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第10話 横須賀沖の威嚇射撃 - 鋼鉄の引越し(下)

慶応四年(一八六八年)四月二〇日、午後。


 相模国・横須賀沖の海面は、春特有の気まぐれな風に煽られ、せわしなく白波を立てていた。うねる波間には、これから始まろうとする壮大な逃避行を暗示するかのような、重苦しい緊張感が漂っている。


 その荒波を切り裂き、威風堂々と停泊している巨船があった。幕府海軍旗艦、機帆走フリゲート「開陽丸」である。

 南山産の良質な無煙炭を焚く開陽丸の煙突からは、細く白い蒸気だけが立ち上り、いつでも最大出力で動ける静かなる闘志を示している。


 排水量二五九〇トンを誇るこの海の要塞の艦橋に、海軍副総裁・榎本武揚は立っていた。彼の首から下げられた真鍮製の双眼鏡が捉えているのは、はるか南の水平線ではない。目と鼻の先、横須賀の港からゆっくりと引き出されていく、異形の船団の姿であった。



 先頭を行くのは、パシフィック・メール社の大型外輪船コロラド号である。その巨大な外輪が海水を掻き回し、白い航跡を残している。その船尾からは、人間の腕ほどもある太い鋼鉄のワイヤーが何本も張り出し、後方の巨大な構造物を曳航していた。


 それは、どう見ても通常の船ではない。横須賀ドックの入り口を塞ぐために造られた、長さ三〇メートルにも及ぶ鉄製の船型ケーソン(潜函)であった。本来ならば、ドック内の数万トンの海水を堰き止めるための分厚い扉である。その内部のバラストタンクの水を抜き、空洞にして限界まで浮力を持たせ、巨大な鉄の箱舟バージへと強引に転用したのである。



 波がうねるたび、コロラド号の蒸気ウィンチが悲鳴のような摩擦音を上げる。太い曳航索がパンと張り詰め、次の瞬間にはだらりと弛む。その度に、鉄の箱舟は重々しく波に抗うように身をよじらせていた。


 ケーソンの内部には、高さ六メートル、総重量二〇トンの巨体を誇る三トンスチームハンマーをはじめ、大口径の旋盤やフライス盤といった、近代工業を産み出すための工作機械マザーマシンが満載されている。少しでも重心のバランスを崩せば、未来を担う貴重な機械群ごと、鉄の箱舟はあっという間に海底の泥へと沈む。極限の緊張感が、一本の曳航索を通じて海面全体に伝播しているようであった。



「大した腕だ。あのバカでかい鉄の塊を、本当の箱舟に乗せちまうとはな」


 榎本は双眼鏡を下ろし、この常軌を逸した超重量物運搬を成功させた技術者と職人たちの執念に、内心で深く舌を巻いた。

 だが、感傷に浸っている暇はない。榎本の視線は、横須賀の北、追浜おっぱまの海岸線へと鋭く向けられた。


 海岸線に沿って急行してくる一団があった。長州藩の部隊、およそ八〇〇名である。


 彼らは、西郷隆盛と河合継之助の間で交わされた「大阪湾合意」、徳川の私有財産搬出を認めるという条約の存在を知ってはいたが、現場の血気盛んな兵士たちはそれに到底納得していなかった。



「徳川が宝を持ち出しているぞ! あれがあれば大砲が作れる!」


「合意など知ったことか! 奪い返せ!」


 手柄を焦る功名心と、目の前で国富がごっそりと流出していくことへの焦燥感が、彼らを理性を欠いた強行進軍へと突き動かしていたのである。彼らは和船や小舟を何艘も出し、海上の鉄の箱舟に肉薄して強奪しようと目論んでいた。



「……長州の連中も懲りないねぇ」


 榎本は、眼下の光景を冷ややかに見下ろしながら呟いた。彼の横で、信号手が緊張した面持ちで待機している。 


「総裁、撃ちますか?」


「ああ。だが、当てるなよ。ああいう奴らは言葉よりも物理で会話するタイプだ。丁重なご挨拶を一発、お見舞いしろ」


 榎本は武士として血気にはやるのではなく、国際法を熟知した近代海軍の指揮官として極めてドライに振る舞った。彼が手を挙げると同時に、開陽丸のマストに色鮮やかな国際信号旗がスルスルと掲揚された。


『本艦ハ、大阪湾合意ニ基ヅキ、私有財産ノ搬出ヲ護衛ス』


『接近スル者ハ、条約違反ト見ナシ、無警告デ粉砕スル』


 沖合には、この事態の監視役オブザーバーとして、英国海軍の測量艦サーペント号が停泊し、ユニオンジャックを悠然と翻している。これ以上の長州兵の進軍は、徳川のみならず大英帝国への明白な敵対行為と見なされるという、絶対的な国際政治の状況が整っていた。


 だが、長州の部隊は止まらない。彼らは怒号を上げ、ライフルを空に向けて威嚇しながら、海岸線からボートを下ろそうと群がっている。



 榎本は懐中時計を一瞥した。秒針が正確に時を刻んでいく。


「三十秒経過。警告終了。主砲、前方の海岸線を削れ」 


 腹の底を激しく揺さぶる轟音と共に、開陽丸の主砲である二六センチクルップ砲が真っ赤な火を噴いた。巨大な砲弾は空気を引き裂くような唸りを上げて飛翔し、長州兵の進軍ルートの遥か前方、無人の荒れ地へと正確に着弾した。


 鼓膜を破るような爆発音と共に、巨大な土柱が天高く噴き上がり、地面が大きく波打つ。爆圧によって巻き上げられた土砂が、まるであられのように海岸線の兵士たちへと降り注いだ。


 その圧倒的な破壊力の前に、さしもの長州兵たちも凍りついたように足を止めた。小銃や旧式の前装砲とは次元が違う、近代兵器の絶対的な暴力。侍の気合や大義名分を挟む余地の一切ない、冷酷な物理的排除であった。


 長州の指揮官は、ギリギリと歯噛みしながら、もはや撤退の号令をかけるしかなかった。彼らは、指をくわえて、目の前で「国富」が船に積み込まれ、海へ逃げていくのを見ていることしかできなかったのである。




同日夕刻。

横須賀沖。


 放った一撃は、新政府軍の浮ついた功名心を物理的な恐怖で完全に打ち砕いていた。血気にはやっていた長州軍が引き返していく。その無様な敗走の軌跡を、波間に浮かぶ一隻の小さな蒸気内火艇ランチの上から、冷ややかに見届けている男がいた。


 勘定奉行・小栗忠順である。


 彼の視界の先では、スチームハンマーという重工業の心臓を呑み込んだ巨大なケーソンを曳航するコロラド号をはじめ、無数の輸送船団が隊列を成していた。茜色に染まる夕陽を背に受け、黒々とした煙を吐き出しながら、目指す南の海へと力強く進んでいく。


 船団のデッキには、住み慣れた故郷を捨て、未知の南半球へと旅立つ職人やその家族たちが鈴なりになっていた。彼らの多くは、西の空に黒いシルエットとして浮かび上がる富士山に向かって、深く頭を下げ、あるいは静かに手を合わせている。二度と戻れぬかもしれない祖国への別れと、新天地での生き残りへの祈りが、夕風に乗って聞こえてくるようであった。



 波に揺れる内火艇の上、小栗の傍らには、フランス人技師レオンス・ヴェルニーが黙然と立っていた。


 彼のサファイアのような青い瞳には、巨大な安堵と、胸を締め付けられるような一抹の寂しさが入り混じっていた。


 彼は、技術者たちと共に南山へ向かう安全な客船に乗るよう小栗から幾度も勧められていたが、それを頑なに固辞し、この極東の地で共に夢を見た小栗の傍に、最後まで留まることを選んだのである。


「……本当に、一緒に行かないのですか? ムッシュ」

小栗は、呆れたような声で尋ねた。


ヴェルニーは静かに小栗に語り掛けた。

「あなたは、ご自分の手で生み出した未来の船に、自らは乗らないとおっしゃる」


「ええ。私の仕事は、まだ終わっていませんから」


 小栗は表情を変えることなく、懐から使い込まれた手帳を取り出した。革張りの表紙を開くと、そこには微細な文字で、まだこなさなければならない「未処理」の案件がびっしりと記されている。 


『上野・寛永寺の処理』『品川沖・最終船団の編成』……。それは、国家を畳むという巨大な業務の、最後の、そして最も厄介な残務処理のリストであった。


「横須賀と横浜の大物は、こうして無事に逃がすことができました。これでもう、我らの喉首が致命的に抉られることはありません。ですが、江戸市中には、まだ逃げ遅れた佐幕派の市民や職人、それに、運び出しきれなかった貴重な書物や図面が山ほど残っています。

 何より、江戸城で一人、新政府の連中を相手に立ち回っている勝殿にだけ、『店じまい』の泥をすべて被らせるわけにはいきませんよ。あいつは口は達者ですが、貧乏くじを引くのは昔から私の役目と相場が決まっていますからね」


 小栗は、ふっと口元を緩め、ニヤリと笑った。それは、亡国の宰相が浮かべるような悲壮な笑みでは決してない。全ての荷物を安全に送り出し、空っぽになった巨大な倉庫の鍵を、最後にカチャリと閉める管財人の、底知れぬ自信と皮肉に満ちた顔であった。


「それに、新政府の連中が、この横須賀の見事なまでの惨状を見れば、間違いなく逆上するでしょう。しかも夜逃げしているのは、この江戸の金目のもの全てなんですからね。

 その怒りの矛先を、無防備な江戸市中の民に向け、八つ当たりをする危険性が高いと思うんですよ。

 連中の血走った目を逸らし、港の搬出作業から遠ざけるための陽動デコイが必要なんです」


「陽動、ですか?」

ヴェルニーが怪訝そうに眉をひそめる。


「ええ。今、上野の山に、血気盛んな者たち……彰義隊が続々と集まっています。

 彼らには本当に気の毒なことですが、新しい国へ向かう船の出航を祝うために、少しばかり派手な花火になってもらいましょう。

 連中が上野の山で大騒ぎしているその隙に、最後の荷物を品川から根こそぎ海へ出すのです」


 小栗の紡ぐ言葉は、どこまでも冷徹で、一見すると非情の極みであった。だが、ヴェルニーには痛いほど分かっていた。その冷たい仮面の奥底には、一人の命も、一冊の本も、一本のネジすらも無駄にはしないという、国家の実務家としての凄まじい執念が青白い炎のように燃え盛っていることを。


「帰りましょう、ヴェルニーさん。

 まだ、江戸が私を待っています」


 小栗が静かに命じると、蒸気内火艇は波を蹴立てて大きく回頭し、もうもうと黒煙を上げながら、暗くなり始めた北の海へと走り出した。


小栗は一度だけ、遠ざかる南行きの船団を振り返った。 

 それは、彼がこれまでの自らの政治生命と心血を注いで作り上げた「日本の未来」そのものであった。彼は、そのかけがえのない未来を自らの手で本土から切り離し、冷たい海へと流したのである。残った自分は、やがて燃え尽きる運命にある江戸という古い街と共に、最後の後始末をつける。


横須賀の海に、深い夕闇が迫っていた。

 日本の心臓を抉り出され、完全に空っぽになったドックの冷たい壁面には、ただ寄せ返す波の音だけが、虚しく、そして何処までも響き渡っていた。





四月二六日。


 すべての搬出作業が完全に終了し、南山行きの第一陣船団がはるか赤道を越えようとしていた頃、横須賀にようやく新政府の正規の接収部隊が到着した。


 率いるのは、佐賀藩士・江藤新平である。


 彼は、反射炉を自力で築き、アームストロング砲を鋳造した技術立国・佐賀が誇る俊英であった。

 江藤は誰よりも「鉄」と「機械」がもたらす国家の力を理解していた。だからこそ、この横須賀の巨大な設備群を接収し、新政府の富国強兵の絶対的なかなめとすることを、何よりも渇望し、夢見ていたのである。


 彼は、以前から幕府側が私有財産を名目に様々な物資を持ち出しているという噂を耳にしてはいた。長州兵たちが海上で退けられたという不愉快な報告も入っていた。だが、江藤は生来の理知から、心のどこかで事態を楽観していた。


(いくら徳川が足掻こうとも、限界がある。机や小銃ならともかく、あの巨大な工場群を、ボイラーを、まるごと持っていけるはずがない。物理的に不可能だ)




「ここが、東洋一の製鉄所か」


 江藤は馬を乗り入れ、なだらかな坂を下って第一工場へと急いだ。

 目前に広がるのは、フランスから輸入された赤煉瓦で精緻に組み上げられた重厚な建物群。空高くそびえ立つ巨大な煙突は、微かな煤の匂いを残しながらも、堂々たる威容を誇っていた。外見は全くの無傷である。砲弾の跡一つない。


 江藤は、新政府がこの完璧な近代を手に入れたという事実に、冷徹な彼にしては珍しく、高鳴る鼓動を抑えきれずにいた。期待に胸を膨らませ、数人の部下を伴って工場の巨大な鉄扉の前に立つ。


……静かすぎる。


かつては大地を揺らすような轟音が響き、蒸気が白く渦巻いていたはずの場所。

 だが、今のそこを支配しているのは、鼻腔の奥を刺すような、強烈で禍々しい化学的な異臭であった。

 コークスを焼き、石炭ガスを精製する際に出る、コールタールやアンモニア水の澱んだ残り香。文明がこの地から蒸発した後に遺された、腐敗臭にも似た気配である。


江藤は顔を顰め、丘陵側に整然と並ぶ精錬炉の列へと歩み寄った。

 そこには、六十基を超えるパドリング炉や、巨人の喉元のようなキュポラが、墓標のように静まり返っていた。


「何だ、これは!」


江藤が叫んだのは、炉の心臓部を覗き込んだ時だった。

 本来ならば、そこには溶けた鉄を抜き取った後の、空のレンガ空間があるはずだった。だが、彼の目に飛び込んできたのは、炉の底から溢れ出し、耐火レンガと一体化してカチカチに冷え固まった、数十トンにも及ぶ醜悪な鉄の塊であった。


それは、冶金学における禁忌、サラマンダー(炉冷え)工作の痕跡だった。


 無理に冷却され、レンガと分子レベルで融着した巨大な地金は、もはや熱を加えても容易には溶けない。これを取り除くには、炉そのものを爆破し、瓦礫の山から一からレンガを積み直すしか道はなかった。


江藤は、冷たく沈黙する炉の壁に手を触れた。

 指先から伝わってくるのは、文明が去った後の、氷のような虚無感だった。


「奴らは、機械を持ち去っただけではないのか……」


背後に控える黒田大尉が、震える声で補足した。

「参謀殿……。残された炉も、ボイラーも、すべて物理的に破壊されています。心臓部となる精密な弁や羽口を抜き取った上で、このサラマンダーを流し込まれてます。ここにあるのは…我々が手に入れたのは、再利用不可能な、巨大なレンガの死骸の山に過ぎません」


 江藤は、異臭の漂う冷え切ったコンビナートの全景を見渡した。


あちらにも、こちらにも何もない。


あるのは、単なる空虚ではない。

 後から来る者たちが、二度とその場所を再起させることができぬよう、周到に施された「死」の刻印であった。

 

産業的な脳死――。

 その残酷なまでの徹底ぶりに、江藤の背筋には、理解を超える恐怖に似た悪寒が走った。



 そして、工場の最奥部。最も天井が高く、設計図面上で製鉄所の絶対的な中枢と記されていた鍛造場にたどり着いた時、彼は完全に絶句した。


 重い扉を押し開けると、長年油に晒されてきた蝶番が悲鳴のような音を立てた。

 西日が、広大な工場内部へと斜めに差し込む。

 だが、江藤の足は、その一歩目で凍りついたように止まった。


「……は?」


 江藤の口から、およそ彼らしくない間の抜けた声が漏れた。


 そこには、何もなかった。


 いや、正確には広大すぎるほどの「空間」だけがあった。

 差し込む陽光が照らし出したのは、見事なまでに掃き清められたような、だだっ広い土間である。


 江藤の明晰な頭脳が、目の前の光景を即座に処理しようとフル回転を始める。略奪されたのではない。暴徒に破壊されたのでもない。


 江藤は、工場の中に踏み込み、周囲を観察した。高い天井を見上げる。そこには、すべての機械に動力を伝えるための心臓部たるラインシャフトが、無惨に引き抜かれた跡があった。残されているのは、天井の梁から所在なげにぶら下がる、切断された鎖と空虚なフックだけである。


 視線を床に落とす。一面に広がるコンクリートには、工作機械が長年据え付けられていたことを示す、機械の底面と同じ形をした白い跡だけが点々と並んでいる。そして、その四隅には、機械を固定していた太いアンカーボルトが、根本から無残に切断された銀色の断面を覗かせていた。微かに漂う、乾燥しかけた機械油の染みと匂いが、つい数日前までここで確実に巨大な鉄の塊が稼働していたことを無言で証明していた。


 それはまるで、家財道具を一切合切持ち去り、完璧に掃除までして退去した後の借家のように、徹底的かつシステマチックに「空っぽ」であった。


「ば、馬鹿な! そんなはずはない! ウィットウォースの旋盤は!? シリンダーの中ぐり盤は!? ベンディングローラーはどうした!?」


 江藤は、普段の冷静さをかなぐり捨て、足をもつれさせながら工場の中を走り回った。


 あちらにも、こちらにも何もない。あるのは、規則正しく並んだ、ボルトの切断痕と油の跡だけだ。彼らが持ち去ったのは機械単体ではない。治具、予備の部品、計測器に至るまで、産業を成り立たせるための「生態系」そのものが、根こそぎ削り取られているのだ。江藤の背筋に、理解を超える恐怖に似た悪寒が走った。


 そして、工場の最奥部。最も天井が高く、設計図面上で製鉄所の絶対的な中枢と記されていた鍛造場にたどり着いた時、彼は完全に絶句した。


そこには、幾つかの巨大な長方形の穴が、墓穴のようにポッカリと口を開けていた。

 本来ならば、そこにはフランス・スナイデル社製の、高さ六メートル、二〇トンの巨体を誇る三トンスチームハンマーが、神のように鎮座していたはずの場所である。その圧倒的な打撃力に耐えるため、地下深くまで打たれていたはずの基礎のコンクリートが、巨大な歯を抜かれた跡のように寒々しく露出している。


(あの二〇トンの鉄塊を……どうやって? 船に乗せただと? 正気ではない。いや、奴らはそれをやり遂げたのだ!)


 江藤は、震える足でその巨大な穴の縁に立った。

 穴の底には、昨夜の雨水が泥水となって溜まり、一枚の真新しい板切れがプカプカと浮いていた。


 江藤が部下に命じてその板切れを拾い上げさせると、そこには達筆な墨書で、幕府の最高財務責任者たる小栗忠順の筆跡と思われる文字が、冷酷なまでに整然と記されていた。


いしずえは据え置きそうろう、あとはよしなにつかまつるべし

(基礎は残しました。あとはご自分でどうぞ ) 』


「……小栗……小栗ィィィッ!!」


 江藤の絶叫が、何も吸音するもののない空っぽの工場に虚しく木霊こだました。怒りに顔を歪めながらも、江藤の明晰な理性が、新政府が置かれた取り返しのつかない状況を残酷なまでに正確に弾き出していた。


 彼は完全に理解した。幕府は、戦に敗れて単に命からがら逃げたのではない。この国の「背骨」であり、明日を生み出す「子宮」を、極めて計画的かつ外科手術のように精密に引き抜いていったのだ。建物という見栄えの良い「外骨格」だけを残し、国を動かす筋肉と内臓をすべて持ち去ったのである。


 これでは、いくら立派な赤煉瓦の建物があっても、釘一本、ネジ一つすら作れない。新政府は、ここから文字通り、マイナスからのスタートで莫大な外貨を借金して欧米から機械を輸入し、外国人の技師を雇って据え付け直さなければならない。それには、国家予算を傾かせるほどの莫大な金と、数年、いや十数年という絶望的な歳月が必要になるだろう。


 そしてその間、南へ逃げた連中は、すでに完成されたこの腹わたを使って、自分たちの何十歩も先を歩み続けるのだ。


江藤は、持っていた目録を力なく手から滑り落とし、その場に崩れ落ちた。

 彼の目には、コンクリートの床に残された油の染みが、旧幕府軍の実務家たちが最後に残していった、冷酷な嘲笑の形に見えた。


「これが、彼らのやり方か。戦わずして我々を空っぽの箱に閉じ込め、未来を奪い去ったというのか」


 江藤の呟きは、怒りというよりも、己の限界を超える知略を見せつけられた者の、深い深い絶望の吐息であった。



 外の横須賀の空に、トンビの鳴き声が虚しく、そして何処までも高く響き渡る。


 日本列島から近代産業の心臓が完璧に抉り出され、海の向こうへと完全に消え去ってしまったという取り返しのつかない事実を、新政府の官僚が初めて物理的に、そして痛烈に突きつけられた瞬間であった。




第四部 第9話 完


はい、これで横須賀製鉄所の引っ越し完了です。


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


渾身の新連載!

「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

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「異聞 五稜郭」

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宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

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ご興味がある方はご一読くださいませ。


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