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第25話 南洋移住取調所 - 2

慶応四年(一八六八年)三月二十五日。


 大川(隅田川)の川面を撫でて深川の掘割へと吹き込んでくる春風には、暖かさよりも、泥の匂いと、どこか焦げたような、古い時代の終わりの匂いが混じっていた。

 表通りでは荷車が忙しなく行き交い、木場から漂う真新しい材木の香りが鼻を突く。



永代橋のたもとに立つ巨大な土蔵群の一つ。

 その奥深く、一般の喧騒が分厚い漆喰の土壁に遮られた特別応接室に、江戸でも指折りの建材問屋「近江屋」の当主、徳兵衛とくべえは微動だにせず座していた。


 徳兵衛は今年で五十になるが、その風貌は実年齢よりも十は若く見える。贅を凝らした極上の結城紬ゆうきつむぎを、あえて地味な鼠色に染め上げた着こなしは、見る者見れば、この御仁が只者ではないことががすぐわかるだろう。

 彼は全身から身の引き締まるような威厳(オーラ)を放っていた。角張った顎に、数多の不況と大火を乗り越えてきた鋭い眼光。その瞳は、目の前の事務机ではなく、常に数手先の天下の動静を凝視しているかのようだった。



「さて、近江屋殿。あらためて、この随行者名簿と事業目録を確認させていただきたい」


 取調所の実務を担う若き幕臣、小野寺順平が、眼鏡を拭きながら分厚い和綴じの書類を広げた。


 徳兵衛に下される渡航許可は、彼一人を対象としたものではない。南山への移民の法度では、大店おおだなの主人の渡航は「一族および職能集団の集団移送」として扱われる。徳兵衛が提出した名簿には、妻のおしず、嫡男の徳太郎をはじめとする家族六名に加え、近江屋が抱える熟練の番頭、手代、そして彼らの家族を含む総勢百二十名の名が連なっていた。


「随行者については、別途この眷属名簿けんぞくめいぼに基づき、数人ずつ個別の面接を簡単に行いますが、近江屋殿が保証人となることで、優先的な乗船枠を確保いたします。……それにしても、江戸の(おたな)をこれほど大胆に整理されるとは」


 小野寺が感嘆の声を漏らすのも無理はなかった。

 近江屋は、神田に広大な材木置き場を持ち、木曽の檜や秋田の杉を独占的に江戸へ引き込む強固な供給網を握っていた。

 彼らは単なる材木屋ではない。屋根瓦、畳表、壁土、さらには建物の礎石に至るまで、家一軒を建てるために必要なあらゆる資材を一手に引き受ける、いわば江戸随一の総合建材商社であった。



「小野寺様。あっしはね、本当ならこの江戸の街に骨を埋める気でおりやした」

 徳兵衛は、低く、しかしよく通る声で切り出した。


「だがね、今回の騒ぎで悟りやした。新政府の芋侍どもが城に入れば、まず行われるのは過去の清算だ。

 徳川様に尽くしてきた俺たちのような商人は、格好の御用金の標的になる。理不尽な重税で首を絞められ、商いの自由を奪われて、腹の底で権力を嗤いながらも表ではへこへこ頭を下げる。そんな惨めな生き方を長引かせるくらいなら、スパッと店を畳んで見切りをつけるのが、泥水をすすって生きてきた江戸商人の潔さってやつでして」


 徳兵衛の語り口には、江戸っ子特有の「宵越しの銭は持たねえ」という泥臭い意地と、近代的な「資本の損切り」という開明的な計算が同居していた。現場で職人ややくざ者とも渡り合ってきた生々しい現実主義者としての凄みが、その言葉には滲み出ている。


 彼はすでに、南山の支店を通じて現地の状況を詳細に調査させていた。南山は広大な処女林(原生林)に覆われているが、それを建築資材として規格化し、急速に膨れ上がる入植都市の需要に応えるための、大規模な流通機構が決定的に欠けている。


「南山には森があり、木がある。だが、それを柱にし、板にし、家にする仕組みがねえ。あっしは江戸で培った資材を束ねる力を、そっくりそのまま南山の大地に持ち込むつもりですよ。……小野寺様、俺が持っていくのは金だけじゃねえ。南山の都市を建てるための、仕組まれた土台そのものでさあ」


 徳兵衛の野心は、単なる金持ちの逃避行ではなかった。

 彼は、自身が江戸で構築した「下請け・孫請け」に及ぶ垂直統合的な供給体制を、南山でさらに大規模な産業体系へと昇華させようとしていた。蒸気機関を用いた大規模製材所の建設、レンガの量産、さらには石炭ガス灯の配管工事……。


 現実的で泥臭い材木商から身を起こしたこの男の胸の奥には、南山という未開のキャンバスに己の商才で新しい文明を書き込むという、びっくりするほど巨大な大望が燃え盛っていたのだ。



 ふと、徳兵衛の視線が書類に記された家族の欄に落ちた。その鋭い眼光が、ほんの少しだけ和らぐ。


「……それに、俺は家族に、新しい生き方を見せてやりてえんです」

 徳兵衛はぽつりとこぼした。


「女房のおしずは、俺がまだ駆け出しの頃から、大火の時も飢饉の時も、文句一つ言わずに泥だらけになって俺を支えてくれた。

 長男の徳太郎は、算盤や蘭学にも明るい賢い男ですが、どうにも優しすぎて、これからの江戸の修羅場を侍相手に立ち回るには腹の括り方が足りねえ。もしこのまま江戸に残れば、あいつは権力にすり寄るだけの、小賢しく惨めな番頭に成り下がっちまう。俺は、あいつらをそんな目に遭わせたくねえ」


 徳兵衛は太い指で机をトン、と叩いた。


「南山に行けば、武士だの商人だのという古い身分は関係なくなるんでしょう? ならば、徳太郎には刀を差したお侍さまに頭を下げる商売ではなく、己の頭脳と資本で街を創り上げる”実業家”になってもらいてえ。

 おしずにも、燃える心配のないレンガ造りの広い館で、残りの余生をゆったり過ごさせてやりてえんです。

 そのための土台作りなら、俺はなんだってやりますよ。南山の原生林を全部切り拓いてでも、あいつらのために、俺が鉄と蒸気の新しい城を建ててみせます」


 非情で計算高い開明的な資本家としての顔と、家族を愛する一人の父親としての顔。そして、未開の地に巨大な摩天楼を夢見る途方もない理想家としての顔。


 その大望の全てを叶えるために、徳兵衛は非情な選別も行っていた。


 近江屋の奉公人の中でも、新しい商売の技術を学ぶ意欲のある若手や、数理に明るい手代は優先的に名簿に加えたが、旧態依然とした商習慣から抜け出せない古参の番頭たちは、江戸の店を暖簾分けして切り離したのだ。


「善吉。お前に、この近江屋の家屋敷と店、神田の木場や取引先を全部譲る。お前はこの江戸で、近江屋の看板を背負って生きろ。薩長の侍どもに頭を下げ、泥をすすってでも、この土地の根っこを守り抜け」


 江戸を去る前夜、徳兵衛が長年仕えてきた大番頭・善吉にかけた言葉は、思いやりに満ちた言葉の様でいて、実は江戸との細い繋がりを維持するための苦渋の策でもあった。



「徳兵衛様。貴殿の持参される金子(きんす)一万八千両については、乗船前日に手配した品川沖の船上にて厳重な検封を行い、特殊な防水処理を施した金庫に収めて本船の船底へ格納いたします。

 千両箱をそのまま抱えてはしけに乗るような真似はさせません。……南山に着いた瞬間、それは貴殿の事業の強力な牽引力となるでしょう」



 小野寺が渡航許可の判を押し、真鍮の輝く「特級乗船証」を差し出した。


 徳兵衛はそれを受け取ると、静かに立ち上がり、土蔵の高窓からわずかに見える曇り空を見つめた。

 

 彼の背後にある江戸の街は、今まさに戦火と混乱に呑み込まれようとしている。だが、徳兵衛の視線の先にあるのは、南十字星の輝く海と、そこに自らの手で築き上げるべき壮大な「鉄と蒸気の摩天楼」であった。


 江戸商人としての泥臭い矜持を捨てず、近代的な経営者としての冷徹さと、家族を想う深い情愛を武器に、徳兵衛は「近江屋」という巨大な生命体を、地球の裏側へと転生させるための第一歩を、この深川の土蔵から力強く踏み出したのである。



第四部 第25話 完


最後までお付き合いいただき感謝します。

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