第14話 帰したくない
翌日の夕方。
最後の患者を見送って、凛が治療室の扉を閉めようとしたときだった。
「終わったか」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
アルヴァルドが、廊下の壁にもたれて立っていた。
「……何してるんですか?」
「待っていた」
「いつから?」
「少し前だ」
「用があるなら呼んでくれればいいのに」
「診療中だっただろう」
「王様なんだから、呼び出せるでしょう?」
「患者を診ているお前を邪魔するなと言ったのは、誰だったか」
凛は黙った。
「……私ですね」
「ああ」
アルヴァルドがわずかに笑う。
「それで、今日はどうしました?」
「どうした、とは」
「どこか痛いとか」
「ない」
「眠れなかった?」
「眠った」
「では診察ではない?」
「違う」
もう、その答えにも驚かなくなってきた。
「じゃあ、何の用ですか?」
アルヴァルドは凛を見た。
「会いに来た」
「……」
「何だ」
「最近、そういうこと普通に言いますよね」
「事実だからな」
「言われるほうは困るんです」
「なぜ」
「分かってて聞いてます?」
「少しは」
「ずるい」
アルヴァルドが笑った。
以前は滅多に見なかった表情。
今では、それを見るたび胸の奥が少しだけ温かくなる。
「行くぞ」
「どこへ?」
「湖だ」
「また?」
「嫌か」
凛は首を横に振った。
「行きます」
◇
夕暮れの湖は、前に来たときより静かだった。
風は冷たい。
けれど、アルヴァルドが作らせた青緑色の外套のおかげで寒くはない。
二人で湖畔を歩く。
護衛は少し離れたところにいる。
アルヴァルドがそうさせたらしい。
「今日は何も話さないんですね」
凛が言う。
「何か話してほしいのか」
「そういうわけじゃないですけど」
「なら、このままでいい」
湖面に夕日の名残が揺れている。
隣を歩く足音。
それだけで、不思議と落ち着いた。
「リン」
「はい?」
「昨日は眠れたか」
凛は思わず笑った。
「結局そこ聞くんですね」
「気になった」
「眠れました」
「そうか」
「誰かさんがずっとそばにいましたから」
「迷惑だったか」
「逆です」
凛は湖を見る。
「安心しました」
アルヴァルドは何も言わなかった。
ただ、その横顔が少し柔らかくなった。
「昨日の治療室」
凛が続ける。
「本当に嬉しかったです」
「ああ」
「ありがとうございます」
「何度も聞いた」
「何度でも言います」
「なら受け取っておく」
「素直じゃない」
「十分素直になったつもりだ」
確かに。
最近のアルヴァルドは、以前よりずっと分かりやすい。
食事をしたかと聞く。
寒ければ外套を用意する。
診療が終わるのを待っている。
眠れなければ、そばにいる。
そして。
会いたかった、と言う。
「アルヴァルド」
「何だ」
「どうして、そんなに私に良くしてくれるんですか」
彼の足が止まった。
凛も立ち止まる。
「まだ聞くのか」
「聞いてません」
「十分分かっていると思っていた」
「言葉にしてもらってません」
言ったあと、自分でも少し大胆だったと思った。
でも。
もう誤魔化したくなかった。
アルヴァルドはしばらく凛を見ていた。
「リン」
「はい」
「私は、お前が好きだ」
あまりにも真っ直ぐで。
凛は息を忘れた。
風の音だけが聞こえる。
「……そんなに簡単に言うんですね」
「簡単ではない」
「そう見えました」
「では、もう一度言おうか」
「え?」
アルヴァルドが一歩近づいた。
「私は、お前が好きだ」
今度は逃げられない。
灰青色の瞳が、まっすぐ自分だけを見ている。
「治療師だからではない」
一歩。
「私を眠らせたからでもない」
距離が縮まる。
「お前だからだ」
胸が苦しいほど鳴った。
「帰るかもしれなくても?」
「ああ」
「いつまでここにいられるか、分からなくても?」
「ああ」
「それでも?」
「何度聞いても同じだ」
アルヴァルドの声が少し低くなる。
「帰る日が来るかもしれないからといって、今のお前を好きではないことにはできない」
凛は目を伏せた。
「……困ります」
「そうか」
「だって」
胸の前で手を握る。
「私も、好きになってしまったから」
言った。
やっと。
アルヴァルドが動かなくなった。
今度は凛が少し笑う。
「何か言ってください」
「……今、聞いたものを確かめている」
「聞き間違いじゃありません」
「もう一度」
「嫌です」
「私は二度言った」
「それはアルヴァルドが勝手に――」
言い終わる前に。
彼の手が凛の頬へ触れた。
温かい。
凛は言葉を止める。
「リン」
「はい」
「口づけてもいいか」
一瞬。
本当にこの人は、と思った。
王なのに。
何でも命じられる人なのに。
いつも最後は、凛に選ばせる。
「……はい」
アルヴァルドがゆっくり顔を寄せる。
逃げる時間はいくらでもあった。
でも。
凛は目を閉じた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
驚くほど優しい口づけだった。
離れたあとも、額が触れそうな距離にいる。
「……終わりですか」
口にしてから。
凛は自分で固まった。
アルヴァルドの眉がわずかに上がる。
「今のは」
「忘れてください」
「無理だ」
「アルヴァルド」
「お前が言った」
その目が、少し笑っている。
「もう一度してもいいという意味か」
「聞かないでください」
「嫌なのか」
「……嫌じゃありません」
今度はアルヴァルドが笑った。
そして再び、凛を引き寄せた。
二度目は少し長かった。
外套越しに背へ回った腕。
頬に触れる大きな手。
胸の奥まで満たされていくような温かさ。
唇が離れたあと。
凛はそのままアルヴァルドの胸へ額を預けた。
「……ずるい」
「今日は何度目だ」
「知りません」
「何がずるい」
「こんなに好きにさせておいて」
アルヴァルドの腕が少し強くなる。
「帰るかもしれないのに」
その言葉に。
抱く力が止まった。
少しの沈黙。
「凛」
「はい」
「本当は」
アルヴァルドの声が耳元へ落ちる。
「帰したくない」
胸が締めつけられた。
「……」
「家族も、仕事も、この世界へ来るまでのお前の人生もなければいいと、一瞬くらい思う」
凛は顔を上げた。
アルヴァルドの表情は穏やかではなかった。
初めて見る。
苦しそうな顔だった。
「そうすれば、お前はここに残るかもしれない」
「アルヴァルド……」
「だが」
彼の指が、凛の髪をそっと撫でる。
「それを望んではいけないことくらい分かっている」
「どうして」
「お前が大切だからだ」
迷いのない答えだった。
「私は、お前の人生まで欲しいわけではない」
「……」
「お前自身に、私を選んでほしい」
涙が出そうになった。
凛は堪えるように彼の服を掴んだ。
「そんなこと言われたら」
「何だ」
「ますます帰れなくなる」
アルヴァルドは、少しだけ笑った。
「それは困ったな」
「全然困ってる顔じゃない」
「少し嬉しい」
「ほら」
凛も笑った。
そのときだった。
胸元で。
微かな振動を感じた。
「……?」
凛が身体を離す。
「どうした」
「今、何か……」
もう一度。
小さく震える。
バッグの中。
凛は慌てて開いた。
取り出したのは、祖父の古い鍼箱だった。
「これ……」
金属の箱が、淡く光っている。
凛の笑顔が消えた。
「アルヴァルド」
彼もすぐに意味を理解したらしい。
表情が変わる。
鍼箱の隙間から、細い白い光が漏れていた。
ノルウェーで。
あの黒い石に触れる直前と同じ。
「まさか……」
その瞬間。
遠くから馬の音が響いた。
激しい速度で近づいてくる。
「陛下!」
ローデリックだった。
馬から飛び降りるようにして地面へ降りる。
「どうした」
「北の森から、急ぎの知らせです」
ローデリックが息を整える。
アルヴァルドは以前、黒い石の話を聞いてから、森に人を置いていた。
変化があれば、すぐに知らせるようにと。
「石が」
凛の指が鍼箱を強く握る。
「黒い石が、光り始めました」
誰も声を出さなかった。
凛はアルヴァルドを見る。
アルヴァルドも凛を見ている。
さっきまで。
帰したくないと。
ここにいたいと。
そんな話をしていたばかりなのに。
――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、
――門は再び開く。
凛の手の中で。
祖父の鍼箱が、もう一度強く光った。
アルヴァルドの眠りは戻った。
そして。
とうとう、
帰るための門が開こうとしていた。




