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第26話 南洋移住取調所 - 3

慶応四年(一八六八年)三月二十八日。


 特級の資本家や高度技術者たちが通される奥の静謐な特別応接室とは打って変わり、一般審査の窓口が並ぶ十棟の土蔵の中は、人々の汗と埃、そしてむせ返るような不安の臭気が渦巻いていた。


 そこは元々あった土蔵の骨組みを活かしつつも、採光のためのアーチ状の窓が穿たれ、切り出されたばかりの厚い樫材のカウンターが長く連なる、まるで西洋の市役所タウンホールを思わせる近代的な空間へと改装されていた。



 硝子越しの外光が差し込む窓口の奥に陣取るのは、南山物産から出向してきた実務担当の社員たちである。彼らは一様にまげを切り落とした整然たる洋髪に、糊の効いたシャツと仕立ての良い洋装という出で立ちであり、着物姿の群衆の中で際立った異彩を放っていた。


 彼らの手元には、インク壺と細身のガラスペン、そして真新しい西洋式の罫線が引かれた分厚い帳簿が整然と広げられている。カリカリとペン先が紙を滑る冷ややかな音が、横で休む間もなく弾き続けられる算盤の乾いた音と交ざり合い、この場がすでに過去の江戸ではなく、未来の南山の論理で動いていることを無言のうちに告げていた。




 第四窓口を担当していた南山物産の査定方、佐倉さくらは、かすかに痛むこめかみを揉みながら、ガラスペンにインクを補充し、次の面接者の釣書つりがきに目を落とした。


 その時である。順番を待つ群衆を乱暴に掻き分け、時代錯誤も甚だしい一人の男が窓口の前に進み出た。


「おい、担当の者は貴様か。長々と待たせおって、手際が悪いぞ」


 男は、目にも鮮やかな極上の羽二重はぶたえの紋付羽織に、パリッと糊の張った仙台平せんだいひらの袴を威風堂々と着こなし、腰には見事な金蒔絵きんまきえの鞘に収まった大小の刀を仰々しく帯びていた。


 旧幕府の直参旗本、朽木くつき 勘左衛門かんざえもんである。


 朽木家は、三河時代から徳川家に仕える譜代の家柄であり、代々、将軍の親衛隊たる書院番を務めてきた。禄高は五百石と決して大身ではないが、江戸城の奥深くに詰める格式だけは並の大名を凌ぐと自負する、生粋の殿様階級であった。



 佐倉は、釣書から手を離し、感情の読めない極めて事務的な視線を朽木に向けた。


「お待たせいたしました。朽木勘左衛門殿ですね。南山への渡航をご希望とのことで、本日はご足労いただき恐縮です。どうぞお掛けください」


 佐倉が丁寧な言葉遣いで丸椅子を勧めると、朽木は満足げに頷き、大小の刀の鞘をカチャリと鳴らして鷹揚に腰を下ろした。佐倉はペンをインク瓶に浸し、あえて何も問わずに朽木が口を開くのを待った。


「うむ。江戸城が薩長の田舎侍どもに明け渡されると聞き、わしも熟慮の末、公儀の新しい御領地である南山へ赴く決意を固めたのだ。……上様への忠義を貫くためにな」

 朽木は、自らの決断がいかに重大で国家的なものであるかを強調するかのように、咳払いをして胸を張った。


「わが朽木家は、権現様(家康)の昔より、一歩も引かずに主君の盾となってきた家柄である。わし自身、書院番の組頭として、長年城内の平穏を守り抜いてきた。小野派一刀流の免許皆伝であり、剣の腕にはいささかの自信がある」


 佐倉は「はあ、なるほど。それは見事なご経歴で」と、抑揚のない声で相槌を打ち、書類に何事かを書き込むふりをした。その実、佐倉のペン先は紙からわずかに浮いていた。


 朽木は、自分が気持ちよく語れていることに気を良くし、さらに饒舌になった。


「近頃の江戸は狂っておった。時計塔の鳴らす時刻(定時法)だの、異人の言葉だの、蒸気で動く妙なからくりだのと、軽薄な異端ばかりがもてはやされておったからな。武士が算盤を弾き、金勘定にうつつを抜かすなど、言語道断。国を治めるのは、鋼の如き忠義と、この腰の刀であるはずだ。南山へ行けば、そのような悪しき風潮も正さねばなるまい」



 朽木勘左衛門は、決して頭が悪い男ではなかった。むしろ、古き良き武士道という「旧時代の法則」の中では、完璧に近い適応を見せていた優等生であった。

 彼の悲劇は、世界が既に「忠義」から「複式簿記」へ、そして「刀」から「蒸気機関ボイラー」へと基本原理ルールを完全に書き換えてしまったことに、一切気づいていない点にあった。

 彼は変化を恐れたのではない。自らの美意識に反する近代化という波を、賎しい下民の流行り病と見下し、あえて自ら目を塞ぎ続けていたのだ。



「……なるほど。朽木殿の熱き御心、確かに承りました」

 佐倉はペンを置き、両手を机の上で組んだ。


「では、確認させていただきます。朽木殿は南山へ渡られた後、どのようなお立場と待遇をご希望でしょうか?」


 待ってましたとばかりに、朽木は身を乗り出した。


「無論、相応の役目を用意してもらわねば困る。南山奉行所の組頭、あるいは治安を司るお役目などが妥当であろう。知行(給与)は、これまでの五百石に、辺境へ赴く苦労を勘案して倍の千石相当……いや、向こうの通貨で支払われると聞くから、相応の額を申し受ける。

 それに、わしのような身分の者が住むための広い屋敷と、世話をする下人どもを数名、あらかじめ手配しておいてもらいたい」


 周囲の窓口で審査を受けていた町人たちが、呆れたような、あるいは哀れむような視線を朽木に向けた。だが、朽木はそれを平民どもの羨望の眼差しと勘違いし、さらに胸を反らせた。



 佐倉は、深く、とても深くため息をついた。

「……朽木殿。貴方の輝かしい御家格と、見事な剣の腕前はよく理解いたしました」


 佐倉の口調から、先ほどまでの慇懃な響きがスッと消え失せた。氷のように冷たく、刃のように鋭い実務家の声に変わった。


「ですが、お尋ねします。貴方は、蒸気機関の圧力弁の調整ができますか? あるいは、英語の契約書を読み解き、異人の商人と交渉ができますか? 百歩譲って、朝から晩まで泥にまみれて、荒れ地を開墾するだけの体力はお持ちですか?」


「な、何を言うか! わしは武士だぞ! 人の上に立ち、指図し、いざとなれば国のために敵を斬るのが役目だ!」


「南山に、貴方の刀で斬るべき敵はおりません」


 佐倉は、卓上の算盤をパチンと弾いた。その乾いた音が、朽木の誇りを叩き割る宣告の響きとなった。


「南山という場所は、殿様がふんぞり返るための御殿ではありません。我々が求めているのは、物を作る手と、理を考える頭脳だけです。原動機エンジンは、漢籍を読み聞かせても動きませんし、刀で脅しても鉄は削れません」


 佐倉は、朽木の申請書を手に取り、朱肉をたっぷりとつけた印鑑を握った。


「不要な能しか無い者に高い禄を払い、下人をあてがうほど、我々の船にも南山にも、余分な余裕はないのです。朽木殿、貴方が南山へ持っていこうとしているのは、既に寿命の切れた過去という名の、誰も望んでいない残骸だけです」


 ドンッ!


 無情にも、『不許可』の赤い判が書類に叩きつけられた。


「貴方のその美しい刀は、南山では薪一本割れない、ただの重たい鉄棒に過ぎない。お引き取りを。……次の方!」


 数秒の空白の後、朽木の顔が屈辱と怒りで紫に染まった。


「き、貴様ァァッ! 陪臣の分際で、直参たるこのわしを愚弄するかァッ!」


 朽木は怒号を発し、卓を蹴り飛ばして腰の刀に手をかけた。白刃を煌めかせ、無礼な事務官を斬り捨てようとしたのだ。

 だが、日頃の儀礼的な手入れしかされておらず、実戦の血と油を知らない彼の刀は、鯉口こいくちが固く締まりきっており、とっさのパニックも手伝って、鞘走る気配すらなかった。



「……取り押さえろ。武器の持ち込みと業務妨害だ」


 佐倉が顎でしゃくると、即座に取調所の警備員たちが殺到した。彼らは、かつて幕府のフランス式歩兵隊で苛烈な訓練を受け、鳥羽伏見の激戦を経験した、泥まみれの実戦を知る兵卒たちであった。

 朽木から見れば、虫ケラのように身分の低い下層の者たちである。


「離せッ! 下郎! わしを誰だと心得ておる! 触るな、下賤の者どもがァァッ!」


 警備員たちは、朽木の怒鳴り声など馬耳東風とばかりに、極めて合理的かつ冷徹な関節技で彼を捻り上げ、無様に両脇を抱えて引きずり出していった。

 着物は乱れ、大小の刀は床をガシャガシャと情けない音を立てて引きずられていく。


「おのれ……! 徳川の御恩を忘れ、異国の島へ逃げる不忠者どもめ! 逆賊め! わしは上様のために……!」


 遠ざかる朽木の断末魔のような叫びは、取調所の外の喧噪と、出港を待つ蒸気船の汽笛にかき消され、誰の心にも届くことはなかった。


 彼らは国を裏切ったのではない。朽木勘左衛門という男が信奉していた「身分」という名の古い宗教が、太平洋の波を越える前に、すでに完全に息絶えていただけであった。


 佐倉は、散らかった机の上を無表情に片付けながら、次の面接者の釣書を手にした。江戸の残骸の中から、まだ使える「歯車」を見つけ出すための、果てしない選別作業は続いていく。




第四部 第26話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

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「南山共和国建国史シリーズ」

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