第10話 患者ではない夜
アルヴァルドの眠りは、少しずつ伸びていた。
六時間眠れた翌日は四時間。
その次は五時間ほど。
毎晩同じように眠れるわけではない。
それでも、一晩中まったく眠れない夜はなくなった。
「順調ですね」
凛が言うと、アルヴァルドは少し不満そうな顔をした。
「昨日は途中で二度目が覚めた」
「それでも、また眠れたんでしょう?」
「ああ」
「だったら十分です」
「お前は基準が甘いな」
「逆です」
凛はアルヴァルドの手首から指を離した。
「一度眠れたからって、毎日完璧に眠らなきゃいけないと思い始めるほうがよくないです」
「眠ることまで考えなければならないのか」
「考えすぎないために、考えるんです」
「分かりにくい」
「私も言ってて、ちょっと分かりにくいと思いました」
アルヴァルドの口元がわずかに緩む。
こういう表情が増えた。
森で初めて会ったときには、冷たい灰青色にしか見えなかった瞳も、今は少し違って見える。
冷たいというより、静か。
そう思った自分に気づき、凛は視線を逸らした。
「今日は鍼はしません」
「なぜだ」
「毎日やればいいわけではないので。それに、今日は痛みもそれほど強くないでしょう?」
「ああ」
「北葉茶も?」
「夕方以降は飲んでいない」
「仕事は?」
「減らしている」
「偉いです」
「またそれか」
「褒められるの嫌いですか?」
「子どものように扱われるのが嫌なだけだ」
「では、よくできました」
「リン」
低い声で名前を呼ばれた。
凛は笑った。
◇
治療を終え、凛が道具を片づけていると、窓の外に白い光が見えた。
「……雪?」
「違う」
アルヴァルドが立ち上がる。
「来るか」
「どこへ?」
「外だ」
「今から?」
「嫌ならいい」
「そう言われると気になります」
凛は上着を羽織った。
アルヴァルドが案内したのは、城の北側にある石造りの回廊だった。
外へ出た瞬間、冷たい空気が頬を刺す。
「寒っ」
「だから言った」
「寒いとは聞いてません」
「北の国だ」
「それは知ってます」
凛は両腕を抱えた。
そのとき、アルヴァルドが自分の外套を外した。
「着ろ」
「え?」
「震えている」
「大丈夫です」
「大丈夫という言葉を、お前は使わないことにしたのではなかったか」
返す言葉がない。
「……覚えてるんですね」
「お前が何度も言うからな」
アルヴァルドは凛の肩へ外套を掛けた。
思ったより重い。
そして温かい。
「アルヴァルドは?」
「慣れている」
「それこそ大丈夫って言ってるのと同じでは?」
「私は北の人間だ」
「便利な言葉ですね」
今度はアルヴァルドが笑った。
「お前に言われたくない」
二人は回廊の先へ進んだ。
やがて屋根のない場所へ出る。
凛は足を止めた。
「……わあ」
夜空いっぱいに、淡い光が揺れていた。
緑とも青とも言えない光の帯。
ゆっくりと形を変えながら、暗い空を流れていく。
「オーロラ……」
「オーロラ?」
「私の世界では、こういう光をそう呼ぶんです」
「こちらでは“北天の幕”と呼ぶ」
「きれい」
凛は空を見上げた。
ノルウェーで見られたらいいと思っていた。
けれど、結局見ることはなかった。
まさか異世界で見るとは思わなかった。
「おじいちゃんにも見せたかったな」
無意識に言葉が漏れた。
「祖父か」
「はい」
凛は驚いてアルヴァルドを見る。
「覚えてたんですか?」
「金属の箱の持ち主だろう」
「ああ」
祖父の鍼箱。
「医者だったんです。私が医者になったきっかけでもあります」
「お前に針を教えたのか」
「直接ではありません」
凛は空を見たまま答えた。
「祖父が亡くなったあと、自分で勉強しました。でも、たぶん原点は祖父ですね」
「どんな医者だった」
「よく話を聞く人でした」
「お前と同じだな」
凛は少し笑った。
「昔は、遠回りな診察をする人だと思ってたんですけどね」
「今は?」
「人を診てたんだと思います」
アルヴァルドはしばらく何も言わなかった。
光が二人の頭上をゆっくり流れていく。
「リン」
「はい?」
「お前は、なぜ医者を続けている」
思いがけない質問だった。
「なぜって……」
「大変なのだろう」
「大変ですよ」
「眠れず、食事も忘れ、自分のことは後回しにする」
「それ、最近の私だけ見てません?」
「違うのか」
凛は答えに詰まった。
「……似たようなものかもしれません」
「なら、なぜだ」
凛はしばらく考えた。
「好きなんだと思います」
「仕事が?」
「人が元気になるのを見るのが」
口にしてから、少し照れくさくなった。
「きれいごとみたいですけど」
「そうは聞こえない」
「救えない人もいました」
凛の声が少しだけ低くなる。
「何をしても駄目だったこともあります。もっと早く気づけばよかったとか、あのとき別の方法があったんじゃないかとか。ずっと考えることもある」
「それでも続ける?」
「はい」
「なぜ」
凛は少し笑った。
「たぶん、それでも次の人が来るからです」
アルヴァルドが凛を見る。
「患者が?」
「そう」
そして凛も彼を見る。
「だから、アルヴァルドもちゃんと治します」
「帰るために?」
その問いに、凛の笑顔が止まった。
黒い石。
――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、門は再び開く。
「……それもあります」
「それも?」
凛は少し考えてから答えた。
「医者だからです」
「また便利な言葉を使ったな」
「便利なんですよ」
アルヴァルドは何も言わなかった。
◇
しばらくして、二人は回廊を歩き始めた。
城内へ戻るつもりだった。
その途中。
遠くで何かが落ちる音がした。
木箱か何かだろう。
乾いた、大きな音。
その瞬間。
アルヴァルドが止まった。
「アルヴァルド?」
返事がない。
身体が固まっている。
右手が、無意識に腰へ伸びていた。
今は剣を持っていない。
それでも、あるはずの柄を探すような動きだった。
呼吸が浅くなる。
「アルヴァルド」
凛はもう一度呼んだ。
灰青色の目が、凛ではないどこかを見ている。
「大丈夫」
言いかけて、凛はやめた。
大丈夫ではない。
だから別の言葉を選んだ。
「ここは城です」
反応がない。
「今は夜です。外には誰もいません」
凛は彼に触れず、少し離れた場所から声をかけた。
「私がいます」
アルヴァルドの視線が、ゆっくり凛へ戻る。
数秒。
呼吸が少しずつ深くなる。
「……すまない」
「謝らなくていいです」
「今のは」
「聞きません」
アルヴァルドが凛を見る。
「なぜ」
「話したくなったら話してください」
以前と同じ答えだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがてアルヴァルドが低い声で言った。
「三年前」
凛は黙っている。
「国境の戦で、夜襲を受けた」
冷たい風が回廊を抜ける。
「私が眠っている間だった」
アルヴァルドの声には感情がほとんどない。
だからこそ、凛は何も挟まなかった。
「目を覚ましたときには、陣の半分が燃えていた」
彼の右手がゆっくり握られる。
「多くの兵を失った」
「……」
「私の近くにいた者も」
アルヴァルドはそこで言葉を止めた。
凛は続きを待った。
「それからだ」
「眠れなくなったのは?」
「ああ」
「眠ると?」
「火の音がする」
淡々とした声。
「目を閉じれば、あの夜に戻る」
凛はようやく、不眠の輪郭が見えた気がした。
古傷。
夜まで続く仕事。
覚醒を促す茶。
そして。
眠ることそのものが、安全ではなくなった身体。
「だから、眠らないようにしていたんですね」
「最初はな」
「仕事を増やした?」
「ああ」
「北葉茶も」
「眠らなければ、あの夜を見ずに済む」
「……そうですね」
凛は否定しなかった。
理屈では間違っていても。
そのときの彼には、それが生き延びる方法だったのだろう。
「でも、三年続ける方法ではなかった」
アルヴァルドが凛を見る。
「責めるのか」
「いいえ」
凛は首を横に振った。
「生き延びるために必要だったことが、今は身体を苦しめているだけです」
「それを治せるか」
「分かりません」
「やはり、そう言うのだな」
「でも」
凛は彼を見る。
「一人でどうにかしなくていい方法は、探せると思います」
アルヴァルドは黙った。
その言葉を、何か確かめるように。
◇
城内へ戻る分かれ道で、凛は立ち止まった。
「では、今日はここまで」
「治療は?」
「もう終わっています」
「何もしていない」
「話を聞きました」
「それが治療なのか」
「治療の一部です」
凛は肩に掛けていた外套を外そうとした。
その手を、アルヴァルドが止める。
「着ていろ」
「でも部屋まですぐです」
「冷えている」
「アルヴァルドのほうが――」
「私は慣れている」
「またそれ」
凛は笑った。
「では、お借りします」
「ああ」
凛が歩き出そうとすると、
「リン」
呼び止められた。
「はい?」
アルヴァルドは少しだけ迷っているように見えた。
「今夜は」
言葉が途切れる。
「今夜は?」
「もう少し、ここにいてもいいか」
凛は目を瞬いた。
「治療ですか?」
「違う」
アルヴァルドの答えは早かった。
灰青色の瞳が凛を見る。
「今は、患者として頼んでいるのではない」
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
「では、何として?」
聞いてから、凛は少し後悔した。
アルヴァルドもすぐには答えなかった。
やがて。
「……アルヴァルドとしてだ」
凛は何も言えなかった。
王でもなく。
患者でもなく。
ただ、一人の男として。
「分かりました」
凛はもう一度、彼の隣へ戻った。
「少しだけですよ」
「ああ」
二人は並んで、もう一度夜空を見上げた。
北天の幕が、静かに揺れている。
凛は肩に掛けていた外套を脱いだ。
「ありがとうございました」
アルヴァルドはそれを受け取り、何も言わず自分の肩へ戻した。
その夜。
凛は初めて、
眠れない北の王ではなく、
アルヴァルドという一人の男の隣にいた。




