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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第6話 その針を私に刺すのか


 翌日の午後。


 凛は、細長い布包みを前にして腕を組んでいた。


「……すごい」


 思わず声が漏れる。


 布を開くと、中には十本ほどの細い金属の針が並んでいた。


 昨日、宮廷治療師のエドガーに相談したのだ。


 この国で、できるだけ細く、表面の滑らかな針を作れる人はいないか、と。


 エドガーは最初、


「針なら縫合用のものがある」


 と言った。


 だが、凛が欲しいのは傷を縫うための針ではない。


 先端が鋭すぎず、細く、身体へ負担なく入れられるもの。


 見本になるものはない。


 そこで凛は、祖父の古い鍼箱を見せながら、記憶を頼りに大きさと形を説明した。


 城付きの細工師は、凛が思っていた以上に腕がよかった。


「これなら……使えるかもしれない」


「本当に、その細い棒を身体へ刺すのか?」


 隣にいたエドガーが、まだ信じられないという顔をしている。


「刺します」


「切るためでも、血を抜くためでもなく?」


「はい」


「薬を入れるわけでもない?」


「入れません」


 エドガーは針を見る。


 凛を見る。


 もう一度針を見る。


「意味が分からん」


「昨日から皆さん、そればっかりですね」


 凛は笑った。


 もちろん、現代で使っていた使い捨ての鍼とは違う。


 同じように扱うことはできない。


 だから使用前には十分に煮沸し、さらにこの世界にある高濃度の蒸留酒で処理してもらった。


 これで現代と同じ安全性になるわけではない。


 感染の危険がなくなるわけでもない。


 だから必要以上には使わない。


 深く刺すつもりもなかった。


「まず私で試します」


「何?」


 エドガーが止めるより先に、凛は一本取った。


 自分の前腕に、ごく浅く入れる。


「リン!」


「大丈夫です」


 痛みも、引っかかりもほとんどない。


 抜いたあとも問題はなさそうだ。


「……うん」


 凛は針を見た。


「これならいけそうです」


 エドガーは呆れた顔をしていた。


「自分の身体で試す医者など初めて見た」


「私だって、正体の分からない針を患者さんにいきなり刺したくありませんから」


「陛下を患者と呼ぶことにも、もう誰も驚かなくなってきたな」


「いいことです」


 凛は布包みを閉じた。


「今夜、試してみます」


     ◇


 その日の夜。


 アルヴァルドの私室を訪れると、昨日とは少し様子が違っていた。


 机の上に、北葉茶がない。


「ちゃんとやめたんですね」


 凛が言うと、アルヴァルドが書類から顔を上げた。


「約束したからな」


「偉いです」


「子ども扱いするな」


「患者さんが治療に協力してくれたら褒めますよ」


「王でも?」


「王でも」


 灰青色の瞳が、わずかに細くなった。


「今日は何をする」


「まず確認です。昨夜は?」


「二刻ほど眠った」


 凛の手が止まった。


「続けて?」


「ああ」


「途中で目は?」


「一度覚めたが、そのあとまた眠った」


 昨日よりはいい。


 ただし、それだけで何かが効いたとは言えない。


「痛みは?」


「いつもより少なかった気はする」


「昨日押したところは?」


「……悪くなかった」


「ずいぶん遠回しですね」


「効いたと言えば満足か」


「一回で判断はしません」


 アルヴァルドがため息をついた。


「本当に夢を見せない女だな」


「医療で夢を売ったら怒られます」


 凛は持ってきた布包みをテーブルの上へ置いた。


 アルヴァルドの視線が落ちる。


「何だ、それは」


「今日作ってもらいました」


 布を開く。


 細い針が並んでいる。


 アルヴァルドが黙った。


 数秒。


 もう一度、針を見る。


「……それを」


「はい」


「私に刺すのか」


「はい」


「なぜ二度とも即答する」


「そういう治療なので」


 アルヴァルドは針を一本つまみ上げようとした。


「触らないでください」


 凛がすぐに止める。


「なぜだ」


「清潔にしたばかりです」


「セイケツ?」


「……とにかく、今は触らないでください」


 アルヴァルドは手を引いた。


「拷問道具にしか見えない」


「昨日も言いましたけど、治療です」


「針を刺す治療など聞いたことがない」


「私の国にはあります」


「本当に効くのか」


「効くこともあります」


「……ことも?」


「必ず効きますとは言いません」


「またそれか」


 凛は笑った。


「嫌ならしませんよ」


 アルヴァルドの表情が変わる。


「やらないのか」


「治療は本人が嫌ならしません」


「王が命じても?」


「ご自分の身体でしょう?」


 凛は布を閉じようとした。


 すると。


「待て」


 アルヴァルドが言った。


 凛は手を止める。


「受ける」


「いいんですか?」


「ここまで来て引けば、ローデリックに笑われる」


「理由そこですか」


「半分はな」


「残り半分は?」


 アルヴァルドは一瞬だけ黙った。


「昨日、お前の言ったことを試して、少し眠れた」


 凛は彼を見る。


「だから、もう一度試す」


 短い言葉だった。


 でも。


 信用してみる。


 そう言われたような気がした。


「分かりました」


 凛は布をもう一度開いた。


「では、横になってください」


「横になる?」


「寝台で」


 アルヴァルドが眉を寄せる。


「ここで?」


「鍼を打つので」


「椅子では駄目なのか」


「眠ってほしい人を座らせたまま治療する意味があります?」


「……」


「ほら」


「お前は本当に遠慮がないな」


 そう言いながらも、アルヴァルドは寝台へ移った。


 長身の身体を横たえる。


 濃いアッシュブラウンの髪が枕に広がり、いつもより少しだけ年若く見えた。


 王冠もない。


 剣もない。


 ただ疲れている、一人の男。


 凛は椅子を近くへ寄せた。


「まず脈を見ます」


 手首へ指を当てる。


 昨日より少しだけ速い。


「緊張してます?」


「していない」


「少し速いですよ」


「針を持った女が横にいるからだ」


「それ、緊張してるって言うんです」


「……」


 凛は思わず笑った。


「怖かったら言ってください」


「怖くはない」


「はいはい」


「その返事は何だ」


「患者さんは皆そう言います」


 凛はまず手首の内側へ触れた。


「ここからいきます。ほんの少しだけ」


 針を持つ。


 アルヴァルドの視線が、その動きを追う。


「力を抜いてください」


「抜いている」


「もっと」


「これ以上は無理だ」


「では、息を吐いて」


 アルヴァルドがゆっくり息を吐いた。


 そのタイミングで、凛はごく浅く針を入れた。


「……」


「どうです?」


「もう刺したのか」


「はい」


 アルヴァルドが手首を見る。


「ほとんど分からなかった」


「だから拷問じゃないって言ったでしょう」


 反対側にも同じように行う。


 さらに脚にも数か所。


 痛みや緊張を少しでも和らげる目的で、刺激は最小限にした。


「変な感じは?」


「温かい」


「どこが?」


「手だ」


 アルヴァルドが指を動かす。


「少し重い気もする」


「嫌な感じでは?」


「いや」


「ではそのまま」


 凛は時間を確認しようとして、スマートフォンが使えないことを思い出した。


 まだ慣れない。


 代わりに、部屋の砂時計を借りていた。


 暖炉の火が静かに揺れている。


 窓には厚い布を掛けてもらった。


 いつもならこの時間でも灯りをいくつもつけて書類を読んでいるというから、今日は必要最低限にしている。


 部屋が暗くなるだけで、空気まで違って感じられた。


「眠らなくてもいいですよ」


 凛が言った。


「眠らせるための治療ではないのか」


「眠らなきゃ、と思うほど眠れなくなることもあります」


「なら何をすればいい」


「何もしなくていいです」


「……何もしない?」


「目を閉じて、横になっているだけで」


 アルヴァルドが天井を見る。


「難しい注文だ」


「国王には?」


「私には、だ」


 その言葉に、凛は少しだけ顔を上げた。


 初めてだった。


 王だからではなく。


 自分だから難しい、と彼が言ったのは。


「では、練習しましょう」


「何の」


「何もしない練習」


「妙な医者だ」


「知ってます」


 アルヴァルドが目を閉じる。


 凛はその横顔を見た。


 目を閉じても、眉間にはまだ力が入っている。


 呼吸も浅い。


「ゆっくり吐いて」


「……」


「吸うより、吐く方を長く」


 一度。


 二度。


 何度か繰り返すうち、眉間の皺が少しずつ薄くなっていった。


 凛は何も話さなかった。


 静かな時間が流れる。


 砂時計の砂が半分ほど落ちた頃。


「リン」


「はい」


「まだか」


「もう少しです」


「そうか」


 しばらくして。


「リン」


「はい?」


「……」


 返事がない。


 凛はアルヴァルドを見る。


 目は閉じたまま。


「陛下?」


 呼吸が違う。


 さっきまでより、ゆっくり深い。


 肩の力も抜けている。


「……まさか」


 凛は声を落とした。


 そっと脈を確認する。


 眠っている。


 本当に。


 凛は動かなかった。


 今起こす必要はない。


 針を抜く頃合いまで、ほんの少し待つ。


 やがて一本ずつ静かに抜いた。


 それでもアルヴァルドは目を覚まさなかった。


 凛は布をかけ直す。


 扉の外で待っていたローデリックへ、そっと声をかけた。


「ローデリックさん」


「終わったか?」


「静かに」


 ローデリックが怪訝そうな顔をする。


 凛は人差し指を唇へ当てた。


「眠っています」


「……何?」


「今、寝たところです」


 ローデリックが部屋の中を見る。


 そして目を見開いた。


「起こさないでください」


「もちろんだ」


「今夜は、何か緊急のことがない限り、そのままに」


「分かった」


 凛はもう一度、寝台を振り返った。


 三年間。


 まともに眠れない夜を過ごしてきた男。


 これが治療の効果なのか。


 疲労の限界なのか。


 北葉茶をやめた影響なのか。


 それとも、いくつもの小さな変化が重なっただけなのか。


 今はまだ分からない。


 だから、喜ぶのは早い。


 それでも。


「おやすみなさい、陛下」


 凛は小さく呟いた。


 眠っているアルヴァルドには、届かなかった。

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