚に直せば、たぶん六時間前後ですね」
「それでも、お前の治療のおかげとは言わないのか」
「私だけのおかげ、とは言いません」
凛は手を離した。
「北葉茶をやめた。夜の仕事を早めに切り上げた。部屋を暗くした。身体の緊張を和らげた。鍼もした。それに、そもそも身体がかなり疲れていたはずです」
「つまり?」
「いくつかのことが重なった可能性があります」
アルヴァルドは少し黙った。
「お前が奇跡を起こした、と言えば簡単なのだがな」
凛は思わず笑った。
「奇跡を起こせるなら、医者じゃなくて魔法使いです」
「この国には魔法使いもいる」
「そうでした」
ここが異世界だということを、時々忘れそうになる。
アルヴァルドの口元がわずかに緩んだ。
「では、お前は奇跡を起こさない医者か」
「その代わり、もう一度同じことが起こせる方法を探します」
「もう一度?」
「今夜も眠れるか確かめる、ということです」
「なら、今夜も昨日と同じようにすればいい」
「そう単純ではありません」
「なぜだ」
「その日の身体を診て決めます」
「……面倒な医者だな」
「今ごろ気づきました?」
◇
扉が開き、朝食が運び込まれた。
パン。
温かいスープ。
卵料理。
燻製した魚。
果物。
それを見たアルヴァルドが、ふと動きを止めた。
「どうしました?」
「……腹が減った」
ローデリックが固まった。
後ろにいた使用人まで目を見開いている。
凛は周囲を見た。
「何ですか?」
「陛下が朝食を欲しがられるなど……」
ローデリックが呟く。
アルヴァルドが冷たい目を向けた。
「聞こえている」
「失礼いたしました」
そう答えながらも、ローデリックの表情は少し嬉しそうだった。
「普段、朝は食べないんですか?」
凛が尋ねる。
「食欲がない」
「今日は?」
「今言っただろう」
「お腹が空いた」
「そうだ」
「では、食べましょう」
凛が当然のように言うと、アルヴァルドは彼女を見る。
「お前は、まだ食べていないのか」
「私は自分の部屋で――」
「なら、ここで食べればいい」
凛が瞬いた。
「え?」
「昨日から私の食事についてまで聞いているだろう。診察の一部なら、見ておけばいい」
「なるほど」
もっともらしい。
「では、お言葉に甘えて」
凛の分の朝食も用意されることになった。
ローデリックだけが、一瞬アルヴァルドの顔を見た。
凛は気づかなかった。
◇
「それ、全部食べるつもりですか?」
食事を始めてしばらくして、凛が尋ねた。
「何か問題があるのか」
「昨日まで食欲がなかったんですよね?」
「ああ」
「急に食べすぎると胃に負担がかかります。ゆっくり食べてください」
「食事にまで指図するのだな」
「診察の一部です」
「便利な言葉だ」
「便利ですよ」
凛はパンを一口食べた。
アルヴァルドもスープへ手を伸ばす。
しばらく静かな時間が流れた。
凛は、ふと彼の顔を見る。
昨日より、どこか柔らかい。
眠ったせいだろうか。
「リン」
「はい?」
「お前は、元の世界へ帰りたいのか」
突然の問いに、凛の手が止まった。
「……帰れるんでしょうか」
「分からない」
「私にも分かりません」
黒い石に刻まれていた言葉が蘇る。
――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、門は再び開く。
まだ、その言葉について誰にも話していない。
あまりにも突拍子がなさすぎた。
けれど。
もし、あの言葉がそのままの意味なら。
アルヴァルドが眠れるようになることと、
自分が元の世界へ帰ることには、何か関係がある。
「帰れるかではない」
アルヴァルドの声に、凛は顔を上げた。
「帰りたいかと聞いている」
「……」
日本。
病院。
家族。
友人。
自分が積み上げてきた仕事。
帰りたいに決まっている。
それなのに、真っ先に浮かんだのは、婚約指輪を返した夜だった。
「……今は、分かりません」
「分からない?」
「帰りたい場所はあります。でも」
凛は窓の外を見る。
知らない北の空。
「戻りたい人生が、そのまま残っているわけではないので」
アルヴァルドは何も言わなかった。
凛は少しだけ笑った。
「変な答えですよね」
「いや」
「え?」
「分かる気がする」
それだけ言って、アルヴァルドは食事へ視線を戻した。
凛は彼を見る。
何が分かるのだろう。
少し気になった。
けれど、聞かなかった。
患者が話したくなったときに聞けばいい。
自分でそう言ったばかりだ。
◇
朝食を終える頃。
エドガーが急ぎ足で部屋へ入ってきた。
「陛下」
「どうした」
「本当に、朝までお休みに……?」
「ああ」
エドガーはアルヴァルドを見る。
それから凛へ視線を移した。
「リン。何をした?」
昨日のアルヴァルドと同じ質問だった。
凛は苦笑する。
「だから、一つじゃありません」
「それでもだ」
エドガーの声は真剣だった。
「三年間、我々が何をしても駄目だった」
そこに悔しさは感じなかった。
驚き。
安堵。
そして、治療師としての純粋な好奇心。
「なら、一緒に考えませんか?」
エドガーが目を瞬いた。
「一緒に?」
「私はこの国の薬草も治癒術も知りません。エドガーさんは、私の世界の医療を知らない」
凛は微笑んだ。
「だったら、お互い知っているものを持ち寄ったほうがいいでしょう?」
エドガーはしばらく凛を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「なるほど」
「嫌ですか?」
「いや」
首を横に振った。
「興味深い」
アルヴァルドが小さく息を吐いた。
「二人で、私を研究材料にするつもりか」
「研究材料ではありません」
凛が即座に返す。
「患者さんです」
「結局そこへ戻るのだな」
「はい」
ローデリックが笑った。
エドガーもつられて笑う。
アルヴァルドは呆れたような顔をした。
けれど、その口元にもわずかな笑みが残っていた。
その朝。
三年ぶりに夜を越えて眠った北の王の部屋には、
これまでなかった笑い声が響いていた。
そして凛はまだ知らない。
アルヴァルドが眠りを取り戻したその頃。
遠く離れた北の森で、
あの黒い石に、ごく細い光が灯っていたことを。




