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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第5話 王を診る女医


「では、始めます」


 凛はアルヴァルドの向かいに座った。


 部屋には、宮廷治療師のエドガーとローデリックもいる。


 暖炉の火が静かに揺れていた。


 さっきまで森で剣を向けられていた相手を、今度は患者として診る。


 妙な一日だ。


「昨夜は、どれくらい眠りましたか?」


「一刻ほどだ」


「……その一刻が、私には分かりません」


 アルヴァルドが眉を寄せる。


 エドガーの説明を聞き、凛は頭の中でおおよその時間へ置き換えた。


「二時間にも満たないくらいですね」


「ああ」


「寝つくまでにも時間がかかる?」


「かかる」


「眠っても途中で目が覚める」


 アルヴァルドが凛を見る。


「なぜ分かる」


「聞いているだけです」


「今のは聞いていない」


「顔に書いてあります」


 一瞬、ローデリックが俯いた。


 笑ったらしい。


 アルヴァルドは気にせず続けた。


「目が覚めれば、そのあとはほとんど眠れない」


「それが三年くらい?」


「ああ」


 凛は頷いた。


「眠れなくなる前に、何かありましたか?」


 アルヴァルドの表情が、ほんの少し変わった。


 消えた、と言ったほうが近い。


「何かとは」


「大きな怪我とか、生活の変化とか。眠るのが怖くなるような出来事とか」


 部屋の空気が静かになった。


 エドガーもローデリックも何も言わない。


 凛はそれ以上追わなかった。


「今は答えなくていいです」


「原因を探すのではなかったのか」


「探します。でも、無理やり聞き出すつもりはありません」


 アルヴァルドが凛を見る。


「妙な医者だ」


「昨日から、そればかりですね」


「普通の治療師は、もっと答えを欲しがる」


「答えたくない患者から無理に聞いても、正しい答えが返ってくるとは限りませんから」


 しばらく、アルヴァルドは何も言わなかった。


 凛は話題を変えた。


「夜は何を飲んでいます?」


「北葉茶だ」


「それは?」


 ローデリックが卓上の壺を指した。


「頭を冴えさせる茶だ。夜番の兵も飲む」


 凛はゆっくりアルヴァルドを見る。


「夜も?」


「仕事が残っていれば」


「何杯くらい?」


「分からない」


 エドガーが答えた。


「五、六杯は飲まれているかと」


「夜まで?」


「……おそらく」


 凛は額に手を当てそうになった。


「頭を冴えさせるお茶を、眠れない人が夜まで飲んでるんですね」


 アルヴァルドが不機嫌そうに言う。


「仕事がある」


「眠れないから仕事をするのか、仕事をするから眠れないのか、分からなくなってません?」


「王に仕事をするなと言うのか」


「夜までそのお茶を飲むのを、まずやめてくださいと言っています」


「それで眠れるのか」


「分かりません」


「分からない?」


「一つ変えただけで全部治るなら、三年も苦労していないでしょう」


 アルヴァルドが黙る。


 ローデリックがまた口元を隠した。


「お前は、本当に都合のいいことを言わないな」


「医者なので」


「普通は患者を安心させるものではないのか」


「根拠もなく安心させるのとは違います」


 アルヴァルドの灰青色の瞳に、わずかな興味が浮かんだ。


 凛はそれに気づかないふりをした。


「もう一つ」


「まだあるのか」


「右の脇腹」


 アルヴァルドの目が細くなった。


「森でも、馬の上でも庇っていました」


「古傷だ」


「いつの?」


「五年前」


「戦で?」


「ああ」


「今も痛みます?」


「大したことはない」


「その言葉、患者さんからよく聞きます」


「本当に大したものではない」


「では、触っても?」


 アルヴァルドが一瞬黙った。


 エドガーが凛を見る。


「今ここでか?」


「診察ですから」


「相手は陛下だ」


「傷の場所は、王様でも変わらないでしょう?」


 ローデリックがとうとう吹き出した。


「失礼」


 アルヴァルドが冷たい視線を向ける。


「笑うな」


「申し訳ありません」


 そう言いながら、まだ肩が揺れている。


 アルヴァルドは諦めたように息を吐いた。


「好きにしろ」


「では、失礼します」


 凛は彼の右側へ回った。


 上着を少し緩めてもらう。


 脇腹から背中へ、古い傷跡が走っていた。


 深い。


 五年前の傷だとしても、かなり大きな外傷だったことは分かる。


「ここは?」


 傷の周囲へ指を当てる。


「何ともない」


 少し場所を変える。


「ここは?」


「平気だ」


 さらに後ろへ。


 その瞬間、アルヴァルドの身体がわずかに強張った。


 凛は手を止めた。


「ここですね」


「少し痛むだけだ」


「寝返りを打ったときに痛みます?」


 アルヴァルドは答えなかった。


「それで目が覚めることもある」


 凛が言うと、彼はようやく、


「……ある」


 と認めた。


「だったら、十分関係あります」


「五年前の傷だぞ」


「傷が塞がったことと、痛みがなくなったことは別です」


 エドガーが興味深そうに凛を見る。


「治った傷が、眠りを妨げているというのか」


「可能性はあります」


 凛はアルヴァルドから手を離した。


「痛いから眠れない。眠れないから身体が緊張する。身体が緊張すると、さらに痛みを感じやすくなる。そうやって悪循環になることもあります」


「では、傷を治せばいい?」


「またそれです」


「何がだ」


「すぐ一つの原因に決めようとする」


 アルヴァルドが眉を寄せた。


 凛は指を折った。


「夜まで飲んでいる北葉茶。古傷の痛み。そして――」


 そこで一度止める。


「悪夢」


 アルヴァルドの表情が固まった。


 やはり。


 凛は確信したが、何も言わなかった。


「今日はそこまでにします」


「聞かないのか」


「今は」


「なぜ」


「あなたが話したくなったら聞きます」


 アルヴァルドは、しばらく凛を見つめていた。


「……本当に変な女だな」


「医者です」


「それで全部説明できると思うな」


     ◇


「では、今夜から北葉茶は夕方まで」


 凛が告げると、アルヴァルドは露骨に嫌そうな顔をした。


「仕事がある」


「夜になったら水にしてください」


「眠くなったらどうする」


「寝てください」


 沈黙。


「……王に向かって、ずいぶん簡単に言うな」


「眠れない王を診ているので」


 ローデリックがまた顔を背けた。


 エドガーまで少し笑っている。


「それと、今から一つ試してもいいですか?」


 アルヴァルドが警戒するように凛を見る。


「何をする」


「治療です」


「薬か」


「使いません」


「治癒術?」


「できません」


「では何をする」


 凛は自分の手を見せた。


「手だけです」


 アルヴァルドの眉間に皺が寄る。


「意味が分からない」


「身体には、押したり刺激したりすることで、緊張が和らぐことのある場所があります」


「押すだけで治るのか」


「治るとは言ってません」


「またそれか」


「効かなかったら、効かなかったという情報が増えます」


「失敗まで利用するのか」


「医療って、そういうものですよ」


 アルヴァルドは何か言いかけ、やめた。


「構わない」


「では、腕を出してください」


 凛はアルヴァルドの手首を取った。


 大きな手だった。


 剣を握ってきた男の手。


 指には硬い部分があり、小さな古傷もいくつかある。


 アルヴァルドが凛を見下ろす。


「脈を見るのか」


「それもあります。でも今は、少し違います」


 凛は手首の内側を指で探った。


 祖父の診療所で何度も見た手。


 自分で学び直してから、何人もの患者に触れてきた場所。


「少し押します。痛かったら言ってください」


「この程度で?」


「強ければいいというものでもありません」


 凛はゆっくり圧をかけた。


 反対側の腕にも触れる。


 しばらくすると、アルヴァルドがわずかに眉を寄せた。


「何だ」


「何がですか?」


「……妙な感じがする」


「痛い?」


「いや」


「では、そのまま」


 凛は急がなかった。


 呼吸の速さを見る。


「息をゆっくり吐いてください」


「呼吸くらい自分でできる」


「なら、今よりゆっくりできますね」


「……」


 アルヴァルドが凛を睨む。


 それでも言われた通り、ゆっくり息を吐いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 やがて、さっきまで少し上がっていた肩が落ちた。


 ほんのわずか。


 けれど凛は気づいた。


「今、少し力が抜けましたね」


「そうか?」


「はい」


 アルヴァルド自身は分かっていないらしい。


 凛は手を離した。


「今日はこれくらいで」


「もう終わりか」


「長くすればいいものではありません」


「何をした」


「身体に、休んでもいいと教えるきっかけを作っただけです」


「そんなことを、身体に教える必要があるのか」


 凛はアルヴァルドを見る。


「ずっと戦っている身体なら、必要かもしれません」


 アルヴァルドの表情が止まった。


 凛はそれ以上言わなかった。


 戦争が終わっても、身体だけが終わっていない。


 そういう人を、凛は現代でも見てきた。


「今夜は北葉茶なし。仕事も少し早めに切り上げる。寝る前にもう一度、様子を見ます」


「命令が多いな」


「治療計画です」


「同じに聞こえる」


 凛が立ち上がった、そのときだった。


「……」


 背後で、小さく息を吸う音がした。


 振り返る。


 アルヴァルドが片手を口元へ当てている。


 ローデリックが目を見開いた。


 エドガーも動きを止めた。


「陛下?」


「何だ」


「今……」


 ローデリックが信じられないものを見るような顔をしている。


「欠伸を」


 アルヴァルドが固まった。


 凛も一瞬だけ驚いた。


 そして、思わず笑った。


「いい兆候ですね」


「たかが欠伸だ」


「眠れない人には、結構大事です」


「お前が何かしたのか」


「さあ」


 凛は肩をすくめた。


「北葉茶をまだやめてもいませんし、偶然かもしれません」


「……」


「でも」


 凛は扉へ向かいながら振り返った。


「身体は、眠り方を完全に忘れたわけではなさそうです」


 アルヴァルドは何も答えなかった。


 ただ、凛を見ていた。


 初めて会った森の中とは違う目で。


「リン」


「はい?」


「お前は、治せると言わなかったな」


「はい」


「なぜだ」


 凛は少し考えた。


「分からないことを、分かったふりしたくないからです」


「王を安心させようとは思わない?」


「王様を診ているんじゃありません」


 凛は微笑んだ。


「今は、眠れなくて困っている一人の患者さんを診ています」


 アルヴァルドの灰青色の瞳が、静かに凛を捉えた。


 何か言おうとして――やめる。


「……そうか」


 それだけだった。


 けれど凛が部屋を出たあとも、


 アルヴァルドはしばらく、閉じた扉を見つめていた。

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