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第11話 石川島造船所 - 鉄を運ぶ木の方舟

100話目の投稿になりました。

本当は50話位で終わるはずだったんですよ。

気がついたら全然終われそうもありません。

これからも私の法螺話にお付き合いいただけるとうれしいです。

慶応四年(一八六八年)四月一〇日、早朝。


 江戸の空は、厚くどんよりとした春霞に覆われていた。


隅田川の河口にぽっかりと浮かぶ人工島、石川島造船所。

 水戸藩の創設に始まり、幕府が拡張を続けてきたこの広大な敷地は、官営の軍事拠点である横須賀製鉄所とは明確に異なる独自の熱気を持っていた。ここは、民間需要にも応える蒸気船、とりわけ木鉄交配船および初期鉄船建造のメッカとして、江戸の海運を支える活気に満ちた場所であった。

 広大な敷地には、一〇〇〇トン級の大型船舶を建造可能な三基の巨大なドライドックが整然と並び、それぞれが独立した生産能力と職人たちの生態系を持っていた。


 だが、この日の石川島は、新たな船を「造る」ための前向きな活気ではなく、自らの手で築き上げた城を「捨てる」ための、異様でヒステリックな切迫感に包まれていた。


 新政府軍の江戸掌握が刻一刻と進行しつつある中、隅田川河口というこの立地は、横須賀以上に敵の目と鼻の先にあった。東海道を下ってくる官軍の先鋒が、あるいは江戸市中を制圧した薩長の部隊が、いつこの島を封鎖しにやって来てもおかしくない。横須賀のように数ヶ月をかけた緻密で計画的な解体・搬出作業を行う時間的猶予は、すでに完全に失われていたのである。




 重い朝靄が立ち込める中、幕府の造船技師・肥田浜五郎は、石川島の第一ドックを冷たい眼差しで見下ろしていた。彼の目の下には、連日の徹夜作業による濃い隈が刻まれている。


 すり鉢状に掘り下げられた深いドックの底には、建造途中であった一〇〇〇トン級木造貨物船の巨大な骨組み龍骨キール肋材フレームが、まるで打ち上げられたクジラの骸のように横たわっている。


 隣の第二ドックにも、同様の未完成の船殻ハルがもう一隻、沈黙して並んでいた。外板はあらかた張り終えられているものの、甲板はまだ張られておらず、船の心臓である蒸気機関も、風をはらむマストも搭載されていない。上部がぽっかりと空いた、ただの巨大な木の桶のような状態であった。


 常識的に考えれば、このような未完成品はドックに放棄し、すでに完成して港に浮かんでいる船に人員と荷物を乗せて逃げるのが、撤退戦の定石である。重たく嵩張る機械など見捨ててしまえば、身軽に逃げられる。

 しかし、肥田は手に持った作業工程表と潮見表を交互に睨みつけ、技術者としての純粋な愛情を自らの手でへし折るような、冷徹極まりない決断を下した。



「……建造計画を全て御破算にする。甲板も、機関室の隔壁もいらん」


 肥田のひび割れた声が、静まり返ったドックに響いた。集まった船大工や機関士たちは、技師長の言葉の意味がすぐには理解できず、呆然と顔を見合わせる。


「外板の防水処理だけを、徹底的に、完璧にやれ。このドンガラ(船殻)を丸ごと、機械を運ぶための巨大な箱として使う」


 それは、船を船として完成させることを永遠に諦めるという、造船所にとっての絶対的な敗北宣言に等しかった。だが、肥田の目は血走っていた。新政府軍にこの島を明け渡す前に、日本の重工業を生み出す工作機械群マザーマシンを、何としてでも海へ逃がさねばならない。

 通常の貨物船のハッチ(搬入口)からは物理的に絶対に入らない、超重量の機械群。これらを分解せずに運ぶには、甲板のない、上がぽっかりと空いたこの未完成の船体を利用し、クレーンで真上から腹の中へと放り込むしか、もはや手が残されていなかったのである。


 本来なら白波を蹴立てて外洋を走る美しい流線型の蒸気船になるはずだった船体が、ただの巨大な「荷車」として扱われるための無骨な補強工事へと切り替わる。現場には、職人たちの戸惑いと、行き場のない怒りのような騒然たる空気が満ちていった。


          ◆


四月一五日。日中。


 石川島造船所内は、鉄と木材が悲鳴を上げるような破壊音と、男たちの怒声に支配されていた。

 彼らがこの「未完成の船」の腹の中に詰め込もうとしているターゲットは、並の重量物ではない。三つのドックと広大な工場群の生産能力を根底から支えていた、巨大な産業設備そのものであった。


 まず、工場の心臓部たる動力室の解体が急ピッチで進められていた。各ドックに併設された工場には、それぞれ三十から五十馬力級の定置式蒸気機関が計三基、巨大なフライホイールを伴って設置されていた。この巨大な心臓から生み出される動力が、天井に張り巡らされた「ラインシャフト(伝動軸)」と無数の革ベルトを介して、工場内のすべての工作機械へと血液のように分配されていたのである。


 肥田は、機械単体だけでなく、この動力源と伝達系の全回収を命じていた。天井の梁からシャフトを引き剥がし、油まみれの重い革ベルトを巻き取っていく作業は、工場から神経と血管を引き抜くような凄惨な光景であった。


 鍛造・鋳造部門からは、かつて石川島のリズムそのものであったナスミス式蒸気ハンマーの打撃音が完全に消え失せていた。一トン級が一つ、〇・五トン級が二つ、計三基の蒸気ハンマーが、その重厚なシリンダーを分解され、荷車へと載せられている。鋳造用溶解炉キューポラに空気を送っていた心臓部たる送風機ブロワーも、無惨に配管を切り離されていた。


 そして、当時の木鉄交配船建造の要であった木工部門でも、解体が完了しつつあった。船の肋材フレームや梁となる巨大なチークや欅の原木を切り出すための、帯鋸盤や竪挽鋸盤が六台。さらに、分厚い木材を蒸気で蒸して柔らかくし、船体の曲線に合わせて曲げるための巨大な蒸気煮沸槽スチーミング・タンク三槽までもが、釜ごと分解して持ち出されようとしていた。


だが、真の地獄はこれからであった。


「ゆっくり降ろせ! 揺らすな、ワイヤーが切れるぞ!」


 ドックの脇に急造された巨大な三脚クレーンが、重々しい唸りを上げる。数十人の職人が太い麻ロープを握りしめ、前腕の筋肉を爆発させるように隆起させて掛け声を合わせる。


 宙を舞い、ぽっかりと口を開けた未完成船体の腹の中へと直接下ろされようとしているのは、金属加工の森を形成していた超重量級の機械たちである。

 幅三メートル、厚さ二十ミリの分厚い鉄板を冷間・熱間で飴細工のように曲げる、巨大なベンディングローラー(三本ロール)が三台。船体の外板やボイラーを作るためには絶対不可欠なこの怪物が、空中のワイヤーの先で不気味に揺れている。

 さらに、厚い鉄板を一撃で切断し、リベット穴を開けるパンチング&シャーリングマシンが六台。エンジンのシリンダーブロックの接合面を平滑にする平削りプランナーが五台。リベット穴穿孔用のボール盤が十二台。


 極めつけは、十五台以上ある旋盤群の中でも一際異彩を放つ、全長五メートル以上のプロペラシャフトを削り出すための大口径長尺旋盤、計五台であった。これほどの長尺物を通常の船のハッチから入れることは不可能だ。甲板がない状態だからこそ、クレーンで真上から「胃詰め」にすることが可能だったのである。


 だが、ここでの真の戦いは、分解や運搬ではない。物理学と数学を用いた「重心計算」であった。


 肥田浜五郎は、作業着の袖を捲り上げ、鉛のおもりを下げた下振りを手に、船底の配置図と格闘していた。彼の足元には、数式がびっしりと書き込まれた和紙が散乱している。


 何十トンもの鉄塊を、船底のどこに配置するか。船のメタセンター(傾心)をどこに維持するか。少しでも左右や前後に偏れば、ドックに水を入れて浮かべた瞬間にバランスを崩して転覆し、日本の未来を担う貴重なマザーマシンは隅田川の泥の底へと永久に沈むことになる。


「右舷のローラーを二寸前にずらせ! 足りない重量分は、旋盤の台座で相殺する! ハンマーのシリンダーは船体の中心軸から一ミリもずらすな!」


 肥田は冷や汗を流しながら、ミリ単位で機械の据え付け位置を指示していく。ウインチの歯車が噛み合う悲鳴。職人たちの荒い息遣い。それはまさに、土木的・力学的な極限であった。



工場群の裏手では、職人たちの家族が、張り詰めた空気の中で荷造りに追われていた。

 油まみれの作業着を急いで行李に詰める妻たち。親方の背中を見て育った若い徒弟の鶴太は、工場の床に這いつくばり、ほうきと塵取りで「真鍮の削りカス」を必死に集めていた。南山に行けば、この塵一つすらも貴重な資源になるかもしれないからだ。彼らは家だけでなく、石川島という町内会のコミュニティ、そして「技術」という目に見えない資産を、丸ごと梱包しようとしていたのである。


          ◆

同日夕刻。


 江戸の西の空が、血のような茜色に染まっていた。

 第一ドックに横たわる船体は、限界まで超重量の機械を詰め込まれ、不格好に腹を膨らませていた。船としての流麗さは完全に失われ、ただの鉄と木の巨大な塊——まさに「浮く倉庫」に成り下がっている。


 その船体の上で、石川島の船大工を束ねる老棟梁・源蔵が、木屑と油にまみれた手ぬぐいで顔を覆い、声を震わせていた。

 源蔵は、幕府が和船から西洋式の蒸気船へと移行する過酷な時代を生き抜き、長年、海を駆ける美しい船を造ることに己の命を懸けてきた男である。彼にとって、手塩にかけて育ててきた船殻が、ただの「荷車」として凌辱されている目の前の異形は、耐え難い光景であった。


「……肥田の旦那。いくら何でも、こいつは酷すぎる」


 源蔵は、赤く充血した目で、涙を堪えて肥田に抗議した。その節くれだった太い指が、無念さに震えている。


「こんな無様な姿で海に放り出すなんて、造った船にも、神聖な海にも失礼だ。大工の誇りが許さねえ……。俺たちは、荷物を運ぶタライを造るために、かんなの研ぎ方を覚えてきたんじゃねえんだ!」


 その言葉には、江戸の職人としての純粋な美学と、時代の波に飲まれゆく意地が込められていた。傍らで控えていた見習いの鶴太も、親方の涙を見て目を潤ませている。

 だが、肥田は丸めた青図(図面)で、源蔵の広い胸を無骨に小突いた。そこに同情や感傷の入り込む余地はない。あるのは、国家の生存と産業の未来を最優先する近代実務家としての、冷徹な切り返しであった。


「誇りで、明日の飯は食えない」


 肥田は、船底に鎮座する巨大な五メートル級の長尺旋盤を指差した。


「源蔵さん。あんたの気持ちは痛いほど分かる。だがな、あの旋盤をここに残して新政府にくれてやれば、俺たちは南山でただの土方どかたになる。泥を掘って暮らすしかなくなるんだ。あんたの若い弟子たちに、一生泥を掘らせる気か?」


 肥田の言葉に、源蔵はハッと息を呑んだ。


「だが、あれを持っていけば……あの機械の神様たちを南山へ逃がしさえすれば、俺たちは明望の港で、一万トンの鋼鉄船を造れる。あんたの腕を、世界一の船造りに活かせるんだ」


 肥田は、源蔵の肩を両手で力強く掴んだ。肥田の手もまた、油と泥で黒く汚れ、すりむけて血が滲んでいた。


「これはな、船じゃないんだ。俺たちの船作りと言うと赤ん坊を、嵐の海から守るための分厚い揺りかごさ。見栄えなぞ、どうだっていい。絶対に沈まない、最強の箱を仕上げてくれ。あんたにしか、頼めないんだ」


 源蔵は、肥田の血走った目を見つめ返した。その奥にあるのは、武士の主君への忠義などという古いものではない。技術者としての、未来の造船への凄まじい執念であった。

 源蔵は無言で手ぬぐいで顔の涙と汗を乱暴に拭い去ると、鼻を大きくすすり、鶴太や若い衆に向かって腹の底から怒鳴った。


「……聞いたな野郎ども! 見栄えは捨てろ! この箱は、俺たちの明日を入れる揺りかごだ! 隙間という隙間に槇肌まきはだを打ち込め! 針の穴一つの浸水も許さねえぞ! 魂込めて、釘を打てえっ!!」


 「おうっ!!」という地鳴りのような返事がドックに響き渡った。


 職人たちの意識が、「美しい芸術品を造る」という旧来のプライドから、「南山への国家移植というミッションを完遂する」ことへと、明確にパラダイムシフトを果たした瞬間であった。


          ◆


四月一八日。深夜。


 新政府軍の斥候が江戸市中を巡回し始めている中、隅田川河口のドックは、異様なほどの静寂に包まれていた。

 松明の明かりすら最小限に絞られ、川のせせらぎの音だけが聞こえる闇に沈む石川島。

 そこには、真新しい船の誕生を祝う華やかなシャンパンの瓶割りも、軍楽隊の勇ましい演奏も存在しない。歴史上、最も暗く、沈黙した進水式が始まろうとしていた。

 ドックへの注水が完了し、船体は水に浮かぶ準備を整えている。


「……盤木ばんぎ、外せ」


 肥田の低く抑えた声が響く。

 カン、カン、カン。船体の竜骨を支えていた木のブロックが、水の中で職人たちの大槌によって次々と叩き外されていく。

 極限まで重機を詰め込まれ、異様な重量となった未完成の船体が、ミシミシと不気味な音を立てながら、傾斜した滑り台(船台)を重々しく滑り落ちていく。


 ザバーァァァン!!


 大量の黒い水飛沫を上げて、巨大な「浮く倉庫」が隅田川の暗い川面へと突っ込んだ。

 一瞬、船体は大きく右に傾き、見守る源蔵や鶴太たちの間に息を呑む緊張が走った。だが、船体はゆっくりと揺り戻し、見事に水平を保って水面にプカプカと浮かび上がった。

 転覆はしなかった。肥田の緻密な重心計算と、源蔵たち船大工の完璧な防水作業が、物理法則に見事に打ち勝ったのだ。


「……よしっ!」


 闇の中で、職人たちが押し殺した歓声を上げ、互いの肩を叩き合う。

 沖合で息を潜めて待機していた蒸気外輪船タグボートがゆっくりと接近し、太い牽引ワイヤーが未完成船体の舳先に投げ渡された。

 ボォォォォ……という低くくぐもった汽笛が一度だけ鳴り、無骨な「浮く倉庫」が、タグボートに引かれてゆっくりと動き出す。行き先は、輸送船団が集結する江戸湾外、横須賀沖である。


 肥田浜五郎と源蔵は、空っぽになった石川島のドックに立ち、暗い川面を遠ざかっていく巨大な影をいつまでも見送っていたかったが、まだまだ荷造りしなければいけないものが残っている。工作機械の梱包作業に、彼らは淡々と戻っていった。


 数日後の石川島造船所には、もはや何も残されていなかった。




 新政府軍がこの地を接収した時、ドックに残されていたのは、かつて船の竜骨を支えていた盤木すらも外されて、跡だけが寂しく並ぶ光景であった。

 そして工場内には、動力を伝えていたラインシャフトが根こそぎ抜き取られ、虚しく風に揺れる天井の梁だけが残されていたのである。


 江戸という世界有数の巨大産業都市から、近代国家の骨格をなす「モノを創る能力」が、太平洋の深い闇へと向かって静かに、しかし急速に抜け出していく。


 新政府軍が無傷で手に入れる筈の「大江戸」は、戦乱も起きなかったし、焦土作戦も行われておらず美しい街のままである。しかし、明日には産業的な臓器を完璧に失った、途方もなく巨大な抜け殻へと変貌しているのかもしれない。




第四部 第12話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


渾身の新連載!

「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

https://ncode.syosetu.com/n7215lz/


シリーズの短編もアップしました。

「異聞 五稜郭」

https://ncode.syosetu.com/n4984mc/


宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/


ご興味がある方はご一読くださいませ。


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