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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第11話 その男のところへ帰るのか


 翌朝。


 アルヴァルドは、昨日より少しだけ穏やかな顔をしていた。


「眠れました?」


「ああ」


「どのくらい?」


「五刻ほど」


「途中で目は?」


「一度」


「夢は?」


 アルヴァルドの視線がわずかに止まる。


「見た」


「戦の夢?」


「ああ」


 凛はそれ以上、すぐには聞かなかった。


「目が覚めたとき、どこにいるか分かりました?」


「最初は分からなかった」


「そのあと?」


「窓を見た」


「窓?」


「お前が言っただろう。今いる場所を確かめろと」


 凛は少し驚いた。


 昨夜、物音に反応して動けなくなったアルヴァルドへ、


 ――ここは城です。


 ――今は安全です。


 そう繰り返した。


「それで?」


「城だった」


 凛は思わず笑った。


「よかったです」


「当たり前だろう」


「その当たり前を、身体に思い出してもらうんです」


「そのあと、もう一度眠った」


 凛の表情が明るくなる。


「それはかなりいい変化ですよ」


「そうなのか」


「はい」


 一度悪夢で目覚めても、再び眠れた。


 それは単に睡眠時間が延びたことより、凛には大きく思えた。


「今日は鍼はしません」


「そうか」


「残念そうですね」


「眠れるなら、悪くはない」


「必要なときだけにします」


 アルヴァルドは素直に頷いた。


 最初の頃なら、もう少し何か言っただろう。


 治療を始めてからまだそれほど経っていない。


 それでもこの人は少しずつ、凛に身体を預けるようになっていた。


     ◇


 診察を終え、凛が道具を片づけていると、アルヴァルドが尋ねた。


「リン」


「はい?」


「元の世界では、一人で暮らしていたのか」


「そうです」


「家族は?」


「両親はいます。離れて暮らしていますけど」


「突然いなくなったお前を探しているだろうな」


「……たぶん」


 そのことを考えると、胸が痛む。


 こちらと日本で、同じように時間が流れているのかさえ分からない。


「帰りたいか」


 以前も聞かれた質問だった。


「帰りたいです」


 今回は、素直に答えた。


「仕事もあります。家族もいるし」


 アルヴァルドは静かに聞いている。


「それに、突然消えたままなのは嫌です」


「ああ」


 短い返事。


 それから、ほんの少し間があった。


「……他には?」


「他?」


「お前を待っている者だ」


 凛は首を傾げる。


 しばらく考えて、ようやく意味に気づいた。


「ああ。結婚してるかってことですか?」


 アルヴァルドの視線がわずかに逸れた。


「そこまでは聞いていない」


「でも、気になったんでしょう?」


「……」


 凛は少し笑った。


「してません」


「そうか」


 返事が妙に早い。


「でも、婚約はしてました」


 アルヴァルドの表情が止まった。


「婚約?」


「はい」


「今も?」


「いいえ。こちらへ来る少し前に別れました」


 しばらく沈黙。


「なぜだ」


「他に女性がいたので」


 アルヴァルドの灰青色の瞳が細くなる。


「婚約していながら?」


「はい」


「それを隠していた?」


「半年くらい」


 低い息が落ちた。


「理解できない」


「アルヴァルドが怒ることじゃないですよ」


「怒ってはいない」


「顔が怒ってます」


「……そう見えるだけだ」


 明らかに機嫌が悪い。


 凛は少し可笑しくなった。


「もう終わったことです」


「お前はそうなのだろう」


「はい」


「なら」


 アルヴァルドが凛を見る。


「門が開いたら、その男のところへ帰るのか」


 凛は瞬いた。


「誠司のところへ?」


「そういう名なのか」


「はい。でも、帰りません」


 今度は迷わなかった。


「もう終わった人です」


「そうか」


 また。


 返事が早い。


 しかも今度は、ほんの少しだけ表情が緩んだ。


 凛はじっとアルヴァルドを見る。


「……安心しました?」


「何がだ」


「私が元婚約者のところへ戻らないって聞いて」


「していない」


「しましたよ」


「していない」


「医者って、人の顔を見る仕事なんですけど」


「それとこれは関係ない」


 凛は笑った。


 そこでふと、思う。


「じゃあ、アルヴァルドは?」


「私?」


「結婚してないんですか?」


 今度はアルヴァルドが黙った。


「三十七歳でしたよね」


「ああ」


「王様でしょう?」


「ああ」


「……なのに?」


「随分遠慮がなくなったな」


「今さらです」


 アルヴァルドは小さく息を吐いた。


「していない」


「婚約も?」


「ない」


「王妃候補は?」


「候補なら、何度も名前は挙がっている」


「やっぱり」


「だが決めていない」


「どうして?」


 アルヴァルドは少しだけ窓の外を見る。


「二十代の終わりから、北の国境が不安定になった」


 凛は黙って聞く。


「戦が続いた。終われば考えるつもりだった」


「それで三年前に、あの夜襲があった」


「ああ」


「戦が終わってからも?」


「国を立て直す必要があった」


 さらに、自分自身は眠れなくなった。


 毎夜仕事をし、身体も心も休めないまま。


 結婚どころではなかったのだろう。


「宮廷の人たちは何も言わないんですか?」


「言う」


「やっぱり」


「かなり言う」


 凛は思わず笑った。


「王様も大変ですね」


「他人事だな」


「他人なので」


「そうだったな」


 アルヴァルドの口元がわずかに上がる。


「でも、跡継ぎは?」


 凛が尋ねる。


「今は叔父の息子が第一継承者だ」


「では、すぐにアルヴァルドに子どもがいないと国が困るわけではない?」


「すぐにはな」


「でも、いずれは結婚しないといけない」


「ああ」


 その返事だけは、王のものだった。


「王妃は政治で決めるんですか?」


「場合による」


「好きな人じゃなくても?」


 アルヴァルドは少し黙った。


「王である以上、私の意思だけでは決められないこともある」


 凛は、思っていたより胸に引っかかるものを感じた。


 アルヴァルドは王だ。


 分かっていたはずなのに。


 この人にも、この人自身だけでは選べない人生がある。


「……そうなんですね」


「何だ、その顔は」


「別に」


「お前の『別に』も信用していない」


「それ、私の真似ですか?」


「お前が教えた」


 凛は苦笑する。


 少し迷ってから、もう一つ聞いた。


「王妃以外は?」


「何の話だ」


「その……側室とか」


 アルヴァルドは一瞬、意味が分からないという顔をした。


「この国に側室という制度はない」


「あ、そうなんだ」


「王妃は一人だ」


「へえ」


「なぜそんなことを聞く」


「異世界の王様なので、そういうのがあるのかなって」


「お前の中で、王はどういう生き物なのだ」


「偏見でした。すみません」


 凛は笑った。


 そこでやめておけばよかった。


 なのに、口が滑った。


「じゃあ、愛人は?」


 沈黙。


 言ってから凛は固まった。


「……ごめんなさい。今のなしで」


「いない」


「え?」


「聞いたのはお前だろう」


「答えるんですか?」


「答えろという顔をしていた」


「してません」


「していた」


 アルヴァルドは平然としている。


 凛のほうが妙に居心地が悪くなった。


「では」


 今度はアルヴァルドが言う。


「なぜ安心した」


「え?」


「今、少し安心しただろう」


 凛が固まった。


「してません」


「した」


「してません」


「顔に出ている」


「それ、私の台詞です」


「なるほど。便利だな」


 凛は言葉に詰まった。


 確かに。


 一瞬だけ、ほっとした。


 王妃はいない。


 婚約者もいない。


 愛人もいない。


 だから何だというのだ。


 自分には関係ない。


 そう思うのに。


「……ただの興味です」


「そうか」


 アルヴァルドの声には、少しだけ笑いが混じっていた。


「何ですか」


「何でもない」


「その『何でもない』も信用しませんよ」


「なら、お互い様だな」


 凛はため息をついた。


 そして道具をまとめて立ち上がる。


「では、今日はこれで終わりです」


「ああ」


「ちゃんと休んでください」


「分かった」


「北葉茶も夕方からなし」


「ああ」


「仕事も――」


「リン」


「はい?」


「私のことばかりだな」


「患者ですから」


「では、お前は?」


 昨日と同じ問いだった。


「ちゃんと休みます」


「食事は?」


「食べます」


「ならいい」


 凛は扉へ向かった。


「リン」


 呼ばれて振り返る。


 アルヴァルドは少しだけ迷ってから口を開いた。


「その男に未練は、本当にないのか」


 凛は彼を見る。


 今度は笑わなかった。


「ありません」


「そうか」


「はい」


 一瞬。


 灰青色の瞳が、柔らかくなった。


 そして凛は、気づいてしまった。


 自分もさっき、


 アルヴァルドに誰もいないと知ったとき、


 きっと同じ顔をしていた。


     ◇


 部屋を出たあと。


 凛は廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。


 何を話しているのだろう。


 患者の睡眠を診に行ったはずなのに。


 元婚約者の話をして。


 アルヴァルドの結婚事情を聞いて。


 愛人がいるかまで聞いてしまった。


「……最悪」


 思い出すだけで恥ずかしい。


 でも。


 もっと困ることが一つあった。


 愛人はいない。


 そう聞いた瞬間。


 自分が確かに、少しだけ嬉しかったことだ。


 一方。


 執務室に残ったアルヴァルドは、机の上の書類へ目を落とした。


 けれど、文字が頭に入らない。


 ――もう終わった人です。


 凛の言葉を思い出す。


 その男のところへは戻らない。


 それを聞いて、自分が安堵した。


 理由はまだ、認めたくなかった。


 だが。


 少なくとも一つだけは分かっている。


 凛に婚約者がいたと聞いた瞬間。


 胸の奥に生まれたものは、


 決して愉快な感情ではなかった。

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