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第5話 北関東回廊 - 鐵の物流戦争

ようやく第四部 第5話をアップできました。

しばらくは、1日1本づつアップできるように頑張ります。

慶應四年(一八六八年)三月下旬。


 江戸湾・横濱港


 東洋の湿った春風が吹き抜ける横濱港は、かつて人類が経験したことのない種類の狂騒と、奇妙なほど冷徹に統制された秩序の狭間にあった。


 港内を埋め尽くしているのは、大小合わせて四八三隻にも及ぶ蒸気船の群れである。その林立するマストと煙突は、枯れ木のように寒々しい景色ではなく、黒煙と白蒸気を吐き出しながら唸りを上げる、巨大な「てつの森」を形成していた。


 船尾に翻るのは、ユニオンジャック(英国旗)や星条旗(米国旗)、そして南山物産の社旗である「南十字星サザンクロス


 葵の御紋を掲げた船は一隻もない。これは国際法上の偽装であり、同時に、徳川幕府という組織が国家の枠組みを超え、多国籍企業体へと変貌したことの物理的な証明でもあった。


 それらの船腹は、水面すれすれまで沈み込んでいた。彼らが飲み込んでいるのは、茶や生糸といったありふれた交易品ではない。横須賀製鐵所から酸素アセチレン切断機(米国製試作型)で強引に切り離された、総重量三トンのフランス製スチームハンマーの鋳鉄フレーム。関口製造所から運び出された、小銃の銃身にライフリングを刻むための精密施条加工機ライフルリング・マシン。そして、勘定奉行所の地下金庫からリレー搬送された、数千箱に及ぶ千両箱と、藩書調所ばんしょしらべしょの膨大な洋書コレクション。


 それらは、遥か七〇〇〇キロ南の洋上に浮かぶ新天地—南山へと移植されるべく、「大阪湾合意」という法的防壁を盾に、堂々と持ち出されようとしていた 。


 だが、いかに勝海舟と小栗上野介忠順が、世界の海運市場から「船」という船を根こそぎチャーターしたとはいえ、一国の産業基盤インフラストラクチャーを丸ごと海へ浮かべるには、物理的な容積が決定的に不足していた。


 横濱の波止場には、積み残された貨物が脈々と連なる山脈のように積み上げられ、乗船切符チケットを待つ技術者やその家族たちが、神奈川宿から品川の宿場町まで溢れかえっていた。彼らの眼差しには、故郷を捨てる感傷など微塵もない。「置いていかれること」への根源的な恐怖と、新天地での「飯の種」を守ろうとするギラついた生存本能だけが渦巻いていた。


          ◆


江戸城西の丸、陸軍総裁局。


 かつては将軍家の威信を示す静謐な空間であったその部屋は、いまや戦場の司令部というよりは、倒産寸前の巨大商社の管財人室の様相を呈していた。床には書き損じの書類と電信テープが散乱し、紫煙が充満する空間には、南山・入安島産の深煎りコーヒーの焦げた匂いが漂っている。


 部屋の中央、巨大な関東平野の地図を前に、二人の男が対峙していた。陸軍総裁・勝海舟と、勘定奉行・小栗上野介忠順である。二人の顔には、連日の不眠不休による疲労の色が濃く刻まれている。目の隈は深く、髭は伸び放題だ。だが、その眼光は死んでいない。むしろ、難解な詰将棋の局面において、起死回生の一手をひねり出そうとする棋士のような、アドレナリンに満ちた鋭い光を宿していた。


「…小栗さん。横濱ここはもう限界だ」


 勝は、太い葉巻を噛み締めながら、地図上の横濱港周辺を指で叩いた。


「……俺たちがかき集めた、えーと、四八三隻、総トン数六二万トン。世界商船船腹量の二・五パーセントにあたるらしいぜ。タイムズが『東洋の海から船が消えた』と書くのも無理はねぇ 。

 だが、それでも足りねぇんだ。

 港の荷役能力キャパシティがパンクしてやがる。これ以上詰め込めば、船が出る前に沈じまうか、あるいは待ちくたびれた連中が暴動を起こすかのどっちかだ」


 勝の言う通りであった。

 横濱の波止場には、積み残された貨物が山脈のように連なり、乗船切符を待つ技術者やその家族たちが、神奈川宿から品川の宿場まで溢れかえっていた。

 彼らは皆、不安と希望の入り混じった目で、沖合に停泊する黒い船を見つめている。

 この船団は、横濱を出ると小笠原(父島)で給炭し、マリアナ諸島で検疫を受け、赤道を越えて南山へ至る。

 全長三〇〇〇キロメートルに及ぶこの航路は、後に「青い大動脈ブルー・アオルタ」と呼ばれることになるが、今のところは、動脈硬化を起こしかけた血管のように渋滞していた 。


「それに、西郷の旦那も、いつまでも黙って指をくわえて見ちゃいねえだろう。奴らは大阪湾での合意で手足を縛られているが、現場の兵隊どもは収まりがつかねぇ。

 話が違う、徳川は国を空っぽにする気か、とイチャモンをつけて、実力行使で港を封鎖しに来るのも時間の問題だ。そうなれば、袋の鼠だ」


 小栗は、冷静に頷いた。彼は懐から分厚い帳簿を取り出し、ページを繰った。そこには、冷徹な数字と、焦燥を誘う日付が並んでいる。


「想定の範囲内です、勝先生。 問題は海路の混雑だけではありません。特に頭が痛いのは、ここです」


 小栗が指し示したのは、北関東、武蔵国の八王子から、上野こうずけの桐生、下野しもつけの足利にかけての内陸部であった。そこは、生糸と織物の一大産地であり、南山を介した北米輸出によって莫大な外貨を稼ぎ出しているドル箱地帯である。

 ここには、フランスから輸入された最新鋭のジャカード織機や、英国製の紡績機が多数稼働しており、それらを扱う熟練の女工たちも大勢暮らしている。


「……ここには、フランスのリヨンから輸入された最新鋭のジャカード織機や、英国マンチェスター製の精紡機が、大小合わせて二〇〇〇台以上稼働しています。そして、それらを扱う熟練の女工たちも、家族を含めれば数万人が暮らしている。

 これらは、軽工業の種籾となるべき最重要資産です。 横須賀の鉄工所が骨格を作るなら、ここの繊維産業は血液となる外貨を稼ぐのです」


 小栗は眼鏡の位置を直し、淡々と言葉を継いだ。


「ですが、これらを分解して横濱まで運ぶには、新政府軍の勢力圏である東海道の裏側を通過せねばなりません。すでに板垣退助の東山道軍が中山道を下ってきており、リスクが高すぎます。それに、先ほど仰った通り、横濱港にはもう、これだけの重量物と人間を受け入れる余地はありません」


「なるほど。海が詰まっているなら、陸を行くしかない、というわけか」


 勝はニヤリと笑った。小栗は、地図上に一本の赤い線を引いた。それは、江戸の西側から北へ向かい、日光街道と奥州街道を経由して、会津、そして日本海側の新潟港へと至る、長大な内陸ルートであった。


「はい。横濱という正面玄関メインゲートは、重量物に関しては閉鎖します。残りの荷物、特に北関東の機械類と、船に乗れなかった陸路組の移民希望者たちは、この『北関東回廊』を通して、裏口サブゲートである新潟港、および勝手口バックアップゲートである石巻港へ誘導します 。いわば、日本列島の背骨に沿って、巨大なベルトコンベアを通すのです」


「陸のベルトコンベアか。大きく出たな」


 勝は、かつて南山・入安島の鉱山視察で見た、黒いゴムベルトの上を延々と鉱石が流れていく光景を思い出した。止まることを許されない、鉄と意思の奔流。それを、人力と牛馬だけで、この泥濘ぬかるみの日本列島で再現しようというのだ。狂気じみた発想だが、今の徳川にはそれしか選択肢がない。


「だが、小栗さん。このベルトを動かすには、邪魔な石ころをどかさなきゃならねぇ。板垣退助率いる東山道軍が、西から八王子へ迫っている。さらに、北からは香川敬三の部隊が宇都宮を狙っている。こいつらに回廊を断ち切られたら、北関東の産業資本は袋の鼠だ。板垣の野郎は、土佐の山猿みてえに見えて、鼻が利く。奴はお宝の匂いを嗅ぎつけて、まっすぐ喉元を食いに来るぞ」


「ええ。ですから、この回廊には、強力な用心棒が必要です。侍の誇りだの、徳川への忠義だのといった精神論で戦うのではなく、契約に基づいて荷物を守る、玄人プロフェッショナルな警備隊が」


 小栗は、二枚の辞令書を机の上に置いた。そこには、二人の男の名前が記されていた。


『甲陽鎮撫隊長・近藤勇』  

『遊撃隊指揮官・土方歳三』


「彼らには、すでに伝えてあります。「戦争」ではなく「護衛」をしろ、と。

八王子と宇都宮。この二つの交通結節点ハブを死守し、荷物が通り抜けるまでの時間を稼ぐ。それが、彼らに課せられた任務です」


「新選組を、運送屋の用心棒にするってのか。贅沢な使い方だが、今のあいつらなら喜んでやるかもしれねぇな」


 勝は立ち上がり、窓の外、江戸の街並みを見下ろした。春霞の向こう、西の空には富士が霞んで見える。その手前、八王子の空には、すでに不穏な雲が湧き上がっていた。


「よし、決まりだ。 海は俺と榎本が支える。 おかの方は、近藤と土方、それに大鳥(圭介)先生に踏ん張ってもらうしかねえ。これは撤退戦じゃねえぞ、小栗さん。日本という古い家屋から、家財道具を一式持ち出すための引越し戦争だ」


 小栗は、無言で深く頷いた。彼の脳裏には、すでに精緻なダイヤグラム(運行図表)が描かれていた。  八王子から宇都宮へ。宇都宮から会津へ。そして会津から新潟へ。数千台の荷車と、数万人の人間が織りなす、鉄と汗の長距離行軍。その列の先頭には、黒い洋服を着た狼たちが、牙を剥いて待ち構えているはずだ。


「始めましょう、勝先生。新政府の連中が、空っぽの金庫の前で呆然とする顔が見ものですな」


 勝は、煙草の煙を天井に吐き出した。その煙の向こうに、泥と油にまみれて荒野を行く、男たちの背中が見えたような気がした。


          ◆


慶應四年(一八六八年)三月二〇日。


武蔵国、日野宿。

 甲州街道の要衝であり、多摩丘陵の緑に抱かれたこの宿場町は、春の麗らかな陽気とは裏腹に、異様な熱気と、油と鉄の匂いに包まれていた。


 宿場の本陣には、「甲陽鎮撫隊」の旗指物が誇らしげに翻っていたが、その周囲に集まっている男たちの姿は、農兵のイメージとはかけ離れていた。

 彼らは、竹槍や錆びた火縄銃など手にしていない。南山を経由して米国から迂回輸入された、黒光りするスペンサー七連発騎兵銃を抱え、腰には革製の弾薬盒パウチを巻き、足元はゴム製の頑丈な作業靴で固めている。中には、日差しの強い南山の牧場で使われているという、広つばの帽子を粋に被った若者さえいる。


 彼らは、日野・八王子地域の豪農や自警団のメンバーであったが、その実態は産業資本家と呼ぶべき存在に変貌していた。この地域は「桑の都」と呼ばれ、古来より養蚕と織物が盛んな地である。

 だが、嘉永の開国以来、彼らは、もたらされた技術を貪欲に吸収し、単なる家内制手工業から、蒸気ボイラーを備えた工場制機械工業へと脱皮しつつあった。


 彼らの蔵には、年貢米の俵ではなく、横濱へ出荷されるのを待つ生糸の束と、決済用のメキシコドルの銀貨が山と積まれていた。彼らにとって、この多摩の地は単なる先祖伝来の農地ではなく、巨大な「工場地帯」であり、迫りくる官軍は「圧政からの解放者」などではなく、商売の邪魔をし、あまつさえ、大切な機械を打ち壊そうとする「野蛮なラッダイト(機械破壊者)」に他ならなかった。


「近藤先生! 弾薬の追加分、佐藤彦五郎様の蔵から搬入しました! 二万発あります!」


「桑畑の裏手に掘った塹壕、完成しました! これでアームストロング砲を撃ち込まれても、ミシンは守れます!」


「南山技師殿直伝の有刺鉄線も張り巡らせておきましたぜ。土佐の芋侍どもが突っ込んできたら、蓑虫みたいにぶら下がることになりますな」


 報告に来る若者たちの顔には、悲壮感よりも、自分たちの財産を守るという強い意志と、ある種の昂揚感が漂っていた。その中心に、どっかと腰を下ろしている男がいた。


 新選組局長、近藤勇である。


 一ヶ月前、甲州勝沼において板垣退助の軍勢を翻弄し、撤退してきた彼は、しかし今、この故郷において「郷土の守護者」として迎えられていた。正直なところ、精神的に追い詰められ、自暴自棄になりそうなこともあった。だが、今は違う。松平容保と心を通わせ、勝海舟や小栗忠順といった怪物たちと接するうちに、彼の「義」の対象は、徳川という抽象的な権威から、目の前にある民の営みを守るへ事へと変質していたのである。

 彼はもはや、単なる剣客ではない。多摩という巨大な産業クラスターを守る守護者であった。


「……うむ。ご苦労」


 近藤は、愛刀・虎徹を撫でながら、満足げに頷いた。


「皆の衆、よく聞け。迫りくる板垣の軍勢は、官軍だ何だと偉そうなことを言っているが、その腹の中は、他人の稼ぎを妬む追いはぎと変わらん。奴らは穢れを嫌う。奴らがここに入れば、お前たちの自慢の製糸工場は「異人の毒」として焼き払われ、可愛い女工たちは路頭に迷うことになるだろう。そんな理不尽を、黙って見ていられるか!」


「応ッ!!」


 男たちが拳を突き上げる。彼らにとって、板垣の掲げる「錦の御旗」よりも、自分たちの蔵にある「ジャカード織機」の方が、遥かに守るべき価値のある現実であった。

 徳川のためではない。明日の飯と、未来の利益のために戦う。その単純明快な動機こそが、彼らを最強の兵士に変えていた。



 そこへ、一頭の馬が砂塵を巻き上げて駆け込んできた。馬上からひらりと飛び降りたのは、洋装に身を包み、南山製の乗馬ブーツを履いた男、土方歳三であった。

 彼は、主君・松平容保と正妻照姫を無事に會津へ送り届けた後、すぐさま取って返し、この最前線へと舞い戻ってきたのである。


「……かっちゃん、待たせたな」


 土方は、幼名の勝五郎時代のあだ名で呼びかけ、近藤の肩をポンと叩いた。その顔には、京で見せていた鬼のような険しさはなく、多摩の悪ガキ時代に戻ったような不敵な笑みが浮かんでいた。


「……トシか。無事だったか」


「ああ。容保公は、會津で引っ越しの段取りを組んでおられるよ。さて、ここからが本番だな。ここが江戸の西の玄関だ。板垣の土佐っぽをどれだけ足止めできることやらな」


 土方は、本陣の机の上に広げられた地図を指でなぞった。甲州街道に沿って、無数の矢印が書き込まれている。だが、その矢印は「敵を迎え撃つ」ためのものではない。「敵を誘導し、足止めする」ためのものであった。


「敵は数千。まともにぶつかれば勝ち目はない。だがな、この多摩の地形は、俺たちの庭だ。地の利と、最新の武器。そして何より、この土地の連中の独立精神を最大限利用する」


 土方は、懐から一本の細長い葉巻を取り出し、マッチを擦った。紫煙と共に、彼の口から作戦の全貌が語られた。


「目的は、勝つことじゃねぇ。時間を稼ぐことだ。今、裏街道を使って、日野や八王子やらから織機やボイラーを積んだ荷車が、北へ向かって移動している。その行列が、拝島を抜けて北へ逃げ切るまで、ここをフタする。いわば、俺たちは生きた防波堤ってわけだ」


          ◆


三月二四日。


 板垣退助率いる新政府軍・東山道先鋒総督府軍が、八王子の西、高尾山の麓に姿を現した。彼らは、甲州勝沼での近藤の遅滞戦闘に苦しみ、疑心暗鬼になりながら兵を進め、疲れ果てながら進軍していた。  


「賊将・近藤勇の首を上げ、江戸へ一番乗りを果たす」


 その功名心だけが、彼らの原動力であった。

彼らの装備は、旧式のエンフィールド銃やゲベール銃が主体であり、戦術もまた、太鼓を叩いて密集隊形で突撃するという、戦国時代と大差ない前時代的なものであったが、その動機も、あまり近代的とは言えないものであった。




 ようやく八王子の町に入った彼らを待ち受けていたのは、歓迎の宴でもなければ、整然と布陣した敵軍でもなかった。


 静寂であった。 家々の戸は閉ざされ、通りには人っ子一人いない。不気味な静けさに、先頭を行く土佐兵たちが足を止めた、その時である。


 乾いた破裂音が響き渡り、先頭で錦の御旗を持っていた兵士の軍帽が吹き飛び頭から血しぶきが飛んだ。銃声は、一方向からではない。民家の二階、路地の陰、神社の森、さらには桑畑の中の用水路から。ありとあらゆる死角から、見えない弾丸が雨あられと降り注いだのである。


「て、敵襲! どこだ、どこから撃ってきやがる!」


「卑怯な! 正々堂々と姿を見せろ!」

板垣は、馬上で叫んだ。


 だが、敵は姿を見せない。近藤と土方が指揮する「甲陽鎮撫隊」は、正規軍同士の会戦を徹底的に避け、地形を熟知した地元農兵を使ったゲリラ戦(遊撃戦)を展開していたのである。


 彼らの多くが使うスペンサー銃は、七連発のレバーアクション式で、新政府軍が持つ前装式(先込め式)のエンフィールド銃とは、連射速度において一分間に一五発対三発という、圧倒的な差があった。

 一発撃っては移動し、また別の場所から撃つ。装填の手間がないため、彼らは走りながらでも弾幕を張ることができた。


「ええい、らちがあかん!  家探しだ! 賊をあぶり出せ!」


板垣の命令で、兵士たちが民家に突入する。

 だが、そこもまた、もぬけの殻であった。あるのは、使い古された農具と、壁に貼られた南山物産の農事カレンダーだけ。彼らは、影と戦っているような徒労感に襲われ始めた。


 板垣は歯噛みした。  

「近藤め、武士の魂を売ったか。このような鼠のような真似を!」


 だが、彼には分かっていなかった。近藤たちが売ったのは武士の魂ではなく、「非効率な戦い方」だけであったことを。


          ◆


 その頃、戦場の喧騒から数キロ離れた裏街道では、奇妙な行軍が続いていた。


 延々と続く、大八車と牛車の列。荷台に積まれているのは、米でも家具でもない。油紙に厳重に包まれた鉄の塊、分解されたフランス製ジャカード織機や、製糸工場のボイラー、そして無数の「紋紙パンチカード」の束であった。


 そして、その荷車を押しているのは、屈強な兵士たちではなく、手ぬぐいを被った女工たちや、その家族たちであった。彼女たちの手は油にまみれ、着物は煤けているが、その瞳には故郷を捨てる悲しみよりも、自分たちの商売道具を守り抜くという、職人の意地が宿っていた。


 土方歳三は、愛馬に跨り、その行列の側面を警戒しながら進んでいた。彼の視線は、鋭く周囲の森を警戒していたが、時折、荷車を押す人々に向ける眼差しには、どこか温かいものがあった。


「……お侍さん」


 ふと、荷車を押していた一人の少女が、土方を見上げて声をかけた。

 歳は十五、六だろうか。油と煤で汚れた顔をしているが、その瞳は澄んでいる。彼女の背中には、赤ん坊が背負われていた。


「なんだ、嬢ちゃん。重いか? 代わってやるほど暇じゃねぇぞ」


 土方は憎まれ口を叩いたが、馬の歩調を緩めた。


「ううん、平気だ。……ねえ、お侍さん。私たちは、本当に南山ってところに行けるの?」


「ああ、行けるさ。そこはな、冬でも暖かくて、雪かきをしなくていいらしいぜ。それに、腹一杯の牛肉ビフテキが食えるそうだ」


「お肉より、工場はあるの? 私、機械を動かすの好きなんだ。この織機、お父っつぁんが借金して買った大事な機械なんだ。薩摩の人たちが来たら、これを壊しちゃうんでしょう? 」


 少女は、荷台の上の鉄塊を、まるで自分の子供のように愛おしそうに撫でた。その手つきを見て、土方は胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。

 彼女は知っているのだ。この鉄の塊こそが、自分たちの生活を支え、未来を紡ぐものであることを。「錦の御旗」や「尊王攘夷」といった空虚なスローガンよりも、この機械が回る音の方が、遥かに尊いことを。


「……ああ、壊させねぇよ」


 土方は、少女の頭に乗った手ぬぐいの上から、ポンと手を置いた。


「お前さんのその手は、俺たちみたいに人を殺すためじゃなく、綺麗な布を織るためにあるんだ。泥仕事は、俺たちの役目だ。

……安心しな。この荷物は、必ず俺が北の港まで送り届けてやる。南山に行ったら、一番いい着物を織ってくれよ。ツケ払いでな」


 土方の言葉に、少女はパッと顔を輝かせた。

その笑顔は、戦場に咲いた一輪の野花のように、殺伐とした土方の心を癒やした。  


「……守るべきもの、か」

彼はこれまで剣に生き、自分自身と新撰組のために、血と泥と戦いに明け暮れてきた。だが、今、この名もなき少女と、彼女が守ろうとする機械のために戦うことに、彼はかつてない「義」を感じていた。

 それは、徳川への忠義とも、武士の面目とも違う。もっと根源的な、人間としての営みを守るための戦いであった。  


          ◆


四月五日。


 日野・八王子での遅滞戦闘は、限界を迎えつつあった。新政府軍は後続の因州・備前藩兵の増援を得て、圧倒的な数で包囲網を狭めてきていた。だが、その頃にはすでに、主要な荷車隊は多摩川を越え、拝島方面へと脱出を終えていた。裏街道を埋め尽くしていた鉄の行列は、まるで蜃気楼のように消え去っていた。


日野宿の本陣跡。

近藤勇は、南山製の懐中時計を見て、満足げに頷いた。


「潮時だな、トシ」


「ああ。時間は十分に稼いだ。これ以上付き合ってやると、板垣の旦那もへそを曲げるだろうよ」


 土方は、吸いかけの葉巻を地面に捨て、軍靴で踏み消した。


「撤退だ。火は放つなよ。ここは俺たちの故郷だ。いつか帰ってきた時、焼野原じゃ酒も美味くねぇからな」


 旧幕府軍は、追撃を警戒しつつも、整然と陣を払った。彼らは焦土作戦を行わなかった。それは敗走ではない。任務完了に伴う、計画的な転進であった。





翌 四月六日。


板垣退助率いる新政府軍が、ようやく八王子の本陣に入城した。

 彼らは勝鬨かちどきを上げ、勝利を宣言した。だが、彼らが手に入れたのは、もぬけの殻となった豪農の屋敷と、空っぽの倉庫だけであった。金庫は空き、書類は焼かれ、機械は消えていた。


とある豪農の屋敷に入った板垣は、床の間に置かれた奇妙なものに目を留めた。

 一輪の野花が生けられ、その横には空になったガラス瓶が置かれていた。南山の香水瓶である。


板垣がそれを手に取ると、ほのかに甘く、そしてエキゾチックな異国の香りが漂った。

 それは、板垣たちに対して、「お前たちは何も手に入れていない。我々はもう、手の届かない場所にいる」と嘲笑っているかのようであった。


「おのれ、近藤! 土方! わしらをコケにしおって!」


 板垣は、香水の瓶を床に叩きつけた。


 ガラスの砕ける音が、虚しく響いた。

 その破片は、彼らが手に入れた勝利の脆さを象徴しているようでもあった。


 八王子を抜けた「鉄の物流」は、次なる拠点、北関東最大の要衝、宇都宮を目指して、北へ北へと進んでいた。そこでは、稀代の軍事技術者・大鳥圭介が、さらに大規模かつ物理的な「交通整理」の準備を整えて待ち構えているはずであった。




第四部 第5話 完

最後までお付き合いいただき感謝します。

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