第21話 小石川 向島 大砲製造所 - 咆哮する鋼鉄
慶応四年(一八六八年)三月二日。
江戸の街が、幕府の消滅という歴史的な転換点で不気味な静寂に包まれていく中、小石川の神田上水沿いに広がる一帯だけは、昼夜を問わず猛烈な熱気と金属音を発し続けていた。
幕府の兵器工廠であり、アジアのスプリングフィールド工廠とも言われる関口製作所と、フランス軍事顧問団の指導の下に設立された、ここ小石川大砲製造所である。
水戸藩上屋敷に隣接する広大な敷地にある、薄暗い鋳造棟の内部では、溶解炉から真っ赤に煮えたぎる青銅が、耐火るつぼから砂型へと注ぎ込まれる、むせ返るような熱波と、金属の焼ける甘ったるい匂いがまだ充満している様だった。
ここで製造されていたのは、幕府歩兵隊の主力火砲である四斤山砲だ。軽量で山岳地帯での機動力に優れ、かつ砲身内部に刻まれた施条(ライフル溝)によって高い命中精度を誇る、フランス式野戦砲の傑作である。
「……見事なものだ。これほどの数を、一気に揃えていただけるとは」
整然と並べられた真新しい真鍮色の砲身群を見渡し、感嘆の声を漏らしたのは、會津藩から派遣された砲兵隊指揮官、伴野鉄蔵であった。実戦をくぐり抜けてきた士官特有の、厳しい観察眼を持つ彼も、月産三十門という、当時としては破格のペースで量産された、八十門もの大砲の群れを前にしては、息を呑むしかなかった。
「お言葉ですが、伴野殿。我々が誇るべきは、この大砲そのものではありません。これらを生み出す仕組みの方なのです」
伴野を案内していた製造所の総責任者、郷田が、油で汚れ、火傷の痕が無数に刻まれた太い腕で、工場の奥を指差した。
そこには、神田上水の水力と蒸気機関を組み合わせた動力を受けて、十数台の「水平式砲身中ぐり盤」が低い地響きを立てて稼働していた。鋳造されたばかりの無垢の青銅砲身を水平に固定し、鋼鉄のドリルがその中心を真円にくり抜き、さらに精緻な螺旋状のライフリング(施条溝)を刻み込んでいく。
「あれらの機械がなければ、砲弾は明後日の方向へ飛んでいくただの鉄の玉です。さらにあちらの砲耳切削機で、砲を台車に載せるための突起を削り出します。……我々小石川の八百人の職人は、一品物の工芸品を造っているのではありません。戦場で絶対に壊れず、確実に敵を討つ為の道具を量産しているのです」
「恐れ入る。だが、これほどの設備、我らと共に北へ運ぶことはできぬのか」
「残念ながら不可能ですな。この巨大な水車も、レンガの溶解炉も、江戸の地から引き剥がすことはできません。ですから……」
郷田は、八十門の四斤山砲を指し示した。
「山砲の在庫は、全て會津と長岡へお渡しします。薩長を噛み砕くために、存分にお使いください。大砲を作る機械群と、我々職人衆はお先に南へと向かいまする」
工場の片隅では、すでに解体作業が始まっていた。
中ぐり盤の心臓部であるドリルシャフトや、フランスからわざわざ取り寄せた二千個に及ぶ貴重な「耐火るつぼ」、そして大砲の寸法を決定づける精密鋳型(金型)一式が、次々と木箱に収められ、緩衝材としての藁や羊毛で厳重にパッキングされていく。
「大砲そのものは、戦場で砲弾を撃ち尽くしまくれば、砲身もいずれ摩耗し、使い捨てられる時も来るでしょう。しかし、この中ぐり盤の刃と鋳型さえ南へ逃がせば、我々は南の銅と石炭を使って、何度でも、幾らでも新しい大砲を産み出すことができるのです」
郷田の言葉に、伴野は深く頷いた。
「相分かった。薩長の引きつけは、我ら會津が引き受ける。貴殿らは、どうか無事に、その打ち出の小槌をを新しい国へ届けてくれ」
二人の男は、轟音の鳴り響く工場の中で固く握手を交わした。それは、送り出す時間を稼ぐために戦う者と、先に海を渡って未来を創る者との、それぞれの決意を持った別れの挨拶であった。
小石川から東へ数里。隅田川の東岸に位置する向島でも、また別の狂騒が繰り広げられていた。
英国アームストロング社の直接技術協力を得て設立された向島アームストロング工廠である。
小石川が青銅を「溶かして固める(鋳造)」工場であったのに対し、ここは鉄を「叩いて伸ばし、巻きつける(鍛造)」という、全く異なる技術体系を持つ最先端のプラントであった。
ここで製造されていたのは、強大な破壊力と長大な射程を誇る十二ポンド・アームストロング砲である。砲身の後ろから弾を込める後装式ライフル砲であり、当時の世界最先端にして、製造が極めて困難な工芸品のような大砲だった。
「……ジャッキの圧を抜け! 慎重にやれよ、シリンダーに傷をつけたら、南山で焼ばめができなくなるぞ!」
四百人の高度熟練鍛冶工を束ねる棟梁が、怒声とも悲鳴ともつかない声を上げていた。
彼らの目の前にあるのは、高さ十メートルに及ぶ、焼ばめ櫓である。アームストロング砲の砲身は、一本の鉄の筒ではない。赤熱させた鉄の帯を芯金に巻き付けて層状の筒を造り、外側の筒を熱して膨張させ、内側の筒に被せて冷却収縮させる、焼ばめ(Shrink-fitting)という技術によって、尋常ではない火薬の爆発圧力に耐える強度を持たせているのだ。
職人たちは、巨大な水圧ジャッキのポンプ類と、櫓を構成する鉄骨を一本ずつ分解し、隅田川に横付けされた平底の荷船へと積み込んでいく。
「親方、長岡の河井の旦那へ送る六門の”向島式”、梱包終わりましたぜ」
油まみれの職人が、誇らしげに報告した。
大政奉還後から実質三ヶ月。この向島の四百人の職人たちは、昼夜二交代制の極限の熱気の中で、長岡藩へ引き渡すための一箇中隊分・六門の十二ポンド砲と、六百発の鉛被甲弾を文字通り血を吐く思いで鍛え上げた。
それは単なる英国製のフルコピーではない。英国本国でも薩英戦争の折に多発した鎖栓の吹き飛びというアームストロング砲最大の弱点を克服するため、向島の技術陣が独自の改良を施した「向島改良型」であった。
閉鎖機と鎖栓の材質を脆い錬鉄から輸入された高強度のスウェーデン鋼へと置き換え、さらに野戦での整備性を高めるためにライフリングのピッチを僅かに簡略化している。
これら六門の砲身と台車は、偽装のために分厚い材木で覆われ建材として。六百発の砲弾は信管を抜かれた状態で醤油樽の中に密閉された。それらは隅田川から利根川水系を遡上し、日本海側を経由して、北越の雄・長岡藩へと密かに送られていく。
この六門の「向島式アームストロング」こそが、後に長岡城下で新政府軍を血の海に沈める最強の切り札となるのだ。
「よし。次は長尺旋盤と精密フライス盤の解体だ!」
棟梁の怒号が飛ぶ。
工場の奥では、長さ三メートルを超える砲身を回転させて表面を削り出す八台の長尺旋盤と、アームストロング砲最大の弱点であるガス漏れを防ぐための、銅製パッキング(閉鎖環)を削り出す五台の精密フライス盤が、次々と解体されていた。
「親方、この重てえ旋盤のベッド(土台)はどうしやすか」
「置いていくしかねえ。だが、アリ溝にはタガネを打ち込んでズタズタにしておけ。薩長の田舎侍どもがこれを見つけても、二度とまっすぐな砲身は削れねえようにな」
棟梁は、自らの手足のように使い込んだ機械を破壊するよう命じながらも、その目に涙はなかった。
「俺たちの本当の財産は、鉄の塊じゃねえ。鉄が何度で赤くなり、どう叩けば粘りが出るかを知っている、この腕と頭だ。南の島に行きゃあ、もっとでけえハンマーが待ってるって話だ。ここで腐ってる暇はねえぞ!」
そして、小石川の最も奥まった一角。地図にも記されていない大砲工廠特別第三工場では、最重要機密の搬出が、百五十名のトップエリート職人たちによって息を殺すように行われていた。
ここは、プロイセン(ドイツ)のクルップ社から技術を導入した、最新鋭の鋼鉄製後装砲のライセンス生産を行う実験棟であった。
従来の青銅や錬鉄とは根本的に異なる鋼という素材。それを削り、水平にスライドする鎖栓式の閉鎖機を造り上げる技術は、当時の東洋においてまさにオーパーツとも言える代物だった。
「スロッター(立削り盤)の主軸は外したか! プロシア製のフライス盤は、カッターの刃一枚たりとも残すなよ!」
技術士官が、血走った目で確認に走り回っている。
クルップ砲の命は、砲身の後部に四角い穴を開け、そこに楔のような閉鎖機を完璧に密着させることにある。その四角い穴を削り出す十台のスロッターと、水平鎖栓を加工する十台のフライス盤は、まさに国家の最高機密であった。
工場の裏手では、クルップ社から輸入されていた未加工の鋼鉄素材五十トンが、牛車に積み込まれようとしていた。これは金塊にも等しい価値を持つ戦略物資であり、南山へ向かう輸送船のバラストとして、船底の最も安全な場所に積載されることになっている。これらは関口製作所に保管されていた物とは異なり火砲用に作られた組成となっていた。
そして、この特別第三工場の中央に、黒光りする巨大な怪物が鎮座していた。
「これが、噂に聞くクルップの大型砲か。四斤山砲とはまるで違う、凄まじい威圧感だ。だが……なぜ形が違うものが二つあるのだ?」
四斤山砲の受け取りに来ていた會津の伴野が、辞去しようとした際に連れてこられたのがこの工場だった。そこに鎮座する二つの黒光りする威容を見比べて、彼は感嘆の声を漏らした。
それは、小石川の技術陣がプロイセンのクルップ砲を解析し、独自に組み上げた二門の試作砲であった。
右にあるのは、長さ三メートルを超え、砲身単体で一・五トンに達する長大な砲。
左にあるのは、長さは一・五メートルに満たないが、ずんぐりと太く、上を向いた短い砲であった。
形状こそ違えど、両者ともに鈍い光を放つ均一な鋼で鋳造されており、その後部にはガス漏れを完全に防ぐ水平鎖栓式閉鎖機が組み込まれている。
「右が要塞砲、左が榴弾砲です」
技術士官が、傍らに置かれた巨大なドングリ型の砲弾、約四貫(十五キログラム)の鉛被甲弾を撫でながら答えた。
「この二門は、まったく同じこの砲弾を撃ち出します。ですが、役割が違う」
「同じ弾で、役割が違う?」
「ええ。右の長い砲(要塞砲)は、火薬を限界まで詰め、敵の射程外となる五千メートル先から一直線に陣地を貫く『槍』です。対して左の短い砲(榴弾砲)は、少なめの火薬で砲弾を山なりに高く打ち上げ、城壁の裏や稜線に隠れた敵の頭上に真上から弾を降らせる『槌』です」
士官の目は、兵器開発者特有の冷たい熱を帯びていた。
「薩長の持つ山砲を遠距離から長い砲で黙らせ、遮蔽物に逃げ込んだ歩兵を短い砲で上から叩き潰す。弾薬の規格を共通化することで、會津の補給線の負担を最小限に抑えつつ、最大の戦術効果を生み出す。それが我々の設計思想です」
伴野は息を呑んだ。それはこれ迄の戦術の前提を覆す、文字通りの決戦兵器であった。だが、実戦を知る指揮官としての冷徹な理性が、即座に最大の問題点を弾き出した。
「素晴らしい性能だ。だが、この巨砲をどうやって江戸から會津の山奥まで運ぶというのだ? 長い方は三トンはあろう。街道を牽いて歩けば一日で官軍の斥候に見つかるぞ。それに、貴殿らが南へ去れば、誰がこの特殊な砲弾を作る?」
伴野の鋭い指摘に対し、技術士官はニヤリと笑って見せた。
「御案じなく。すでに『化粧』と『兵站』の準備は整っております」
技術士官が合図をすると、職人たちが巨大な杉の丸太を二つ割りにしたものを運び込んできた。中が見事にくり抜かれている。続いて、酒造りで使うような巨大な仕込み樽も運び込まれた。
「砲身と台車は完全に分解します。長い一・五トンの砲身は、たっぷりと防錆油を塗ってこの杉の丸太の中に納め、日光東照宮修繕用の『御神木』に偽装します。短い六百キロの砲身は、あの巨大な『仕込み樽』の中に封じ込めます」
「なんと……御神木と樽に化けさせるのか」
「ええ。これを高瀬舟に載せて、利根川を遡上して栗橋の関所まで運びます。そこからは、修羅(しゅら:木製の巨大なソリ)に載せ、数十頭の牛と人足に引かせて、会津西街道の山道を越えていただきます。……雪解けの泥道は地獄でしょうが、そこから先は伴野殿、貴方方の気合次第です」
士官はさらに、奥に積まれた数百の木箱を指差した。表面には『會津藩御用達・醤油樽』と偽装の焼き印が押されている。
「弾薬の補給線が切れる問題については、五百発分の『空の砲弾』と『着発信管』を用意しました。火薬が入っていない鉄と鉛の器だけなら誘爆の危険もなく、一般貨物として運べます。會津に着いた後、貴藩で製造した黒色火薬をこの中に詰めて完成させてください。規格が同じですから、長い砲にも短い砲にも、そのまま装填できます」
「……恐れ入った。まさに、鬼神の如き知恵よ」
伴野の顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。輸送の手立てから弾薬の共通化まで、すべてが計算し尽くされている。
「面白い。その御神木と二つの樽、我ら會津の意地にかけて、必ずや鶴ヶ城へと届けてみせよう。そして、薩長の田舎侍どもに、鋼鉄の雷を落としてやる」
この和製クルップ十二糎の双子砲は、後に北の戦線において、絶望的な物量で押し寄せる新政府軍に対し、遠距離からの精密砲撃と頭上からの弾幕で血の代償を支払わせる伝説の巨砲となる運命にあった。
巨砲が丸太と樽の中に隠され運び出された後、技術士官は、工場内の最も堅牢な金庫を開けた。
中から取り出したのは、漆塗りの豪奢な木箱である。その中には、プロイセンのクルップ社との技術提携書類の原本と、膨大な青写真(図面)、そして弾薬の寸法の基準となるマスタ・ゲージが収められていた。
「大砲も、機械も、すべてはただの鉄だ。これがなければ、南山での再生産は国際法上の特許侵害となり、列強からの干渉を招く。これこそが、我が国の真の御神体だ」
士官は、漆の箱を大事そうに胸に抱き、静まり返り始めた工場に向けて深く一礼した。
慶応四年四月二十二日。
小石川の青銅工場、向島のアームストロング工廠、そして秘密のクルップ実験棟。
これらの野戦砲コンビナートから抽出された工作機械群、絶対基準器、そして四千人を超える職人とその家族たちが、次々と乗船していく。
誰もが、住み慣れた江戸の街並みを振り返っていた。
夕日に染まる江戸の空には、かつて彼らの工場が吐き出していた力強い黒煙はもうない。あるのは、主を失った無数の煙突のシルエットと、奇妙なほど澄み切った静寂だけであった。
小石川の工場跡地には、大砲の砲身を垂直に立てて冷却するために掘られた、数メートルに及ぶ巨大な深い穴が、ただ空虚に口を開けている。
向島の川辺には、引き剥がされたジャッキの土台と、切断された革ベルトが散乱していた。
新政府軍がこれらの地に足を踏み入れた時、彼らは巨大な軍事工場を手に入れたと歓喜するだろう。だが、すぐに気づくはずだ。大砲を生み出す子宮も、それを育てる血(技術者)も、すべてが幻のように消え去っていることに。
「出港だ!」
甲板で船長が号令をかけた。
腹の底を震わせるような重低音の汽笛が、夕闇の迫る江戸湾に鳴り響いた。
其れを合図に、何十隻もの船団が、一斉に巨大な外輪とスクリューを回し始める。真っ黒な石炭の煙が空を覆い、船首が白波を立てて南へと向き直る。
彼らが船底に抱えているのは、大砲そのものではない。火力優勢という概念を生み出し、無限に自己増殖させるための火力戦の卵であった。
第四部 第21話 完
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渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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シリーズの短編もアップしました。
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