第1話 あなたなら分かるでしょう?
「結婚したら、今までと同じ働き方というわけにはいかないでしょう?」
日比谷の老舗ホテル。
午後のラウンジには、静かなピアノの音と紅茶の香りが漂っていた。
高瀬凛は、向かいに座る女性を見た。
神崎美津子。
婚約者である神崎誠司の母親だ。
今日ここへ呼ばれた理由は、
『結婚前に、一度二人でお話ししておきたいの』
それだけだった。
だから凛も、結婚式や親族への挨拶についての話だろうと思っていた。
「今までと同じ、というと?」
凛が尋ねると、美津子はティーカップを静かに置いた。
「凛さんが医師としてお仕事を大切にしていることは、もちろん分かっているわ」
「はい」
「でも、誠司もこれからますます忙しくなるでしょう?」
誠司は三十二歳。
医師として働きながら、父親が経営する病院グループの後継者として、すでに経営にも関わり始めている。
一方、凛は二十九歳。
初期研修を終えたあと内科へ進み、今も臨床の最前線にいる。
ようやく、自分なりに患者を診るということが分かり始めたところだった。
「神崎の家に入れば、お付き合いも増えるでしょうし、誠司を支えてもらわなければならない場面も増えると思うの」
美津子は穏やかに微笑んでいる。
「ですから、結婚を機に少し勤務を減らすことも考えてほしいのよ」
「勤務を、ですか?」
「ええ」
「それは誠司さんとも話していることですか?」
ほんの一瞬。
美津子の視線が止まった。
「誠司は忙しい人ですから」
答えになっていない。
「私は、結婚後も今の仕事を続けるつもりです」
「もちろん、辞めてほしいなんて言っていないのよ」
「でも、減らしてほしいと」
「家庭とのバランスは必要でしょう?」
「それは誠司さんにも、ですよね」
美津子が黙った。
ほんのわずかな沈黙だった。
けれど、それで十分だった。
求められているのは、二人で生活を調整することではない。
凛が誠司の人生に合わせることだ。
「凛さんなら分かるでしょう?」
その言葉に、凛は眉を寄せた。
「何を、ですか?」
「結婚は、自分のしたいことだけを優先できるものではないということよ」
声は柔らかい。
表情も穏やかだ。
けれど不思議なことに、その言葉の中には凛の意思だけがなかった。
結婚したら仕事を減らす。
誠司を支える。
神崎家の付き合いをする。
いずれ家庭を持つ。
すべて、もう決まっていることのように聞こえた。
テーブルの上で、スマートフォンが震えた。
誠司からだった。
『急患が入った。遅くなる。悪いけど、今日は先に帰ってて』
今夜は二人で食事をする約束だった。
「誠司さん、急患が入ったそうです」
何気なく口にした。
その瞬間。
美津子の指が止まった。
本当に、一瞬だけ。
「そう」
それだけだった。
凛はスマートフォンを見る。
「今日、外来でしたよね」
「そうだったかしら」
「はい」
もちろん、外来中に急患対応を頼まれることはある。
医師なのだから、予定どおりに仕事が終わらないことなど珍しくない。
なのに。
何かが引っかかった。
凛は内科医だ。
患者の言葉だけではなく、
表情。
声。
返事をするまでの間。
そんな小さな違和感を拾うのも仕事の一つだった。
美津子は、何かを知っている。
そんな気がした。
◇
ホテルを出ても、その違和感は消えなかった。
誠司のマンションへ向かったのは、問い詰めるためではない。
冷蔵庫に作り置きしておいた料理があったからだ。
急患対応なら、帰宅は遅くなる。
せめて食べるものくらい用意しておこう。
本当に、それだけのつもりだった。
午後八時を少し過ぎた頃。
マンションのエレベーターを降りた凛は、廊下の途中で足を止めた。
誠司の部屋。
灯りがついている。
「……?」
予定より早く帰れたのだろうか。
凛はスマートフォンを取り出し、誠司へ電話をかけた。
数秒後。
すぐ近くから着信音が聞こえた。
扉の向こう。
凛の指が止まる。
呼び出し音は続いた。
やがて切れる。
少しして、メッセージが届いた。
『まだ病院。あとで連絡する』
凛は画面を見つめた。
胸の奥が、静かに冷えていく。
「……そう」
怒りより先に、頭が冷えた。
凛はインターホンを押した。
返事はない。
もう一度押す。
長い沈黙のあと。
扉が開いた。
「凛……?」
誠司が立っていた。
シャツの一番上のボタンが外れている。
そして、その後ろ。
玄関には見覚えのない女性ものの靴があった。
リビングの奥から、一人の女性がこちらを見ている。
二十代半ばくらいだろう。
凛は誠司を見る。
「急患は?」
「……話をしよう」
「今ここで?」
「凛」
誠司の声を聞きながら、凛はもう一度、女性を見る。
「いつから?」
「何が」
「この人とのこと」
誠司が黙った。
その沈黙だけで十分だった。
「……半年くらいだ」
「半年」
自分で繰り返した声が、妙に遠く聞こえた。
「お母さまも知ってるの?」
今度は、もっと長い沈黙。
「……知っている」
ホテルで感じた違和感が、ようやく一本につながった。
「なるほど」
「凛、聞いてくれ」
「聞いてる」
「こんな形にするつもりじゃなかった」
「半年間?」
「そういう意味じゃない」
誠司は額へ手を当てた。
「僕だって、ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「結婚したあとのことだよ」
凛は黙っている。
「僕はこれから病院を背負うことになる」
「知ってる」
「今までみたいに、医者として働いていればいいだけじゃない。家の付き合いもある。経営のこともある。家庭だって――」
「それで?」
誠司は一瞬、後ろの女性を見る。
そして凛へ視線を戻した。
「彼女は、僕の仕事や家の事情を理解してくれる」
その言葉を聞いた瞬間。
凛の中で、何かがすっと切れた。
「……そっか」
「凛?」
「やっと分かった」
「何が?」
「あなたが欲しかったもの」
凛は左手を見る。
薬指には、婚約指輪。
三か月前。
誠司が選び、凛の指にはめたものだ。
凛はそれを外した。
「あなたが欲しかったのは、妻じゃなかったんだね」
「何を言ってる」
「あなたの人生に合わせてくれる人」
指輪を、誠司の手のひらへ置いた。
「そんな言い方をするな」
「違う?」
「君だって医者なら分かるだろう。結婚は好きだっていう気持ちだけじゃ成り立たない」
「分かるよ」
凛は静かに遮った。
「だから、他の人を選びたいなら、それはあなたの選択だと思う」
「だったら――」
「でも」
凛は誠司を見る。
「その選択に、私を使わないで」
誠司が黙る。
「私が仕事を大事にしたから」
一つ。
「神崎家に合わせなかったから」
もう一つ。
「だからあなたが仕方なく別の女性を選んだみたいに言わないで」
「凛」
「半年間、私に黙っていたのはあなたでしょう?」
「……」
「お母さままで知っていた」
思わず笑いそうになった。
「今日、私は何も知らないまま、結婚したら勤務を減らして、あなたを支えてほしいって言われた」
誠司は目を逸らした。
その瞬間。
凛の中で何かが完全に終わった。
「あなたの人生から、私は降りる」
「待ってくれ」
「待たない」
「結婚式だって、もう準備が進んでる」
「キャンセルすればいい」
「そんな簡単な話じゃない」
「私には簡単だよ」
凛は一歩下がった。
「結婚しない」
「凛」
「もう決めたから」
「少し冷静になれ」
その言葉に、初めて少しだけ腹が立った。
「十分冷静だよ」
凛は誠司を見る。
「だから、ここで終わりにできる」
そして小さく息を吸う。
「さようなら、誠司」
扉が閉じる。
廊下に一人になった瞬間。
凛は壁へ手をついた。
脚から力が抜けそうだった。
平気なわけではない。
三年間付き合った。
結婚するつもりだった。
好きだった。
未来だって、何度も想像した。
胸は痛い。
悔しい。
情けない。
それでも。
あの部屋へ戻りたいとは思わなかった。
◇
二週間後。
凛は飛行機の窓から、眼下に広がる雲を眺めていた。
もともと取っていた十日間の休暇。
本来なら、結婚式の準備に使うはずだった。
全部キャンセルして、自宅に閉じこもることもできた。
けれど、それは嫌だった。
二十九歳。
婚約がなくなったからといって、
自分の人生までなくなったわけではない。
そう思いたかった。
だから、一人で旅行することにした。
行き先は、ノルウェー。
生前、祖父が一度行ってみたいと言っていた場所。
深い森。
切り立った山。
海へ続くフィヨルド。
そして、北の空。
祖父は町の医師だった。
西洋医学だけでなく、漢方や鍼にも関心のある人だった。
子どもの頃の凛には、その診療が少し変わって見えた。
症状だけではなく、
何を食べたのか。
眠れているのか。
何か心配事はないのか。
そんなことばかり聞いていたからだ。
――病気だけ診ても、人は治らないことがあるんだよ。
祖父がよく言っていた。
その意味が分かるようになったのは、自分も医師になってからだった。
凛は窓の外を見る。
雲の向こうに、北の大地が近づいている。
少し遠くへ行けば、
何かが変わる気がしたわけではない。
ただ。
今まで自分が選ばなかった場所へ行ってみたかった。
このときの凛は、まだ知らなかった。
北の果てで待っているものが、
失恋を癒やすための旅などではなく。
自分の世界そのものを変える扉だということを。




