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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第2話 北へ、ひとり

第2話 北へ、ひとり


 二週間後。


 凛はノルウェーの冷たい風の中に立っていた。


 空は低い雲に覆われている。


 細かな雨が降ったりやんだりを繰り返し、その向こうには深い森と、灰色の海へ続くフィヨルドが広がっていた。


「……寒い」


 思わず呟いて、凛はチャコールグレーの防水コートの襟を引き上げた。


 九月とはいえ、日本とはまるで違う。


 風が吹くたび、頬を刺すような冷たさがある。


 けれど。


 嫌ではなかった。


 むしろ今の凛には、このくらいの冷たさが心地よかった。


 日本を出てから、誠司から何度か連絡が来ていた。


『一度ちゃんと話したい』


『あのまま終わりにするつもりなのか』


 美津子からもメッセージが届いた。


『感情的にならず、一度お話ししましょう』


 どちらにも返事はしていない。


 もう話すことはないと思ったからだ。


 怒りが消えたわけではない。


 傷ついていないわけでもない。


 三年間付き合った。


 結婚するつもりだった。


 そこには確かに、自分が選んだ未来があった。


 ただ。


 あの部屋に戻って、もう一度やり直したいとは思わなかった。


 それだけは、はっきりしていた。


     ◇


 今回の旅行は十日間。


 本来なら、結婚式の準備に使うはずだった休暇だ。


 行き先をノルウェーに決めたのは、亡くなった祖父の影響だった。


 ――一度でいいから、北の海を見てみたいな。


 子どもの頃、祖父がそんなことを言っていた。


 写真集に載っていたフィヨルドを眺めながらだったと思う。


 結局、祖父がこの土地を訪れることはなかった。


 町の小さな診療所を長く続けていた人だった。


 内科を中心に診ながら、漢方も使い、ときには鍼を用いることもあった。


 子どもの頃の凛には、少し不思議な医者に見えた。


 祖父は患者を診るとき、病気のことだけを聞かなかった。


 眠れているか。


 食事は取れているか。


 最近、何か変わったことはないか。


 家族とうまくいっているか。


 そんなことを、よく聞いていた。


『そんなこと聞いて、病気が分かるの?』


 まだ小学生だった凛が尋ねると、祖父は笑った。


『病気だけ診ても、人は治らないことがあるんだよ』


 当時は意味が分からなかった。


 医学部に入っても。


 医師になっても。


 すぐに理解できたわけではない。


 薬を出せばよくなる人がいる。


 検査結果が改善すれば元気になる人もいる。


 けれど。


 薬だけでは、よくならない人がいる。


 病名がついても、その人の苦しさを全部説明できるわけではない。


 そういう患者に出会うたび、凛は祖父の診察室を思い出した。


 初期研修を終え、内科へ進んだ頃からだった。


 凛は自分で漢方について学び始めた。


 さらに少しずつ、鍼治療についても勉強するようになった。


 祖父に教えてもらったからではない。


 祖父がしていたことの意味を、自分で知りたくなったのだ。


 西洋医学を否定したいわけではなかった。


 むしろ逆だ。


 自分は医師だ。


 だからこそ、一つの方法だけでなく、その患者にとって使えるものを増やしたかった。


 祖父が亡くなったあと。


 母から、小さな金属の箱を渡された。


『あなたが持っていたら、おじいちゃんも喜ぶんじゃない?』


 古びた鍼箱だった。


 中身はすでに空になっていた。


 何本もの細い鍼を納めるための溝だけが残っている。


 実用品として使えるものではない。


 それでも凛は捨てられず、ずっと持っていた。


 今回の旅行にも、なぜか持ってきていた。


 祖父が見たかった北の景色を、


 せめてこの箱にだけでも見せてやりたい。


 そんな気持ちだったのかもしれない。


     ◇


 翌日。


 凛は海沿いの小さな町から、さらに北へ向かった。


 観光地として整備された場所から少し離れると、人影は急に少なくなった。


 黒っぽい岩。


 濡れた草。


 風に揺れる低い木々。


 遠くには、薄く雪をかぶった山が見える。


「すごい……」


 凛は立ち止まった。


 日本とは違う。


 写真で見るのとも違う。


 静かだった。


 音がないわけではない。


 風も吹いている。


 波の音もする。


 なのに、不思議なくらい静かだった。


 誠司のことも。


 結婚のことも。


 日本で待っている仕事のことも。


 ほんの少しだけ遠くなった気がした。


 しばらく歩くと、岩場の向こうに古い石造りの建物が見えた。


「……何だろう」


 教会ではない。


 屋根の大半は崩れ、壁だけが残っている。


 かつて海を監視するために使われた塔か、見張り所の跡のようだった。


 案内板らしいものもない。


 観光客の姿もなかった。


 近づくにつれて、空気が変わった気がした。


 気のせいだろう。


 凛はそう思いながら、崩れた石壁の中へ足を踏み入れた。


 雨を吸った石の匂いがする。


 風が壁の隙間を抜けていく。


 そして。


 奥の壁に、一つだけ妙な石が埋め込まれていた。


「……黒い?」


 周囲の石は灰色なのに、それだけがほとんど黒に近い。


 磨かれたように表面が滑らかだった。


 凛は近づく。


 何かが刻まれている。


「文字……?」


 見たことのない文字だった。


 ノルウェー語でもない。


 ルーン文字とも違うように見える。


 当然、読めるはずがない。


 なのに。


 凛がそれを見つめた瞬間。


 意味だけが、頭の中へ流れ込んできた。


 ――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、


 ――門は再び開く。


「……何?」


 凛は一歩下がった。


 今のは何だったのだろう。


 自分で勝手に意味を作った?


 疲れているのだろうか。


 もう一度見る。


 知らない文字。


 なのに。


 やはり分かる。


 眠れぬ王が夜を取り戻すとき、


 門は再び開く。


「王……?」


 凛は眉を寄せた。


 観光客向けの演出だろうか。


 でも、こんな何もない場所で?


 スマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。


 画面が一瞬暗くなる。


「え?」


 電源ボタンを押す。


 画面がつく。


 けれど、時刻表示がおかしい。


 数字が乱れている。


「故障?」


 さっきまで普通に使えていた。


 凛は何度か画面に触れた。


 反応しない。


 そのとき。


 手の中にあった祖父の鍼箱が、かすかに震えた。


「……?」


 気のせいかと思った。


 けれどもう一度。


 微かな振動。


 凛はバッグから鍼箱を取り出した。


 金属の表面が、冷たい。


 それなのに。


 黒い石へ近づけるほど、手のひらにわずかな熱を感じる。


「何これ……」


 普通なら、離れるべきだ。


 自分でもそう思う。


 なのに。


 凛は黒い石から目を離せなかった。


 ――門は再び開く。


 門。


 何の門?


 凛はそっと手を伸ばした。


 あと少し。


 指先が、黒い石へ触れる。


 瞬間。


 ドクン。


 心臓とは違う場所から、鼓動のような音が響いた。


「……っ」


 もう一度。


 ドクン。


 石の奥から聞こえる。


 凛は手を離そうとした。


 離れない。


「え……?」


 黒い石の表面に、細い光が走った。


 一本。


 二本。


 蜘蛛の巣のように広がっていく。


「待って」


 足元が揺れた。


 風が突然強くなる。


 髪が大きく煽られ、凛は目を閉じた。


「何なの、これ……!」


 次の瞬間。


 音が消えた。


     ◇


 どのくらい経ったのか分からない。


 凛は冷たい地面に手をついていた。


「……痛い」


 ゆっくり顔を上げる。


 木々。


 深い森。


 湿った土。


 さっきまでいた石造りの塔は――。


「ない……?」


 凛は振り返った。


 海もない。


 岩場もない。


 あるのは、見たことのないほど深い森だけ。


 スマートフォンを確認する。


 画面は完全に消えていた。


「嘘でしょ……」


 電源が入らない。


 周囲を見回す。


 誰もいない。


 風景はノルウェーに似ている。


 けれど。


 何かが違う。


 木々の種類。


 空気。


 静けさ。


 凛は立ち上がった。


「ここ……どこ?」


 そのときだった。


 遠くから音が聞こえた。


 一定の間隔で。


 少しずつ近づいてくる。


 凛は耳を澄ませる。


 車ではない。


 機械の音でもない。


 地面を叩く、重い音。


 ひとつではない。


 いくつも。


「……馬?」


 次の瞬間。


 森の奥から、


 馬のいななきが響いた。

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