↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/20

第17話 ただいま


 ノルウェーへ着いた翌朝。


 凛は、一人であの海へ向かった。


 冷たい風。


 灰色の空。


 岩に砕ける白い波。


 初めてここへ来た日と、よく似ていた。


 ただ一つ違うのは。


 あのときの凛は、逃げるように日本を離れた。


 今は違う。


 自分で決めて、ここへ来た。


     ◇


 古い見張り塔は、変わらずそこにあった。


 崩れた石壁の向こうに、


 黒い石が立っている。


「……あった」


 胸が痛いほど鳴った。


 ここから、


 アルヴァルドの世界へ行った。


 そして。


 ここへ帰ってきた。


 凛はゆっくり黒い石へ近づいた。


 何も起きない。


 ただの黒い石。


 分かっていたはずなのに、


 少しだけ期待していた自分に気づく。


「……そうだよね」


 凛は小さく笑った。


 もう一度、門が開く保証なんてない。


 だからこそ。


 戻れなくてもいいと思って、


 ここまで来たのだ。


 凛は黒い石へ手を触れた。


 冷たい。


「アルヴァルド」


 名前を呼んでみる。


 返事はない。


「私、来たよ」


 風だけが通り過ぎる。


「会えなくてもいいって思ってた」


 少し黙る。


「……本当は、よくないけど」


 笑った声が震えた。


「会いたい」


 もう一度。


「あなたに会いたい」


 そのときだった。


 バッグの中から、


 カタッ。


 小さな音がした。


 凛の動きが止まる。


「……え?」


 もう一度。


 カタッ。


 慌ててバッグを開く。


 祖父の鍼箱が、


 微かに震えていた。


 凛は息を呑んだ。


 あの日と同じ。


 黒い石へ近づいたとき、


 この箱は確かに震えた。


 鍼箱を石へ近づける。


 震えが少し強くなる。


「まさか……」


 次の瞬間。


 黒い石の中央に、


 細い光が走った。


「……!」


 一本。


 また一本。


 光が広がっていく。


 目の前の空気が、


 ゆっくり歪み始めた。


 凛の目に涙が滲む。


「開くの……?」


 門が開くと分かって、


 ノルウェーへ来たわけではない。


 もう会えないと思っていた。


 それでも。


 少しでも近くへ行きたくて、


 自分からここへ来た。


 凛は黒い石へ手を伸ばした。


「今度は」


 指先が触れる。


「私が行くから」


 光が弾けた。


     ◇


「――っ」


 足元に土の感触が戻る。


 草の匂い。


 湿った冷たい空気。


 凛はゆっくり顔を上げた。


 高い針葉樹。


 深い森。


 そして背後には、


 黒い石。


「……エルグレン」


 涙が落ちた。


 本当に。


 戻ってきた。


「誰だ!」


 鋭い声が響く。


 凛が振り向くと、


 二人の兵士がこちらへ走ってくる。


 けれど。


 一人が凛の顔を見るなり、足を止めた。


「……リン様?」


「え?」


 もう一人の兵士も目を見開く。


「陛下へ知らせろ!」


「はっ!」


 兵士が走り去る。


 凛は思わず声をかけた。


「待って!」


 残った兵士を見る。


「アルヴァルドは……元気ですか?」


「はい」


 即答だった。


 それだけで、


 膝から力が抜けそうになった。


「そう……」


 凛は笑った。


「よかった」


     ◇


 やがて。


 森の奥から、


 馬の蹄の音が響いた。


 凛の心臓が跳ねる。


 近づいてくる。


 一頭。


 その後ろにも数頭。


 木々の間から、


 黒に近い濃紺の外套が見えた。


 ダークアッシュブラウンの髪。


 灰青色の瞳。


「……」


 凛は息を止めた。


 アルヴァルドだった。


 彼も。


 凛を見ていた。


 馬が止まる。


 アルヴァルドはほとんど飛び降りるように地面へ降りた。


 数歩の距離。


 誰も動かない。


 長い。


 長い時間が流れた気がした。


「……凛?」


 その声。


 ずっと聞きたかった声だった。


「アルヴァルド」


 涙が溢れた。


 凛は一歩踏み出す。


 もう一歩。


 そして。


 走った。


「凛――」


 その胸へ飛び込む。


 次の瞬間、


 強い腕に抱きしめられた。


「……っ」


 苦しいくらい。


 でも。


 もっと強くてもいいと思った。


「アルヴァルド」


「ああ」


「会いたかった」


 抱きしめる腕に、


 さらに力がこもる。


「私もだ」


 それだけで、


 涙が止まらなくなった。


 しばらくして。


 アルヴァルドがゆっくり身体を離した。


 凛の頬を両手で包む。


「本当に、お前なのか」


「はい」


「なぜ戻った」


 凛は彼を見上げた。


「門が開いたからじゃありません」


 アルヴァルドの眉がわずかに寄る。


「私は、もう戻れないと思ってました」


「……なら、なぜ」


「ノルウェーへ来たんです」


「あの石がある場所か」


「はい」


 凛は笑った。


「向こうの世界で仕事に戻って、ちゃんと考えました」


 それ以上は、


 今は必要なかった。


「それで?」


「あなたに会えなくても」


 凛は彼の外套を握った。


「少しでも、あなたの近くにいたかった」


 アルヴァルドが、


 動かなくなった。


「世界が違うから、本当は近いも遠いもないのかもしれない」


 それでも。


「あの北の海は、あなたの世界につながっていたから」


「凛……」


「戻れると知ったから来たんじゃないんです」


 凛はまっすぐ彼を見る。


「戻れなくても、私は北へ行くって決めてました」


 アルヴァルドは、


 長い間何も言わなかった。


 やがて。


「自分で決めたのか」


「はい」


 その一言を聞いた瞬間。


 彼の表情が変わった。


「なら」


 腕を引かれる。


「もう遠慮はしない」


「え――」


 唇が重なった。


 凛は目を閉じた。


 別れの日よりも。


 ずっと強く。


 それでも大切にするような口づけだった。


 ようやく離れたとき。


 凛は息を整えながら彼を見る。


「……本当に遠慮しないですね」


「お前が戻った」


「はい」


「自分で私のところへ来た」


「はい」


「なら、もう手放す理由がない」


 凛の目に、


 また涙が浮かんだ。


「アルヴァルド」


「何だ」


 ずっと。


 言いたかった言葉があった。


 凛は笑う。


「ただいま」


 アルヴァルドの瞳が揺れた。


 一瞬。


 言葉を失ったように見えた。


 そして。


 もう一度、


 凛を胸へ抱きしめる。


「……おかえり、凛」


 その声を聞いて。


 凛は彼の胸の中で、


 泣きながら笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。