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『婚約者に裏切られた女医、異世界で眠れない北の王を治療中です――治ったら私は帰るはずでしたが、王は私を帰す気がないようです  作者: EMo


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第19話 私と生きてほしい


 凛が再びエルグレンへ戻ってから、三か月が過ぎた。


 城下町の一角に、小さな診療所がある。


 石造りの二階建て。


 一階に診察室と処置台。

 棚には、この国で使われている薬草が並んでいる。


 城の中にも、以前アルヴァルドが用意してくれた治療室は残っていた。


 けれど凛は、


「具合の悪い人が、わざわざ城まで来るのは大変です」


 と言った。


 それで。


 城下町にも診療所を持つことになった。


     ◇


「リン先生。この子、昨日から咳がひどくて」


 若い母親が、五歳くらいの男の子を連れてきた。


「熱は?」


「昨夜は少し」


「食事は取れてます?」


「少しだけ」


 凛は子どもの胸へ耳を当てる。


 呼吸音。


 心臓の鼓動。


 身体のつくりも。


 熱が出たときの反応も。


 驚くほど、自分が知っている人間と変わらない。


 世界が違うのに。


 凛は時々、不思議になる。


「大きく息を吸ってみて」


 子どもが素直に息を吸う。


「そう。上手」


 診察を終え、


 エドガーから教わった薬草と、休養、水分について母親へ伝える。


「三日しても熱が下がらなければ、また来てください」


「ありがとうございます」


 母親が子どもの手を引き、立ち上がった。


 そのとき。


「西から戻ってきたばかりだから、疲れたのかもしれません」


 凛が顔を上げる。


「西?」


「ええ。夫の家族が西境にいるんです。戦の間は戻れなかったけれど、今は道も開いたので」


「そうだったんですね」


 凛は頷いた。


 けれど。


 母子を見送ったあと、


 机の上のカルテ代わりの紙を見つめた。


「……西境って」


 どのくらい遠いのだろう。


 隣には、どんな国があるのか。


 何年戦っていたのか。


 どんな町が焼かれたのか。


 そもそも。


 自分は、この国のことをほとんど知らない。


     ◇


「知らないことばかりですね」


 その日の午後。


 凛は城の治療室で、エドガーに言った。


「何がです?」


「エルグレンのことです」


「それはそうでしょう。来られてまだ、それほど経っておりませんから」


「でも」


 凛は薬草を一本持ち上げる。


「この薬草が熱に使われることは知ってる」


「はい」


「この国の人の脈も取れる。肺の音も聞ける。骨や筋肉も、ほとんど私の世界と同じ」


 それなのに。


「この人たちが、どんな国で暮らしてるのか知らない」


 エドガーが凛を見る。


「医者には必要ですか?」


「必要だと思います」


 凛は少し考える。


「病気って、身体だけで起きるわけじゃないから」


 寒さ。


 食事。


 仕事。


 戦争。


 暮らしている土地。


 家族。


 全部が、その人の身体へつながっていく。


「この国で人を診るなら、この国を知らないと」


「なるほど」


 エドガーは少し笑った。


「では、書庫へ行かれては?」


「書庫?」


「陛下が集められた資料なら、かなりありますよ」


     ◇


 それから。


 凛は診療の合間に、王立書庫へ通うようになった。


 地図を広げる。


 エルグレンは、思っていたより広い。


 北には山脈と深い森。


 さらに北へ進めば、黒い石のある寒冷地。


 西には、長く争ってきた隣国。


 南には交易路があり、塩や穀物、布地が運ばれてくる。


 東には大きな湖と、比較的交流の多い国がある。


 戦争は終わった。


 けれど。


 西の国境には、今も兵が置かれている。


 和平が結ばれたからといって、


 何もなかった頃へ戻ったわけではない。


「……知らなかった」


 地図を見ながら、


 凛は呟いた。


 アルヴァルドが三年間眠れなかった理由。


 夜襲。


 失った兵士たち。


 戦後の復興。


 それを、


 自分は彼の病歴として知っていた。


 でも。


 それは本来、


 一人の患者だけの出来事ではなかった。


 国中の人たちの暮らしへ続いていたのだ。


     ◇


 数日後。


 診療所から往診へ向かった帰りだった。


 市場がいつもより騒がしい。


 見ると、


 通りの向こうにアルヴァルドがいた。


 ローデリックと数人の兵を連れている。


 凛は声をかけようとして、


 やめた。


 アルヴァルドの前には、


 穀物商らしい男たちがいた。


「南からの荷が遅れております」


「理由は」


「山道の一部が崩れたと」


「備蓄は」


「今のままなら問題ありません。ただ、冬が早ければ――」


「北区の備蓄量も確認しろ。西へ回す分と分けて、明日までに報告を」


「はい」


 別の男が進み出る。


「陛下、西の街道ですが、まだ橋の修復が――」


「兵ではなく職人を増やせ。戦は終わった。道を直すのは軍のためではない」


 アルヴァルドが周囲を見る。


「人が暮らすためだ」


 凛は少し離れた場所から、


 その姿を見ていた。


 患者だった頃とは違う顔。


 凛と二人でいるときとも違う。


 王としてのアルヴァルド。


 この人は、


 こうして国を見ている。


 凛が知らないところで。


 毎日。


 誰かの暮らしが続くように。


「リン先生?」


 一緒に歩いていた診療所の手伝いの女性が声をかけた。


「あ、ごめんなさい」


「陛下に声をおかけになります?」


 凛は首を横に振った。


「今はいいです」


 アルヴァルドは仕事をしている。


 凛も仕事の途中だ。


 それが、


 妙に嬉しかった。


     ◇


 その夜。


 凛は書庫で一人、地図を眺めていた。


「最近、よくここにいるそうだな」


 声がして振り返る。


「アルヴァルド」


 彼が入ってくる。


「エドガーから聞いた」


「この国のこと、勉強してるんです」


「なぜ急に」


 アルヴァルドが隣へ来る。


 凛は地図へ視線を落とした。


「今日、西境から来た人を診たんです」


「ああ」


「でも私、西境がどんな場所なのかも知らなかった」


「それで?」


「恥ずかしくなりました」


「なぜだ」


「私はここで医者をしてるのに」


 凛は地図を指先でなぞる。


「この国で生きている人を診るなら、この国のことをもっと知りたい」


 アルヴァルドは黙って聞いている。


「それに」


「何だ」


 凛は顔を上げた。


「あなたが守ってる国のことも、ちゃんと知りたい」


 アルヴァルドの表情が止まった。


「……私が?」


「今日、街で見ました」


「声をかければよかっただろう」


「仕事中だったでしょう」


「お前もだろう」


「はい」


 凛は笑った。


「だから、あれでいいんです」


 少しだけ沈黙が落ちた。


「凛」


「はい」


「ここで生きるつもりなのか」


 問われて。


 凛は少し考えた。


「はい」


 今度は、


 迷わなかった。


「向こうへ帰ることはあります」


「ああ」


「母にも会いたいし、向こうで学びたいこともある」


「分かっている」


「でも」


 凛は地図を見る。


「ここでも生きたい」


 世界が違う。


 文明も。


 医療も。


 暮らし方も。


 何もかも同じではない。


 それなのに。


 人の身体は、


 驚くほどよく似ている。


「不思議ですよね」


「何がだ」


「世界が違うのに、人間はほとんど同じなんです」


「そうなのか」


「心臓も、肺も、骨も、筋肉も」


 凛は少し笑う。


「私の世界で勉強したことが、ここでもこんなに使えるなんて思わなかった」


 なのに。


 ここには治癒術がある。


 見たことのない薬草がある。


 空には同じように月が昇るのに、


 歴史は全く違う。


「並行して存在する世界だから似ているのか」


 凛は窓の外を見る。


「それとも、どこかで同じところから分かれたのか」


「学士たちは喜びそうな話だな」


「答え、出ると思います?」


「すぐには無理だろう」


「ですよね」


「だが」


 アルヴァルドが地図を畳む。


「お前は、それでも知りたいのか」


「はい」


「なぜ」


 凛は少し考える。


 そして。


「ここで生きたいと思ったから」


 答えた。


     ◇


 そのあと。


 アルヴァルドは凛を城の外へ連れ出した。


 月の光が、


 湖面に細長く揺れている。


 以前。


 二人で何度も来た場所。


 凛は深い青緑色の外套を着ていた。


 風は冷たい。


 でも寒くはない。


「凛」


「はい」


 アルヴァルドが足を止めた。


「私はずっと考えていた」


「何を?」


「お前がこの国に残るために、何が必要なのかを」


 凛は黙って彼を見る。


「治療室を作ればいいのか」


「……」


「城下に診療所があればいいのか」


「……」


「向こうの世界へ戻る道を残せばいいのか」


 アルヴァルドは少し自嘲するように笑った。


「だが」


 凛の手を取る。


「違った」


「何がですか?」


「私はまた、お前の人生を決めるところだった」


 凛の指を、


 大きな手が包む。


「お前にはもう、自分で生きる場所を選ぶ力がある」


「……はい」


「医者を続けるか」


「はい」


「向こうへ戻るか」


「はい」


「この国で何をするのか」


 アルヴァルドの灰青色の瞳が、


 凛だけを見る。


「それは、お前が決めればいい」


 凛の胸が、


 ゆっくり熱くなっていく。


「だから」


 一度、


 アルヴァルドが息を吸った。


「私は、私の望みだけを言う」


「……はい」


「凛」


「はい」


「私と生きてほしい」


 風の音が、


 遠くなった。


 凛はただ、


 アルヴァルドを見ていた。


「王妃として?」


 少しだけ意地悪く聞いてみる。


 アルヴァルドは、


 わずかに考えた。


「それは後からついてくる」


「後から?」


「ああ」


 彼が凛の手を握る。


「私が望んでいるのは、肩書きではない」


 静かな声だった。


「お前と生きたい」


 凛の目に涙が滲んだ。


「私、この国のこと」


「ああ」


「まだ全然知りませんよ」


「知ればいい」


「隣国のことも、歴史も、分からないことばかり」


「私が教える」


「医者もやめません」


「知っている」


「時々、向こうの世界にも帰ります」


「ああ」


「それでも?」


 アルヴァルドが、


 少し眉を寄せた。


「何度言わせる」


「確認です」


「なら、もう一度言う」


 凛の手を、


 強く握る。


「帰るなら帰ればいい」


 そして。


「だが、帰ってこい」


 凛は笑った。


 涙が一つ、


 頬を伝った。


「はい」


「それだけだ」


「本当に?」


「ああ」


 凛は一度だけ、


 目を閉じた。


 誰かの人生へ入るために、


 自分の人生を小さくする必要はない。


 この人も、


 自分も。


 それぞれに生きている。


 そのうえで。


 一緒にいたい。


 凛は目を開いた。


「では」


 彼の手を握り返す。


「一緒に生きます」


 アルヴァルドが動かなくなった。


「……アルヴァルド?」


「少し待て」


「どうして?」


「今、噛みしめている」


 凛は泣きながら笑った。


「そんなに?」


「ああ」


 彼の手が、


 凛の頬へ触れる。


「凛」


「はい」


「口づけてもいいか」


 今度は。


 凛から少しだけ近づいた。


「はい」


 唇が重なる。


 冷たい北の風が吹く。


 遠くには、


 凛がまだ知らない国々がある。


 この世界にも、


 知らないことがいくらでもある。


 でも。


 それでいいと思った。


 これから知っていけばいい。


 この国のことも。


 この世界のことも。


 そして。


 この人と生きていく時間のことも。

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