第12話 私は今も、お前には患者か
それから数日。
アルヴァルドの眠りは、少しずつ安定していた。
毎晩同じように眠れるわけではない。
悪夢を見る夜もある。
それでも、夜が明けるまで一度も眠れない日はなくなった。
だから凛は、その日もいつものように治療道具を持ってアルヴァルドの部屋を訪れた。
「失礼します」
「ああ」
アルヴァルドは窓辺に立っていた。
いつもの執務用の服ではなく、黒に近い濃紺の上着を羽織っている。
机の上にも、普段のような書類の山はなかった。
凛は首を傾げた。
「今日は早いですね」
「何がだ」
「仕事を切り上げるのが」
「お前が減らせと言った」
「ちゃんと守ってるんですね」
「褒めるな」
「はいはい」
凛は道具を置いた。
「では、今日は――」
「いらない」
「え?」
「治療はしなくていい」
凛の手が止まった。
「具合が悪いんですか?」
「なぜそうなる」
「治療しなくていいって言うから」
「今日は必要ないと思っただけだ」
「それを患者さんが勝手に決めないでください」
「では診ろ」
「ほら」
凛が椅子を引こうとすると、
「リン」
低い声に止められた。
「はい?」
「そうではない」
アルヴァルドは少しだけ言葉を探すように黙った。
「今日は、お前を治療師として呼んだのではない」
凛は瞬いた。
「では、どうして?」
「食事をする」
「……誰が?」
「私とお前が」
「どうして?」
アルヴァルドの眉がわずかに寄った。
「食事をするのに、理由が必要なのか」
「王様と専属治療師なら必要な気がします」
「なら、今は専属治療師ではない」
「え?」
「仕事は終わりだ」
凛はますます分からなくなった。
アルヴァルドが小さく息を吐く。
「随分察しの悪い女だな」
「何ですか、それ」
「私が、お前と食事をしたい」
凛は黙った。
今度こそ、本当に言葉が出なかった。
「……治療のためではなく?」
「ああ」
「食事内容を見るためでもなく?」
「ああ」
「睡眠に影響するとか――」
「リン」
「はい」
「黙って来い」
声はいつも通り落ち着いている。
けれど、少しだけ耳が赤いように見えた。
凛はそれ以上聞くのをやめた。
「……分かりました」
◇
連れて行かれたのは、王の食堂ではなかった。
城の西側。
普段ほとんど使われていないという、小さな部屋だった。
大きな窓の向こうには湖が見える。
その先には黒い森と、白く雪をかぶった山。
暖炉には火が入り、二人分の食事が用意されていた。
「こんな場所あったんですね」
「祖母が好んで使っていた」
「王妃様?」
「祖母は王妃だった」
「あ、そうか」
アルヴァルドが椅子を引く。
凛は一瞬止まった。
「どうした」
「いえ」
「座らないのか」
「座ります」
王に椅子を引かれることには、まだ慣れない。
料理は温かい魚料理に、根菜の煮込み、焼いたパン。
飲み物は、見覚えのある薬草茶だった。
凛はカップを見る。
「北葉茶じゃない」
「当たり前だ」
「確認です」
「お前は私を信用していないのか」
「患者さんは油断するとすぐ元に戻るので」
「今日は患者ではないと言っただろう」
凛の手が止まった。
そうだった。
「では」
アルヴァルドが凛を見る。
「お前も今日は、医者をやめろ」
「無理です」
「即答か」
「医者は仕事が終わったら医者じゃなくなるわけじゃないので」
「面倒だな」
「誰の治療師ですか」
「私のだ」
迷いのない返事だった。
なぜか、その言い方に胸が小さく跳ねた。
凛は誤魔化すようにパンをちぎった。
◇
食事をしながら話したのは、病気のことではなかった。
凛が日本で好きだった食べ物。
アルヴァルドが子どもの頃、城を抜け出して湖へ行ったこと。
凛が祖父と過ごした時間。
アルヴァルドが雪の夜を嫌いではないこと。
「意外」
「何がだ」
「王様って、もっと馬に乗って颯爽としてるのが好きなのかと思ってました」
「お前の王に対する偏見はどこから来る」
「物語?」
「物語の王と一緒にするな」
凛は笑った。
アルヴァルドも、ほんの少し笑う。
その顔を見て。
凛はふと気づいた。
最初に森で会った男とは、まるで違う。
目の下の濃い影。
張りつめた肩。
いつでも周囲を警戒していた灰青色の瞳。
それが今は。
「何だ」
「え?」
「ずっと見ている」
凛は慌てて視線を外した。
「顔色を見てただけです」
「また医者か」
「癖です」
「便利だな」
「便利ですよ」
以前にもした会話。
でも今日は、なぜか同じには感じなかった。
◇
食事が終わると、アルヴァルドが立ち上がった。
「少し歩くか」
「外ですか?」
「ああ」
「寒そう」
「だから用意した」
「何を?」
アルヴァルドが扉の外へ視線を向ける。
使用人が、一着の外套を持って入ってきた。
深い青緑色。
装飾はほとんどない。
でも、生地は厚く、見るからに暖かそうだった。
「これ……?」
「お前のだ」
凛は目を瞬いた。
「私の?」
「ああ」
「どうして」
「先日、私の外套を貸しただろう」
あの夜。
北天の幕を見た帰り。
寒さに震えていた凛へ、アルヴァルドが自分の外套を掛けた。
かなり大きく、裾を踏みそうになったのを覚えている。
「お前には大きすぎた」
凛が黙る。
「それに、今持っているものでは、この国の冬には足りない」
「それで……わざわざ?」
「ああ」
「私のために?」
アルヴァルドは凛を見る。
「他に誰が着る」
あまりにも当然のように言う。
凛は外套を受け取った。
「いつ用意したんですか?」
「数日前だ」
「採寸してないですよね」
「侍女に聞いた」
「……勝手に?」
「問題があるか」
「ありますよ」
「どこに」
「こういう高そうなものを、勝手に用意するところです」
「必要なものだ」
「でも」
「リン」
アルヴァルドが静かに遮った。
「寒いと言っていただろう」
「言いましたけど」
「なら着ろ」
それだけ。
でも。
凛が何気なく口にしたことを、覚えていた。
自分の外套を貸したとき、大きすぎたことまで。
凛はゆっくり袖を通した。
驚くほど、ちょうどいい。
「……暖かい」
「そうか」
「すごく」
アルヴァルドの表情が、ほんの少し緩んだ。
まるで、それを聞きたかったみたいに。
「ありがとうございます」
「ああ」
凛は外套の襟元に触れた。
「私の治療師だから?」
何気なく聞いた。
アルヴァルドが黙った。
少しだけ。
「……それだけではない」
胸が鳴った。
「え?」
「行くぞ」
「待って」
「暗くなる」
「今の、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「分かりません」
「なら、そのうち分かる」
「アルヴァルド」
「リン」
名前だけで返された。
完全に逃げた。
凛は頬が熱くなるのを感じながら、そのあとを追った。
◇
城の外へ出ると、夕暮れの空は薄い紫色に染まっていた。
湖面には山影が映っている。
「きれい……」
凛は思わず足を止めた。
「城に来てから、ほとんど外へ出ていないだろう」
「そうですね」
「毎日、私かエドガーのところにいる」
「仕事なので」
「だから連れ出した」
凛は隣を見る。
「私のために?」
「ああ」
即答。
最近。
アルヴァルドは、こういうところだけ妙にまっすぐだった。
湖のほとりまで歩く。
風は冷たい。
でも新しい外套は、十分すぎるほど暖かい。
「本当に暖かい」
「それならいい」
「私が寒いって言ったの、そんなに気になったんですか?」
アルヴァルドは一瞬黙る。
「……気になった」
凛は何も言えなくなった。
たったそれだけ。
なのに。
心臓がまた一つ、大きく鳴った。
◇
湖畔をゆっくり歩いた。
しばらくして、凛が口を開く。
「眠れるようになったら」
「何だ」
「アルヴァルドって、意外と普通なんですね」
足音が止まった。
「どういう意味だ」
凛は笑った。
「最初はもっと怖い王様かと思ってたんです」
「お前は最初から私を怖がっていなかっただろう」
「患者さんだったので」
言った瞬間。
アルヴァルドの表情が変わった。
「……またそれか」
「え?」
「患者」
凛は彼を見る。
夕暮れの中。
灰青色の瞳が、まっすぐ凛を見ている。
「私は今も」
アルヴァルドが一歩近づく。
「お前には患者にしか見えないのか」
凛の息が止まった。
「アルヴァルド?」
「王ではなくていい」
もう一歩。
距離が近くなる。
「眠れない男でもない」
風が凛の髪を揺らした。
アルヴァルドが手を伸ばす。
凛は息を止めた。
その指は頬には触れず。
髪についた小さな葉を取った。
「一人の男としては?」
心臓が、大きく鳴った。
こんなのはずるい。
凛は視線を逸らした。
「……分かりません」
「そうか」
「まだ」
その一言に、アルヴァルドの目が少し変わった。
「まだ、か」
「あ」
凛は慌てる。
「そういう意味では――」
「私はそういう意味に受け取る」
「勝手ですね」
「王だからな」
「またそれ使う」
凛が睨むと、アルヴァルドが笑った。
声を出して。
初めて見る笑い方だった。
凛は思わず見つめる。
「何だ」
「今、笑いました?」
「笑うことくらいある」
「そんなふうに?」
「どういう意味だ」
「もっと笑えばいいのに」
口にしたあと。
アルヴァルドの笑みが消えた。
代わりに。
静かな目で凛を見る。
「なら」
「はい?」
「お前が笑わせろ」
「私が?」
「ああ」
「どうして」
アルヴァルドはほんの少し目を細めた。
「お前といると、そうなるらしい」
凛は返事ができなかった。
今日は何度、この人に調子を狂わされるのだろう。
◇
城へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
廊下の分かれ道で、凛は立ち止まる。
「今日はありがとうございました」
「ああ」
「食事も」
「ああ」
「外套も」
凛は襟元を少し握る。
「大事にします」
「使え」
「はい」
「しまっておくな」
「分かりました」
「湖にもまた行く」
「また?」
「嫌か」
「……嫌じゃないです」
「なら決まりだ」
凛は小さく笑った。
「では、おやすみなさい」
「ああ」
部屋へ戻ろうとする。
「リン」
呼ばれた。
振り返る。
アルヴァルドは少し離れたところに立っていた。
「次は」
「はい?」
「治療ではなく呼んでも、来い」
凛は目を瞬いた。
「それ、命令ですか?」
「違う」
「では?」
短い沈黙。
「……私の頼みだ」
凛は少しだけ笑った。
「分かりました」
今度こそ歩き出す。
数歩進んでから。
なぜか振り返った。
アルヴァルドはまだそこにいた。
目が合う。
「何だ」
「何でもありません」
凛は再び前を向く。
頬が熱い。
困った。
本当に。
もう、この人をただの患者だとは思えない。
◇
その夜。
アルヴァルドは一人、寝台に横になった。
目を閉じる。
以前のように、夜そのものが怖いわけではない。
眠れる。
それは凛がくれたものだった。
なのに。
今、頭に浮かぶのは治療のことではない。
湖の前で笑った凛。
新しい外套に包まれて、
暖かい、と笑った凛。
――まだ、分かりません。
まだ。
アルヴァルドは目を開けた。
ほんの少し、口元が緩む。
「……まだ、か」
それなら。
患者ではなく、
一人の男として見てもらえるまで。
もう少し、そばにいればいい。
そう考えた自分が、
凛を帰すために眠りを取り戻していることを。
その夜だけは、
アルヴァルドは考えないことにした。




