第13話 今夜は、私がそばにいる
「リン。少し来てくれ」
朝食を終え、治療室へ向かおうとしていた凛を、アルヴァルドが呼び止めた。
「どうしました?」
「見せたいものがある」
「診察ではなく?」
「ああ」
最近、この答えを聞くことが増えた。
アルヴァルドは凛が持っていた薬草の入った籠へ目を落とす。
「それは置いていけ」
「でも、エドガーさんに――」
「あとで私から伝える」
「王様をそんなことに使っていいんですか?」
「私が勝手にしている」
それだけ言うと、歩き出した。
「……本当に勝手ですね」
凛は小さく呟きながら、そのあとを追った。
◇
連れてこられたのは、城の東側だった。
これまでほとんど来たことのない区画だ。
長い廊下の先で、アルヴァルドが一つの扉を開けた。
「入れ」
「はい」
中へ一歩入ったところで、凛は立ち止まった。
「……え?」
大きな部屋ではない。
けれど、明るかった。
窓から十分な光が入り、壁際には棚が並んでいる。
中央には、人が横になれる木製の台。
そのそばには水差しと大きな水鉢。
薬草をしまえる引き出し。
小さな机には紙と筆記具まで用意されている。
棚の一角には、凛がエドガーと調べていた薬草が分類されて並べられていた。
「何ですか、ここ」
「お前の治療室だ」
凛は振り返った。
「……私の?」
「ああ」
「どうして」
「必要だろう」
あまりにも当然のように言われる。
「エドガーさんの治療室を借りれば十分です」
「十分ではないから作った」
「十分ですよ」
「お前は厨房で腰を診ていた」
「それは、厨房の方が痛いって言うから」
「廊下で使用人の膝も診た」
「たまたま会ったので」
「兵士の肩を診たのは?」
「腕が上がらないって――」
「だからだ」
アルヴァルドが部屋を見回した。
「お前は病人を見れば、そこで診始める」
「……」
「なら場所を作ったほうがいい」
凛はもう一度室内を見る。
派手なものは何一つない。
王宮らしい金細工も、豪華な家具も。
ただ、凛が使うものだけが揃えられている。
診察台へ近づいた。
「これ、少し高いですね」
「お前に合わせた」
「私に?」
「エドガーから、低い台ではお前が腰を曲げ続けると聞いた」
凛は言葉を失った。
「水もここまで運べるようにした。針を扱うなら、清潔な環境が必要なのだろう?」
「……はい」
「薬草はエドガーに任せた。必要なものがあれば言え」
「アルヴァルド」
「何だ」
「ここまでしなくても」
「なぜだ」
「だって」
凛は言葉を止める。
言いたくなかった。
けれど、それを無視することもできない。
「私、帰るかもしれないんですよ」
アルヴァルドの表情がわずかに変わった。
それでも声は静かだった。
「分かっている」
「門が開いたら、日本へ戻るかもしれない」
「ああ」
「だったら、こんな部屋を作っても……」
「帰るかもしれないことと、今ここにいることは別だ」
凛は黙った。
「お前は今、この城にいる」
「はい」
「そして医者なのだろう」
「……はい」
「なら、医者でいればいい」
胸の奥が、強く揺れた。
「でも私は、あなたの治療師としてここに――」
「それだけではないだろう」
静かに遮られる。
「私が眠れるようになれば、お前は医者ではなくなるのか」
「なりません」
「私の治療が終われば、他の病人を放っておけるのか」
「……無理だと思います」
「だろうな」
ほんの少し、アルヴァルドの口元が緩んだ。
「最初から分かっていた」
「何がですか」
「お前は、そういう女だ」
凛は返事ができなかった。
「私のためだけに、この城にいる必要はない」
アルヴァルドが凛を見る。
「ここにいる間も、お前はお前のしたいことをすればいい」
――結婚したら、今までと同じ働き方というわけにはいかないでしょう?
突然、美津子の声が蘇った。
――彼女は、僕の仕事や家の事情を理解してくれる。
誠司の声も。
自分の仕事は、
誰かと生きるためには減らさなければならないものだと思われていた。
自分の人生を、相手に合わせて形を変えることを求められた。
でも。
この人は。
「リン?」
気づけば視界が滲んでいた。
「……何でもないです」
「泣いている」
「泣いてません」
「それは無理がある」
凛は慌てて目元を拭った。
「ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「自分でも、何で泣いてるのか分からなくて」
嬉しいのだと思う。
でも、それだけでもない。
怖かった。
こんな場所を作ってもらったことが。
ここに、自分の居場所ができてしまったことが。
帰る場所は日本なのに。
ここにも、帰りたくなる場所ができそうなことが。
「私」
凛は息を整えた。
「ずっと、仕事を続けたいって思ってきたんです」
「ああ」
「それで、結婚する人にも分かってもらえると思ってた」
アルヴァルドは黙って聞いている。
「でも実際には、誰かと一緒に生きるなら、少しずつ自分を変えないといけないのかなって」
「……」
「仕事を減らして。相手に合わせて。それが大人になることなのかなって」
あの頃は、そう思いかけていた。
「だから」
凛は治療室を見回した。
「こんなもの作られたら、困ります」
「なぜ」
「ここにいたくなるからです」
言ってから。
凛は唇を噛んだ。
アルヴァルドの瞳が揺れた。
「……そうか」
「そんな顔しないでください」
「どんな顔だ」
「嬉しそうな顔」
「嬉しいからな」
隠す気もないらしい。
「でも」
アルヴァルドが一歩近づく。
「勘違いするな」
「何を?」
「私は、お前にここへ残れと言っているわけではない」
凛の胸が少し痛んだ。
「門が開けば、帰るかどうかはお前が決める」
「はい」
「日本へ帰りたいなら帰ればいい」
「……はい」
「だが」
アルヴァルドの声が少し低くなる。
「私のそばにいるために、お前がお前でなくなる必要はない」
また涙が落ちた。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そんなこと言われたら」
凛は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「もっと、ここを離れにくくなる」
アルヴァルドはすぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「それでも、言う」
凛は顔を上げた。
「お前の人生を削ってまで、私のそばにいてほしいとは思わない」
「……」
「お前が医者なら、医者でいればいい」
一歩。
距離が縮まる。
「誰かを助けたいなら、助ければいい」
さらに近くなる。
「私より患者を優先する日があっても」
「それはあります」
「そこは否定しないのだな」
凛は泣きながら笑った。
「医者なので」
「知っている」
アルヴァルドの手が上がった。
けれど途中で止まる。
「リン」
「はい」
「触れてもいいか」
凛は一瞬、息を止めた。
この人は王なのに。
命じることができるのに。
いつも自分のことになると、最後は選ばせる。
凛は小さく頷いた。
「はい」
アルヴァルドの指が、頬に落ちた涙をそっと拭った。
温かい。
治療のために、何度も彼へ触れてきた。
でも。
アルヴァルドからこんなふうに触れられるのは、まるで違った。
「まだ泣くか」
「誰のせいですか」
「私なのか」
「たぶん」
「それは困ったな」
「責任取ってください」
口にしてから、凛は自分で固まった。
「違います。今のは――」
アルヴァルドの目が少しだけ細くなる。
「どう責任を取ればいい」
「忘れてください」
「無理だ」
「アルヴァルド」
凛が顔を背けようとする。
その前に。
「抱きしめてもいいか」
動きが止まった。
「……また聞くんですね」
「嫌ならしない」
凛はしばらく彼を見つめた。
そして。
「嫌じゃありません」
次の瞬間。
大きな腕に包まれた。
強くはない。
けれど、十分に温かかった。
凛はゆっくり目を閉じた。
耳を澄ませると、アルヴァルドの心臓の音が聞こえる。
思ったより速い。
「……アルヴァルドも緊張するんですね」
「今それを言うのか」
「医者なので」
「今日くらい医者をやめろ」
低い声に少しだけ笑いが混じった。
凛も笑った。
腕の中から離れようとは思わなかった。
◇
その日の夜。
凛は新しい治療室に一人でいた。
薬草の位置を変え。
紙を棚へしまい。
何度も、何度も部屋を見回す。
自分の場所。
この世界にできてしまった。
嬉しい。
それなのに。
胸の奥が落ち着かなかった。
――門が開けば、帰るかどうかはお前が決める。
帰る。
当然だと思っていた。
両親がいる。
仕事がある。
二十九年間、生きてきた場所だ。
なのに今。
帰ることを考えると、胸が痛い。
「……困ったな」
凛は机へ突っ伏した。
そのとき。
「まだいたのか」
顔を上げる。
扉のところにアルヴァルドが立っていた。
「どうしてここに?」
「部屋にいなかった」
「探したんですか?」
「ああ」
また即答。
凛は少しだけ笑った。
「もう戻ります」
「眠れそうか」
「……分かりません」
アルヴァルドが凛の顔を見る。
「考え事か」
「少し」
「帰ることを?」
凛は答えられなかった。
それだけで十分だったらしい。
アルヴァルドは治療室へ入り、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「何してるんですか?」
「座った」
「それは見れば分かります」
「お前が戻るまで待つ」
「大丈夫ですよ」
「その言葉は信用しない」
「もう」
凛は苦笑した。
「本当に王様なのに暇なんですか?」
「暇ではない」
「では戻って寝てください」
「お前が眠れないのに?」
凛は黙った。
「アルヴァルドはもう眠れるでしょう」
「ああ」
「だったら」
「今夜は」
静かな声だった。
「私がそばにいる」
凛の胸が、また揺れる。
「どうして」
「理由が必要か」
「……一応」
アルヴァルドは少しだけ考えた。
そして。
「お前が一人で考えすぎるのを、知っているからだ」
凛は何も言えなかった。
「眠るまででいい」
「ここで?」
「ああ」
「王様が?」
「ああ」
「私のために?」
アルヴァルドは凛を見る。
「そうだ」
もう、誤魔化さない。
それが一番困る。
凛はゆっくり椅子へ座り直した。
「では……少しだけ」
「ああ」
暖炉の火が、小さく揺れていた。
アルヴァルドは何も聞かなかった。
帰るのか。
残るのか。
答えを求めない。
ただ、そこにいた。
しばらくすると、凛のまぶたが重くなってくる。
「アルヴァルド」
「何だ」
「まだいます?」
「ああ」
「よかった」
ほとんど無意識に、そう答えていた。
アルヴァルドは何も言わなかった。
凛が眠りに落ちるまで。
ただ、そばにいた。
眠れない王を救うために、この世界へ来た。
なのに今夜は。
その王が、
凛の眠りを守っていた。




