第12話 横濱缶詰製造所 - 牛缶の撤収
慶応四年(一八六八年)四月二十五日、午前。
江戸湾を吹き抜ける潮風には、硝煙や血の匂いではなく、全く別の濃厚な香りが混じっていた。
煮込まれた獣肉の強烈な脂の匂いと、ブリキを封印する半田が焦げる甘く金属的な匂いである。
横浜・神奈川宿の近郊に位置する「横濱缶詰製造所」
ここは、幕府の莫大な資本と西洋の最新技術が交晶して生まれた、当時世界最先端の食品加工プラントであった。一八六三年に手作業による穴あき缶への充填作業を全廃し、いち早く完全機械化を達成していたこの工場は、南山牛のコンビーフや、近海で獲れるイワシの油漬け、蝦夷から送られた鮭の水煮、三陸のアワビ煮込みなどを製造し、四〇〇名もの作業要員を抱えて日産八千個から一万個という驚異的な生産能力を誇っていた。
だが、この日の製造所は、通常の稼働音とは異なる、慌ただしくも統制の取れた解体作業の騒音に包まれていた。
工場の中庭に立ち、懐中時計の秒針を冷ややかに見つめている男がいた。
旧幕府のテクノクラートたちと結託し、南山における資源開発と貿易を牛耳る巨大国策企業「南山物産」の総支配人、五代友厚である。
薩摩出身でありながら、狭隘な藩閥政治を見限り、いち早くグローバルな資本の論理に身を投じたこの男は、仕立ての良い英国製のフロックコートを身に纏い、濛々と立ち上がる蒸気の中で現場の指揮を執っていた。
「急げ。ボイラーの火を落としたら、熱が引ききる前に配管を外すんじゃ。シーマー(巻締機)の精度は髪の毛並みじゃっど。絶対に落とすなよ」
五代の鋭い指示が飛ぶ。
彼の目の前で、日本の職人が独自に発明し、改良を加え続けてきたという二重巻締機(ダブルシーマー・初期型)十台が、次々と台座から外されていた。ハンダを使わずに缶を密封するこの機械は、一台あたり分速十缶の生産能力を持ち、十台がフル稼働すれば一日で一万食以上の缶詰を製造できる代物である。
さらに工場の奥では、一度に数百個の缶詰を加熱殺菌できる横型圧力釜「レトルト殺菌釜」五基と、ブリキ板の切断機や円筒成形機など計三十台に及ぶ専用機群が、職人たちの手によって解体されていた。
これら食品加工の機械群は、横須賀のスチームハンマーや石川島の長尺旋盤などに比べれば比較的軽量であり、重いものでも数百キロから一トン程度に収まっていた。そのため、頑丈な木枠で厳重に梱包された後、横浜港に停泊しているP&O社の定期船の船倉へと、一般貨物という名目で次々と積み込まれていく。
五代は、宙を舞う木箱を見上げながら、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
(戦争ちゅうもんは、大砲の数だけで決まるわけじゃなか。兵隊の胃袋をどれだけ満たせるか、兵站が糞なら勝負は負けじゃ。
じゃっどん、今は戦争よりも大事なことがある。この缶詰機械を南山でフル稼働させて、隅々まで飯を行き渡らせるこそが、南山へ渡った後の何十万人もの民の命を繋ぐ鍵そのものなんじゃ)
精神論や錦の御旗では、兵士の腹は膨れない。長期の航海や未知のジャングルでの開拓を支えるのは、腐らない肉と、脚気を防ぐ栄養素である。五代は「食料そのもの」ではなく、「食料を長期保存可能にする技術とインフラ」を、丸ごと日本列島から引っこ抜こうとしていた。
◆
同日正午。
横濱缶詰製造所、所長室を改装した応接室。
重厚なマホガニーの扉が乱暴に開け放たれ、軍装に身を包んだ一人の若き政府高官が、数名の護衛を伴ってずかずかと踏み込んできた。
肥前佐賀藩出身であり、新政府の外国官副知事として横浜の接収業務を任された男、大隈重信である。
大隈の目は、勝利者特有の傲慢さと、同時に、江戸へ向けて進軍を続ける数万の官軍を食わせなければならないという、兵站担当者としての切実な焦燥感にギラギラと血走っていた。
彼は、この横浜に東洋一の缶詰工場があることを知っていた。この工場を接収し、倉庫に眠る数万缶と、日産一万食の生産ラインを手に入れれば、新政府軍の腹の虫は完全に黙る。そう確信して乗り込んできたのである。
だが、応接室の豪奢な革張りのソファで彼を待ち受けていたのは、怯えきった幕府の役人ではなく、優雅に足を組み、南山産の最高級紅茶の香りを嗜んでいる五代友厚であった。
「貴様が、この工場の責任者か。我々は朝廷の命により、賊軍たる徳川の残存資産を接収しに参った。直ちに工場の稼働を再開し、倉庫の糧食をすべて官軍に引き渡せ」
大隈は、机の上に接収の命令書を叩きつけた。
五代は紅茶のカップをゆっくりとソーサーに置き、大隈の顔をまじまじと見つめた。そして、まるで世間知らずの子供を諭すような、酷薄な笑みを浮かべた。
「大隈どん、ご苦労なこっでごわす。江戸までの行軍、さぞ腹が減ったじゃろ。じゃっどんな、おはんが今叩きつけたその紙切れ、ここでは便所の落とし紙にもなりもはんわ」
「なんだと!? 貴様、官軍を愚弄するか!」
大隈の背後に控えていた兵士たちが、一斉に銃剣を構える。だが、五代は微動だにせず、懐から一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、大隈の目の前に滑らせた。
そこには、英語と日本語で記された複雑な契約文と、大英帝国公使ハリー・パークスの署名、そして英国領事館の正式な公印が押されていた。
「よぉ字を読んでみい。おはんが欲しがっちょるこの工場と、中にある機械、それに倉庫の缶詰の山はな、すでに南山物産ちゅう外国法人が、旧幕府から正当な手続きで買い取った私有財産でごわしてな」
「外国法人だと……? 莫迦な! 南山物産など、旧幕府の連中が作った隠れ蓑ではないか!」
「隠れ蓑じゃろうが何じゃろうが、国際法上は立派な英国法の庇護下にある株式会社じゃ。大阪湾合意の条項に基づき、本日をもって、この工場の設備一式は南山へ移転させてもらいもす。……もし、おはんらが、この私有財産を暴力で奪うような真似をすれば、大英帝国に対する明確な掠奪行為になりもんど。横浜の沖に停泊しちょる英国の軍艦が、黙っちゃおらんじゃろな」
大隈は、目の前の書類と五代の冷徹な顔を交互に見比べ、ギリギリと奥歯を噛み締めた。
これは、武力による戦争ではない。法律と契約、そして国際金融のルールを用いた、極めて近代的な「資産剥奪」の通告であった。イデオロギーや錦の御旗など、資本の論理の前では何の役にも立たないことを、大隈は屈辱と共に理解させられたのである。
◆
同日午後。
製造所の中庭から、横浜港の桟橋へと続く荷捌き場。
応接室を飛び出した大隈は、工場の外で展開されている光景を目の当たりにし、さらなる絶望と怒りに打ち震えていた。
中庭には、南山物産のロゴが焼印された真新しい木箱が、まるで城壁のように高く積み上げられている。その中身はすべて、出荷を待つ「特選コンビーフ」や「イワシの油漬け」や「パイナップルのシロップ漬け」といった、カロリーと栄養の塊であった。
その木箱の山の周りを、大隈が率いてきた新政府軍の兵士たちが、亡霊のような虚ろな目で取り囲んでいた。彼らは長距離の行軍で極度に疲弊し、配給されるのはカチカチに冷えた粗末な握り飯か、道端で調達した大根の葉ばかりである。工場から漏れ出す、肉の脂と醤油が焦げる強烈な匂いは、飢えた彼らの理性を今にも焼き切れそうにしていた。
「……肉だ。肉や魚が山ほどあるぞ……」
兵士の一人が涎を垂らしながら一歩前に出ようとした瞬間、南山物産に雇われたターバン姿のインド人傭兵たちが、無言でスペンサー銃の撃鉄を起こし、冷酷に牽制した。
精神論に傾倒し、兵站を軽視してきた新政府軍の「飢え」と、工業化と資本主義を味方につけた南山(旧幕府)の「豊かさ」。その残酷なまでの対比が、そこにはあった。
「五代! 貴様ァッ!!」
背後から歩いてきた五代に対し、大隈はついに激昂して怒鳴りつけた。
「これだけの兵糧を目の前にしながら、新政府の兵を飢えさせる気か! 日本の民の血肉となるべき飯を、南の島へ奪い去って、それでただで済むと思っているのか! 兵たちが飢えれば、江戸で暴動が起きるぞ!」
五代は、高級なシガーカッターで葉巻の先を切り落とし、マッチでゆっくりと火をつけた。紫煙が風に流れる。
「奪う? 人聞きの悪いこと言わんでくいやんせ。おいどんは正当な商売をしちょるだけじゃ。資本主義の基本でごわす」
五代は、葉巻を指に挟んだまま、大隈の胸ぐらを突くように冷たく言い放った。
「大隈どん。兵隊の腹が減っちょるんじゃったら、力で奪うわけじゃなか。『買う』たらよかろうもん」
「……何?」
「機械は全部、予定通り南山へ持っていく。じゃっどん、おはんとこの可哀想な兵隊はんの当座の食い扶持として、この中庭にある缶詰十万食だけは、ここに『置いて』いってもよか。特別に売ったるわ」
大隈の顔に、一瞬の安堵の光が走った。十万食あれば、当面の江戸での兵站は維持できる。暴動も防げる。
大隈は懐から、新政府が発行したばかりの真新しい紙幣を取り出した。
「分かった。売買ならば応じよう。これが、朝廷が発行した太政官札だ。言い値で払ってやる」
だが、五代はその紙幣を一瞥しただけで、鼻で笑った。
「……いかんな。そんなもん、ただの紙切れじゃ」
「なんだと!? 朝廷の権威を保証とした正式な紙幣だぞ!」
「朝廷の権威で、肉が焼けるんか? 鉄が溶かせるんか?」
五代の目が、獲物を追い詰める鷹のように鋭く細められた。彼が南山の貿易黒字の背景としているのは、実体のある金銀である。
「ええか大隈どん。おいどんらが商売の決済に使うのは、金銀正貨か、あるいは国際相場で通用する『メキシコドル(洋銀)』の現金決済のみじゃ。何の担保も持っちょらん新政府が、輪転機でいくら紙切れを刷ったところで、そんな不換紙幣は一年後には鼻紙以下の価値にしかならん。インフレっちゅう地獄を見るでごわす」
大隈は言葉を失った。五代の指摘は、新政府が抱える経済的な脆弱性を、最も残酷な形で抉り出していた。
兵士たちを食わせ、反乱を防ぐためには、この缶詰を買うしかない。だがそのためには、新政府が喉から手が出るほど欲している貴重な外貨や金銀を、敵である旧幕府の残党にそっくりそのまま差し出さなければならないのだ。
勝者であるはずの新政府が、戦い終わった直後に、敗者から「兵士を食わせるための飯を、莫大な外貨で買わされる」という、絶対的かつ絶望的な経済的敗北。
大隈重信は、屈辱に震えながらも、背後で飢えに苦しむ自軍の兵士たちの視線を背に受け、その理不尽極まりない売買契約書にサインをする以外、道は残されていなかった。
◆
同日夕刻。
太陽が箱根の山並みの向こうへと沈み、横浜港は薄暗い群青色の闇に包まれようとしていた。
外貨による十万食分の支払い確約証書を手にした五代友厚は、満足げな笑みを浮かべて小舟に乗り込み、沖合で待つP&O社の蒸気船へと向かっていった。やがて、重量物を満載した巨大な輸送船団が、太い汽笛を三度鳴らし、南十字星の輝く未知の海へと向かって、ゆっくりと出港していった。
莫大な代償を払い、ようやく工場の接収を終えた大隈重信は、疲労困憊の体を引きずりながら、再び製造所の内部へと足を踏み入れた。
朝までは、肉の匂いと蒸気の熱気、そして機械の稼働音で満ち溢れていたその空間は、今は完全なる静寂と冷気に支配されていた。
レトルト殺菌釜も、精密な二重巻締機も、ブリキの切断機も、すべてが幻のように消え失せている。
広大な工場の床には、機械を固定していた無数のボルトの跡だけが並び、無惨に切断された太い配管の口からは、残存していた蒸気が「シュー……」と虚しい音を立てて漏れ出していた。
日本列島から「近代的な食料生産基盤」という名の未来への足掛かりが、外科手術のように完全に切除された現場であった。
静まり返った工場の床を、風に吹かれた何かが転がってくる音がした。
大隈の足元で止まったそれは、ラベルの貼られていない、ただのブリキの空き缶であった。新政府軍が工場を接収した時、残っていたのはこのような「使用済みの空き缶」の山だけであったのだ。
大隈は身を屈め、その冷たい空き缶を拾い上げた。
指先で弾くと、中身の詰まった鈍い音ではなく、カン、カン、という、どこまでも空虚で薄っぺらい金属音が工場内に響き渡った。
「彼奴らはこの国を我々に明け渡していった……だが、それはこの空き缶みたいなものだと言うのか」
大隈の呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。
空き缶の虚ろな響きは、これから新政府が直面することになる、産業の空白と貧困、そして終わりのない「飢え」という現実を、冷酷なまでに予言しているかのようであった。
第四部 第12話 完
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「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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