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第8話 横須賀ドック - 鋼鉄の引越し(上)

慶応四年(一八六八年)四月一一日。

相模国、横須賀。


 江戸湾の入り口に位置し、深い緑の丘陵と波静かな入り江に抱かれたこの地は、本来ならば、日本近代化の象徴として、蒸気機関のリズミカルなピストン音と、赤熱した鉄を打つハンマーの轟音、そしてフランス語と日本語が飛び交う、文明の熱気に満ちているはずであった。


 勘定奉行・小栗上野介忠順が、フランス公使レオン・ロッシュの協力を取り付け、総工費二四〇万ドル、当時の幕府の年間予算の半分にも匹敵する天文学的な巨費を投じて建設した、東洋一の造船所兼製鉄施設「横須賀製鉄所」


 だが、その威容は海岸線のドックだけに留まるものではない。背後の山側には、六十基を超えるパドリング炉や最新鋭のベッセマー転炉、そして巨大な圧延工場群が、ひとつの鉄鋼都市コンビナートを形成するように広大な敷地を占拠していた。


 ここは、鉄と油と煤煙の聖地であり、徳川幕府という旧来の封建領主が、近代的な工業国家へと脱皮するためのさなぎの揺り籠となるべく設計された、技術者たちの楽園であった。


 だが、この日の横須賀は、二ヶ月前から続く静かなる解体の最終局面を迎えていた。



 江戸城が無血開城の静寂に包まれる朝、横須賀は真逆の狂騒にあった。鼓膜を揺らす金属音、焼き付くような潤滑油と石炭の匂い。


 工廠の背後、山側の斜面に林立する数百本もの煙突からは、最後となる分厚い黒煙が吐き出され、春の空をどんよりと塗り潰している。パドリング炉や骸炭がいたん炉から放たれるその煙は、この巨大な産業生態系が今となお全力で脈打っていることを示していたが、それは同時に、列島から永遠に失われる直前の、文明の断末魔でもあった。


 製鉄所の心臓部である第一ドック周辺には、数百人の職人たちが蟻のように群がっていたが、彼らが手にしているのは、船を造るためのリベット打ち機や溶接道具ではなかった。


 彼らが握りしめていたのは、巨大なスパナ、バール、そして頑丈な鎖滑車チェーンブロックであった。彼らの目は、建設者の輝きではなく、解体業者の冷徹な光を宿していた。


 稼働状態にあった三トンスチームハンマーのボイラーの火が落とされ、熱が引ききる前に職人たちが群がる。 巨大なスパナと滑車を用い、職人たちはボルトの一本一本に白墨チョークでアラビア数字のナンバリングを施していく。


 工作機械群から外された部品は、ただちに分厚い油紙と麻袋で何重にもパッキングされ、木箱に収められる。再組み立てすることを前提とした梱包作業であった。



 小栗はストップウォッチを手に、現場監督のように指示を飛ばす。


「丁寧にやれ。それはただの鉄塊じゃない。新しい国で最初に産声を上げる『赤ん坊』だ。錆一つ、傷一つ許さんぞ」


 彼の視線の先では、英国製のウィットウォース旋盤が、油紙と羊毛で幾重にも梱包され、木枠に収められようとしていた。


 それは、まるで高貴な王族の遺体を埋葬するミイラ作りの儀式のようでもあった。



「信じられない。あなた方は、一つの国家をまるごと解体している。私の夢が、美しかった工廠が、ただの空っぽの穴になっていく」


 第一工場の煉瓦造りの建屋の前で、一人のフランス人が悲痛な声を上げた。


 レオンス・ヴェルニー。


 この製鉄所とドックの設計と建設を一手に引き受けた、フランス海軍の若き天才技師である。


 整えられた髭を震わせる彼の青い瞳は、目の前で繰り広げられている光景、彼が丹精込めて設置し、水平を出し、我が子のように慈しんできた最新鋭の工作機械たちが、次々と台座から引き剥がされていく様を見て、深い絶望と、諦めが入り混じった色を浮かべていた。


「二月の中旬、貴方が江戸に戻ってきてすぐに引越しの命令を下した時、私は悪い冗談だと思いましたよ。 ですが、貴方は本気だった。三月から始まったこの解体作業は、建設の時よりもさらに精緻で、狂気じみている」


 ヴェルニーの言葉に、隣に立つ小栗忠順は、トレードマークの丸眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、静かに頷いた。

 彼の顔には、二ヶ月に及ぶ不眠不休の指揮による疲労の色が濃く刻まれていたが、その眼光だけは、カミソリのように鋭く澄んでいた。


「……ええ、ムッシュ。

 二月一〇日、慶喜公と共に江戸へ戻ったその足で、私はここに飛んできました。あの時、私は貴方に言いましたね。この工場は、また海を渡ってもらうと」


小栗は、懐から分厚い工程表を取り出した。

 そこには、二月から今日に至るまでの、およそ一万点に及ぶ機材の搬出スケジュールが、分刻みで記されていた。


『三月五日:小型旋盤搬出開始』

『三月二〇日:ボイラー解体』


 そして今日、四月一一日には『三屯蒸気鎚スチームハンマー搬出』とある。

 これは、突発的な夜逃げではない。計算され尽くした、国家規模の店じまいであった。



小栗は、工場の中を指差した。

 そこでは、南山から派遣された技術者たち、日焼けした肌に、南山特有のデニム地の作業服を纏った男たちが、手際よく木枠に焼印を押していた。焼印には『NANZAN ARSENAL(南山工廠)』の文字が刻まれている。


「南山の工廠には、すでにこれらを受け入れるための基礎ベースが打ってあります。貴方が引いた図面通りにね。気候は温暖、湿度は低い。そして何より、この機械の価値を理解し、愛してくれる熟練工たちと一緒です」


 ヴェルニーは、深いため息をつき、工場に入り天井を見上げた。そこには、フランスの技術の粋を集めた鉄骨の梁が、幾何学的な美しさで組まれている。この美しい外箱だけは、持っていけない。


「貴方は、本当に恐ろしい人だ、ムッシュ・オグリ。

 国が滅びようとしている時に、貴方は次の工場のレイアウトを考えていた。

……分かりました。最後まで付き合いましょう。あの三トンスチームハンマーの搬出は、私が指揮します。あれの心臓部シリンダーとピストンロッドはデリケートだ。素人に触らせて歪ませたら、私のエンジニアとしてのプライドが許さない」


「メルシー、ムッシュ。

 そう仰ると思って、とびきりの『箱舟』を用意しておきましたよ。

それとね、夢は壊れたんじゃありません。場所を変えるだけですよ。石と煉瓦はここに置いてきますが、あのハンマーさえあれば、またあなたの鉄の王国は創れます」


小栗は、ニヤリと笑った。


 その笑顔は、亡国の宰相のものではなく、強欲かつ周到な不動産屋のそれであった。



同日午前。東海道から横須賀への街道。


 長州藩兵を伴い、横須賀へと急行する男がいた。新政府軍の接収担当、佐賀藩士・江藤新平である。

 彼の脳内にあるのは、旧幕府の息の根を止めることではなく、「東洋一の近代設備」を無傷で手に入れることである。


 江藤は、新政府が抱える絶望的な資金不足と技術不足を理解している実務家である。だからこそ、横須賀の機械群は、新政府の威信と軍事力を支える「魔法の打ち出の小槌」に見えている。


だが、街道をすれ違う荷車や避難民の奇妙な少なさに、江藤は微かな違和感を覚える。  

(まるで、道が綺麗に掃除されたようだ……)



同日正午。

横須賀港・桟橋周辺。


 機械の積み込みと並行し、三〇〇〇人を超える技術者と家族の乗船が始まっていた。


 桟橋に並ぶ彼らは「難民」ではない。南山物産の発行した「雇用契約書兼渡航許可証」を手にしている。

 トランクや風呂敷包みには、衣服だけでなく、使い慣れたノギスやヤスリなど「職人の手の延長」とも言える個人工具が詰め込まれている。


 役人が、冷徹なまでに事務的に名簿をチェックし、乗船ゲートを管理している。



「あっち(南山)に行けば、毎日お肉と果物が食べられるんだってさ」

不安に泣く子供と、それを宥める母親。


「お前さん、本当に行くのかい?南山なんて、鬼が住む島だって噂だよ」

 幼児を背負った女房が、不安げに夫の袖を引く。夫である若い旋盤工は、南山から支給された真新しい作業服の襟を正し、力強く答えた。


「馬鹿野郎。鬼が出るか蛇が出るかは知らねぇが、ここよりはマシだ。薩摩や長州の侍が来たらどうなると思う? 俺たちのこの腕を、奴らは分かっちゃいねぇ。ただの鍛冶屋扱いだ。

 だが、小栗様は違う。『お前たちの腕は、侍の刀よりも尊い』と言ってくれた。

南山に行けば、庭付きの一戸建てと、子供には学校、それに俺には最新の機械が用意されてるんだ。

……俺はな、自分の腕を高く買ってくれるトコで働きてぇんだよ」


 職人たちの間には、一種の熱病のような「南山熱」が蔓延していた。

 小栗は、彼らの自尊心を巧みにくすぐり、実利的な保証を与えた。 日本では身分制度の下で「下賤な職人」と見なされがちな彼らが、南山では産業の戦士として厚遇される。その事実は、彼らに海を渡る決意をさせるのに十分であった。



 横須賀製鉄所のシンボルであり、職工たちが畏敬の念を込めて「雷神」と呼ぶ存在。それが、オランダ・ナースミス社製の特許に基づく「三トンスチームハンマー(蒸気鎚)」である。


 高さ六メートル、総重量二〇トン。

 ボイラーから送り込まれる高圧蒸気の力で、三トンの鉄塊を垂直に持ち上げ、赤熱した鉄に叩きつける。その一撃は、地盤を通じて横須賀の町全体を揺らし、窓ガラスを震わせるほどのエネルギーを持つ。


 当時の日本において、軍艦のプロペラシャフト(推進軸)や、大砲の砲身といった大型鍛造品を製造できる唯一無二の設備であり、まさに日本の重工業の御神体とも言うべき存在であった。その御神体が今、二ヶ月にわたる準備期間を経て、ついに台座から引き剥がされようとしていた。


 この巨大なハンマーは単体で存在しているわけではない。補佐する一トン級の蒸気ハンマーが三基、〇・五トン級が五基、周囲に階層的に配置されている。これらは巨大なシャフトから小さなリベットに至るまで、自己完結的に鍛造できる能力を意味していた。


 小栗の指示は機械を部品としてバラバラに運ぶことではなく、「機能単位ユニット」としてのパッケージングである。例えば、主力である三トン級スチームハンマー一基に対し、予備成形を担う〇・五トン級ハンマー一基、そして赤熱した鉄塊を捌くための蒸気駆動スイングクレーン二基を一つのセットとして搬出させた。この徹底したパッケージング思想があったからこそ、移転先において、梱包を広げた直後の再稼働が可能となるのである。


 すべての主要機械が搬出され、不気味なほど声が反響する巨大な建屋。床には、重機が据え付けられていたアンカーボルトの跡と、黒い油の染みだけが残っていた。



第一工場の最奥部。天井の高い鍛造場の空気は、張り詰めていた。


 ハンマーの周囲には、三月から組み上げられていた太い丸太のやぐらが聳え立ち、そこから南山の鉱山で使われているという極太の鎖と、複数の巨大な滑車プーリーが垂れ下がっている。アンカーボルトは、すでに数週間前から油を差して緩められており、準備は万端であった。


「ワイヤー、テンション(張力)確認! 重心よし! 式油圧ジャッキ、加圧開始!」


現場監督の怒号が飛ぶ。


 彼らの言葉は、江戸弁と、會津訛りと、そして片言の英語が入り混じった、独特の「現場スラング」であった。作業に当たっているのは、まげを切り落とし、南山製の作業服デニムのつなぎを着た日本の鳶職とびしょくたちと、南山から特別に呼び寄せられたマオリ族の大男たちである。


 マオリの男たちは、上半身裸で、その逞しい筋肉に美しい刺青タトゥーを躍らせている。彼らは、重いものを動かすことにかけては天才的な感覚を持っていた。


金属がきしむ音が、工場内に響き渡る。


 巨大な鋳鉄製のフレームが、ミリ単位で浮き上がる。床のコンクリートから、長年締め付けられていた直径一〇センチもあるアンカーボルトが引き抜かれ、断末魔のような音を立てる。


「Arrêtez ! Arrêtez !(止まれ!止まれ!)傾いている! 右のジャッキ、二ミリ下げろ!  ……おい、そこのマオリ! 鎖を引くのが早すぎる! 呼吸を合わせろ!」

 ヴェルニーが、メガホンを片手に叫ぶ。彼は泥と油にまみれながら、精密水準器を睨みつけていた。


 このハンマーは、単に重いだけではない。シリンダーとピストンのクリアランス(隙間)は髪の毛一本分しかない。無理な力がかかってフレームが歪めば、それはただの鉄屑と化す。  


これは「土木工事」ではない。二〇トンの鉄塊に対する「外科手術」なのだ。


 地響きと共に、ハンマーの巨体が完全に宙に浮いた。

その下には、今までそれが鎮座していた「痕跡」油と鉄粉が染み付いた、黒い長方形の穴だけが、ポッカリと口を開けていた。


「……よし。そのまま水平移動!  ……『コロ(ローラー)』を噛ませろ! ゆっくりだ、赤ん坊を揺り籠に入れるように優しくだぞ!」


 鋼鉄の丸棒ローラーの上に、ハンマーが載せられる。ここからが、小栗が考案した奇策の真骨頂であった。


 工場から岸壁まで、数百メートルの距離を移動させ、さらにそれを船に積まねばならない。だが、二〇トンの重量物をそのまま甲板に載せれば、通常の木造船ならば底が抜ける。クレーン船などという便利なものはない。そこで小栗は、建設資材そのものを運搬具に変えるという離れ業をやってのけた。


 岸壁に横付けされた、奇妙な形状の巨大な「箱」

それは、船ではなかった。横須賀ドックの建設用に作られ、ドックの入り口を塞ぐ扉として機能するはずの船型ケーソン(潜函)であった。内部にバラストタンクと小型ボイラーを備えた、長さ三〇メートルにも及ぶ鉄製の構造物である。小栗はこのケーソンを分解せず、内部の水を抜いて浮かせ、そのまま臨時の運搬用艀はしけとして利用することにしたのだ。


「ドックを作るためのケーソンを、船代わりにするとはな」


ヴェルニーは、呆れながらも感心していた。

 ケーソンならば、どれほど重いものを載せても沈まないし、底が抜けることもない。小栗は、この鋼鉄の箱にスチームハンマーや大型旋盤を詰め込み、それを大型蒸気船で曳航して、南山まで運ぼうというのだ。


「使えるものは何でも使う。それが南山流です。多分」


小栗は、ハンカチで額の汗を拭った。

 工場から延びる仮設のレールの上を、スチームハンマーがゆっくりと、ケーソンに向かって滑っていく。


 マオリの男たちが、太いロープを肩にかけ、「エイサ、ホイサ」という掛け声と共に引っ張る。日本の鳶職たちが、巧みな梃子てこ捌きで方向を修正する。その光景は、人種も言語も異なる男たちが、「鉄の神様」を新しい神殿へと遷座せんざさせる、神聖な儀式のようでもあった。



 この横須賀で行われていたのは、単なる機械の「夜逃げ」ではない。それは、素材の搬入から完成艦の進水までを一貫して行う自己完結型・巨大複合プラントという生命体の、臓器と神経系を丸ごと摘出し、南山という新たな胎内へ移植する、人類史上類を見ない外科手術であった。


 搬出される「鉄の階層構造」は、以下の通り、凄まじい質量と体系を持って海へと流出していった。


 まず、全工場の鼓動を司る動力の心臓部(The Prime Movers)である。当時の機械は個別のモーターではなく、中央動力室に鎮座する六基の定置式蒸気機関からエネルギーを得ていた。


 小栗は、この巨大なフライホイールを持つ蒸気機関本体だけでなく、天井に張り巡らされたラインシャフト(伝動軸)やプーリー、そして動力を末端へ伝える無数の革ベルトに至るまで、文字通り「根こそぎ」回収させた。これらがなければ、どれほど優秀な工作機械も、ただの動かない鉄塊に過ぎないことを彼は知っていた。



 次に、金属加工の森(The Iron Works)が解体された。二〇〇〇トン級の軍艦を建造するための工作機械群である。


 直径数メートルの巨体を回し、スクリューシャフトを削り出す大口径正面旋盤をはじめとする計三十台以上の大型旋盤と、ボルトやバルブを加工する百台以上の中・小型旋盤。蒸気エンジンの接合面を「蒸気漏れしない精度」で平滑に仕上げる八台の平削り盤。さらに、厚い鉄板を一撃で断ち切り、リベット穴を開ける六台のパンチング&シャーリングマシンや、十八基もの蒸気式リベット打ち機。そして、船体の曲線を描き出す幅四メートルの巨大なベンディングローラーまでもが、台座から引き剥がされた。



 鍛造・鋳造の部門(The Forge & Foundry)に、おいては、物語でも紹介した、スナイデル社製の三トン級ハンマー四基を頂点とする「重層的な暴力」がパッケージ化された。


 蒸気エンジンのコネクティングロッドを叩く一トン級ハンマー三基、そして最も稼働率が高く、工具やボルトを量産する〇・五トン級ハンマー五基。

 これらを支える専用のランカシャー・ボイラー六基と、重たい鉄塊を軽々と吊り上げる一二基のスイングクレーンもまた、配管一本、ボルト一本に至るまで解体され、南山へと運ばれた。




さらに、製材部門(The Sawmill)と船台・土木設備(The Civil Engineering)の摘出は執拗を極めた。


 「鉄骨木皮」の軍艦を支えるための六台の蒸気鋸、十台の帯鋸盤、五十台もの木工旋盤。そしてドックの機能を司る「排水用蒸気ポンプ」である。直径二メートル近いインペラ(羽根車)を持つ巨大なグウィン(Gwynne)式遠心ポンプや、鋳鉄製の巨大な仕切弁スルースバルブなどの配管資材計五十トンが、ドックの底から抉り取られた。


 特筆すべきは、ドックの入り口を塞ぐ「扉」そのものである四隻の船型ケーソンであった。これらはそれ自体が「泳ぐ城壁」であり、内部の水を抜いて浮かせた状態で、その腹の中に三トンスチームハンマーなどの超重量物を飲み込み、そのまま蒸気船で南山まで曳航されたのである。



 地味ではあるが、船をドックに座らせるための、油が染み込み、乾燥しきって狂いのない硬質の巨木のブロック「盤木キールブロック」三四二個さえもが、貴重な資源として船積みされた。南山には木はあれど、これほどの「枯らし」の利いた材を即座に調達することは不可能だからだ。



 こうして横須賀からは、夜間作業用のガス灯システム十数基や修理用の仮設足場材に至るまで、近代工業という「文明の衣食住」がすべて剥ぎ取られた。

 小栗が実行しているのは、単なる物資の移送ではない。それは日本列島という古い器から、近代化の魂である「自己完結型プラント」を抽出する、物理的な奇跡の総体であった。



 桟橋には、パシフィック・メール社の大型外輪船コロラド号と、南山船籍の貨物船カリスト号が、黒い煙を吐きながら待機していた。


その船尾には、巨大なケーソンが曳航索で繋がれている。

 ケーソンの中には、二十トンの巨体を誇る三トンスチームハンマーをはじめとした重重量物が、幾重にもかけられた極太の固定ロープと分厚いキャンバス地のカバーに包まれて鎮座していた。

 船たちの船倉の奥には中型・小型の工作機械が満載されている。分解された旋盤、ボール盤、平削り盤。ボイラー用の耐火煉瓦、工具箱、そして無数の図面。それらの隙間に、人々が乗り込んでいく。



一人の老職人が、荷物の中から大事そうに桐箱を取り出していた。

 中に入っているのは、彼が長年愛用してきた「やすり」と「鯨尺くじらじゃく」であった。


隣にいた若い職工が声をかける。

「親方、そんな古い道具、向こうじゃ使わねぇんじゃないですか?  南山じゃ、インチねじとノギスが当たり前だって聞きましたぜ」


老職人は、皺だらけの顔で笑った。


「へっ、若造が。機械がいくら立派でもな、最後の仕上げは人間の手だ。南山の鉄だろうが、日本の鉄だろうが、俺が削れば同じように光るんだよ。……それに、こいつは俺の魂だ。魂を置いてけぼりにはできねぇよ」


 その言葉には、国を捨てても、自分の腕さえあれば生きていけるという、職人特有の強烈な自負プライドがあった。

 彼らにとっての祖国は土地ではない。「自分の仕事ができる場所」こそが、新しい祖国なのだ。




「積み込みを急げ! 潮が変わるぞ、もたもたするな!」


 岸壁に打ち寄せる波の音が、先ほどまでよりも心持ち高くなっている。焦燥を孕んだ船員たちの怒号が、夕風を切り裂いて飛び交った。

 やがて、紫紺へと染まりゆく横須賀の空に、鋭い光を放つ一番星がひとつ、零れ落ちるように輝き始めた。それは、これまで数千年の間、東国の民が旅の指標としてきた北極星ではない。彼らの船が進むべき、まだ見ぬ南の空へと誘う、静かなる道標しるべのようであった。


コロラド号が、腹の底を揺さぶるような咆哮を上げた。

 濛々たる白煙を噴き上げ、大気を震わせて響き渡る長音。


 それは、慣れ親しんだ横須賀の土地に対する惜別の挨拶であった。と同時に、日本近代工業の心臓部が不屈の魂を伴って、水平線の彼方へと旅立つ決意を告げる、新たなる時代の産声でもあった。




第四部 第8話完

次のお話は5/4、15時ごろアップ予定です。


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


渾身の新連載!

「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

https://ncode.syosetu.com/n7215lz/


シリーズの短編もアップしました。

「異聞 五稜郭」

https://ncode.syosetu.com/n4984mc/


宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/


ご興味がある方はご一読くださいませ。


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