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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第18話 帰ってこい


 森を出ると、アルヴァルドの馬が待っていた。


 凛はそこで、ようやく現実的な問題に気づいた。


「……そういえば、私、馬に乗れません」


「ああ。覚えている」


 初めてこの世界へ来た日。


 凛はローデリックの馬に乗せてもらって、城まで向かった。


 するとアルヴァルドが先に馬へ跨がり、凛へ手を差し出した。


「来い」


「え?」


「城へ戻る」


「それは分かりますけど」


 凛は馬とアルヴァルドを交互に見る。


「アルヴァルドの馬に?」


「他に誰の馬に乗せると思っている」


 少し離れたところで。


 ローデリックが、何も聞かなかったような顔をして空を見た。


「……前はローデリックさんでした」


「今は私がいる」


「そういう問題?」


「そういう問題だ」


 有無を言わせない。


 でも。


 どこか子どもじみた独占欲が見えて。


 凛は笑った。


「分かりました」


 差し出された手を取る。


 身体を引き上げられ、


 アルヴァルドの前へ乗せられた。


「しっかり座れ」


「はい」


 背中に彼の身体が触れる。


 両脇から腕が伸び、手綱を握った。


「……近いですね」


「落ちたいのか」


「落ちたくないです」


「なら、このままでいろ」


 低い声が耳のすぐそばで聞こえる。


 凛は前を向いた。


 たぶん。


 顔が赤い。


「行くぞ」


 馬が歩き出す。


 森を抜け、


 遠くに城が見え始めた。


 背中にはアルヴァルドの温もり。


 耳元には馬の蹄の音。


 凛は小さく息を吐いた。


 本当に。


 戻ってきた。


     ◇


 城へ着くと、


 エドガーが凛の顔を見るなり立ち止まった。


「……リン殿?」


「お久しぶりです」


「本当に?」


「たぶん本物です」


 エドガーは何度か瞬きをして。


 やがて、大きく息を吐いた。


「よく……お戻りになりました」


 その言葉に、


 凛の胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


「陛下」


「何だ」


「そのように機嫌のよいお顔は、久しぶりに拝見しました」


「余計なことを言うな」


「失礼いたしました」


 そう言いながら、


 エドガーは明らかに笑っている。


 凛がアルヴァルドを見る。


「そんなに嬉しいんですか?」


「今さら確認するな」


「聞いてみたかっただけです」


「嬉しい」


 即答だった。


「……前よりずっと言うようになりましたね」


「お前がいなかった間に、考えが変わった」


「どんなふうに?」


「言わなければ伝わらないこともある」


 凛は少し驚いた。


 そして。


 笑った。


「いい変化です」


     ◇


 アルヴァルドが連れていったのは、


 あの治療室だった。


 扉が開く。


 凛は立ち止まった。


「……そのまま」


 窓。


 診察台。


 薬草棚。


 机。


 水を使うために整えられた場所。


 何一つ、


 大きく変わっていない。


「誰か使っていたんですか?」


「いや」


「ずっと空けてたの?」


「ああ」


「もったいない」


「構わない」


 凛は部屋へ入った。


 机の上にも埃はない。


 誰かが手入れを続けていたのだろう。


「私、戻らないかもしれなかったのに」


 アルヴァルドはすぐには答えなかった。


「戻ると思っていたわけではない」


「じゃあ、どうして」


「片づけたくなかった」


 短い答えだった。


「……それだけ?」


「ああ」


 凛はそれ以上聞かなかった。


 聞かなくても。


 十分だった。


     ◇


「もう一つ、見せるものがある」


 アルヴァルドが言った。


 連れていかれたのは、


 城の奥にある小さな書庫だった。


 そこには、


 机いっぱいに古い文書が広げられていた。


 黒い石の絵。


 見たことのない文字。


 古い地図。


「これは?」


「お前が向こうへ帰ったあと、石について調べさせた」


 凛が顔を上げる。


「黒い石を?」


「ああ」


「どうして」


 アルヴァルドは少し黙った。


「……お前が戻る方法があるのなら、知りたかった」


 凛は何も言えなくなった。


「城の記録だけでは足りなかった。北部の古い文書も集めさせた」


「そこまで?」


「王命だ」


「権力の使い方が」


「悪いか」


「……今回は何も言いません」


 そのとき。


 奥にいた年老いた男が立ち上がった。


「リン殿でございますか」


「はい」


「王立書庫で古文書を調べております」


 男は丁寧に頭を下げた。


 アルヴァルドが机の上の一枚を示す。


「説明を」


「はい」


 老学士は古びた文書を開いた。


「陛下より、北の黒石について調べるよう命を受けました」


「何か分かったんですか?」


「確かなこと、とまでは申せません」


 学士は慎重に答えた。


「ただ、黒石に関する記録は、今回が初めてではないようです」


「え?」


 凛は文書へ目を落とす。


「数百年前の記録に、北の森に現れた異邦人についての記述があります」


「異邦人?」


「衣服も言葉も、この国のものではなかったそうです」


「その人は、どこから?」


「分かりません。ただ」


 学士が別の文書を開く。


「『海の彼方ではなく、異なる空の下より来た』と語った、と」


 凛の背筋がぞくりとした。


「異なる……空」


「当時の学者の中には、不思議な説を唱えた者もおります」


「どんな?」


 学士は紙を何枚か重ねた。


「世界は一つではない、と」


 凛が目を瞬く。


「一つではない?」


「我々の世界とは別に、よく似た世界が幾つも存在し、それらは互いを見ることができない」


 一枚目の紙へ、


 もう一枚を重ねる。


「ですが、ごく一部だけ」


 指先で一点を押さえた。


「世界同士が近づく場所があるのではないか、と」


 凛は紙を見つめた。


 現代でなら。


 こんな言葉を使うのかもしれない。


 ――並行世界。


 もちろん。


 本当に量子力学で説明できる話なのかは分からない。


 ただ。


 別々の世界が、


 どこか一点だけで接している。


 そう考えるなら。


「黒い石が、その場所?」


「我々はその可能性を考えております」


 学士が頷いた。


「同じような石が、あなたがおられた世界にも存在するのでしたね」


「はい。ノルウェーに」


「それならば、その二つは」


 学士が二枚の紙の同じ位置を指す。


「異なる世界にありながら、同じ境界を示しているのかもしれません」


 凛は息を呑んだ。


     ◇


「では」


 凛は祖父の鍼箱を取り出した。


「これが石の近くで震えたのも?」


 学士が箱を見る。


「その箱自体に力があるとは考えにくいでしょう」


 凛は少しほっとした。


 祖父まで異世界につながっていた。


 そんな話ではなさそうだ。


「一度境を越えた物には、その影響が残ることがある――古文書には、そのような記述があります」


「影響……」


「あなたとともに、この箱も何度も境を通った」


「はい」


「だから、門が近づくと反応するのかもしれません」


 凛は鍼箱を見る。


 祖父から受け取った、


 ただの古い金属の箱。


 でも。


 日本からノルウェーへ。


 ノルウェーからエルグレンへ。


 エルグレンから再び向こうの世界へ。


 ずっと凛と一緒だった。


「じゃあ」


 凛はアルヴァルドを見る。


「この箱は門を開ける鍵じゃない」


「ああ」


「門が近くにあることを知らせているだけ」


「おそらく」


 それなら。


 すべてが少しだけつながる。


     ◇


「もう一つ」


 アルヴァルドが言った。


「石の光についても調べさせた」


「光?」


「お前が戻ってきたあとも、北の石にはまだ光が残っている」


 凛は驚いた。


「まだ?」


「ああ」


 学士が続ける。


「一度開いた道は、すぐ完全に閉じるわけではない可能性があります」


「ということは」


「向こう側の石も同じ状態ならば」


 一呼吸。


「再び通れる可能性があります」


 凛の胸が大きく鳴った。


「何度でも?」


「それは分かりません」


 学士は首を横に振った。


「明日閉じるかもしれない。長く続くかもしれない」


「……」


「境界についての記録そのものが少ないのです」


 保証はない。


 それでも。


 以前とは違う。


 もう完全に、


 一度きりの奇跡だと思わなくてもいい。


 凛はしばらく考えた。


 そして。


「私」


 アルヴァルドを見る。


「一度、向こうへ戻ります」


 彼の表情が変わった。


「……何?」


「そんな顔しないでください」


「今戻ってきたばかりだ」


「分かってます」


「なら、なぜ」


「何も片づけていないからです」


 ノルウェーに借りた部屋。


 仕事のこと。


 日本の病院。


 母。


 突然すべてを置いて、


 この世界へ消えることはできない。


「私、もう戻れないと思ってたから」


「……」


「向こうで生きるつもりで、準備をしました」


 アルヴァルドは黙っている。


「それを全部放り出してここに残ったら」


 凛は少し笑う。


「たぶん、いつか自分で嫌になると思うんです」


「ここにいることを?」


「違います」


 首を横に振る。


「自分で決めたことを、途中で投げた自分を」


 アルヴァルドの瞳が、


 少しだけ和らいだ。


「だから」


 凛は言う。


「ちゃんと戻って、整理してきます」


「門がまた開く保証はない」


「はい」


「今度こそ、戻れなくなるかもしれない」


「はい」


「それでも行くのか」


 凛は少しだけ迷った。


 怖い。


 当然だ。


 せっかく会えた。


 今、目の前にいる。


 この手を離したら、


 二度と触れられないかもしれない。


 でも。


「行きます」


 凛は答えた。


「そして」


 アルヴァルドの目を見る。


「戻ってきます」


「……」


「あの日とは違う」


 そっと彼の手を取る。


「あのときは、あなたが私を帰した」


「ああ」


「でも今度は」


 凛は笑った。


「私が、自分で帰ってきます」


 アルヴァルドは長い間、


 何も言わなかった。


 やがて。


 握った手に力がこもる。


「凛」


「はい」


「あの日」


 低い声。


「私は、お前に帰るなとは言えなかった」


「はい」


「だが」


 凛を引き寄せる。


「今度は言う」


 凛の胸が熱くなる。


 アルヴァルドが、


 まっすぐ凛を見る。


「帰ってこい」


 凛の目に涙が滲んだ。


「はい」


「必ず」


「はい」


「私のところへ」


 凛は笑った。


「はい」


     ◇


 その日の夕方。


 二人はもう一度、


 北の黒い石の前に立っていた。


 石の中央には、


 細い光が残っている。


 向こう側に。


 灰色の海が、


 微かに見えた。


 ノルウェー。


 凛はアルヴァルドを見る。


「今度は、すぐ戻ってきます」


「すぐとはどれくらいだ」


「分かりません」


「凛」


「だって、手続きがありますから」


「十日」


「無理です」


「二十日」


「交渉しないでください」


「一月」


「だから」


 思わず笑う。


 アルヴァルドは笑っていなかった。


 本気らしい。


「できるだけ早く戻ります」


「……分かった」


「本当に?」


「ああ」


 少し間があく。


「だが、遅いと思ったら迎えに行く方法を探す」


「どうやって?」


「学者を増やす」


 凛は吹き出した。


「また王権を使う」


「使えるものは使う」


「もう」


 アルヴァルドが凛の頬へ触れる。


「笑うな」


「だって」


「私は本気だ」


「分かってます」


 だから。


 嬉しい。


「アルヴァルド」


「何だ」


「行ってきます」


 その言葉に。


 彼の表情が一瞬だけ止まった。


 別れではない。


 今度は。


 帰ってくるために行く。


 アルヴァルドが凛へ口づけた。


 短く。


 でも。


 離れたあとも、額を寄せる。


「帰ってこい」


 もう一度。


 凛は頷いた。


「はい」


 黒い石へ手を伸ばす。


 光が強くなる。


 その直前。


 凛は振り返った。


「アルヴァルド」


「何だ」


「待ってて」


 灰青色の瞳が、


 まっすぐ凛を見る。


「ああ」


 今度は。


 迷いのない答えだった。


「待っている」


 凛は笑った。


 そして。


 門をくぐった。


 あの日とは違う。


 これは、


 さよならではない。


 自分が生きてきた人生を、


 きちんと抱えて帰ってくるための、


 ほんの短い別れだった。

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