第6話 江戸城明け渡し - 空っぽのショーケース(前)
慶應四年(一八六八年)三月十三日。
江戸、池上本門寺。
早春の冷たい雨が、古刹の瓦屋根を濡らし、境内の敷石を黒く染めていた。その奥まった一室で、二人の男が対峙していた。
一人は、新政府軍参謀、西郷吉之助(隆盛)
もう一人は、旧幕府陸軍総裁、勝安房守義邦(海舟)
世間では、この会談を「江戸百万を火の海から救うための和平交渉」と見ていた。だが、当事者たちの認識は全く異なっていた。これは、先日の「大阪湾合意」に基づき、日本という巨大な不動産の「鍵の引き渡し」を行うための、極めて実務的、かつ殺伐とした最終確認の場であった。
「……勝どん」
西郷の低い声が、雨音に混じって響いた。
彼は、出された茶に口もつけず、眼前の小柄な男を睨み据えていた。
大阪で河合継之助に煮え湯を飲まされた記憶が、まだ新しい。彼の神経は、今や有刺鉄線のように尖っていた。
「単刀直入に聞く。城の中身は、無事ごわすか?」
勝は、膝の上の扇子を弄びながら、飄々と答えた。江戸っ子特有の、軽妙だが食えない口調である。
「中身たぁ、穏やかじゃねぇな、西郷さん。約束通り、城は綺麗に掃除して渡すよ。畳も、襖も、庭の松の木一本に至るまで、傷つけちゃいねぇ。徳川は、立つ鳥跡を濁さず、だ」
「おいは、畳や襖の話をしちょるのではない!」
西郷が膝を叩いた。
「……金じゃ! 機械じゃ!横浜の方から、昼夜を問わず荷車が出入りしておると報告が入っておる。 お主ら、合意を盾に、城の中身を根こそぎ持ち出す気じゃなかろうな?」
勝は、ふん、と鼻を鳴らした。
「人聞きが悪いねぇ。あれは私物の整理だ。大阪で河合と決めたはずだ。不動産はあんたらにやる。だが、動産は俺たちが持っていく。
今、小栗の旦那が血眼になって梱包してるのは、俺たちが南山で借金を返すための商売道具だ。それを置いていけってぇなら、あんた、代わりにあの四千万ドルの借金を肩代わりしてくれるのかい?」
「……ぐっ」
西郷が言葉に詰まる。
「借金」というカードを切られると、新政府側は手も足も出ない。
勝は、その隙を見逃さず、畳み掛けた。
「安心しな。将軍家の威光とか三〇〇年の歴史とかいう、あんたらが一番欲しがってる骨董品は、全部置いていく。俺たちに必要なのは、もっと即物的な、明日食うための飯のタネだけだ」
ここで、二人の間に座っていた大柄な男が、静かに口を開いた。旧幕府精鋭隊頭、山岡鉄舟である。
彼は、その巨岩のような身体から、清冽な気を放っていた。
「西郷殿。拙者が保証いたす。徳川慶喜公は、天子様に弓引くつもりなど毛頭ござらん。城を明け渡し、恭順の意を示す。その約束に嘘偽りはない。武士に二言なし。どうか、勝先生を信じていただきたい」
鉄舟の言葉は、嘘ではなかった。
ただし、その「恭順」の意味するところが、西郷の期待する「無条件降伏」ではなく「日本からの完全撤退」であることを、鉄舟自身も、あるいは勝も、意図的に曖昧にしていた。
西郷は、鉄舟の真っ直ぐな瞳を見て、深く嘆息した。
「……わかった。山岡どんがそこまで言うなら、信じよう。四月十一日。官軍が入城する。それまでに、荷造りを済ませておくがよか」
「へいへい。間に合わせますよ」
勝は、ニヤリと笑った。その笑顔の下で、彼は冷や汗を拭っていた。
(危ねぇ危ねぇ。……小栗の野郎、まだスチームハンマーの分解が終わってねぇって言ってたな。あと一ヶ月。なんとしても西郷をここで足止めして、時間を稼がなきゃならねぇ)
◆
その頃、横浜港と江戸城大手門を結ぶ街道は、異様な光景に包まれていた。夜陰に乗じて、何百台もの大八車や荷馬車が、提灯の明かりを頼りに列をなして進んでいたのである。それは、夜逃げというにはあまりに大規模で、軍事行動というにはあまりに静寂な大輸送作戦であった。
江戸城 御金蔵。
松明の明かりの下、勘定奉行・小栗忠順は、鬼のような形相で指揮を執っていた。
「急げ! 日が昇るまでに、あと五十箱だ!」
人足たちが、千両箱を次々と運び出していく。箱の中身は、天正大判、慶長小判、そしてメキシコドル銀貨。徳川幕府が二六〇年かけて蓄積してきた富の結晶である。だが、小栗が運び出しているのは、金だけではなかった。
「帳面だ! 帳簿帳面を忘れるな!過去五十年の出納記録、各地の鉱山の図面、外国語の技術書、これは金の何倍も価値がある! 紙切れ一枚残すな!」
小栗は知っていた。国家を運営するのは、スローガンでも刀でもない。蓄積された情報であると。
新政府軍が城に入った時、彼らが最も困るのは、金がないことではない。「どこに何があり、誰が何を知っているか」という情報が完全に消滅していることだ。
「お奉行。この屏風や、家康公ゆかりの茶器はどういたしますか?」
部下が尋ねる。
「置いていけ」
小栗は、国宝級の美術品を一瞥もしなかった。
「そんなガラクタは、重いだけで腹の足しにならん。西郷たちへの手土産だ。せいぜい、それを床の間に飾って、天下を取った気分に浸らせてやればいい」
小栗の判断は、冷徹なまでに実利的であった。南山で必要なのは、過去の栄光(骨董品)ではなく、未来を切り拓くための資本と知識だけだ。
「よし、最後だ。金庫の床を掃き清めろ。新しき大家殿に、塵ひとつない空き家を引き渡すのが、江戸っ子の礼儀というものだ」
慶應四年(一八六八年)四月十一日
東洋随一の巨大都市・江戸は、死のような静寂に包まれていた。この日、空は抜けるように青く、春の陽光が武蔵野の台地を穏やかに照らしていたが、地上を支配していた空気は、季節外れの寒気にも似た、底知れぬ虚無感であった。
午前八時。
江戸城の南、高輪の大木戸を通過し、第一京浜国道、かつての東海道を北上してくる一団があった。
先頭に掲げられているのは、朝日に輝く錦の御旗。
それに続くのは、薩摩、長州、土佐を中心とする東征大総督府の軍勢、総勢およそ五万。
彼らは、鳥羽・伏見の戦いから三ヶ月をかけ、東海道を席巻し、ついに朝敵の本拠地である江戸へと到達したのである。
本来ならば、この行軍は、二六〇年続いた徳川の治世を終わらせ、王政復古という新たな時代の到来を告げる、熱狂的な凱旋パレードとなるはずであった。兵士たちの足取りは軽く、彼らの口元には「官軍」としての誇りと、これから手に入るはずの莫大な恩賞への期待が張り付いていた。
だが、その列の先頭を行く指揮官、薩摩藩参謀・西郷隆盛の表情は、周囲の浮ついた空気とは裏腹に、鉛のように重く沈んでいた。彼は、黒毛の巨馬に跨り、太い眉間に深い皺を刻みながら、油断なく周囲を見回していた。その双眸に映るのは、恐怖でも警戒でもない。「違和感」であった。
(……静かすぎる)
西郷は、手綱を握る手に力を込めた。江戸市中に入ってから、銃声一つ聞こえない。抵抗の気配はおろか、人の気配すら希薄であった。世界最大の消費都市として喧騒を極め、南山をはじめ世界中からもたらされた文物で溢れかえっていたはずの江戸の街並み。
煉瓦造りのモダンな商店、ガス灯が並ぶハイカラな通り、そして職人たちが鉄を打つ音が絶え間なく響いていた工業区。それらが今、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、沈黙して並んでいるのである。
沿道には、土下座をして官軍を迎える町人たちの姿があった。だが、彼らの背中からは、支配者が代わることへの畏怖や、新たな世への期待といった熱量が全く感じられなかった。彼らが発しているのは、冷ややかな諦観であった。伏し目がちに官軍の列を見上げるその視線は、まるで祭りの後のゴミを見るような、あるいは倒産した大店の残務整理に来た役人を遠巻きに見る近所の住人のような、ドライで冷めたものであった。
「新しい大家が来たらしいが、店子はもう店じまいして出て行ったよ」
「今頃来ても、めぼしい商品は何も残っちゃいねえのになあ」
声に出さずとも、彼らの背中がそう語っているように、西郷には思えた。事実、通りに面した大店の多くは雨戸を堅く閉ざし、軒先には「南山支店へ移転しました」「当面休業」といった貼紙が寒々しく揺れていた。
三井、小野組といった豪商たちは、すでに金庫の中身を横浜港の南山船籍の輸送船に移し終え、番頭や手代といった「稼ぐ力のある人間」もろとも、北へ、あるいは南へと姿を消していたのである。残っているのは、逃げる金も才覚もない、その日暮らしの貧乏長屋の住人と、老いさらばえた隠居たちだけであった。
「……吉之助さぁ(西郷のこと)、妙でごわすな」
傍らに馬を寄せた薩摩の将、桐野利秋(中村半次郎)が、不審げに鼻を鳴らした。彼は、英国製の回転式拳銃を腰にぶら下げ、派手な軍服を着崩した無頼漢の様ななりだが、その野生的な勘は鋭敏であった。
「江戸の連中、もっとビビるかと思うちょりましたが……。まるで敗残兵を見るような目つきじゃ。薩摩の兵隊を、田舎侍と馬鹿にしちょるような気さえしまして」
「半次郎。滅多なことを言うな」
西郷は短く制したが、内心では桐野と同じことを感じていた。
彼ら新政府軍の兵士たちは、多くが西国の貧しい農村出身である。彼らが身につけているのは、継ぎ接ぎだらけの筒袖や、古めかしい鎖帷子。手にしているのは、ようやく調達した前装式のエンフィールド銃である。
対して、この江戸という都市は、徳川幕府が推し進めた「嘉永産業革命」のショールームであり、住民たちの生活水準やリテラシーは、西国のそれとは比較にならぬほど高い。
彼らの目には、錦の御旗を掲げて行進する官軍の姿が、威厳ある解放軍としてではなく、時代遅れの衣装をまとった「田舎芝居の旅一座」のように映っているのではないか。
そんな惨めな想像が、西郷の脳裏をよぎった。
(……おいは、何をしにここへ来たのじゃろうか)
西郷は、馬上で自問した。
倒幕の大義。帝の御世の復活。 それは疑いようのない正義であったはずだ。たとえそれが薩摩の為だとしても。
だが、その正義を実現するためにたどり着いたこの場所は、あまりにも「軽い」
手応えがないのだ。
本来ならば、敵の抵抗を排除し、血と鉄の匂いの中で勝ち取るべき勝利が、まるで予め用意された台本通りに、粛々と、事務的に手渡されようとしている。その感覚は、二ヶ月前の大坂城入城の時と同じであった。
あの時もそうだった。
鳥羽・伏見の激戦を制し、意気揚々と大坂城へ乗り込んだ官軍を待っていたのは、もぬけの殻となった城郭と、一粒の米も残されていない巨大な兵糧庫だけであった。
徳川慶喜は、城を枕に討ち死にするどころか、城内の金銀財宝と重要書類を根こそぎ船に積み込み、悠々と海へ逃げ去っていた。
手に入れたのは、「大坂城」という巨大な不動産だけ。維持費ばかりがかかり、利益を生み出す中身(資本)は全て持ち去られた後の、廃墟にも等しい城。
そして今、江戸においても、同じことが繰り返されようとしている。
西郷の背筋に、悪寒が走った。
これは「勝利」なのだろうか? それとも、我々は徳川という巨大なバケモノが放り出した要らないゴミを、高値で掴まされただけなのではないか?
「……全軍、進めぇッ!」
号令がかかり、隊列は桜田門へと差し掛かった。
巨大な石垣。重厚な櫓門。
大老・井伊直弼が暗殺された因縁の場所であり、徳川の武威の象徴。その門扉が、内側からゆっくりと、抵抗なく開かれていく。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、暗い門の奥から、冷たく湿った空気が吐き出された。それは、あたかも巨大な墓室が開かれたかのような、死臭にも似たカビと埃の臭いであった。
西郷は、その闇を見つめた。
あの大坂湾で、河合継之助と交わした約定「大阪湾合意」の文言が、呪いのように蘇る。
『……徳川家は、日本列島の統治権を返上する。土地も、城も、新政府に譲渡しよう。その代わり、我々は「私有財産」を持っていく……借金も、我々が引き受ける……綺麗な体で、国づくりができるのだ。感謝してもらいたいものだな』
あの時、河合が浮かべていた薄ら笑い。
あれは、敗者の引きつった笑いではなかった。厄介なゴミ屋敷の鍵を、世間知らずの若造に押し付けた、老獪な遣りて婆の笑みであったのだ。
桜田門をくぐり、城内の広場へ出る。
そこには、誰もいなかった。整列して迎える降伏兵の姿もなければ、切腹して果てた忠臣の遺体もない。ただ、春風が吹き抜け、地面に落ちた枯葉を舞い上げているだけである。
あまりにも広大で、あまりにも空虚な空間。
かつては、ここに行き交う大名行列があり、威儀を正した旗本たちが列をなしていたはずの場所。日本の政治、経済、軍事の心臓部であった場所。
それが今、鼓動を止め、冷たい石と木の塊となって横たわっている。
「西郷どん。本丸へ向かわれますか?」
側近の問いに、西郷は重々しく頷いた。
「ああ。行かねばならん。そこに、この国の『鍵』があるはずじゃ」
西郷は馬を進めた。
その蹄の音が、誰もいない城内に虚しく反響する。それは、勝利の行進曲というよりは、廃墟をさまよう亡霊の足音のように聞こえた。
西郷の胸中には、得体の知れない不安が渦巻いていた。徳川慶喜という男、いや江戸政権は、一体どこまで計算しているのか。この空っぽの城を我々に与えることで、彼らは何をしようとしているのか。
「新国家独立」
南の果ての南山という新天地へ逃げ延び、そこで新たな国を作るという壮大な構想。
もしそれが真実ならば、我々が今ここで手に入れた「日本」とは、一体何なのだ? 中身を食い尽くされた後の、皮と種だけの残骸ではないのか?
「いや、考えすぎじゃ」
西郷は首を振った。
「……土地さえあれば、民はおる。民がおれば、国は作れる。徳川が逃げようとも、この美しい日本の山河は動かせん。ここから、始めるのじゃ。わしらの手で」
そう自分に言い聞かせる西郷の視線の先、西の丸御殿の入り口に、一人の男の姿が見えた。
正装の羽織袴ではなく、実務的な洋装のフロックコートを身にまとい、腕組みをしてこちらを待っている男。
旧幕府陸軍総裁、勝海舟。
彼だけが、この巨大な空虚の中心にあって、唯一、生きた人間の体温を発していた。その口元には、不敵な、そしてどこか哀れむような笑みが浮かんでいた。
「待ってたよ。巨大な空き家を引渡すぜ」
勝の声は聞こえなかったが、西郷には確かにそう聞こえた気がした。
慶應四年四月十一日。江戸城無血開城。
それは、一滴の血も流さずに成し遂げられた平和的な政権交代劇であると同時に、徳川幕府による史上最大規模の「資産隠し」の開始を告げる、静かなる幕開けの瞬間でもあった。
後編へつづく
後編は五月二日の一八時更新予定です。
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「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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