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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第4話 眠れない北の王


「馬には乗れるか」


 アルヴァルドに問われ、凛は傍らに立つ大きな馬を見上げた。


「……ほとんど乗ったことがありません」


「ほとんど?」


「子どもの頃、牧場で引いてもらった馬に乗ったくらいです」


 アルヴァルドは一度だけ凛を見て、それから隣にいた年長の男へ視線を向けた。


「ローデリック」


「はい」


「お前が乗せていけ」


「承知しました」


 凛は目を瞬いた。


「二人で乗るんですか?」


「歩いて城まで行きたいなら止めはしない」


 アルヴァルドが淡々と言う。


 凛は雨に濡れた森の道を見た。


 どこまで続いているのかも分からない。


「……お世話になります」


 ローデリックがわずかに笑った。


「その判断が賢明だ」


 彼は先に馬へ乗り、凛へ手を差し出した。


「足をそこへ。あとは手を貸す」


 凛は言われるまま鐙に足をかける。


 予想以上に高い。


「ちょっと待って。これ、本当に――」


「上がるぞ」


「え?」


 腕を引かれ、身体が一気に持ち上がった。


「わっ」


 どうにかローデリックの後ろへ収まる。


 地面がずいぶん遠い。


 凛は反射的に鞍へしがみついた。


「落ちそうです」


「私につかまって構わない」


「それはそれで申し訳ないような」


「落ちるほうが面倒だ」


「……では、遠慮なく」


 凛はローデリックの外套を軽くつかんだ。


 隣から視線を感じる。


 アルヴァルドだった。


「剣を向けられても平然としていた女が、馬は怖いのか」


「剣は動きませんから」


「人が持っている」


「馬より動きは予測できます」


 一瞬。


 アルヴァルドの口元がわずかに緩んだ。


「やはり変わった女だ」


「それ、今日何回目ですか」


「数えていない」


 一行が動き始めた。


     ◇


 森を抜ける道は、思っていた以上に険しかった。


 濡れた土。


 黒い岩。


 深い針葉樹の森。


 ところどころ木々が途切れると、その向こうに灰色の湖が見えた。


 遠くには雪を残した山々。


 ノルウェーで見た景色によく似ている。


 けれど道路は舗装されていない。


 電柱もない。


 車も走っていない。


 目に入るもののどこにも、現代の痕跡がなかった。


 凛は黙ったまま周囲を見つめた。


 夢だと思いたい。


 けれど馬の揺れは容赦なく腰に響くし、雨で濡れた服は冷たい。


 ローデリックの外套からは革と雨の匂いがする。


 あまりにも現実的だった。


「まだ信じられないか」


 前に座るローデリックが言った。


「何がですか」


「ここが、お前の知る場所ではないことだ」


「……はい」


 正直に答えた。


「当然でしょうね。さっきまでノルウェーにいたんです」


「そのノルウェーという国は、遠いのか」


「説明が難しいですね」


「海の向こうか?」


「たぶん、海どころではないです」


 凛は小さく息を吐いた。


「そもそも、この世界にあるのかどうかも分からないので」


 自分で口にして、ぞっとした。


 この世界。


 ほんの数時間前まで、自分がそんな言葉を真面目に使う日が来るとは思わなかった。


 少し前を、アルヴァルドの馬が進んでいる。


 黒に近い濃紺の外套。


 雨に濡れた濃いアッシュブラウンの髪。


 背筋はまっすぐ伸びていた。


 だが、道が大きく傾いたときだった。


 アルヴァルドが一瞬だけ右側へ手を添えた。


 脇腹から腰にかけて。


 すぐに手を戻したが、凛は見逃さなかった。


 やはり痛みがある。


 森で見たときもそうだった。


「また見ているな」


 アルヴァルドが振り返らずに言った。


 凛は少し驚いた。


「背中にも目があるんですか?」


「先ほどから視線を感じる」


「すみません。職業病です」


「医者というのは、人を見る仕事なのか」


「そうですね」


 少し考えてから、凛は続けた。


「検査の数字を見ることもあります。でも、その人自身を見ることのほうが大事です」


「数字?」


「……それは、また今度説明します」


「また今度があるつもりなのか」


 凛は言葉に詰まった。


 それもそうだ。


 自分がこの国にどれだけいることになるのか。


 元の世界へ帰れるのか。


 何ひとつ分からない。


 凛の表情を見たのか、ローデリックが少しだけ声を和らげた。


「まずは城へ着いてから考えればいい」


「ありがとうございます」


「ただし、お前の鞄は調べさせてもらう」


「……やっぱりですか」


「当然だ」


 凛のバッグは、別の騎士の馬に括りつけられている。


「危険なものは入っていません」


「それは我々が判断する」


「中に祖父の形見があります。乱暴には扱わないでください」


「形見?」


「小さな金属の箱です」


 ローデリックが振り返る。


「分かった。壊さぬよう伝えておく」


「ありがとうございます」


 少なくとも、この男は話が通じるらしい。


     ◇


 森を抜けると、視界が開けた。


 凛は思わず息を呑んだ。


 湖の向こう。


 山裾に、巨大な城が建っている。


 華やかな宮殿ではない。


 黒灰色の石を積み上げた、要塞のような城だった。


 高い城壁。


 いくつもの塔。


 背後には雪山。


 湖面には低い雲が映り込んでいる。


「……すごい」


「あれが王城だ」


 ローデリックが言った。


「本当にお城なんですね」


「今さら何を言っている」


「まだ半分くらい、撮影か何かだったらいいと思っているので」


「サツエイ?」


「いえ。忘れてください」


 理解してもらうことを、凛は早々に諦めた。


 城門へ近づくにつれ、人が増えていく。


 兵士たちがアルヴァルドの姿を見ると、一斉に姿勢を正した。


 門が大きく開く。


 馬が城内へ入った瞬間、凛は改めて実感した。


 アルヴァルドは本当に王なのだ。


     ◇


 馬を降りた途端、凛の膝がわずかに笑った。


「……馬って、こんなに全身使うんですね」


 ローデリックが笑う。


「初めてにしては上出来だ」


「明日は筋肉痛だと思います」


「キンニクツウ?」


「もういいです」


 アルヴァルドがこちらへ歩いてくる。


 馬から降りた姿を見て、凛は改めてその背の高さに気づいた。


 百八十センチ後半はあるだろう。


 凛も女性として特別小柄ではないが、かなり見上げることになる。


 城の者たちが次々に集まってきた。


「陛下、お帰りなさいませ」


「予定よりお早いお戻りで――」


 そして、全員の視線が凛へ集まる。


 濡れた防水コート。


 パンツ。


 ブーツ。


 この世界では相当異様なのだろう。


「この女に乾いた服を」


 アルヴァルドが言った。


「温かい食事も用意しろ」


「承知いたしました」


「それから」


 アルヴァルドの視線が凛のバッグへ向く。


「持ち物を確認する。本人の前で行え」


 凛は少し驚いた。


 勝手に調べないらしい。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではない」


「でも、知らないところで開けられるより安心します」


 アルヴァルドは凛を見た。


「お前は我々を信用していないのだな」


「会って数時間ですから」


「正直だ」


「陛下も私を信用していないでしょう?」


 一瞬の沈黙。


「その通りだ」


「なら、お互い様です」


 また周囲の何人かが驚いた顔をした。


 どうやら王にこんな話し方をする人間は、ほとんどいないらしい。


 アルヴァルドだけは怒らなかった。


「まず着替えろ」


 それだけ言って、背を向けた。


     ◇


 通された部屋で、凛はようやく濡れた服を脱ぐことができた。


 用意されたのは、生成り色の長いワンピースと、濃紺の厚手の上着だった。


 装飾は少なく、思っていたよりずっと着やすい。


 鏡の前に立つ。


 鎖骨にかかるダークブラウンの髪は雨で乱れていた。


 手櫛で整え、いつものように低い位置でひとつにまとめる。


 鏡の中には、見慣れた自分がいる。


 なのに服も、部屋も、窓の外の景色も知らないものばかりだった。


「……本当に、どこに来ちゃったんだろう」


 独り言だけが部屋に落ちる。


 ほどなくして、バッグが運ばれてきた。


 ローデリックと女性の使用人が立ち会い、中身を一つずつ確認していく。


 財布。


 パスポート。


 化粧品。


 充電器。


 薬。


 そして。


「これは?」


 ローデリックが、小さな金属の箱を指した。


「祖父のものです」


 凛は手に取った。


 古びた鍼箱。


 今は中身のない、ただの箱。


「武器ではないのか?」


「昔は治療に使う針を入れていました」


「針を治療に?」


 ローデリックが怪訝そうな顔をした。


「身体に刺します」


「……」


「その顔になりますよね」


 凛は少し笑った。


「痛めつけるためじゃありません。治療です」


「私には同じに聞こえる」


「そのうち分かります」


 言ってから、凛自身が気づいた。


 また「そのうち」と言っている。


 まるで、ここにしばらくいることを前提にしているみたいだ。


     ◇


 温かいスープとパンを口にしていると、扉がノックされた。


 入ってきたのはローデリックだった。


「陛下がお呼びだ」


「私を?」


「ああ」


「何のために?」


 ローデリックはわずかに笑った。


「行けば分かる」


「皆さん、それ好きですね」


     ◇


 案内された部屋には、アルヴァルドともう一人の男性がいた。


 六十代くらいだろうか。


 灰色の髪を後ろで束ね、長い上着をまとっている。


「宮廷治療師のエドガーだ」


 アルヴァルドが紹介した。


「エドガーです」


 凛も頭を下げる。


「高瀬凛です」


 エドガーの目は、凛を値踏みするように見ていた。


「陛下から聞いた。森で会っただけで、陛下が眠れていないと分かったそうだな」


「分かったわけではありません」


「何?」


「そうかもしれないと思ったので、聞いたんです」


 エドガーが黙る。


「見ただけで病が分かるわけではありませんから」


「では、なぜ尋ねた」


「顔色と目の状態、それにかなり疲れているように見えたからです」


 凛はアルヴァルドを見る。


「それで、眠れているのかな、と」


「ただそれだけか」


「診察って、そういうものです。見て、聞いて、触れて、必要なら検査をする」


「ケンサ?」


「……それは後で」


 また説明するものが増えた。


 アルヴァルドは椅子に腰掛けていた。


 近くで見ると、目の下の影がさらに濃い。


「それで」


 彼が言った。


「私を診られるか」


 凛は少し黙った。


「診ることはできます」


「治せるか」


「それは約束できません」


 即答した。


 エドガーの眉が動く。


 アルヴァルドも凛を見る。


「なぜだ」


「まだ何も分かっていないからです」


「私は眠れない」


「それは症状です」


「症状?」


「眠れないという事実は分かっています。でも、なぜ眠れないのかは分からない」


 凛はアルヴァルドの向かいへ腰を下ろした。


「寝つけないのか。眠っても途中で目が覚めるのか。悪夢を見るのか。痛みで起きるのか。昼間は眠くなるのか。何を飲み、何を食べ、どんな薬を使っているのか」


「そこまで聞くのか」


「必要なら、もっと聞きます」


 アルヴァルドの灰青色の目が、わずかに細くなった。


 エドガーが口を開く。


「我々は眠りを誘う薬草を試した。治癒術で疲労を取り除いたこともある」


「効きましたか?」


「一時的には」


「でも、また眠れなくなった」


「……そうだ」


 凛は頷いた。


「なら、一度考え方を変えたほうがいいかもしれません」


「どう変える」


 アルヴァルドが尋ねる。


「眠らせることだけを目的にしない」


 部屋が静かになった。


「眠れないのは、何か別の問題の結果かもしれません」


「結果?」


「はい」


 凛はアルヴァルドを見る。


「痛みかもしれない。身体の緊張かもしれない。生活の仕方かもしれない。何か強い出来事が関係している可能性もある」


 アルヴァルドの表情が、ほんの少しだけ硬くなった。


 凛はそれ以上踏み込まなかった。


 今の反応だけ覚えておく。


「私は、あなたを今夜無理やり眠らせる方法を探すより――」


 凛は言葉を選んだ。


「まず、なぜ眠れないのかを知りたいです」


 暖炉の中で薪が爆ぜた。


 アルヴァルドは黙って凛を見ている。


 やがて、低い声で尋ねた。


「それで、眠れるようになるのか」


「分かりません」


 凛は正直に答えた。


「でも、原因に近づけなければ、同じことを繰り返すだけだと思います」


 長い沈黙。


 やがてアルヴァルドが、ほんの少し口元を緩めた。


「面白い」


「私は真面目に話しています」


「だから面白い」


 彼は椅子の背にもたれた。


「やってみろ」


「陛下」


 エドガーが驚いたように声を上げた。


「この女に、私を診させる」


 凛はアルヴァルドを見る。


「一つ条件があります」


「何だ」


「患者として診る以上、質問にはできるだけ正直に答えてください」


「王に条件をつけるのか」


「治療中は王でも患者でも、身体は同じです」


 エドガーが息を呑む。


 ローデリックは、笑いを堪えているように見えた。


 アルヴァルドはしばらく凛を見つめたあと、


「分かった」


 と答えた。


 その夜。


 異世界へ迷い込んだばかりの高瀬凛は、


 眠れない北の王を、初めて患者として診ることになった。

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