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第28話 南洋移住取調所 - 5

慶応四年(一八六八年)四月八日。


 南洋移住取調所の内側で、生き残るための冷徹な算盤が弾かれていたその頃、永代橋のたもとに建つ土蔵の分厚い壁の向こう側では、江戸という都市が孕んだ絶望が、醜悪な暴力となって吹きこぼれていた。


「売国奴! 徳川の御恩を忘れた犬畜生め!」

「自分たちだけ逃げる気か! 江戸の街を薩長に売り渡しやがって!」


 迷路のように入り組む深川の掘割沿いや、はしけがひしめく物揚場ものあげばでは、渡航許可を得て荷物を運び込む商人や職人の一団に対し、対岸や橋の上を埋め尽くした群衆から容赦ない石礫いしつぶて泥濘ぬかるみの汚泥が投げつけられていた。


 表向きの救済米の配給を待つ列に並んでいた群衆は、蔵の裏手から次々と小舟に乗り込み、大川(隅田川)の向こう側へと消えていく”選ばれた者たち”の存在に気づき始めていた。自分たちが飢えと戦火の恐怖に怯え、明日の命さえ保証されない泥沼に置き去りにされる一方で、一部の連中だけが安全な未来へと高跳びしようとしている。その不条理な格差が、彼らの理性を焼き切っていた。


 護衛の幕府歩兵たちが小銃の台尻で威嚇するが、掘割を挟んだ向こう側からの憎悪の炎は容易には収まらない。水路を滑り出した小舟の舳先に石が当たり、乾いた音を立てて水しぶきが上がる。泥を浴びた職人が、辱めに顔を歪めて身を伏せる。


 人は、極限状態に置かれると容易に醜悪な本性を剥き出しにする。だが、彼らが石を投げるのは、決して彼らが本質的に邪悪な暴徒だからではない。

 彼らの怒りの根底にあるのは、純粋にして圧倒的な「生存の恐怖」であった。



 大商人たちが千両箱に詰まった金銀の正貨をこぞって海の向こうへ持ち出そうとしているという噂は、瞬く間に市中へ広まっていた。それは事実であった。さらに、新政府が発行し、江戸での流通を目論む太政官札だじょうかんさつという不換紙幣に対する強烈な不信感が、江戸の物価を異常な速度で跳ね上げていた。


 金が消え、腕の良い大工が消え、米問屋が消える。それはすなわち、江戸という巨大な消費都市の「経済的死」を意味する。群衆は本能的に悟っていたのだ。この去りゆく者たちの背中を見送った後、自分たちには、飢餓とハイパーインフレという名の凄惨な共食いの地獄しか残されていないことを。


 彼らが投げつける石は、己を置き去りにしていく”強者たち”に対する、置き去りにされる者の最も無力で悲痛な抗議の声であった。




 そして、この未曾有の混乱のなかで、最も深く、声なき絶望に沈んでいたのは、最下層の町人でも、大資本家でもなく、他ならぬ徳川体制を二百六十年にわたり屋台骨として支え続けてきた中堅の幕臣たちであった。


 禄高にして二百石から五百石。勘定所や作事方、普請方などの実務を長年担ってきた彼らの中級官僚群は、まさに時代の巨大な地殻変動の裂け目に落ち込んでいた。南山政府が主導する冷徹な実力主義メリットクラシーと、幕藩体制が強いてきた封建的道義の、逃げ場のない狭間に取り残されていたのである。



 彼らは、小野寺のように長崎海軍伝習所で最先端の洋学を修めたエリートではない。南山の巨大な蒸気機関の構造を理解することもできなければ、英語や仏語を操って異人の商人と対等に渡り合う術も持っていなかった。かといって、大工の清吉や革職人の辰蔵のように、自らの手を泥や油にまみれさせて日銭を稼ぐ、実体のある「腕」も持っていない。


 彼らが半生をかけて磨き上げてきたのは、「過去の膨大な判例を正確に調べ上げること」「旧来の村落から一分の狂いもなく年貢を徴収すること」、そして「格式に則った流麗な筆致で、非の打ち所のない書状を作成すること」であった。


 江戸の太平の世にあっては、それこそが国家を運営するための不可欠な素養であった。しかし、ここに至り、新しい機械と資本が支配する南山の地では、自分のその能力は全くの無価値に等しいという事を彼らは痛感していた。


 その上、彼らの両足は、何重もの目に見えない太い鎖で、この江戸の土地に縛り付けられていた。

 先祖代々の墓が並ぶ由緒ある菩提寺。病に伏せり、長旅など到底耐えられない老いた両親。他家に嫁ぎ、江戸に残らざるを得ない娘たち。そして何より、彼らの魂の根底に焼き付いている「徳川家の直参(旗本・御家人)である」という、もはや呪いにも似た強烈な誇りである。


 彼らにとって、先祖から受け継いだ屋敷を捨て、得体の知れない南の島へ難民のように逃げ出すことは、武士としてのアイデンティティの完全な崩壊を意味した。すべてをかなぐり捨てて身一つで船に乗るという、獣のような身軽さを持つには、彼らはあまりにも多くの「しがらみ」を抱え込みすぎていたのである。


「……武士の面目を保つには、もはやこれしかあるまい」

 ある春の夜。本所の屋敷で、長年、御普請役ごふしんやくとして江戸城の石垣や堀の修繕を取り仕切ってきた初老の男が、静かに腹を切った。

 彼はその夜、几帳面な字で最後の家計簿を締め、残された家族のためのわずかな蓄えを文庫に収め、愛用の筆を折った後、白装束に着替えたという。


 世間では、主家滅亡の悲運に殉じた美しい忠義の死として語り草になった。だが、その実態は、あまりにも惨めな官僚的諦念であった。新しい時代が突きつけてくる「能力試験テスト」に合格し、見知らぬ土地でゼロから這い上がる自信がない。かといって、江戸に居座り、昨日まで見下していた薩長の田舎侍の下で、屈辱的な事務作業をこなすことにも精神が耐えられない。


 彼らを押し潰し、死へと追いやったのは、新政府軍の大砲や銃弾ではない。昨日までの絶対的な「常識」が、今日には嘲笑されるべき「無価値」へと反転するという、理不尽極まりないパラダイムシフトの暴力であった。


 血生臭い切腹の儀式は、この逃げ場のない方程式から合法的に退出するための、彼らに残された最も手っ取り早い「辞表の提出」に過ぎなかったのだ。そのような声なき自死、あるいは緩やかな精神の壊死が、四月十一日までの江戸の武家地では日常茶飯事のように繰り返されていた。



だが、ここに歴史の残酷な皮肉がある。

 彼らは自らの能力を「無価値」と思い込み絶望したが、実のところ、南山の新政府が最も渇望していた人材の一つが、彼らのような「組織の歯車になれる人間」であった。


 たとえ複式簿記が使えずとも、最新の機械が分からずとも、順法精神に富み、上官の命令を正確に実行し、組織への従属を第一の規範とする彼ら中級幕臣のメンタリティは、近代的な官僚機構をゼロから構築する上で、極めて優秀な「基礎素材」だったのである。


 南山に行けば、新たな省庁や官営施設での事務や実務、地方行政組織での戸籍の整理や物資の配給管理、倉庫の帳簿付けなど、彼らの几帳面さが活きる公の仕事はいくらでも用意されていた。


 事実、旧弊な誇りを捨て、恥を忍んで取調所の窓口に並びさえすれば、小野寺たちは決して彼らを追い返しはしなかった。彼らが南山で「真面目な国家の吏員」として再出発するための乗船証は、誰にでも平等に用意されていた。

 実際、勇気を出してここに来たもので、乗船証が渡されなかった者など、余程の馬鹿者以外いなかったのではあるが。ただ、彼ら自身の分厚いプライドというレンズが、そのささやかな希望の光を完全に遮断してしまっていたのである。


 全ての旗本・御家人に南山への異動推奨(事実上の移住許可)が出され、そのプライドに固執する必要がなくなるのは、江戸城開城の翌日の事であった。




 こうした血と泥の悲喜劇の只中にあって、すべてを冷徹に見透かし、あえて「沈みゆく船」に残ることを選んだ者もいた。


 昌平坂学問所の元教官であり、当代きっての儒学者にして洋学にも通じる碩学、芳賀はが 鉄心てっしんである。


 小野寺順平は、かつての恩師である芳賀の学識が南山の法体系整備に不可欠だと考え、自ら特級の乗船証を携えて彼の私塾を訪れていた。だが、古びた書物に囲まれた薄暗い部屋で、芳賀はその真鍮の切符を静かに盤上に押し返した。


「順平。お前たちのやろうとしていることは、国造りではない。絡繰からくり細工の怪物を組み立てようとしているに過ぎん」


 白髪を蓄えた芳賀の瞳には、一切の迷いがなかった。


「あの南の島には、鉄と石炭と、剥き出しの機能主義しかない。人間を蒸気機関の歯車や、利益を生み出すための算盤の珠としてしか測らぬ国に、果たして道義の宿る余地などあろうか。

 お前たちは、古い殻を脱ぎ捨てて身軽になったと信じているだろうが、その実、国家にとって最も重要な精神の重石を、この江戸に置き去りにしていこうとしているのだ」


「先生、それは違います! 私たちはただ、異国に蹂躙されぬための強靭な国家を……」


「ええい、黙れ!」

 芳賀の一喝が、小野寺の言葉を遮った。


「効率と実利のみを追い求める国は、必ず己の内なる空虚に食い破られる。歴史がそれを証明している。私は行かんよ。この美しい廃墟に残る」



 芳賀は、開け放たれた縁側の外、春霞に包まれた江戸の街並みを、まるで愛しい我が子を見るような慈愛に満ちた目で眺めた。


「二百六十年、この国が培ってきた礼節と、無駄のなかにある美学。それが薩長の無教養な軍靴に踏みにじられ、灰燼に帰すのであれば……私は、その見事な葬列を見届けるための、最後の会葬者となろう。機械仕掛けの楽園で長生きするより、滅びゆく美しさと共に死ぬ方が、私にはよほど人間らしく思えるのだよ」


 それは、近代という名の圧倒的な暴力に対する、古い知識人の意地であり、究極の敗北宣言でもあった。


 小野寺は、それ以上何も言うことができず、ただ深く頭を下げて恩師の家を後にした。


 石を投げる群衆、腹を切る官僚、そして廃墟に殉ずる老学者。


 横浜の港から出航していく船の、未来に向けた汽笛の裏側には、時代のふるいからこぼれ落ち、置き去りにされた者たちの、数え切れないほどの哀絶な物語が堆積していた。


 南山という巨大な光を生み出すために、江戸という街は、その身を極限まで焼き尽くす深く濃い影を落としていたのである。



第四部 第28話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


渾身の新連載!

「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

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シリーズの短編もアップしました。

「異聞 五稜郭」

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宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

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ご興味がある方はご一読くださいませ。


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