第17話 ただいま
ノルウェーへ着いた翌朝。
凛は、一人であの海へ向かった。
冷たい風。
灰色の空。
岩に砕ける白い波。
初めてここへ来た日と、よく似ていた。
ただ一つ違うのは。
あのときの凛は、逃げるように日本を離れた。
今は違う。
自分で決めて、ここへ来た。
◇
古い見張り塔は、変わらずそこにあった。
崩れた石壁の向こうに、
黒い石が立っている。
「……あった」
胸が痛いほど鳴った。
ここから、
アルヴァルドの世界へ行った。
そして。
ここへ帰ってきた。
凛はゆっくり黒い石へ近づいた。
何も起きない。
ただの黒い石。
分かっていたはずなのに、
少しだけ期待していた自分に気づく。
「……そうだよね」
凛は小さく笑った。
もう一度、門が開く保証なんてない。
だからこそ。
戻れなくてもいいと思って、
ここまで来たのだ。
凛は黒い石へ手を触れた。
冷たい。
「アルヴァルド」
名前を呼んでみる。
返事はない。
「私、来たよ」
風だけが通り過ぎる。
「会えなくてもいいって思ってた」
少し黙る。
「……本当は、よくないけど」
笑った声が震えた。
「会いたい」
もう一度。
「あなたに会いたい」
そのときだった。
バッグの中から、
カタッ。
小さな音がした。
凛の動きが止まる。
「……え?」
もう一度。
カタッ。
慌ててバッグを開く。
祖父の鍼箱が、
微かに震えていた。
凛は息を呑んだ。
あの日と同じ。
黒い石へ近づいたとき、
この箱は確かに震えた。
鍼箱を石へ近づける。
震えが少し強くなる。
「まさか……」
次の瞬間。
黒い石の中央に、
細い光が走った。
「……!」
一本。
また一本。
光が広がっていく。
目の前の空気が、
ゆっくり歪み始めた。
凛の目に涙が滲む。
「開くの……?」
門が開くと分かって、
ノルウェーへ来たわけではない。
もう会えないと思っていた。
それでも。
少しでも近くへ行きたくて、
自分からここへ来た。
凛は黒い石へ手を伸ばした。
「今度は」
指先が触れる。
「私が行くから」
光が弾けた。
◇
「――っ」
足元に土の感触が戻る。
草の匂い。
湿った冷たい空気。
凛はゆっくり顔を上げた。
高い針葉樹。
深い森。
そして背後には、
黒い石。
「……エルグレン」
涙が落ちた。
本当に。
戻ってきた。
「誰だ!」
鋭い声が響く。
凛が振り向くと、
二人の兵士がこちらへ走ってくる。
けれど。
一人が凛の顔を見るなり、足を止めた。
「……リン様?」
「え?」
もう一人の兵士も目を見開く。
「陛下へ知らせろ!」
「はっ!」
兵士が走り去る。
凛は思わず声をかけた。
「待って!」
残った兵士を見る。
「アルヴァルドは……元気ですか?」
「はい」
即答だった。
それだけで、
膝から力が抜けそうになった。
「そう……」
凛は笑った。
「よかった」
◇
やがて。
森の奥から、
馬の蹄の音が響いた。
凛の心臓が跳ねる。
近づいてくる。
一頭。
その後ろにも数頭。
木々の間から、
黒に近い濃紺の外套が見えた。
ダークアッシュブラウンの髪。
灰青色の瞳。
「……」
凛は息を止めた。
アルヴァルドだった。
彼も。
凛を見ていた。
馬が止まる。
アルヴァルドはほとんど飛び降りるように地面へ降りた。
数歩の距離。
誰も動かない。
長い。
長い時間が流れた気がした。
「……凛?」
その声。
ずっと聞きたかった声だった。
「アルヴァルド」
涙が溢れた。
凛は一歩踏み出す。
もう一歩。
そして。
走った。
「凛――」
その胸へ飛び込む。
次の瞬間、
強い腕に抱きしめられた。
「……っ」
苦しいくらい。
でも。
もっと強くてもいいと思った。
「アルヴァルド」
「ああ」
「会いたかった」
抱きしめる腕に、
さらに力がこもる。
「私もだ」
それだけで、
涙が止まらなくなった。
しばらくして。
アルヴァルドがゆっくり身体を離した。
凛の頬を両手で包む。
「本当に、お前なのか」
「はい」
「なぜ戻った」
凛は彼を見上げた。
「門が開いたからじゃありません」
アルヴァルドの眉がわずかに寄る。
「私は、もう戻れないと思ってました」
「……なら、なぜ」
「ノルウェーへ来たんです」
「あの石がある場所か」
「はい」
凛は笑った。
「向こうの世界で仕事に戻って、ちゃんと考えました」
それ以上は、
今は必要なかった。
「それで?」
「あなたに会えなくても」
凛は彼の外套を握った。
「少しでも、あなたの近くにいたかった」
アルヴァルドが、
動かなくなった。
「世界が違うから、本当は近いも遠いもないのかもしれない」
それでも。
「あの北の海は、あなたの世界につながっていたから」
「凛……」
「戻れると知ったから来たんじゃないんです」
凛はまっすぐ彼を見る。
「戻れなくても、私は北へ行くって決めてました」
アルヴァルドは、
長い間何も言わなかった。
やがて。
「自分で決めたのか」
「はい」
その一言を聞いた瞬間。
彼の表情が変わった。
「なら」
腕を引かれる。
「もう遠慮はしない」
「え――」
唇が重なった。
凛は目を閉じた。
別れの日よりも。
ずっと強く。
それでも大切にするような口づけだった。
ようやく離れたとき。
凛は息を整えながら彼を見る。
「……本当に遠慮しないですね」
「お前が戻った」
「はい」
「自分で私のところへ来た」
「はい」
「なら、もう手放す理由がない」
凛の目に、
また涙が浮かんだ。
「アルヴァルド」
「何だ」
ずっと。
言いたかった言葉があった。
凛は笑う。
「ただいま」
アルヴァルドの瞳が揺れた。
一瞬。
言葉を失ったように見えた。
そして。
もう一度、
凛を胸へ抱きしめる。
「……おかえり、凛」
その声を聞いて。
凛は彼の胸の中で、
泣きながら笑った。




