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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第3話 黒い石の向こう側


 馬の蹄の音が近づいてくる。


 凛は黒い石から手を引こうとした。


「……っ」


 今度は、あっけないほど簡単に離れた。


 その瞬間、足元が大きく揺れた。


 身体が浮くような感覚に、凛は反射的に目を閉じる。


 耳の奥で、風が鳴った。


 落ちているのか、浮いているのかも分からない。


 ほんの数秒だったのかもしれない。


 それとも、もっと長かったのか。


 やがて頬に冷たいものが触れた。


 雨だった。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……え?」


 灰色の空。


 雨に濡れた針葉樹。


 黒い岩。


 霧の向こうには、雪を残した山の稜線が見える。


 一見すれば、さっきまでいたノルウェーとよく似ている。


 けれど――何かが違った。


 凛は立ち上がり、辺りを見回した。


 見張り塔がない。


 崩れた石壁も、案内板もない。


 自分が歩いてきた遊歩道さえ消えている。


 代わりに、森の中を一本の細い道が走っていた。


 舗装されていない土の道だ。


「……ここ、どこ?」


 スマートフォンを取り出す。


 画面は真っ暗だった。


 電源ボタンを長押ししても反応しない。


「嘘でしょう」


 充電はまだ十分に残っていたはずだ。


 バッグからモバイルバッテリーを取り出そうとしたとき、もう一度、蹄の音が聞こえた。


 今度ははっきりと近い。


 凛は顔を上げた。


 森の向こうから、馬が現れた。


 一頭。


 二頭。


 全部で五頭。


 騎乗しているのは、厚い外套をまとった男たちだった。


 腰には剣。


 革の手袋。


 雨に濡れた馬の鼻息が、白く煙っている。


 凛は動けなくなった。


 映画か何かの撮影だろうか。


 一瞬そう思った。


 けれど、カメラも照明も車もない。


 何より、男たちが凛を見る目が、演技には見えなかった。


 明らかに警戒している。


 一人の男が腰の剣に手をかけた。


 凛の背筋を冷たいものが走った。


「待ってください。私は――」


 言いかけて、凛は止まった。


 今、自分は日本語を話した。


 それなのに、男は凛の言葉を理解したように眉を寄せた。


「何者だ」


 低い声。


 聞いたことのない言葉だった。


 英語でもない。


 ノルウェー語でもない。


 なのに、その意味だけは不思議なほど自然に頭へ入ってくる。


 黒い石に刻まれていた文字と同じだった。


「……旅をしていました」


「この森でか?」


「いえ。さっきまでは別の場所にいて……」


 言葉にしながら、凛自身が混乱する。


 見張り塔。


 黒い石。


 読めないはずの文字。


 そして、触れた瞬間に消えた景色。


 そんな話をしたところで信じてもらえるとは思えない。


「武器を持っているか」


「持っていません」


「その鞄を置け」


 凛は一瞬ためらった。


 中には財布もパスポートも入っている。


 もっとも、今の状況でパスポートが役に立つのかさえ分からない。


「危険なものは入っていません」


「置け」


 男の声が強くなる。


 逆らう理由はなかった。


 凛はゆっくりとショルダーバッグを地面に置いた。


 そのときだった。


「待て」


 別の声がした。


 静かな声だった。


 大きくもない。


 それなのに、ほかの男たちが一斉に動きを止めた。


 凛は声のした方を見る。


 一団の少し後ろにいた男が、ゆっくりと馬を進めてきた。


 黒に近い濃紺の外套。


 装飾はほとんどない。


 ほかの者と比べても、ひときわ華美な服装ではなかった。


 それでも、彼が前へ出てきただけで周囲の空気が変わった。


 長身の男だった。


 馬上にいても分かるほど肩幅が広く、外套の下には無駄のない身体がある。


 年齢は三十代後半だろうか。


 濃いアッシュブラウンの髪は襟足にかかる程度で、雨に濡れて額へ少し落ちていた。


 そして目。


 灰色と青のあいだ。


 冬の海を思わせる、冷たい灰青色。


 整った顔立ちだった。


 けれど、華やかな王子のような印象ではない。


 高い鼻梁。


 直線的な眉。


 しっかりとした顎。


 黙っているだけで、人を寄せつけない何かがある。


 凛は男を見つめた。


 そして、無意識に眉を寄せた。


 顔色が悪い。


 雨のせいだけではない。


 目の下には濃い影が落ち、白目には細い血管が浮いている。


 顔は少し痩せていた。


 それだけなら、疲れている人間はいくらでもいる。


 だが、馬上にいながら身体の力が抜けていない。


 呼吸もやや浅い。


 男が姿勢を変えた瞬間、右脇腹をかばうような動きをした。


 古傷でもあるのだろうか。


「何を見ている」


 男が言った。


 凛は我に返った。


「……すみません」


「質問に答えろ」


 灰青色の目が、まっすぐ凛を捉えている。


「あなたの顔を見ていました」


 周囲の男たちがざわついた。


 言ってから、凛も少し後悔した。


 初対面の武装した男に言う言葉ではない。


 だが男は怒らなかった。


「顔?」


「職業柄、つい」


「職業?」


「医者です」


 空気が変わった。


「医者?」


 男の一人が聞き返した。


 別の男が怪訝そうに凛を見る。


「女が?」


 凛は思わずそちらを向いた。


「女でも医者にはなれます」


 反射的に返していた。


 しまった、と思ったときには遅い。


 だが、目の前の男の口元がほんのわずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


「変わった女だ」


「初対面でよく言われるほどではありません」


 今度は、男の灰青色の目にわずかな興味が浮かんだ。


「名は」


「高瀬凛です。凛で構いません」


「リン」


 男が確かめるように繰り返す。


 知らない言葉で呼ばれているはずなのに、自分の名前だけはそのまま聞こえた。


「あなたは?」


 そう尋ねた瞬間、周囲の空気が張りつめた。


「無礼な」


 先ほど剣に手をかけた男が声を上げる。


「いい」


 目の前の男が、それを制した。


「今は名乗る必要はない」


「……そうですか」


 ずいぶん秘密主義らしい。


 凛はそれ以上聞かなかった。


 それよりも、どうしても気になる。


 もう一度、男の顔を見る。


 目の下の影。


 浅い呼吸。


 ぴんと張ったような身体。


 長く疲労が続いている人間の顔だ。


「失礼ですが」


「まだ何かあるのか」


「あなた、最後にまともに眠ったのはいつですか?」


 一瞬。


 雨の音だけが残った。


 周囲にいた男たちの表情が変わる。


 まるで、凛が触れてはいけないことに触れたようだった。


「なぜ、そう思う」


 目の前の男だけは静かだった。


「顔色がよくありません。目も充血していますし、かなり疲れているように見えます」


 凛は男をまっすぐ見た。


「もちろん、見ただけで原因までは分かりません。だから聞いています」


「眠っている」


「どのくらいですか?」


「必要なだけだ」


「それでは分かりません」


 周囲の男たちが、また息を呑んだ。


 凛には気づいていなかった。


 患者に話を聞くときと同じ調子になっている。


「一晩に何時間くらい?」


 男はしばらく黙っていた。


「……二時間ほどだ」


 凛の表情が変わった。


「毎晩?」


「それより短いこともある」


「全く眠れない夜も?」


「ある」


「いつからですか?」


 男は答えなかった。


 凛は眉を寄せる。


「それは、放っておいていい状態ではありません」


「死ぬのか」


「今すぐどうこうという話ではありません」


 凛は少し考えた。


「でも、眠れない状態が長く続けば、身体にも判断力にも影響します。何より、今かなりつらいでしょう」


 男の瞳が、わずかに揺れた。


 初めてだった。


 彼の表情に、人間らしい隙が見えた気がした。


「つらい、か」


「違いますか?」


 男は答えなかった。


「治せるのか」


「まだ診てもいないのに、治せますなんて言えません」


 凛は即答した。


「でも、なぜ眠れないのかを探すことはできます」


「宮廷の治療師は、皆、眠らせようとした」


「眠らせることと、眠れない原因を探すことは同じではありません」


 言ってから、凛は引っかかった。


「……宮廷?」


 目の前の男は答えなかった。


 代わりに、横にいた年長の男が口を開いた。


「この女を城へ連れていきましょう」


「城?」


 凛は聞き返した。


 城。


 宮廷。


 剣。


 馬。


 今まで意識しないようにしていたものが、急に一つにつながり始める。


「ちょっと待ってください」


 凛は周囲を見回した。


「ここは、ノルウェーではないんですか?」


 男たちは顔を見合わせた。


「ノル……何だ?」


 年長の男が聞く。


「ノルウェーです」


 誰も知らない顔をしている。


 凛の心臓が、嫌な音を立てた。


「では、ここはどこなんですか」


 今度は、目の前の男が答えた。


「エルグレン王国、北部領だ」


 知らない。


 聞いたこともない。


 世界地図のどこにも、そんな国はない。


「エルグレン……?」


「ああ」


「ヨーロッパの国ですか?」


「ヨーロッパ?」


 その反応で、凛は何も言えなくなった。


 冗談ではない。


 撮影でもない。


 ノルウェーですらない。


 凛の脳裏に、黒い石へ刻まれていた言葉が蘇った。


 ――眠れぬ王が夜を取り戻すとき。


 ――門は再び開く。


 まさか。


 凛は、ゆっくりと目の前の男を見た。


 眠れない男。


 周囲の者が彼の一言で動きを止める。


 彼だけに向けられる、明らかに特別な態度。


「……もしかして」


 そのとき、年長の男が馬を降りた。


 そして深く頭を下げる。


「陛下。これ以上ここに留まるのは危険です。城へお戻りください」


 凛は固まった。


「……陛下?」


 男が凛を見る。


 冷たい灰青色の瞳。


「先ほど、私が何者かと聞いたな」


「……はい」


「アルヴァルド」


 男は静かに名乗った。


「エルグレン王国の王だ」


 雨が、濃いアッシュブラウンの髪を伝って落ちる。


 凛は何も言えなかった。


 黒い石の言葉が、頭の中でもう一度響いた。


 ――眠れぬ王。


 凛はアルヴァルドを見上げた。


 まさか。


 異世界らしき場所へ迷い込んだ直後に、


 その「眠れぬ王」本人に出会うなんて。


 あまりにも出来すぎている。


 けれど目の前の男の疲れ切った目だけは、作り物には見えなかった。

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