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第29話 南洋移住取調所 - 6 (完)

慶応四年(一八六八年)四月一〇日。


 江戸の空が戦火の予感に煤ける中、神田明神の裏手にほど近い長屋の一角では、一人の男が黙々と図面を引いていた。

 大工棟梁、清吉せいきち。三十をいくつか越えたばかりだが、その界隈では「神田の知恵袋」と渾名あだなされる男である。


 清吉は、江戸の大工によくある、宵越しの銭は持たねえという無鉄砲な気風とは、少々毛色の異なる男だった。彼の手のひらには、かんなのみを使い込んだ職人のマメに加え、指先は常に墨壺の紐を操り、細かな数値を算盤の珠を弾くための、独特の硬さがあった。


「いいか、野郎ども。これからは勘だけで家が建つ時代じゃねえ。異人の建てた横浜の商館を見たか? あいつらはレンガを積み、鉄の骨を入れ、すべてを数と理屈で測ってやがる。俺たちがあいつらに負けねぇためにゃあ、心意気だけじゃあダメだ。理詰めだけでも勝てねぇ。どっちも同じくれぇ持って戦うんだ」

 清吉の口癖である。


 彼は、江戸の大工仕事が「秘伝」や「口伝」といった曖昧な伝統に縛られていることに、早くから危機感を抱いていており、自分が持つ仕事の手順や手法を惜しみなく、弟子や同業者に伝えていた。

 また、彼は、独学で和算を修め、手に入れた洋式建築の建築図面を解読し、工場や役所の建築の下請けにも、自分の配下の職人衆ごと積極的に参加し、新しい技術や普請の手順を貧欲に吸収していた。


 彼は江戸の町に溢れる、外壁が煉瓦張りの見た目が洋風なだけの和式建築ではない、独自の「西洋式設計思想」を江戸の木造建築に取り入れようと試行錯誤していた。

 そして、いつしか自らが作り出した建物を組み合わせた都市計画にまで、彼の夢は膨らんでいたのである。


 ここに来ての南山への移住は、清吉にとって戦火が迫る街からの単なる避難ではなく、己の夢を広大な未開の地というキャンバスに叩きつけるための、文字通り、渡りに船のチャンスであった。




 そんな清吉の隣で、大きなお腹を抱えながら、丁寧に道具を油布で拭いているのが、妻のお咲である。


二人の出会いは、五年前の日本橋界隈での火事の後の普請現場であった。お咲は、腕の良い左官の娘として、現場で父を手伝っていたのである。

 土壁を塗るお咲の、一切の無駄がない鮮やかなコテさばきに、清吉が目を奪われたのが始まりだった。


「お前さん、その壁の厚さ、一分の狂いもなく揃ってるな。どうやって測ってやがる」


 清吉の第一声は、およそ口説き文句とは程遠い、技術的な問いかけだった。お咲は、泥に汚れた顔を上げてフンと鼻で笑った。


「測るもなにも、手が覚えてるのさ。大工さんこそ、その柱の切り込み、理屈っぽすぎて見てて肩が凝るよ」


 職人同士の意地の張り合いから始まった仲だったが、清吉の理詰めを、お咲の直感が補い、いつしか二人は江戸の普請現場で最高の夫婦(めおと)職人と呼ばれるようになった。


 お咲は、清吉の抱く野心が、単なる功名心ではなく「より良き、より燃えない、壊れない街を造りたい」という純粋な願いであることを、誰よりも理解していた。清吉が「南山へ行く」と言い出した時も、彼女はただ一言、「あっちの土は、塗りがいがありそうだね」と笑って答えたという。




清吉が南洋移住取調所に提出した「随行者名簿」は、小野寺順平ら幕吏たちを驚かせた。

 そこには、単なる家族の名だけでなく、清吉を慕う五十人の職人たちの詳細な「職能目録」が添付されていたのである。


「清吉殿。これは……まるで幕府工兵隊の編成表のようですね」

 窓口で名簿を受け取った小野寺が、思わず眼鏡をかけ直して呟いた。


名簿に名を連ねるのは、単なる荒くれの大工だけではない。

 清吉の右腕である古参の源次げんじは、複雑な組み木細工を機械的な精度でこなす。若手のたつは、力仕事は並だが、清吉の引く図面を完璧に理解し、現場で指示を飛ばす「現場監督」としての素養がある。さらに、お咲の父である老練の左官・鉄造てつぞうを筆頭に、屋根職人、建具師、果ては下水溝を掘るための土木要員まで、清吉が厳選した「都市建設ユニット」とも呼ぶべき集団が形成されていた。


「小野寺様。俺たちは、南山へ遊びに行くんじゃねえんです。あっちに到着したその日から、家を建て、店を建て、兵舎を建て、工場を建て、病院を建てなきゃならねえ。……この五十人は、一人ひとりが皆、腕の良い職人と言うだけじゃねぇ。こいつらは一人が十人、百人の職人衆の頭になれる連中でさぁ。この五十人がいれば、更地に一週間で一つの”街”の雛形を造ってみせまさあな」


 小野寺に語りかける清吉の瞳には、一切の迷いがなかった。





慶応四年(一八六八年)四月十五日。


 横浜港の空気は、春の陽光とは裏腹に、石炭の煤煙と人々の剥き出しの焦燥が混じり合い、肺が焼けるような重苦しさに満ちていた。

 埠頭を埋め尽くしているのは、徳川の威信をかけてかき集められた巨大輸送船団だ。黒い鉄の船体は、まるで時代の激流を渡る鋼の巨獣のように、鈍い光を放ちながら潮を吹いている。


 その巨大な影の下、タラップの麓で清吉は、己の全存在を賭けて踏ん張っていた。片手には大工道具の詰まった重い袋、そしてもう片方の手には、身重の妻、お咲の細い手を、指が白くなるほど強く握りしめている。


「お咲、もう少しだ! あのタラップさえ登りきっちまえば、こっちの勝ちだ。あの大船おおぶねに乗れば、もう薩長の侍の影に怯えて夜を明かすこともねえんだぞ!」


 清吉の声は、周囲の怒号と蒸気の音にかき消されそうだった。お咲は額に浮かんだ脂汗を拭う余裕もなく、ただ浅い呼吸を繰り返しながら、必死に夫の背中を追う。


「ええ……。ええ、清吉さん、分かって……あっ……!」


 タラップの第一歩を踏み出そうとしたその瞬間、お咲の身体が崩れるように折れ曲がった。どっと足元を濡らす感覚と、腹の底を抉るような鋭い激痛。彼女の顔から、みるみるうちに生気が失せていく。


 異変を察知し、列を監視していた白衣の男が、人混みを割って駆け寄ってきた。南山物産が雇い上げた船医だ。彼は無造作にお咲の様子を検分すると、眉間に深い皺を刻んだ。


「……破水だ。陣痛も始まっている。おい、お前。残念だが、この女房を連れての乗船は許可できない」


 船医の言葉は、まるで氷のように冷たかった。清吉は、信じられないという顔で医者の胸ぐらに掴みかからんばかりに詰め寄った。


「そ、そんな殺生なことが言えるか! 俺たちは取調所でちゃんと審査を受けて、この真鍮の乗船証をもぎ取ったんだぞ! 今さら乗れねえなんて……!」


「いいか、よく聞け」

船医は、清吉の怒鳴り声を石のように冷淡な表情で撥ねつけた。


「これから南山まで、ひと月以上の荒波を越えるんだ。まともな設備もない船底で、今、破水した妊婦を乗せて出航したら、どうなるか想像もつかんのか? 母子ともに死ぬ確率が極めて高い。

 我らの使命は、一人でも多くの有為な人材を健康な状態で南山へ届けることだ。死ぬと分かっている者を乗せるのは、限られた水と食糧、そして貴重な医療資源の無駄遣いになる。悪く思うなよ。規則なんだよ」


「無駄だと……? 俺の女房と子供が、無駄だってのかよ!」


清吉は咆哮したが、周囲の反応は冷淡だった。

 順番を待つ後ろの職人たちが「おい、どけよ!」「行かねえなら道をあけろ!」と罵声を浴びせてくる。



 清吉は、溢れ出る悔し涙を袖で拭うこともせず、ぐったりとしたお咲を抱きかかえて列を外れた。埠頭の隅、錆びた錨の影に力なく座り込む。

 目の前では、かつて店を構えていた材木問屋の徳兵衛や、皮なめし職人の辰蔵を乗せた船が、腹の底に響くような重厚な汽笛を上げ、ゆっくりと岸壁を離れていく。


「……俺たちの負けだ、お咲。運がなかったんだ。せっかく、せっかく新しい空の下で赤ん坊を抱けると思ったのによ……」


 清吉は、妻の冷たくなった手を握り、絶望の淵で項垂れた。もはや、薩長の軍靴の音がすぐ背後まで迫っているようにさえ感じられた。



その時、混乱を極める埠頭に、場違いなほど静かな足音が近づいてきた。

 絶望に呑まれそうになっていた清吉の肩に、細い、だが岩のように確かな意志を感じさせる指が置かれる。


「清吉殿。動くなと言われたはずだ。女房を、そしてまだ見ぬ赤ん坊を、ここで犬死にさせる気か」


小野寺順平だった。彼は喧騒を切り裂くような冷徹な眼差しで、その場に立ち尽くしていた。


「小野寺様……。だけど、医者が……規則だって、乗せられねえって……」


 人混みの中で、船医の冷酷な拒絶。周囲の野次。「自分たちだけじゃ行けねえ」とタラップを降りてきた職人たちとその家族の動揺。

 絶望に呑まれそうになった清吉の肩を掴んだのは、小野寺の細い、しかし強い指だった。


「清吉殿が持っているのは、江戸の大工の意地だけではないでしょう。貴殿は南山の荒野に新しい街を造る。その設計図を描き、材木を組み、人々の暮らしを形にすると私に言いましたね。ならば、ここで無茶をするのは最悪の選択でしかない」


小野寺は、自身が管理する渡航名簿に、素早い手つきで墨を入れた。

「いいですか。貴殿の配下の五十人とその家族は、黙って予定通りこの船で先に出航させます。源次さんに指揮を執らせなさい。……お前さんとお咲さん、そして生まれてくる子は、私が責任を持って五月半ばの品川便に乗せます。それまでは、こちらの管理する安全な施設で養生してもらいましょう」


清吉は、呆然として小野寺を見上げた。


「小野寺様、そんな……。あんた、そんな勝手な真似して、もし上にバレたら、ただじゃ済まねえんじゃ……」


小野寺は、一瞬だけ口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。その表情には、幕吏としての堅苦しさは微塵もなかった。

「上だと? 笑わせるな。俺たちがこれから、あそこで造ろうとしているのは、血筋や形式フォームで回る古い組織じゃない。何を成すべきかという実能ファンクションがすべてを支配する国だ。

 いいか清吉。お前のような”腕利きの街造り”を一人失うことに比べればな……。規則を一つ二つ、俺の独断でひん曲げることなど、規則上の微々たる誤差に過ぎん」


 小野寺は表情を戻すと、清吉の胸元で揺れる真鍮のタグを掴み、腰に下げた刻印機でガチャンと力強く刻みを加えた。

「これは特例延期・優先乗船の証です。これがあれば、この後に品川から出る船の個室があなたたちのものです」


その鋭い金属音は、清吉の耳に、死にゆく江戸の弔鐘ではなく、南山へと続く未来の扉が開かれた音として、鮮烈に響き渡った。


「さあ、お咲さんを医務室へ運びなさい。新しい国の最年少移民者を、こんな煤けた埠頭で産ませちゃいけませんよ」


 小野寺の背中を見送りながら、清吉はお咲を抱きかかえる腕に再び力を込めた。絶望は消え、その胸には、南山の赤茶けた大地に必ずや巨大な伽藍を建ててやるという、職人としての猛々しい執念が再燃していた。

 




慶応四年(一八六八年)五月一五日。


 五月半ば。江戸の空を焦がす黒煙は、品川の海まで届いていた。

 上野の山で彰義隊が壊滅し、新政府軍の支配が盤石なものとなりつつある中、品川沖に一隻の蒸気船が、夜陰に乗じて煤を吐いていた。


 はしけに揺られて船に辿り着いた清吉は、生まれたばかりのみなみと名付けた息子を抱いて、タラップを登った。

 約束通り用意された船の個室には、一ヶ月前に先に出航した源次たちが、南山に作り出した拠点で清吉を迎え入れるための準備ができたと記された手紙が、南山物産の社員を通じて届けられていた。


「……見たか、お咲。野郎ども、あっちでもう現場を仕切ってやがるぜ」

 清吉は、手紙を読みながら少しだけ苦い笑みを浮かべた。


 お咲は、産後の疲れを微塵も見せず、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「皆んな、お前さんの図面を待ってるんだろ? 早く行ってやりなよ、棟梁」



汽笛が鳴り響き、船は加速する。


 清吉は、遠ざかる江戸の煙を一度だけ振り返った。

 そこには、彼が愛した江戸の風景があった。だが、彼の懐には、南山の赤茶けた土を、世界で一番頑丈な煉瓦と鋼鉄の街に変えるための、墨縄と図面がある。


大工清吉。

 彼が南山に上陸し、その墨縄で最初の一線を引いた瞬間、南山の都市建設は、単なる入植地の拡大から、近代都市の創造へと、その位相を変えることになる。





 こうして、深川の土蔵や品川の波止場で密かに営まれた「南洋移住取調所 深川・永代出張所」は、その歴史的使命を終えようとしていた。

 窓口で交わされた無数の問答、握りしめられた真鍮の切符、そして涙ながらに交わされた決別の言葉。その一つ一つが、やがて南山の赤土の上に、鋼鉄の煙突と蒸気の咆哮を打ち立てる礎となっていく。


船は夜を切り裂き、南十字星を目指す。


「取調所」という名の濾過器を通り抜けた精鋭たちが、今、これから訪れる数十万の同胞を迎える器づくりのために、南山へ最初の一歩を記そうとしていた。



 三月末から五月半ばまで、幕府側が直接送り出した工場や造船所などの職員や技手、現地の移民実務にあたる官僚陣や知識人などを除き、深川・永代橋出張所が横濱・品川・築地などの港から送り出した、江戸の市井の人々の総計は四万五千人にのぼる。


 しかしこれは第一陣に過ぎなかったのである。



第四部 第29話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


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「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」

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「異聞 五稜郭」

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宜しければこちらもどうぞ

「南山共和国建国史シリーズ」

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ご興味がある方はご一読くださいませ。


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