第9話 横須賀製鋼コンビナート - 鋼鉄の引越し(中)
慶応四年(一八六八年)四月一一日。
横須賀第一ドック周辺で巨大な三トンスチームハンマーの解体が進む一方、背後の丘陵地帯に目を向ければ、そこにはさらに圧倒的で異様な光景が広がっていた。
ドックが軍艦という「形」を造り上げる場所であるならば、こちらはあらゆる近代インフラを産み出し、国家の血肉となる素材を供給する「鋼鉄の母胎」であった。
釜石から絶え間なくピストン輸送されてくる銑鉄のインゴットを飲み込み、粘り強い錬鉄や強靭な鋼へと作り変える横須賀・江戸湾岸製鉄・製鋼コンビナートの全貌である。
丘の斜面に沿って、林立する無数の煙突群からは、太陽を覆い隠すほどの黒煙が天を衝くように噴き上がっていた。
そこには、長屋のようにズラリと並んだ六十基にも及ぶパドリング炉(反射炉)をはじめ、三から五トン級の初期型ベッセマー転炉が三基、当時の最新鋭である平炉の実験機、大小十基の補助高炉とキュポラ(溶銑炉)が、むせ返るような熱気と轟音を放ちながら稼働している。
さらに奥の広大な建屋には、精錬された赤熱の鉄塊を押し潰す分塊圧延機が二基、レールを成形する条鋼・軌条圧延機が三基、軍艦の装甲板を延ばす厚板圧延機が四基、地響きを立てて回っていた。
この陣容は、当時のアジアにおいては文字通り規格外であった。それはもはや一国の造船所の付帯設備という枠を遥かに超え、世界の鉄を支配する英国のシェフィールドや、ドイツのルール地方といったヨーロッパの特級工業地帯の縮図にも匹敵する、巨大なモンスター・プラントだったのである。
その狂騒の中心、パドリング・ヤードの熱波の中に、老職人の辰造が立っていた。
釜石から届いた銑鉄は硬いが脆く、そのままでは船の骨組みや橋の建材には使えない。これをパドリング炉でドロドロに溶かし、空気に触れさせながらかき混ぜて炭素を抜くことで、粘り強い錬鉄へと変換するのだ。
辰造は元々、武州・川口で鍋釜や農具を鋳る、しがない鋳物職人であった。
だが、鉄が溶ける際のわずかな「色」の違いで、温度と炭素の抜け具合を正確に見抜く彼の神の目は、幕府の役人のみならずフランス人技師たちの目にも留まり、この最新鋭の製鉄所へと引き抜かれたのだ。今や彼は、数百人の職人を束ねるヤードの親方であった。
「おう、もっとコークスを焚きな! 浜離宮から来た骸炭も、これが最後の一袋だ。火力を落とすんじゃねえぞ!」
辰造は、汗で全身の作業着をべったりと張り付かせながら、長く重い攪拌棒を握りしめていた。開け放たれた炉口からは、肌を焦がすような猛烈な輻射熱が押し寄せてくる。
辰造は歯を食いしばり、炉の中でブクブクと沸騰する銑鉄を、ラブルを使って力任せにかき混ぜ続ける。重労働極まりないこのパドリング(攪拌)こそが、鉄に粘り気と命を吹き込むのだ。鉄の沸騰が最高潮に達するその一瞬のタイミングを、辰造の目は長年の経験から「色」で判断していた。
「今だ! 引き出せ!」
怒号とともに、職人たちが一斉に動き出す。
赤熱し、水飴のように粘る鉄の塊が炉から引き出され、隣で待機していた若き技師、菊池の指示で、次工程のスチームハンマーへと運ばれていく。これが、この横須賀の地で造られる最後の錬鉄であった。
「親方、見事な腕前です。ですが、これでこの炉の役目も終わりですね」
菊池が、どこか寂しげな声で言った。
彼は長崎の海軍伝習所で蘭学を修め、横須賀の技術学校でヴェルニーらフランス人技術官から直接、最新の冶金学と機械工学を学んだ若きテクノクラートであった。西洋の「理論と数値」を重んじる彼だが、同時に辰造のような現場の職人が持つ「勘と経験」の凄まじさを誰よりも理解し、深く尊敬していた。
辰造はラブルを床に放り出し、首に巻いた分厚い手ぬぐいで真っ黒に汚れた顔の汗を拭った。
「分かっちゃいるがよ。俺たちが血と汗を流して築き上げたこの何十基もの炉だ。この炉の列と俺たちの腕があれば、日本中の川に鉄橋を架け、海を埋め尽くすほどの鉄船を造れたんだ。それを、置いていくってのかい」
辰造の目には、熱気で乾いたはずの涙が微かに滲んでいた。川口の小さな土間から始まり、ついに世界に比肩するこの巨大な鉄の城の主となった彼の、職人としての誇りと哀愁がそこにあった。
「置いていくのは、この重たいレンガの『殻』だけです」
菊池は、手にしていた桐の箱をそっと開けた。中には、真綿に包まれたガラス管や色見本のようなものが、宝物のように大切に収められている。
「親方のその目利き、鉄の沸騰を見極める色。それを西洋の科学で数値化し、誰もが共有できるようにした色基準計です。そして、炉の命であるこれらも」
菊池が手を挙げると、職人たちがすでに火が落された隣の炉に群がり、手際よく解体を始めた。彼らが真っ先に引き抜いたのは、炉内の温度を精密に制御するための空気ノズル、羽口である。
さらに、その空気を送り込むための蒸気駆動の送風機のシリンダーやバルブ類を、巨大なスパナで次々と外していく。
「レンガは、南山の土を焼いていくらでも造れます。ですが、この羽口の絶妙な絞り角と、ブロワーのバルブが刻む圧力の精度だけは、一朝一夕には造れない。親方の腕と、この温度を操る道具さえあれば、南半球の果てでも、この十倍の炉を築いてみせますよ。いや、築かねばならないのです」
菊池の言葉には、感傷を断ち切るような強烈な意志が込められていた。彼らが持ち出すのは「物理的な炉」というドンガラではなく、鉄を支配するための「概念」と「制御機能」そのものであった。
「へっ、言うじゃねえか若いの。南山の土がどんなもんか知らねえが、俺の火加減についてこられるように、せいぜい上等なレンガを積んでおけよ」
辰造は、引き抜かれたばかりの、まだ微かな熱を持つ真鍮製の羽口を無骨な手で撫でた。
ここ数ヶ月、江戸の街が戦火に怯え、あるいは無血開城に安堵する中で、彼らはただひたすらに鉄と向き合い、未来の国の形を夢見てきた。
辰造は、遠く東京湾を望む空を見上げた。
そこにはすでに、南へ向かう巨大な輸送船団の黒い煙が、一筋の道のように引かれ始めていた。
パドリング・ヤードの喧騒と煤煙を抜け、さらにコンビナートの深部へと進むと、そこには周囲の木造平屋の工場群とは一線を画す、堅牢な煉瓦造りの巨大な建屋が鎮座していた。
ここは特殊鋼精錬棟。
かつて勘定奉行・小栗忠順が、プロイセンのクルップ社や英国のアームストロング社といった列強の火力に喰らい付いていくために、幕府の威信をかけて建設した、いわば鋼の聖域である。
建屋の内部に一歩足を踏み入れれば、そこにはパドリング炉の泥臭い熱狂とは対照的な、冷徹で計算し尽くされた機械文明の威容があった。
中央の巨大なピットにそびえ立っているのは、三基のベッセマー転炉(酸性転炉)である。三トンから五トン級のその巨体は、巨大な洋ナシを逆さにしたような異形のシルエットを描き、鈍い鉄色の輝きを放っていた。
この転炉こそが、近代工業のパラダイムシフトを象徴する怪物であった。
パドリング法が、数時間をかけて職人の人力で銑鉄から不純物をかき出す、忍耐の技術であるならば、このベッセマー法は、溶けた銑鉄の下部から高圧の空気を一気に吹き込み、鉄に含まれる炭素や珪素を酸化熱によって自ら燃焼させる、爆発の技術である。
わずか二十分、その短い時間の間に、数トンの銑鉄は白熱する鋼へと昇華する。その際、炉口から吹き上がる火柱は十メートルを超え、横須賀の夜空を昼間のように照らし出した。
「アキュムレーターの圧は抜けたか。これより、傾動系統の撤去作業を始める」
精鋼主任の山崎が、低いがよく通る声で指示を出した。
彼は幕府の命で欧州に留学し、ヘンリー・ベッセマー本人の工場でその真髄を学んだ、日本で唯一、転炉の技術を理解する男である。その青ざめた顔には、自らが精魂込めて稼働させてきたこの奇跡の装置を、今から自らの手で脳死状態へと導かなければならないという、悲痛な決意が刻まれていた。
「圧、完全に抜けました。いつでもいけます」
そう応えたのは、古参の鍛造職人である源三だ。
彼らが最初に取りかかったのは、転炉の巨体を滑らかに回転させ、溶鋼を注ぎ出すための水圧傾動装置の摘出であった。
ベッセマー転炉の左右には、巨大なトラニオン(中空軸)が張り出し、それを支える軸受ブロックには、最先端技術である高圧水圧シリンダーが連結されている。
山崎は、複雑に絡み合った鉛製の配管系統を指差し、若手職人の佐吉に命じた。
「佐吉、まずは逆止弁と流量制御弁を切り離せ。ネジ山一つ傷つけるな。それは南山で新しいシリンダーを造る際の魂になる」
「はい!」
佐吉はフランス人技師から学んだ用語を復唱しながら、真鍮製の精密なバルブ類に慎重に工具を当てた。
配管を緩めると、残留していた高圧の水がシュッという鋭い音とともに霧となって噴き出し、建屋内に冷たい湿気が広がった。
作業は、極めて高度な、機能の選別であった。
転炉本体の巨大な鉄製シェルや、内部の耐火煉瓦を運ぶことは物理的に不可能だ。しかし、この怪物を制御するための部品は別である。
職人たちは、炉底から空気を吹き込むための精密なトゥイエール(羽口)の取り付け基部、そして送風の圧力を毛筋の幅で調整する精密流量計を、手際よく、かつ執拗なまでの丁寧さで取り外していく。
「いいか。新政府の連中がここに来て、この大きな釜が無事なのを見て喜ぶだろう?」
源三が、巨大なトラニオン軸から、重厚な真鍮製の軸受をバールで引き抜きながら、自嘲気味に笑った。
「だがな、この軸受と、さっき佐吉が外したバルブがなけりゃ、こいつはただの動かねえ鉄のゴミ箱だ。空気を送る穴すら、俺たちがさっき壊した羽口のスペアがなけりゃ、一度使っただけで塞がっちまう」
精鋼主任の山崎は、取り外された部品の一つ一つを、あらかじめ用意された緩衝材入りの木箱へと納めていった。
その箱の中には、工作機械の精度を保証するマスターゲージと同じ重みを持つ、精錬のレシピも含まれている。リンや硫黄をいかに除去し、マンガンの投入タイミングをいつにするか。その目盛りと記録こそが、列島から南山へと亡命する真の資産であった。
作業が中盤に差し掛かった頃、クレーンの唸り声が静まり返った建屋に響いた。
蒸気クレーンが、転炉の動きを司るメインシリンダーを、ピットの底からゆっくりと吊り上げる。
「上がったぞ。これが転炉の脳髄だ」
山崎が呟いた。
吊り上げられたシリンダーからは、潤滑用の油が黒い血のように滴り落ち、床に広がる煤と混じり合っていく。
それは、文明の外科手術というよりは、一種の公開処刑のような凄惨さを帯びていた。
最後に、源三は用意していた粘度の高い特殊な工業用強酸の瓶を手に取った。
「親方、本当にやるんですか」
佐吉が、震える声で尋ねた。
源三は無言で、転炉を支える巨大なトラニオン軸の軸受面に、その劇薬をなみなみと注ぎ込んだ。
嫌な音とともに、滑らかに研磨されていた鋼の表面が、見る間に茶褐色に焼け爛れ、深い虫食い状の跡が刻まれていく。
「ああ。これで終わりだ。たとえ奴らが外国から技師を呼んできて、新しいバルブを付けたとしても、この軸受がこれだけ焼けりゃあ、回した瞬間に焼き付いて自壊する。鋼の神様は、俺たちと一緒に海を渡るんだよ、佐吉」
精製されたばかりの、最高級のクロム鋼やマンガン鋼のインゴット、そして火薬原料となる精製硫黄の樽までもが、コンビナートの奥から次々と荷車で運び出されていく。
建屋の外では、夕闇が迫っていた。
「鋼の聖域」であったはずの建屋からは、もはやあの、大地を揺らすような送風機の咆哮は聞こえない。
あるのは、冷え切った巨大な鉄の器が、春の夜風に吹かれて鳴らす、空虚な金属音だけだった。
山崎は、最後の一箱に釘を打つ音を背中で聞きながら、振り向かずに建屋を後にした。
彼の懐には、南山で再構築されるべき十トン級転炉の基本設計図が、肌に触れるほど近くに収められていた。
横須賀の鋼の時代は、自らの手によって、一度完全に殺されたのである。
製鉄所のさらに奥、海岸線に沿って延々と続く、長さ数百メートルにも及ぶ広大な赤煉瓦の建屋。そこは、熱き鉄に国家の骨組みとしての形を与える最終工程、圧延・成形設備の領域である。
建屋の内部は、パドリング・ヤードの熱狂とはまた異なる、重厚な金属音と蒸気の咆哮が支配していた。
ここでは、精錬されたばかりの赤熱した鋼塊が、蒸気機関の強大な馬力によって回る巨大なローラーの間に噛み込まれ、凄まじい地響きとともに押し潰されていく。
分塊圧延機がインゴットを粗く引き延ばし、続く条鋼・軌条圧延機がそれを鉄道のレールや建築用のI型鋼へと成形し、さらに厚板圧延機が軍艦の装甲板を均一な厚みに延ばしていく。
ここは、小栗忠順が提唱した「鉄による帝都の近代化」を、物理的な実体として吐き出すための巨大な鋳鉄の心臓部であった。
「いいか、持ち出すのはロールと圧下ネジだけだ。ハウジング(枠組み)は重すぎる、置いていくぞ!」
圧延部門の技術責任者、松崎が、煤と油にまみれた図面を片手に、声を張り上げた。
松崎は長崎の製鉄所設立時から小栗に仕え、オランダやフランスの技師たちから、鉄を意図した形に変える塑性加工の神髄を叩き込まれた実務家である。彼は、この巨大な機械のどの部品が「知恵」であり、どの部品が単なる「肉」であるかを、誰よりも熟知していた。
職人たちが格闘しているのは、直径一メートル、長さ三メートルを超える、鈍い銀光りを放つ鋳鉄製の溝付き圧延ロールであった。
このローラーの表面には、複雑なカリバー(溝)が刻まれている。鉄をこの溝に通すことで、無機質な鉄の塊が、完璧な断面を持つ鉄道のレールや、鉄骨建物を支えるH型鋼へと姿を変えるのだ。
「このカリバーが、日本の鉄道の規格そのものなんだ。こいつを失えば、新政府はまともな道一本敷けやしねえ。レールの形をしたただの棒すら造れなくなる!」
松崎の横で、ベテラン職人の源造が、巨大な蒸気クレーンの操作レバーを慎重に操っていた。
「松崎の旦那、シリンダーのボルトは全部抜いたぜ。よーし、上げるぞ! 野郎ども、振れ止めをしっかり持て!」
源造の声とともに、蒸気クレーンが重々しい唸り声を上げた。
ハウジングの巨大な軸受ブロックから、数トンの圧延ロールがゆっくりと引き抜かれていく。その重圧によって、太い鋼鉄のワイヤーがミシリと鳴り、周囲に緊張が走る。
職人学校一期生の若手職人の章次が、防錆用の鯨油がたっぷり塗られた麻布を手に、吊り上げられたロールへと駆け寄った。
「章次、傷をつけるなよ! そのロール一台を削るのに、フランスのスナイデル社でどれだけの時間がかかったと思っている」
「分かってます、松崎さん! この圧下装置も外しました。これがないと、鉄の厚みを調整することさえできませんからね」
章次が示したのは、ハウジングの頂部に備えられた、巨大な精密ネジであった。一回転で数ミリの隙間を調整するこの部品こそが、軍艦の装甲板に弾丸を跳ね返す均一な強度を与えるための鍵である。
職人たちは、数トンにも及ぶこれらの知恵の塊を、特製の木製ソリに乗せ、人力と蒸気ウインチを駆使して桟橋へと運び出していく。
「だがよ、松崎の旦那。こんな重てえローラーを十何本も船に積んだら、それこそ沈没しちまうんじゃねえのか?」
額の汗を拭いながら、源造が港に停泊するパシフィック・メール社の大型輸送船を指差した。
「沈むもんか、源造。小栗様の考えは、どこまでも合理的だ」
松崎は、船の図面を広げて説明した。
「この重たいロールを、輸送船の最下層、船底のビルジ・スペースに敷き詰めるんだ。本来なら石や砂を積むためのバラストの代わりに、この圧延機の中枢を詰め込む。鉄の重さを、南へ行くための船を安定させる力に変える。ほんとに合理的だよ。呆れるくらいにな」
桟橋では、巨大な輸送船カリスト号の船倉が大きく口を開けていた。
蒸気クレーンによって、次々と鉄のロールが暗い船底へと吊り降ろされていく。それは、日本の近代化の骨組みを、文字通り列島から引き抜いて、新しい器へと移し替える儀式のようでもあった。
作業の傍ら、松崎は残された「肉体」、圧延機の巨大な鋳鉄製ハウジングを見上げた。
高さ五メートルを超えるその巨大な枠組みは、あまりの重さに搬出を断念せざるを得なかったものだ。
「章次、源造。仕上げだ。呪いをかけておけ」
松崎の指示に従い、源造が鋼鉄のタガネと重いハンマーを、章次が強酸の瓶を手にした。
ここでも容赦の無い、引き返しの効かない破壊行為が進められた。
源造は、ロールが収まるべき精密な軸受の摺動部(スライド面)に、容赦なくタガネを打ち込み、致命的な傷を刻んでいった。章次は、複雑な歯車機構の内部に劇薬を流し込み、目に見えない腐食を開始させる。
「新政府の連中がここに来て、この立派なハウジングを見て喜ぶだろう。だがな、奴らが外国から代わりのローラーを買ってきてはめ込もうとしたとき、この歪んだ軸受のせいで機械全体が自壊することになる。のうのうと奪いに来やがって、コイツを動かせると思うなよ」
松崎の言葉には、自らの手で築き上げたものを殺す悲しみと、それを押し付けてきた敵への拒絶が渦巻いていた。
建屋の窓からは、夕闇が迫っていた。
あれほど大地を揺らしていた圧延機の轟音は消え、代わりに聞こえるのは、船積みを進める職人たちの掛け声と、冷え切った鉄が夜風に鳴らす、寂しげな金属音だけだった。
力強い蒸気の力を、未来を繋ぐレールを、モダンな建物の骨組みを、軍艦の皮膚を産み出してきた巨大な装置は、その魂を抜き取られ、沈黙したまま闇に溶けていった。
そして、船底に敷き詰められた数千トンの重力は、今か今かと、南十字星の輝く海へと滑り出す時を待っていた。
横須賀製鉄所コンビナートの全景を一望できる、海岸沿いの高台。
そこには、対照的な佇まいの二人の男が立っていた。
フランス海軍技師、レオンス・ヴェルニー。
そして、幕府勘定奉行、小栗上野介忠順である。
眼下に広がるのは、もはや生産拠点としての威容を失い、巨大な解体現場と化した「アジアのシェフィールド」の末路であった。
至る所でボイラーの火が落とされ、立ち上る煙はかつての力強さを失い、細く弱々しく空へ消えていく。クレーンが機械の心臓部を無慈悲に吊り上げ、港に停泊するパシフィック・メール社の大型船へと、まるで臓器を移し替えるように運び続けていた。
ヴェルニーは、手すりを握る拳を白くなるほど震わせ、沈痛な面持ちでその光景を見つめていた。
「……ムッシュ・オグリ。これは本当に正気の発想ですか」
絞り出すような声だった。
ヴェルニーの端正な顔は、苦悩と悲哀に歪んでいる。
彼にとって、この場所は単なる仕事場ではない。フランスの最高の技術を注ぎ込み、日本の近代化という夢を形にした、いわば自らの魂の結晶だった。
「私は、この場所を極東における文明の灯台にするつもりでした。海を渡り、何年もかけて築き上げたこの奇跡を……あなたは今、自らの手で殺そうとしている」
ヴェルニーは小栗を振り返った。その瞳には、熱いものが込み上げている。
「これは破壊だ。工学に対する、いえ、文明に対する犯罪ですよ。政治の権力者が代わったからといって、なぜこれほどの資産を無に帰さねばならないのですか!」
小栗は、吹き抜ける春の潮風に羽織の裾をなびかせながら、ヴェルニーの激しい言葉を静かに受け止めていた。
その眼差しは、冷徹なまでに澄み切り、はるか水平線の先を見据えている。
「ヴェルニー殿。貴方の怒りは、技術者として至極まっとうなものだ」
小栗は穏やかに、しかし断固とした口調で応えた。
「だが、誤解しないでいただきたい。我々が行っているのは『破壊』ではないのだ」
「壊しているではないか! 炉を冷やし、機械をバラバラにし……!」
「いいえ。これは、日本列島という古びた器から、近代化の魂である『産業生態系』を抜き出し、新しい器へと移し替えるための、外科手術なのです」
小栗は、港で巨大な扉船を曳航する準備を進めている蒸気船を指差した。
「我々は、薩長の者たちに文明の利器を渡すことを惜しんでいるのではない。彼らには、この巨大な生命体を維持し、発展させるための思想がないのだ。彼らがこれを手に入れれば、数年のうちに機械は錆び、技術は途絶え、ここはただの鉄屑の山に成り下がるだろう。ならば、我々が持ち出すしかない。機能として、生きたままな」
「しかし、残された人々はどうなるのです。このままでは、この国は再び暗闇に逆戻りしてしまいますぞ」
ヴェルニーの声は、悲しみでかすれていた。
小栗は一瞬、目を閉じた。その瞼の裏には、江戸の街並みや、かつてこの場所で汗を流した職人たちの顔が浮かんでいたかもしれない。
だが、再び開かれたその瞳には、一片の容赦もなかった。
「それは、彼ら自身が選んだ道です。我々は、徳川の責任において、未来という種を別の土地へ蒔くことに決めたのです」
小栗はヴェルニーの肩に、力強く手を置いた。
「ヴェルニー殿。貴方を、南山へご招待したい。あそこには、この横須賀の十倍の敷地と、無限の石炭、そして釜石を凌ぐ鉄がある。貴方が築き上げたこの心臓を、かの地に移植した時、我々は真の意味で列強と肩を並べる重工業国家を誕生させることができる」
ヴェルニーは絶句した。
小栗の視線は、もはや目の前の廃墟にはなかった。
はるか南十字星の輝く、地図にない新天地、そこに建つ、さらに巨大で、さらに強靭な鋼鉄の都の幻影を見据えている。
「貴方の技術は、決して死にはしない。あそこで、より巨大な咆哮を上げることになる。私を信じてはいただけないか」
小栗の低い声には、不思議な説得力と、背筋が凍るような狂気が宿っていた。
国家という概念すらも物理的な部品として再構築しようとする、途方もないグランドデザイン。
ヴェルニーは、手すりから手を離し、ゆっくりと天を仰いだ。
頬を伝った涙が、潮風にさらわれて消えていく。
「……ムッシュ・オグリ。貴方はやはり、悪魔か、それとも……いや、やっぱり悪魔なんだろうな」
ヴェルニーは自嘲気味に笑い、震える手で小栗の手を握り返した。
「分かりました。私の造った子供たちの最期を、そしてその再誕を、この目で見届けることにしましょう」
同日。夕刻。
作業は、ついに最終盤を迎えていた。
運び出すべき機械の心臓部はすべて船に積み込まれ、パドリング・ヤードの喧騒も、今は遠い。
だが、コンビナートの最奥部。一次製鉄を担う巨大なキュポラ(溶銑炉)と、実験的な高炉の周辺には、依然として肌を焦がすような熱気が渦巻いていた。
そこには、どうしても重すぎて解体できない、あるいはレンガそのものを壊さねえ限り運び出せない、巨大な炉がいくつも残されていた。
炉の前に立つ老職人、辰造の顔は、燃え盛る炉の火に照らされて赤く染まっていた。
その皺の深い表情は、慈しむようでもあり、同時に鬼のようでもあった。
「親方。どうしますか。もう船の時間はギリギリです。このまま火を落として、中を空に」
菊池が、時計を気にしながら尋ねた。
通常であれば、作業終了時には炉の底にある出銑口を開き、中の鉄をすべて抜き取るのが鉄則だ。炉を空にし、ゆっくりと温度を下げることで、高価な耐火煉瓦を守り、次回の操業に備える。
だが、辰造は低い声で答えた。
「いいや。小栗様の、直々の厳命だ。空にはさせねえ。火を落とせ。だが、鉄は抜くな」
「なっ……! 親方、何を考えてるんですか! そんなことをしたら……!」
菊池の顔が、恐怖で青ざめた。
専門家である彼には、その言葉の意味が瞬時に理解できたからだ。
「火を止めろ! 送風を完全に遮断しろ! 羽口から水を注入し、一気に強制冷却をかけるんだ!!」
辰造の怒号が響き渡る。
それは、製鉄の常識を根底から覆す、禁忌の作業であった。
高炉やキュポラの内部に溶けた銑鉄と、不純物であるスラグ(鉱滓)を残したまま、強制的に冷却を開始すること。
それは冶金学において、最も忌むべき事態、サラマンダー(炉冷え)を意図的に引き起こすことを意味していた。
「地金を炉の中で、カチカチに固めちまうってのか」
職人の一人が、震える声で呟いた。
炉の内部に滞留している数十トンの溶銑。それが冷え固まれば、それは単なる鉄の塊ではない。炉の内壁を構成する最高級の耐火煉瓦と分子レベルで融着し、一体化した巨大な鉄の石と化すのだ。
一度こうなれば、最後。
再び火を入れても、中心部の巨大な地金は容易には溶けず、無理に加熱すれば熱応力によって炉の構造そのものが内側から爆発的に崩壊する。
新政府の連中がこの炉を再利用しようと思ったら、ダイナマイトで炉ごと粉砕し、瓦礫を片付け、一からレンガを積み直すしか道はない。
つまり、これは施設の「処刑」であった。
「やれ! 薩長の田舎侍どもに、俺たちの鉄の一滴も舐めさせねえためだ! この炉を爆破して一から造り直す絶望を、奴らに味あわせてやれ!」
辰造の号令とともに、冷却用の水が炉の周囲に、そして羽口の奥へと一斉にぶち込まれた。
凄まじい衝撃音とともに、視界を完全に遮るほどの白い水蒸気が爆発的に立ち上がる。
炉の内部からは、ミシミシ、パチパチという、鉄が収縮し、レンガが悲鳴を上げる不気味な音が絶え間なく聞こえてくる。
それは、自らの手で慈しみ、命を吹き込んできた「子」を、自らの手で絞め殺すような作業であった。
菊池は、水蒸気で霞む炉を見つめながら、その破壊の徹底ぶりに戦慄した。
小栗忠順の狙いは、単なる物資の強奪ではない。
日本列島に残された産業という名の「肉体」から、命を完全に奪い、蘇生不可能な「死体」へと変え果てさせることなのだ。
炉の横には、浜離宮の骸炭所から運ばれてきたコールタールと安水(アンモニア水)が詰められた樫樽が、最後の積み込みを待っていた。
現場の職人たちが「臭え泥水」と吐き捨てるそれらさえも、南山の技術官たちは一滴の漏れも許さず、狂気じみた執念で船底へと運び込んでいく。
それらが将来、南山を彩る染料となり、大地を肥やす肥料となることを、彼らだけが確信していた。
辰造は、冷えゆく炉の壁に震える手を当てた。
耐火煉瓦を通して伝わってくる断末魔の振動。
頬を伝うのは、煤にまみれた熱い涙か、あるいは降り注ぐ霧雨か。
「すまねえ。だがよ、お前の魂は俺たちが持っていく。南山に行ったら、必ずお前よりデカくて、一万年も火が消えねえ最高の炉を造ってやるからな」
辰造の呟きは、激しい蒸気の音にかき消された。
慶応四年四月十二日、早朝。
横須賀沖に停泊していた南山船籍の輸送船団から、腹の底を震わせるような重低音の汽笛が鳴り響いた。
それは、日本列島の鉄の基礎が、完全に摘出され、離脱したことを告げる号砲であった。
バラストとして数千トンの圧延ロールを腹に抱え、化学の火種を積んだ船団が、夜闇を切り裂いて南へと舳先を向ける。
背後の横須賀からは、あれほど響いていたハンマーの音も、炉の唸りも、完全に消え失せていた。
あるのは、死んだように冷え固まった数十トンの鉄の石と、潮騒の音だけだ。
日本列島の産業的な「脳死」は、ここに完了した。
数日後に新政府の江藤新平らが、期待に胸を膨らませてこの地を接収に訪れることになる。
彼らがその完璧に処刑された「鉄の死体」を前に、いかなる絶望と空虚を味わうことになるのか。
鋼鉄の引越しは、残された者に、冷徹なまでの空白を突きつけるのだった。
第四部 第9話 完
次のお話は5/4、18時ごろアップ予定です。
最後までお付き合いいただき感謝します。
気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。
渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
https://ncode.syosetu.com/n7215lz/
シリーズの短編もアップしました。
「異聞 五稜郭」
https://ncode.syosetu.com/n4984mc/
宜しければこちらもどうぞ
「南山共和国建国史シリーズ」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/
ご興味がある方はご一読くださいませ。




