第27話 南洋移住取調所 - 4
慶応四年(一八六八年)四月二日。
川の「南洋移住取調所」の一般待合所には、もはや整理がつかないほどの群衆が溢れかえっていた。
汗と泥、そして言いようのない不安が煮詰まったような熱気のなかで、人々は一縷の望みをかけて自分たちの順番を待っている。建物の外では、遠く品川の出航を急ぐ蒸気船が吐き出す真っ黒な煙が、春の青空を汚していた。
第七窓口を担当する幕吏、石田 誠一郎は、手元の書類を整理しながら、小さくため息をついた。
彼は勘定奉行所から出向してきた中堅の役人で、算術には明るいが、決して冷血漢ではない。だが、この数日間、自らの特権を盾にわめき散らす朽木のような武士や、自らの資産を守ることしか頭にない欲深い小商人を相手にし続け、心身ともに摩耗していた。
「……次、百四十二番。前へ」
石田が声をかけると、列の最後尾から、周りの人々を気遣うように身を縮めて進み出る一団があった。
薄汚れた木綿の着物に、継ぎ接ぎだらけの前掛け。一見すれば、江戸のどこにでもいる貧しい職人一家だ。だが、彼らが近づくにつれ、周囲の町人たちが露骨に鼻を突き、左右に分かれた。
彼らから漂う、鼻を突くような獣の脂と、独特の薬品の匂い。それが、彼らが江戸の北、浅草のさらに外縁にある「弾左衛門」配下の部落から来た者たちであることを雄弁に物語っていた。
一家の主、辰蔵は、三十半ばの小柄な男だった。その背後には、同じように脂の匂いを纏った妻のおみつと、まだ十歳にも満たない息子の辰之助が、親の裾を固く握りしめて立っていた。
「……お名前を」
石田は、周囲の嫌悪の視線には気づかぬふりをして、穏やかに問いかけた。
「へ、へい……。浅草の下手で、皮をなめしておりやした、辰蔵と申します」
辰蔵の声は、今にも消え入りそうなほど細かった。彼は石田の目を見ることすらできず、ただ板敷の床の一点を見つめている。
「皮なめしか。辰蔵殿、貴方はなぜ、この南山への渡航を志望されたのですか? ここはただの逃げ場所ではない。海の向こうで、これまで以上の苦労をすることになるかもしれん。それでも行きたいという理由は?」
石田の問いは、決して突き放すようなものではなかったが、辰蔵はさらに肩をすぼめた。
「へえ。あっしらみてえな日陰者はね、江戸の街じゃ、どこへ行っても穢れだの獣の仲間だのと呼ばれます。それは、まあ、仕方のねえことだと諦めておりやした。……ですがね、お役人様」
辰蔵は、背後にいる辰之助の肩を抱き寄せ、初めて顔を上げた。その瞳には、絶望ではなく、静かな、しかし燃えるような光が宿っていた。
「この坊主が……。近所の寺小屋の真似事をしてる塾の窓から中を覗いてたら、通ってるガキどもに石を投げられたんです。不浄がうつるって。あっしは、その時に決めたんです。あっしの代までは、どんなに蔑まれても、この手で皮をなめして生きていく。
だけど、この子が、この子だけは、親の家柄や、生まれ育った場所じゃなく、自分の腕一本、頭一つで、人様と同じように評価される場所へ連れていってやりてえ。
南山は、腕さえあれば、誰でも人として扱ってくれる場所だって聞いたもんですから……」
辰蔵の言葉は、訥々としていたが、そこには親としての、そして一人の人間としての、絞り出すような祈りが込められていた。
石田は、無言でペンを置いた。そして、辰蔵の前に身を乗り出した。
「辰蔵殿。貴方のその手を見せていただけますか」
「へ……?」
戸惑いながらも、辰蔵は膝の上に置いていた両手を、差し出した。
それは、石田がこれまでに見てきた、どの武士の白くひ弱な手よりも、どの商人の脂ぎった手よりも、圧倒的な力強さを秘めた手だった。
長年の薬品によってどす黒く変色し、獣の硬い皮をなめし、削り続けてきたために、手のひらはまるで古木の樹皮のように分厚いマメに覆われている。指先は節くれ立ち、爪の間には消えることのない染料が染み込んでいた。
石田は、その節くれ立った手を、自らの清潔な手で、躊躇なくしっかりと握った。
「っ……!」
辰蔵が、弾かれたように顔を上げた。江戸の普通の人間、それも幕府のお役人が、自分のような者の手を直接握るなど、これまで一度として想像したこともなかったからだ。
「見事な手だ。これは、何万枚もの皮をなめし、この国を底から支えてきた職人の証だ」
石田は、辰蔵の目を見て、はっきりと言った。
「辰蔵殿。貴方はご存じないかもしれないが、今、南山では貴方のような技術者を、喉から手が出るほど欲しがっている。これから動かす何百台もの機械が動くためには、動力を伝えるための、何千メートルという強靭な革帯が必要なのです。
牛の皮を、馬車を引かせても、一日の酷使に耐えても千切れないほど、均一に、そして強靭になめし上げる。そんなことができるのは、江戸の街広しといえど、貴方たちの一族だけだ」
石田は、卓上の算盤をパチンと弾いた。
「南山において、革は、鉄や火薬と同じくらい貴重な文明の血管なのです。貴方がそこへ行き、その腕を振るってくれることは、火と鉄を繋ぎ、国の心臓を動かすことに他ならない。
貴方の息子さんについても安心しなさい。南山には、身分を問わず、能力のある子供なら誰でも通える学校がすでにあります。あそこでは、親が誰であるかなど、誰も気にしません。ただ、”お前に何ができるか”だけが問われるのです」
辰蔵の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「お、お役人様。あっしら、本当に行っていいんですか。あっしらの匂いが、船の他の方々に迷惑をかけやしねえでしょうか」
その時、それまで夫の背後で俯いていたおみつが、震える声で口を開いた。
「お役人様。この人は……この辰蔵は、腕だけは確かです。どんなに辛い仕事でも、夜を徹してでも、絶対に手を抜きません。この人の腕を、どうぞお使いください。この子のためなら、私ら夫婦、どんな苦労もいといません」
家族が、互いを想い、守ろうとするその姿。
石田は、自らの内にあった人間としての情愛が、優しく揺さぶられるのを感じた。
「迷惑など、誰が言うものですか。いいですか、辰蔵殿。貴方が培ってきたその技術は、南山という新しい国の宝です。私たちは、貴方たちを歓迎します」
石田は、机の引き出しから、鈍い光を放つ真鍮の札を取り出した。それは「特級」ほどの特権こそないものの、一般の渡航者よりも格段に早い乗船が約束され、確かな技術を持つ職人であると公に認められた「技術者優先乗船証」であった。
石田はそれを辰蔵の目の前に置き、真剣な眼差しで夫婦を見つめた。
「辰蔵殿、おみつ殿。これを渡す前に、一つだけ肝に銘じておいてほしいことがある。これから始まる長い船旅、そして南山での新しい生活では、これまで江戸で送ってきた習慣を少し変えてもらわなければならない」
辰蔵は訝しげな顔をしたが、石田の次の言葉をじっと待った。
「入浴と洗濯だ。船の中は狭く、多くの人間が共同で暮らすことになる。おまけに南山は、江戸よりもずっと暑い土地だ。汚れを放置すればたちまち病が流行り、それは貴方たちだけでなく、隣にいる辰之助の命にも関わってくる。
いいか、毎日必ず体を清め、着物をこまめに洗うこと。これを新しい習慣として、今日から夫婦で約束してくれ。南山を創るのは機械や建物だけじゃない。一人一人の清潔な暮らしこそが、新しい国の基礎になるんだ」
辰蔵は一瞬、言葉に詰まった。職人にとって汗や獣の脂にまみれるのは日常であり、ある意味で生きるための証とさえ思っていたからだ。しかし、隣でおみつが息子の肩を抱き寄せながら、石田の言葉を一言も漏らさぬよう深く、静かに頷くのを見て、辰蔵もまた背筋を伸ばした。
「……へえ。お役人様、仰る通りでございやす。あっしらみたいな日陰者は、これまで世間様からの穢れの目ばっかり気にして、本当の体の汚れにゃ無頓着すぎやした。……ですがね、恐れながら、この子の未来のため、南山で人様と同じように扱ってもらうためなら、あっしも、おみつも、これまでの暮らしを丸ごと洗い流す覚悟でございやす。必ず、必ずやこの子に恥ずかしくねえ親になってみせやす」
辰蔵の声は細かったが、そこには迷いのない、澄んだ響きがあった。
石田は満足げに頷き、真鍮の証を辰蔵の分厚い掌へと手渡した。
「よし。その意気だ。これを持っていきなさい。貴方は、江戸の穢れを捨てて、南山の誇りになるために海を渡るのだからな。……辰蔵殿、胸を張りなさい」
辰蔵は、震える両手で、その真鍮の冷たい輝きを受け取った。
それは、彼が生まれて初めて手にした、自分の技術と存在そのものを肯定してくれる、確かな重みであった
「ありがとうございます。ありがとうございます……!」
辰蔵とおみつは、石田に向かって何度も、何度も頭を下げ、息子を挟んで、光り輝く窓口を後にした。
石田は、彼らの背中を、見えなくなるまで見送った。
「佐々木さん」
石田が、隣の窓口で淡々と算盤を弾いていた南山物産の社員に声をかけた。
「なんです、石田さん。柄にもなく、感動的なことしちゃって」
「あの男のなめした革帯があれば、南山の蒸気機関は、これまで以上に力強く回るだろう。俺たちは、あの一家に船の切符を渡したんじゃない。俺たちは、南山の未来の拍動を、一組、買い取ったんだ」
石田は、そう言って少しだけ照れた様な笑みを浮かべると、再びペンをインク瓶に浸した。
「さて、次は百四十三番だ。希望の光は、いくらあっても足りないからな」
第四部 第27話 完
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