第16話 少しでも、あなたの近くへ
日本へ戻ってから、一か月が過ぎた。
朝になれば、スマートフォンのアラームが鳴る。
カーテンを開けて、支度をする。
電車に乗り、病院へ向かう。
白衣に袖を通せば、身体は自然に仕事へ戻った。
「高瀬先生、おはようございます」
「おはようございます」
電子カルテを開く。
検査結果を確認し、患者の話を聞く。
聴診器を当て、薬を調整する。
いつもの毎日。
ずっと続けてきた生活だった。
帰ってこられてよかった。
凛は、本当にそう思っていた。
母にも会えた。
友人とも食事をした。
自分の部屋で眠れる。
コンビニに行けば、必要なものは何でも手に入る。
そして何より。
やっぱり、自分は医者でいることが好きだった。
◇
「先生、夜になると眠れなくてね」
ある日の外来。
七十代の男性が、困ったように笑った。
「眠りにつけないんですか。それとも途中で目が覚めます?」
「寝ることは寝るんだけど、二時とか三時になると起きちゃって」
「そのあと眠れない?」
「そうなんです」
凛はカルテを見ながら質問を重ねる。
痛み。
夜間頻尿。
薬。
昼寝。
夕食後の飲み物。
「コーヒーは?」
「好きですよ。寝る前にも飲む」
「寝る前にも?」
「駄目ですか?」
凛は思わず笑った。
「絶対に駄目とは言いません。でも、一度夕方以降は控えてみましょうか」
「それだけで変わる?」
「それだけとは限りません。腰も痛いっておっしゃっていましたよね」
「ええ」
「眠れない理由を、一つずつ見ていきましょう」
そう言った瞬間。
凛の頭に浮かんだ。
北葉茶。
古い傷。
夜遅くまで続けていた仕事。
そして。
灰青色の瞳。
――眠れないというのは、結果です。
自分はあの人にも、似たようなことを言った。
「先生?」
「あ、ごめんなさい」
「疲れてる?」
「いえ」
凛は笑った。
「大丈夫です」
診察を終え、患者を送り出す。
扉が閉まったあと。
凛はしばらく、その扉を見つめていた。
「……眠れてるかな」
声に出してから、自分で苦笑する。
アルヴァルドはもう眠れる。
だから門が開いた。
だから。
自分は帰ってきた。
◇
日常は少しずつ元へ戻っていった。
一週間。
二週間。
三週間。
仕事をしていれば忙しい。
患者を診ている間は、アルヴァルドを思い出さない時間も増えた。
同僚と話して笑う。
帰りにスーパーへ寄る。
休日には洗濯をして、読みかけだった医学書を開く。
母と食事にも行った。
「思ったより元気そうね」
向かいに座った母が言った。
「何それ」
「もっと失恋を引きずって帰ってくるのかと思った」
「もう大丈夫」
「本当に?」
「うん」
誠司のことなら。
本当に、もう大丈夫だった。
一度だけ、
『戻ったなら話がしたい』
というメッセージが届いた。
凛は少し考えて、
『ごめんなさい。もう戻るつもりはありません。お互いに前へ進みましょう』
と返した。
それで終わった。
怒りもなかった。
未練もなかった。
あの人と結婚しようとしていた自分を否定するつもりもない。
あの頃は、本当に好きだった。
ただ。
もう、自分が帰る場所ではなかった。
◇
それなのに。
病院から帰るとき。
時々、廊下の先を見てしまう。
――終わったか。
そんな低い声が聞こえそうな気がする。
一人で夕食を食べていると、
向かいの椅子が妙に空いて見える。
寒い朝には。
クローゼットの奥にしまったものを思い出す。
深い青緑色の外套。
アルヴァルドが凛のために作らせたものだった。
日本へ戻ったあの日。
ノルウェーの濡れた岩場で気づいた。
自分の肩にはまだ、
その外套が掛かっていた。
それも一緒に、世界を越えてきたのだ。
何度かクリーニングに出そうと思った。
でも。
結局、出せなかった。
もう匂いなんて残っていない。
分かっている。
それでも。
ある休日。
凛は外套をクローゼットから取り出した。
「……馬鹿みたい」
指先で襟へ触れる。
――寒いなら着ていろ。
あの声まで思い出せる。
「言いそう」
一人で笑った。
そのあと。
なぜか涙が出た。
◇
その夜。
凛はパソコンを開いていた。
調べたい医学論文があった。
検索を終え、
何気なく画面を閉じようとしたとき。
医師向けの求人情報が目に入った。
海外勤務。
普段なら、そのまま閉じていた。
けれど。
指が止まった。
何となく、クリックする。
いくつかの国名が並んでいた。
イギリス。
オーストラリア。
ニュージーランド。
そして。
「……ノルウェー」
凛は息を止めた。
ノルウェー北部。
地域医療を担う医療機関。
内科医募集。
外国人医師については、現地で働くために必要な資格取得や語学習得を支援すると書かれている。
もちろん、すぐに医師として働けるわけではない。
選考もある。
資格の確認も。
言葉も覚えなければならない。
簡単な話ではなかった。
凛は画面を閉じた。
「……何考えてるんだろ」
そう言った。
翌日。
また開いた。
◇
それから数日。
凛は夜になると、その求人を見ていた。
応募はしない。
ただ見るだけ。
「高瀬先生、何見てるの?」
休憩室で声をかけられた。
同じ内科の先輩医師だった。
「あ……求人です」
「求人?」
「はい」
「転職するの?」
「まだ、何も決めてません」
「どこ?」
凛は少し迷ってから答えた。
「ノルウェー」
「ノルウェー?」
当然のように驚かれる。
「またずいぶん遠いところを」
「ですよね」
「海外志向だったっけ?」
「全然」
凛は苦笑した。
「自分でも、どうして気になるのか分からなくて」
「なら、別に今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
「はい」
「でも気になるなら、調べるだけ調べてみれば?」
「……そうですね」
先輩医師はそれ以上何も聞かなかった。
凛はもう一度、スマートフォンの画面を見る。
ノルウェー。
そこへ行ったところで。
エルグレンへ戻れる保証なんてない。
あの黒い石が、もう一度門になるかも分からない。
同じ場所へ行ったとしても。
冷たい海と、
古い石だけが残っているかもしれない。
たぶん。
その可能性のほうが高い。
それなのに。
なぜか画面を閉じることができなかった。
◇
その日の夜。
凛は青緑色の外套をベッドに広げた。
窓の外には東京の夜景がある。
車の音。
ビルの明かり。
遠くを走る電車。
二十九年間、生きてきた世界。
大切な場所。
ここで生きていくことだってできる。
医者を続けられる。
家族にも会える。
何も足りないわけではない。
それでも。
凛は外套を抱きしめた。
「戻れるなんて、思ってないよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「もう一度門が開くなんて、そんな都合のいいこと……たぶんない」
言葉にすると。
胸が痛んだ。
「でも」
目を閉じる。
「あなたがいる世界には行けなくても」
少しだけ息を吸う。
「あなたの世界につながっていた場所の近くには、行ける」
ノルウェーとエルグレンが、
本当に近いのかなんて分からない。
世界そのものが違うのだから。
距離という言葉が当てはまるのかさえ分からない。
ただ。
あの北の海から、
自分はアルヴァルドのもとへ行った。
なら。
東京にいるより。
「あの場所の近くにいたい」
涙が一つ落ちた。
「……少しでも、あなたの近くにいたい」
それだけで。
いいのかもしれない。
もう会えなくても。
同じ世界で暮らせなくても。
自分が生きている場所を、
あの北へ少し近づけることはできる。
◇
翌週。
凛は応募フォームを開いた。
経歴を入力する。
志望理由を書く。
何度も読み返す。
送信ボタンの上で、指が止まった。
三十分ほど迷って。
最後に、一度だけ目を閉じた。
「……行こう」
クリックした。
送信済み。
その文字を見て。
凛の心臓が強く鳴った。
戻れるからではない。
アルヴァルドに会えるからでもない。
そんな保証は、どこにもない。
それでも。
もう一度、自分から北へ向かってみたいと思った。
◇
選考には時間がかかった。
オンラインでの面談。
経歴の確認。
現地で診療に携わるまでに必要な手続き。
語学。
準備。
一つずつ説明を受けた。
すぐに医師として働けるわけではない。
それでも構わなかった。
先輩医師にも相談した。
「本当に行くことにしたんだ」
「はい」
「思い切ったね」
「自分でもそう思います」
「帰ってくる?」
凛は少し考えた。
「分かりません」
以前なら。
そんな答えは怖くてできなかった。
「でも」
凛は笑う。
「医者は続けます」
それだけは、
迷わなかった。
◇
母に話したのは、
具体的な準備が始まってからだった。
「ノルウェー?」
「うん」
「今度は旅行じゃないの?」
「うん。向こうで医者として働けるように準備する」
母がじっと凛を見る。
「急ねえ」
「自分でもそう思う」
「何年行くの?」
「まだ分からない」
「それでも行くの?」
「うん」
母はしばらく黙っていた。
やがて。
「……向こうに誰かいるの?」
凛は目を瞬いた。
「どうしてそうなるの」
「母親を舐めないで」
思わず笑ってしまう。
「いるよ」
「やっぱり」
「でも、会えるかどうか分からない」
「何それ」
「説明すると、たぶん信じてもらえない」
「そんなに怪しい人なの?」
「違う」
凛は笑った。
「すごく遠い人なの」
「ノルウェーより?」
凛は少し黙った。
「たぶん、ずっと」
「意味分からない」
「私も」
二人で笑った。
「でもね」
凛は少しだけ真面目になる。
「その人に会えなくても行く」
「どうして?」
「少しでも近くにいたいから」
母は黙って凛を見る。
「それだけ?」
「ううん」
今度は迷わなかった。
「違う場所でも、医者として生きてみたい」
あの世界へ行ったことで。
自分の中に、それまでなかった気持ちが生まれた。
「今まで、ちゃんとした道から外れないように生きてきた気がするの」
「そう?」
「医学部に行って、医者になって。結婚して。そのまま働いて」
それが嫌だったわけではない。
でも。
「一回くらい、自分から大きく人生を動かしてみたい」
母はしばらく黙っていた。
そして。
「なら、行ってくれば」
「反対しないの?」
「二十九歳の娘が自分で決めたことでしょう」
凛は少し笑った。
「ありがとう」
◇
それからさらに時間が過ぎた。
部屋には少しずつ段ボールが増えた。
持っていくもの。
日本へ残すもの。
母へ預けるもの。
医学書。
衣類。
書類。
そして。
祖父の古い鍼箱。
あの箱には、何の不思議な力もない。
少なくとも凛は、そう思っている。
ただ。
祖父から受け取って。
日本からノルウェーへ持っていき。
エルグレンまで一緒に渡った。
だから今度も。
連れていくことにした。
最後に。
青緑色の外套を畳む。
スーツケースへ入れようとして、
凛は手を止めた。
少しだけ抱きしめる。
「アルヴァルド」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
「私、そっちには戻れないかもしれない」
静かな部屋。
「たぶん、会えない」
それでも。
以前ほど怖くはなかった。
「でも」
凛は外套へ頬を寄せた。
「少し近くまで行くから」
今度は泣かなかった。
「それでいい」
そう言って。
外套を丁寧にスーツケースへしまった。
門が開くから行くのではない。
誰かに呼ばれたからでもない。
戻れる保証なんて、
どこにもない。
それでも凛は、
自分の人生を自分で動かして、
もう一度、
あの北の海へ向かうことを決めた。




