第20話 北の王は、私にだけ甘い
その冬。
エルグレンでは、戦が終わってから初めてとなる大きな冬祭りが開かれた。
城下の広場には、幾百もの灯りが並んでいる。
焼いた魚やパンの匂い。
楽器の音。
走り回る子どもたち。
空からは、細かな雪が降り始めていた。
「リン先生!」
人混みの向こうから呼ばれて、凛は振り返った。
「先生、こっちだよ」
手を振っているのは、以前腰を診た老婆だった。
「調子どうですか?」
「だいぶいいよ。先生に言われたように、ちゃんと身体も動かしてる」
「毎日?」
「……だいたい」
「怪しいですね」
「細かいねえ、先生は」
老婆が声を立てて笑う。
「リン先生」
今度は、若い女性が声をかけてきた。
「母がこの前いただいた薬草、よく効いたって」
「本当? よかった」
「今度、一緒に診療所へ行ってもいい?」
「もちろん」
その横では、以前診た子どもが凛の外套を引っ張っている。
「リン先生、もう咳出ないよ」
「本当?」
「うん!」
「じゃあ、元気になったところ見せて」
凛が屈む。
少年は得意そうに両腕を広げ、その場で一回転した。
「元気すぎるくらいですね」
母親が笑う。
気づけば。
凛の周りには、何人もの人がいた。
この街へ来たばかりの頃には、
誰一人として凛のことを知らなかった。
今は。
通りを歩けば、
誰かが「リン先生」と声をかけてくれる。
そのことが、
少し嬉しかった。
◇
突然。
広場の空気が変わった。
「あ……」
誰かが呟いた。
「陛下だ」
凛も顔を上げる。
人々が自然に道を開けていく。
その向こうから、
アルヴァルドが歩いてきた。
黒に近い濃紺の外套。
ダークアッシュブラウンの髪。
左右にはローデリックと数人の兵。
ただ歩いているだけなのに、
その場の空気が変わる。
「ああ、陛下だよ」
隣にいた老婆が、
嬉しそうに目を細めた。
「戦が終わってからも、何度もこの辺りまで来てくださってねえ」
少し離れた場所では、
年配の男たちが深く頭を下げている。
若い女性たちは、
どこか落ち着かない。
「今日も素敵……」
小さな声が聞こえた。
「声大きいって」
「だって、本当に……」
凛は思わず笑いそうになる。
アルヴァルドは、
やはり人気があるらしい。
当然かもしれない。
戦を終わらせ。
復興を進め。
自ら城下へ足を運ぶ王。
しかも。
黙って立っているだけで目を引く。
けれど。
誰も気軽には近づかない。
子どもでさえ、
母親の服を掴みながら、
遠くからアルヴァルドを見上げている。
人気がある。
でも。
王なのだ。
凛は、
その違いを初めて実感した。
◇
アルヴァルドは何人かの民と言葉を交わしながら、
広場を進んでいた。
そして。
ふと顔を上げた。
視線が、
凛と重なる。
あ。
凛がそう思ったときには、
アルヴァルドの進む方向が変わっていた。
「……え?」
隣の若い女性が声を漏らす。
「陛下、こっちへ……」
「え、誰のところ?」
凛は答えなかった。
答える必要もなかった。
アルヴァルドは、
まっすぐ凛の前まで来た。
「凛」
「アルヴァルド」
名前を呼んだ瞬間。
周囲が、
ぴたりと静まった。
凛は遅れて気づく。
いつもの癖で、
王を名前で呼んでしまった。
「へ、陛下……!」
さっきまで凛と笑っていた老婆が、
慌てて頭を下げる。
若い女性も。
子どもの母親も。
一斉に深く頭を下げた。
少年だけが、
何が起きたのか分からないような顔をしている。
「そのままでいい」
アルヴァルドが短く言った。
でも。
誰もすぐには顔を上げない。
凛は思わず、
アルヴァルドを見る。
自分の前では、
食事をしたかと聞いたり、
外套を貸したり、
黙って診療が終わるまで待つ人。
けれど。
この国の人にとっては、
簡単には顔を上げることすらできない王なのだ。
「リン先生に、この子を診ていただいて」
母親が緊張した声で言った。
「今はすっかり元気になりました」
アルヴァルドが少年を見る。
「そうか」
「……はいっ!」
少年の背筋が、
これ以上ないほど伸びた。
「もう苦しくないのか」
「はい!」
「ならよかった」
アルヴァルドは、
それだけ言って頷いた。
そして。
凛を見る。
「終わったのか」
「診療は終わりました。今はお祭りを見てただけです」
「そうか」
その瞬間。
声の温度が少し変わった。
凛には、
もう分かる。
でも。
周囲にも分かったらしい。
さっきの若い女性が、
目を丸くしている。
アルヴァルドが凛へ手を差し出した。
「来い」
「え?」
「少し付き合え」
凛は周囲を見る。
完全に注目されている。
「……ここで?」
「何か問題があるか」
「いえ」
もう諦めた。
凛は、
その手へ自分の手を重ねる。
アルヴァルドは当たり前のように握った。
「あの」
老婆が、
恐る恐る凛を呼んだ。
「リン先生」
「はい?」
老婆はアルヴァルドを一度見て。
それから凛へ小声で言った。
「陛下って……あんな顔なさるんだねえ」
「どんな顔です?」
「今の顔だよ」
凛がアルヴァルドを見る。
「何だ」
本人には、
全く自覚がないらしい。
老婆は口元を押さえて笑った。
◇
二人が向かったのは、
城壁に続く高台だった。
祭りの音が少し遠くなる。
眼下には、
無数の灯りが揺れている。
雪。
石造りの街。
その向こうには、
暗い森と山。
「きれい……」
「ああ」
しばらく、
二人で街を見ていた。
やがて。
アルヴァルドが言った。
「明日、西境へ行く」
凛が顔を上げる。
「西へ?」
「ああ。和平後の街道と砦を確認する」
「何日ですか?」
「三日」
「……三日」
思ったよりも、
声が沈んだ。
アルヴァルドが凛を見る。
「何だ」
「何でもありません」
「凛」
「本当に」
灰青色の瞳が、
じっと凛を見る。
逃げられそうにない。
凛は小さく息を吐いた。
「三日なら、すぐですよね」
「ああ」
「でも」
少しだけ迷う。
そして。
今度は誤魔化さなかった。
「少し寂しいです」
アルヴァルドが、
動かなくなった。
「……何ですか」
「いや」
目元が、
わずかに柔らかくなる。
「嬉しい」
「寂しいって言われて?」
「ああ」
「性格悪いですね」
「そうかもしれない」
凛は思わず笑った。
「アルヴァルドは?」
「何がだ」
「三日」
凛は彼を見る。
「平気?」
アルヴァルドは、
少しも考えなかった。
「寂しい」
今度は凛が黙る。
「……普通に言いますね」
「隠す理由がない」
「そうでした」
一度。
凛を門の向こうへ手放した人。
だからなのかもしれない。
この人はもう、
好きだということを、
以前ほど隠さなくなった。
凛の自由を奪うことはしない。
でも。
自分の気持ちまで引っ込めることもない。
「三日だけですよ」
「ああ」
「ちゃんと王様してきてください」
「言われなくてもする」
「知ってます」
凛は笑う。
アルヴァルドの手が、
凛の頬へ触れた。
「戻ったら」
「はい?」
「会いに行く」
「どこへ?」
「お前のところへ」
答えは、
それだけだった。
◇
三日後。
凛は朝から、
何度も診療所の窓を見ていた。
馬の音がするたびに、
反応してしまう。
自分でも分かっている。
落ち着かない。
たった三日なのに。
夕方。
最後の患者を見送る。
「ありがとうございました、リン先生」
「無理しないでくださいね」
戸を閉める。
振り返る。
そして。
凛は、
その場で止まった。
馬のそばに、
アルヴァルドが立っていた。
雪をまとった濃紺の外套。
旅の疲れが、
少しだけ顔に残っている。
でも。
間違えるはずがない。
凛の口元が、
自然に緩んだ。
「おかえりなさい」
アルヴァルドが、
一瞬動きを止めた。
「……」
「どうしたんですか?」
「もう一度言え」
「え?」
「今の言葉だ」
凛は、
少し笑った。
「おかえりなさい、アルヴァルド」
彼はしばらく、
凛を見つめていた。
やがて。
「ああ」
それだけ答えた。
でも。
その顔が、
ひどく柔らかかった。
「凛」
「はい」
「こちらへ」
次の瞬間。
腕を引かれた。
凛の身体が、
アルヴァルドの胸へ収まる。
「……三日ですよ」
「ああ」
「大げさじゃないですか」
「そうかもしれない」
珍しく、
すぐ認める。
凛はその胸へ頬を寄せた。
「私も」
「何だ」
「三日」
一度、
息を吸う。
「少しじゃなかったです」
腕に力がこもった。
「寂しかった?」
「はい」
凛は顔を上げる。
「会いたかったです」
アルヴァルドは何も言わなかった。
ただ。
凛を見つめる目だけが変わった。
だから。
今度は凛から、
少し背伸びをした。
唇へ、
短く触れる。
離れた瞬間。
「……凛」
「何ですか」
「今のは」
「会いたかったので」
それ以上、
言わせてもらえなかった。
今度はアルヴァルドから、
深く口づけられた。
◇
しばらくして。
アルヴァルドが馬に掛けていた小さな布包みを取った。
「これを」
「何ですか?」
凛が開く。
見覚えのある葉が現れた。
「……これ」
以前、
エドガーの本で見たことがある。
西の高地でしか採れないという薬草。
「一度、実物を見てみたいって……」
「ああ」
「覚えてたんですか?」
「お前が言った」
それだけ。
国境の街道を確認して。
砦を見て。
兵や役人の報告を聞いて。
王としての仕事をして。
それでも。
自分が何気なく口にしたことを、
覚えていた。
凛は薬草を見つめる。
「嬉しいです」
「そうか」
「すごく」
アルヴァルドの表情が、
ほんの少し緩む。
そこで。
凛は気づいた。
「もしかして」
「何だ」
「私が喜ぶと思って持ってきたんですか?」
「他に何がある」
当然のように言われた。
凛は笑うしかなかった。
◇
馬へ乗る。
凛は、
いつものようにアルヴァルドの前へ座った。
雪の降る街道を、
ゆっくり城へ向かう。
しばらくして。
「凛」
「はい」
「手を出せ」
言われるまま、
右手を差し出す。
アルヴァルドが握った。
「冷たい」
「冬ですから」
そのまま。
凛の手を、
自分の外套の内側へ入れる。
「私、自分の外套着てますよ」
「知っている」
「手袋もあります」
「ああ」
「なら――」
「凛」
「はい」
背後から、
静かな声がした。
「私が温めたい」
凛は、
何も言わなくなった。
指先が、
少しずつ温かくなる。
こういう人なのだ。
凛ができないから、
手を伸ばすのではない。
凛が一人では生きられないから、
守ろうとするのでもない。
ただ。
自分がそうしたいから、
凛を大切にする。
「アルヴァルド」
「何だ」
「前は」
一度、
言葉を探す。
「どうしたら私がこの国に残れるか、考えてましたよね」
「ああ」
「今も?」
「いや」
すぐに返ってきた。
「もう考えていない」
「どうして?」
「お前が自分で戻ってきたからだ」
凛は黙る。
「だから今は」
「はい」
アルヴァルドの腕が、
凛を支える。
「何をすれば、お前が笑うかを考えている」
胸の奥が、
ゆっくりと熱くなった。
凛は、
手の中の薬草を見る。
「それで、これ?」
「ああ」
「外套も?」
「ああ」
「城下の診療所も?」
「必要だっただろう」
「迎えに来るのも?」
少しだけ間があいた。
「それは」
耳元で低い声がする。
「私が会いたい」
凛は笑った。
「それ、一生続けるつもりですか?」
アルヴァルドは、
やはり少しも迷わなかった。
「そのつもりだ」
凛は、
自分の手を包む大きな手へ、
そっと指を絡めた。
◇
城の灯りが、
雪の向こうに見えてきた。
凛はその景色を見ながら、
少しだけ笑った。
眠れない王を治療するために、
この世界へ来た。
その人はもう、
凛がいなくても眠れる。
治療は、
とっくに終わっている。
それでも。
人々から敬われ、
国を背負い、
誰もが簡単には近づけない北の王が。
凛を見つければ、
大勢の中からまっすぐ歩いてくる。
何気なく口にしたことを覚えている。
三日離れただけで、
会いたかったと言う。
凛が笑う理由を、
考えている。
そして。
それを、
一生続けるつもりらしい。
どうやら私は。
眠れない北の王を治療したら――
その王に、
これから先ずっと、
溺愛されることになったらしい。




