第15話 帰れ
北の森へ向かう馬車の中で、凛とアルヴァルドはほとんど話さなかった。
向かい合って座っている。
手を伸ばせば届く距離。
それなのに。
昨夜までとは、ひどく遠く感じた。
凛の膝の上には、祖父の鍼箱がある。
淡い光は消えていない。
黒い石に近づくほど、少しずつ強くなっていた。
「……本当に、開くんでしょうか」
凛が呟く。
「分からない」
アルヴァルドの返事は短い。
「もし開かなかったら?」
「城へ戻る」
「それだけ?」
「ああ」
凛は少し笑った。
「簡単ですね」
「他に何がある」
「……そうですね」
本当は。
開かなければいい。
一瞬、そう思った。
帰れないなら仕方ない、と言える。
自分で選ばなくて済む。
アルヴァルドのそばにいる理由を、運命のせいにできる。
そんな自分に気づいて、凛は唇を噛んだ。
「リン」
「はい」
「無理に帰る必要はない」
顔を上げる。
「門が開いたとしても、お前が決めればいい」
「……はい」
それきり。
また沈黙が落ちた。
◇
森へ着いた頃には、空が暗くなり始めていた。
ローデリックと数人の兵士が先導する。
木々の間を進むにつれて、凛の胸の鼓動が速くなっていく。
やがて。
「陛下」
ローデリックが足を止めた。
木々の向こう。
古い石組みの跡が見えた。
その中央に。
黒い石。
凛は息を止めた。
ノルウェーで見たものと、ほとんど同じだった。
「……これ」
「あの石か」
「はい」
近づく。
表面には、見覚えのある文字が刻まれている。
読むことのできないはずの文字。
それなのに、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
――眠れぬ王が夜を取り戻すとき、
――門は再び開く。
その下に。
以前はなかった言葉が浮かんでいた。
――来たりし者よ。
――望む場所を選べ。
「……選べ?」
凛の声が震えた。
手の中の鍼箱が熱を持つ。
次の瞬間。
黒い石の中央に、一本の光が走った。
空気が揺れる。
石の向こう側が、ゆっくり歪んでいく。
「リン!」
アルヴァルドが腕を掴んだ。
凛は息を呑んだ。
黒い石の向こうに。
景色が見える。
濡れた岩。
崩れた石壁。
灰色の空。
海。
「ノルウェー……」
あの日の場所だった。
門の向こうに、自分の世界がある。
本当に。
帰れる。
そう分かった瞬間。
涙が溢れた。
「……開いちゃった」
笑ったつもりだった。
でも声が震えた。
「アルヴァルド」
「ああ」
「私、帰れます」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
アルヴァルドは、それしか言わない。
凛は彼を見る。
「どうしてそんな顔するんですか」
「どんな顔だ」
「……帰ってほしくないみたいな」
アルヴァルドは黙った。
「昨日、言いましたよね」
凛の涙が頬を伝う。
「帰したくないって」
「ああ」
「だったら」
声が詰まった。
「言ってください」
「何を」
「帰るなって」
アルヴァルドの表情が変わった。
「リン」
「言って」
凛は彼の服を掴んだ。
「ここにいろって言ってください」
「……」
「あなたが言ったら」
涙で、顔が見えなくなる。
「私、残るかもしれない」
アルヴァルドが目を閉じた。
長い沈黙。
「だから言えない」
「……どうして」
「今、お前が自分で言っただろう」
アルヴァルドの手が、凛の頬へ触れる。
「私が言えば、お前は残るかもしれない」
「それでいいじゃないですか」
「よくない」
「どうして!」
初めて。
凛はアルヴァルドに声を荒らげた。
「私もあなたが好きです」
「ああ」
「離れたくない」
「ああ」
「だったら、どうして――」
「お前には向こうに家族がいる」
凛の言葉が止まる。
「仕事がある」
「……」
「二十九年生きてきた人生がある」
「でも」
「それを捨てると決めるには、今のお前は混乱しすぎている」
「そんなの……」
「昨日、私に好きだと言ったばかりだ」
アルヴァルドは苦しそうに笑った。
「その翌日に、一生こちらに残ると決めさせるほど、私は卑怯になりたくない」
「卑怯なんかじゃない」
「私にはそう思える」
「じゃあ」
凛は彼の手を掴んだ。
「アルヴァルドは平気なんですか」
「平気に見えるか」
「……見えません」
「なら聞くな」
声が、わずかに掠れた。
初めてだった。
この人の声が、こんなふうに揺れるのを聞いたのは。
「私は」
アルヴァルドは凛を引き寄せた。
強く。
これまでで一番強く。
「お前を帰したくない」
耳元で、低い声が震えた。
「ここにいてほしい」
凛は彼の胸へ顔を押しつけた。
「なら――」
「朝も、お前に会いたい」
腕に力がこもる。
「夜も」
「アルヴァルド……」
「お前が治療室にいるなら、用がなくても会いに行きたい」
涙が止まらない。
「食事をしたかと聞きたい」
「……」
「寒ければ、また外套を作る」
「もうあります」
「なら、別のものを考える」
凛は泣きながら笑った。
「そんなの……」
「お前が老人になっても」
凛の呼吸が止まった。
「私より患者を優先して、私を待たせても」
「……」
「それでも、そばにいてほしい」
もう、声が出なかった。
アルヴァルドがゆっくり身体を離す。
凛の頬へ触れる。
「だが」
灰青色の瞳が、真っ直ぐ凛を見る。
「それは、私が決めることではない」
凛は首を横に振った。
「嫌です」
「リン」
「そんなに大事にしないで」
「何?」
「もっと勝手に言ってください」
涙がまた落ちる。
「帰るなって」
「……」
「私を選べって」
「言わない」
「どうして」
「お前が好きだからだ」
凛は泣いた。
声を殺すこともできなかった。
アルヴァルドは何も言わず、その涙を受け止めた。
やがて。
黒い石の光が一度強く揺れた。
門の向こう。
ノルウェーの風景が、少しずつ不安定になり始める。
「陛下」
少し離れた場所からローデリックが声をかけた。
「光が弱くなっています」
時間がない。
凛にも分かった。
「……もう、決めないと」
「ああ」
「アルヴァルド」
彼を見る。
「最後に、一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「王様じゃなくて」
凛は泣きながら笑った。
「治療を受ける患者でもなくて」
アルヴァルドの瞳を見つめる。
「あなた自身は、私にどうしてほしい?」
アルヴァルドが動かなくなった。
長い沈黙。
そして。
「王としてなら」
低い声だった。
「帰れと言う」
胸が締めつけられる。
「お前には帰るべき場所がある」
一度、目を閉じる。
再び開いた灰青色の瞳には、もう王の静けさはなかった。
「だが」
次に聞こえた声は。
これまでとは違った。
「俺は」
凛は息を止めた。
初めて聞く一人称。
「お前に行ってほしくない」
涙が溢れた。
「……ずるい」
「そうだな」
「今、それ言うんですか」
「ああ」
「もっと早く言ってください」
「言えば、帰れなくなるだろう」
「もう帰れません」
「帰れ」
凛は首を横に振る。
「嫌」
「リン」
「嫌です」
アルヴァルドが凛の顔を両手で包んだ。
「一度、帰れ」
「……」
「家族に会え」
「……」
「自分の仕事を見ろ」
「……」
「お前が生きてきた世界を、もう一度自分の目で見てこい」
凛は泣きながら彼を見る。
「そのうえで」
アルヴァルドは一度息を飲んだ。
「それでもここへ来たいと思うなら」
「……」
「そのときは」
声が掠れる。
「私は、もうお前を手放さない」
凛の胸がいっぱいになった。
「戻れる保証なんてない」
「ああ」
「門がもう一度開くかも分からない」
「分かっている」
「それでも?」
「ああ」
アルヴァルドは笑った。
ひどく寂しい笑い方だった。
「だからこそ、お前が今選ぶべきではない」
凛は彼の胸へ飛び込んだ。
アルヴァルドの腕がすぐに背へ回る。
「忘れないで」
「忘れるものか」
「他の人と結婚しないで」
一瞬。
アルヴァルドが息を止めた。
「……それは命令か」
「お願いです」
「分かった」
「簡単に言う」
「他の女を望むと思うのか」
凛はまた泣いた。
「ずるい」
「今日はそればかりだな」
「アルヴァルドのせいです」
「ああ」
そして。
アルヴァルドが凛の顎へ触れた。
今度は聞かなかった。
凛も止めなかった。
唇が重なる。
昨日の口づけとは違った。
優しいだけではない。
離れたくない気持ちを、そのまま伝えるようなキスだった。
凛はアルヴァルドの服を強く掴んだ。
終わってほしくなかった。
でも。
いつかは離れなければならない。
唇が離れる。
二人の額が触れた。
「凛」
「はい」
「帰れ」
もう一度。
今度は、優しく。
「お前の人生を、私のために捨てるな」
凛は泣きながら頷いた。
「……はい」
アルヴァルドが手を離す。
その瞬間。
身体の一部を失ったような気がした。
一歩。
凛が門へ近づく。
振り返る。
アルヴァルドはそこにいる。
「アルヴァルド」
「ああ」
「好きです」
もう、恥ずかしくなかった。
「私もだ」
凛は笑った。
涙だらけのまま。
そして。
黒い石へ手を伸ばした。
光が凛の身体を包む。
最後に見えたのは、
こちらへ手を伸ばしかけて、
それでも最後まで伸ばさなかった、
アルヴァルドの姿だった。
◇
風の匂いが変わった。
足元が揺れる。
次の瞬間。
凛は濡れた石の上に膝をついていた。
「……っ」
顔を上げる。
崩れた石壁。
灰色の海。
冷たい雨。
ノルウェー。
元の世界だった。
凛は震える手でスマートフォンを取り出した。
電源ボタンを押す。
画面がつく。
日付が表示される。
「……嘘」
凛は息を止めた。
あの日から。
こちらでは、
まだ一日も経っていなかった。
スマートフォンの画面に、
誠司から届いたままのメッセージが残っている。
日本。
家族。
病院。
自分が二十九年間、生きてきた世界。
帰ってきた。
帰りたかった場所へ。
なのに。
「アルヴァルド……」
名前を呼んだ瞬間。
涙が止まらなくなった。
凛は胸元を押さえた。
指先に触れたのは、アルヴァルドが自分のために用意してくれた、深い青緑色の外套だった。
「……これも、来たんだ」
ただ、そこにもう、
彼の腕はなかった。




