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第6話 江戸城明け渡し - 空っぽのショーケース(後)

西の丸御殿、大広間。


 本来ならば、将軍が諸大名と対面し、天下のまつりごとを論じる厳粛な空間である。畳は青々と敷き詰められ、金箔を貼った襖には狩野派の絵師による松の図が描かれている。天井を見上げれば、精緻な組木細工が施された格天井ごうてんじょうが、徳川の威光を無言のうちに語りかけてくる。

 だが、その空間に漂っていたのは、権威の重圧ではなく、引っ越し荷物を送り終えたばかりの、空き家特有の乾燥した空虚さであった。


 勝に促され、その大広間に入ると、中央に先に入った勝が胡坐あぐらをかいて座って待っていた。彼は、南山産の太い葉巻を噛み締めながら、膝の上に置いた書類の山に目を通していた。その姿は、敗軍の将というよりは、繁忙期の決算を片付けたばかりの大店の番頭のようであり、あるいは巨大なプロジェクトを完遂した現場監督のようでもあった。


「やあ、西郷どん。待ってたぜ」


 勝は、西郷の巨体が入口に現れるのを認めると、葉巻を真鍮製の携帯用の灰皿に押し付け、ニヤリと笑った。その顔には、悲壮感など微塵もない。むしろ、厄介な仕事をやり遂げた男の、晴れ晴れとした虚脱感が漂っていた。


「掃除は、済ませておいたよ。畳も表替えしたばかりだ。新しい御主人様を迎えるんだ、埃っぽくちゃ失礼だろう?」


西郷は、無言で勝の前に歩み寄り、どっかと腰を下ろした。

 その巨体から発せられる威圧感は、周囲の空間を歪めるかと思う程の凄まじいものであったが、勝は柳に風と受け流す。

 二人の間には、小さな漆塗りの三方さんぼうが置かれ、巨大な鍵束と、分厚い帳簿の束が鎮座している。


「勝安房殿。城の明け渡し、大儀であった。これで、江戸一〇〇万の民は、無益な火の海から救われた。あんたの英断に、感謝いたす」

 西郷の声は、腹の底から響くような重低音であった。


 勝は、軽く手を振った。

「礼には及ばねぇよ。こっちも、大家が変わる前に、お店(おたな)の中を整理したかっただけだからな。喧嘩をして店を焼いちまったら、元も子もねぇ。それが『大阪湾合意』の精神(スピリット)ってもんでしょう?」


勝は、三方さんぼうを西郷の方へ押しやった。

 ジャラリ、と鍵束が冷たい音を立てる。


「これだ。……大手門、桜田門、各櫓やぐら、米蔵、武器庫……。江戸城にあるすべての鍵だ。  ……それと、これが引継書(目録)だ。城郭の修繕箇所、庭木の剪定時期、雨漏りのする部屋、鼠の出やすい廊下……。建物の管理に必要なことは、すべて書いてある。ああ、それから奥女中たちの再奉公先は全部決まって、全員宿下がり済みだ。女たちへの手当は支払い済みだから、路頭に迷う心配はねぇ」


 西郷は、恭しく目録を手に取った。和紙に墨書されたそれは、几帳面な祐筆ゆうひつによって、膨大な項目が記されている。西郷は、太い指でページを繰った。


『建物修繕ノ件』『庭園管理ノ件』『什器備品ノ件』……。だが、ページを捲る西郷の手が、ぴたりと止まり、太い眉が、ピクリと跳ね上がる。


「勝殿?」


西郷の声が、一段低くなった。

『財産目録』の項が、白紙じゃが?」


大広間に、沈黙が落ちた。

 庭先でウグイスが鳴く声だけが、場違いに明るく響く。


勝は、悪びれる様子もなく、懐から懐中時計を取り出し、時間を確認してから答えた。

「ああ、それか。ないんだよ、財産は」


「……ない?」


「勘定奉行の小栗が、計算機カリキュレーターを弾いて算出したんだがね。徳川家は、この日本支店を閉鎖することにしたんだ。城や土地、それに統治権という看板は、新しい経営者であるおたく方に譲渡する。これは『大阪湾合意』に基づく、正当な手続きだ」


「だがな、中身の商品や運転資金は、私有財産だ。新本店、南山・明望めいぼうへ移させてもらった」


 勝の言葉は、乾いた氷のように冷徹であり、同時に人を食ったような響きがあった。西郷の顔色が、みるみるうちに赤黒く変色していく。


「ふざけるなッ! 天下の政権を返上するということは、その富もまた、朝廷にお返しするのが筋じゃろうが! 徳川三〇〇年の蓄財、金銀五〇〇万両とも言われる御用金は、どこへ消えた! 」


「最新鋭のアームストロング砲は! 関口で作っておった五万挺のエンフィールド銃は! それら全てを持って逃げたと申すか!」


 西郷の怒号が、大広間の空気を震わせた。だが、勝は涼しい顔で、葉巻の煙を天井に吐き出した。


「持って逃げた? 人聞きが悪ぃな。 配置転換と言ってくれよ。それに、西郷どん。あんたも武士なら分かるだろう? 負けたからといって、ふんどしまで脱いで差し出す馬鹿はいねぇ」


「城はやる。土地もやる。だが、刀と財布は武士の魂だ。これを取り上げようってんなら、話は別だ。上野に燻っている彰義隊の連中と一緒に、江戸中を火の海にして、心中するしかなくなるぜ?」


それは、明確な脅しであった。

 勝と小栗は、江戸城明け渡しというカードを切りつつ、裏では大軍を引き込んだ後の「焦土作戦」というジョーカーをチラつかせていたのだ。もし新政府軍が資産の持ち出しを妨害すれば、江戸の町に火を放ち、何もかも灰にする。当然、西郷の軍もただでは済ませない。その覚悟が、勝の細められた眼光の奥にギラリと光っていた。


西郷は、ギリギリと奥歯を噛み締めた。

 ここで勝を斬ることは容易い。だが、それをすれば、江戸は燃え、薩摩の面子は潰れ、新日本の近代化は五〇年遅れることになる。

 西郷は、ゆっくりと立ち上がった。その巨体が怒りと無力感で小刻みに震えている。


「御金蔵、見せてもらおうか。この目で見るまでは、納得できん」


「いいとも。ご案内仕ります」

 勝は、軽やかに立ち上がり、踵を返した。

 その背中は、どこか楽しげでさえあった。


          ◆


江戸城御金蔵。


 江戸城の心臓部であり、かつては天下の富のすべてが集まると言われた場所である。何重もの厳重な扉と、複雑な錠前。勝は、鍵束の中から最も大きな真鍮の鍵を選び出し、鍵穴に差し込んだ。


重厚な解錠音が響く。

 西郷と、背後に控える薩摩・長州の接収担当官たちが、固唾を呑んで見守る。彼らの脳裏には、天井まで積み上げられた千両箱の山と、眩いばかりの金塊の輝きが描かれていたはずだ。その富があれば、戦費の借金を返し、新政府の基盤を盤石にできる。貧しい西国の兵士たちに、腹一杯の飯を食わせてやれる。


油の切れた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げ、分厚い鉄扉が左右に開かれた。

暗闇の中に外光が差し込む。


「……なッ!?」

担当官の一人が、絶句して腰を抜かし、尻餅をついた。

 西郷は、仁王立ちになったまま、眉一つ動かさずに、その光景を見据えた。だが、その瞳孔は極限まで開かれ、呼吸が一瞬止まっていた。


そこには、完全なる虚無があった。


 千両箱が山と積まれているはずの空間は、塵一つないほど綺麗に掃き清められ、床板が白々と光っていた。床には、重い箱が長年置かれていた跡が、正方形の染みとなって黒々と残っている。


 だが、現物は一欠片もない。


 一分銀いちぶぎんの一枚、寛永通宝の一枚すら落ちていない。隅々までほうきで掃かれ、雑巾で拭き上げられたかのような、清々しいまでの真空地帯。ネズミ一匹いない。なぜなら、ネズミが齧るべき米粒さえ残っていないからだ。


 蔵の奥、壁面に貼られた一枚の紙が、風もないのにヒラリと揺れた。西郷が近づいて見ると、そこには独特の、勢いのある筆致でこう書かれていた。


『 完売御礼 在庫一掃仕候』


「おのれ、海舟ッ!」

西郷の背後で、桐野利秋が軍刀の柄に手をかけた。


「こ、これはたばかりじゃ! 詐欺じゃ! こんな空っぽの箱をもらって、何が勝利じゃ! 何が王政復古じゃ! 徳川を皆殺しにして、金を取り戻すべし!」


 桐野の殺気が、勝に突き刺さる。だが、勝は平然と肩をすくめた。


「おいおい、半次郎さんよ。血の気が多いねぇ。…金がない? 当たり前だ。徳川はな、この国を近代化するために、南山へ投資し、鉄道を引き、造船所を作った。金はすべて形に変わっちまったんだよ」


「機械や技術は、徳川の私有財産として移動させた。この美しい国の山河と立派な城と、借金のないきれいな国家の帳簿をあんたたちに渡すよ。感謝してほしいね。我々は、フランスへの六〇〇万ドルの借款も、英国への武器代金も、すべて南山開発株式會社の負債として引き受けたんだ。あんた方は、無借金で新しい国を始められるんだぜ?」



それは、一見もっともらしい理屈であったが、実態は残酷極まりない詭弁であった。

 徳川慶喜という冷徹な経営者は、日本列島という赤字の本店から、本店に嫌われた事業部門と従業員を、運転資金を負債ごと切り離して独立するのだという理屈だ。

 だが、同時に営業権ノレン優良資産アセットも持ち去ったため、残された本店(新政府)は、資本金ゼロ、ノウハウゼロ、あるのは巨大な社屋(国土)と、給料を要求する大量の社員(士族・国民)だけという、経営破綻寸前の状態からスタートせねばならない。


 運営資金(現金)がなく、統治ノウハウ(書類・官僚)もなく、あるのは「錦の御旗」という名の看板と、恩賞を欲しがる数十万の兵士たちだけ。

 これからの新政府を待ち受けているのは、ハイパーインフレと、生活苦にあえぐ民衆の反乱。まさに、地獄の釜の蓋が開くような苦難の時代であった。



「……勝殿」

 西郷の声は、怒りを通り越して、深い哀しみを帯びていた。


「……これは、あまりにむごかろう。…我らは、天下万民のために立ち上がっただけとは言わん。だが、これでは民を食わせることすらできん。徳川は、金も、技術も、人も、すべて持ち去っるのか。残されるのは、飢えた民と、痩せた土地だけか」


 勝は、西郷の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、一瞬、友人を裏切ったような痛みが走ったが、すぐに実務家の冷徹な光に戻った。


「西郷さん。国を作るってのは、綺麗な着物を着て御殿に座ることじゃねぇ。泥水をすすり、無一文から畑を耕すことだ。……あんたなら、できるだろう? 會津の容保公も、慶喜公も、(はばか)りながら俺も南の荒野でそれをやるつもりだ。ここからは競争だ。あんたたちがこの古い日本を復興させるのが早いか、俺たちが南山に繁栄を作り上げるのが早いか。お互い、せいぜい頑張ろうじゃねぇか」


西郷は、勝に背を向け、深く、長く嘆息した。

 その大きな背中は、天下人のそれではなく、途方に暮れる貧しい大家族のおさの哀愁を帯びていた。彼は、壁に貼られた『完売御礼』の紙を見つめ、ポツリと漏らした。


「……おいは、とんでもない貧乏くじを引いたのかもしれん」


 江戸城天守台に翻る「錦の御旗」 春風にはためくその鮮やかな極彩色は、しかし、これから始まる日本の苦難、明治という名の、血と汗とインフレの時代を覆い隠すための、虚しく、そして残酷な装飾に過ぎなかったのかもしれない。


 空っぽのショーケース。それが、二六〇年の支配を打ち砕いた英雄たちが手に入れた、新しい日本の正体であった。




第四部 第6話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


渾身の新連載!

「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

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シリーズの短編もアップしました。

「異聞 五稜郭」

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宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/


ご興味がある方はご一読くださいませ。


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