第20話 小石川・関口製造所 - アメリカン・システム(下)
夜、執筆していたら変な電波を受信して短編を一つ書いてしまいました。
「異聞:石炭酸の海」
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時系列的には本話の3つか.4つ先くらいのお話の「異聞」です。
宜しければ、お読みください。
慶応四年(一八六八年)四月中旬。
江戸の街は、四月十一日に行われた新政府軍による江戸城無血入城の報せを受け、深い動揺と見えない恐怖の底に沈んでいた。
だが、小石川の関口製造所だけは、外部の喧噪から完全に切り離されたかのような、異様で張り詰めた静寂と焦燥の中にあった。
「とうとう官軍が江戸城に入りやがった。いつこの小石川の奥まで田舎侍どもが踏み込んでくるか、生きた心地がしねえぜ」
油まみれの手ぬぐいで首筋の汗を拭いながら、主任職人の伝蔵が忌々しそうに呟いた。
彼の周りでは、三月下旬から始まった夜を徹した神田川での水運ピストン輸送により、小型のリンカーン・ミラーやドロップハンマーといった百八十台以上の軽量機械が、すでに品川沖の輸送船へと姿を消していた。広大な第一製造棟は、かつてのひしめき合うような機械の森から一転し、不気味なほどの空間的余裕を見せ始めている。
「親方、海の方の横須賀はどうなってるんですかい? あっちにも、とんでもなくデケえ機械が山ほどあるって話じゃねえですか。官軍に押さえられちまったんじゃ……」
見習い小僧の亀吉が、不安げな表情で尋ねた。江戸城に官軍が入ったという事実は、若い彼の心に重い影を落としていた。
「焦ることはないよ、伝蔵、亀吉」
背後から、製造所責任者の下曾根金三郎が穏やかな足取りで現れた。彼の表情には、都市が占領されゆく絶望感はなく、冷静に盤面を見つめる将棋指しのような、揺るぎない理知の光があった。
「十一日に江戸城へ入った官軍は、先遣隊規模のわずか千名ほどに過ぎない。彼らも広大な江戸市中を完全に掌握するには数が足りず、本隊が到着する四月二十日から二十三日頃までは、積極的な市中への関与を抑え、息を潜めているはずだ。つまり、我々に残された真の刻限は、その本隊がなだれ込んでくる四月二十日過ぎということになる」
下曾根は、亀吉の肩に優しく手を置いた。
「それに、横須賀の心配は無用だ。南山物産の通信網からの報せによれば、横須賀製鉄所は四月十一日、つまり官軍が江戸城に入ったその日に、完全撤収を完了させたそうだ。あの巨大な製鉄所と造船所群、そして職人衆と家族は見事に撤収を完了させたそうだ。東国を支えていたあの強靭な骨格は、すでに安全な海の上だよ」
下曾根の静かな、しかし力強い言葉に、伝蔵の顔に闘志が戻った。
「へっ。横須賀の鉄叩きどもが十一日に仕事を終えてるってんなら、俺たち関口の職人が遅れをとるわけにはいかねえな!」
だが、職人たちの顔に浮かんだ希望の色は、すぐに厳しい現実へと引き戻された。
なぜなら、工場の奥深くに鎮座する、この製造所の真の主役たち、銃の骨格を生み出すための巨大なマザーマシン群が、いまだに手付かずのまま残されていたからである。
「駄目だ! これ以上引っ張ったら、コロが重みで砕けちまうぞ!」
「高瀬舟の船頭も、こんな重てえもんを乗せたら舟底が抜けるって泣きっ面だ!」
伝蔵の怒号と、職人たちの悲鳴が交差する。
彼らが総掛かりで麻縄を掛け、押し引きしているのは、米国から輸入された異形の旋盤、ブランチャード・コピー旋盤であった。
これは、あらかじめセットされた鉄製の金型を機械の指がなぞることで、高速回転するカッターが硬いクルミ材のブロックを全く同じ不規則な銃床の形に削り出すという、当時の木工機械における最高傑作である。
西国の鉄砲鍛冶がノミとヤスリで何日もかけて木を削っていた時代に、この機械は一日あたり五百丁分もの銃床素材を狂いなく供給可能にしていた。関口製造所には、この巨大なコピー旋盤が十二台も並んでいる。
さらに隣の区画には、銃身製造ラインを担う鋼鉄の怪物たちが控えている。
硬い鋼鉄の棒に、偏心することなく長さ一メートル近い穴を貫通させる深穴ボール盤が四十台。銃身の外側を美しいテーパー状(先細り)に削るバレル・ターニング旋盤は六十台。そして、銃身内部に弾丸の回転を生む螺旋の溝を刻む、当時最新のサイン・バー方式を採用したライフルリング・マシン(施条加工機)五十台である。
これらはどれも、一基あたり一・五トンから二トンを超える、途方もない重量級の怪物であった。
神田川の高瀬舟は喫水が浅く、重い荷物を運べるとはいえ、それは米俵などの分散された荷重を前提としている。二トンもの鉄の塊を狭い舟底の一点に載せれば、バランスを崩して転覆するか、最悪の場合は舟底を突き破って川底の泥の中へと沈んでしまう。
「親方、こりゃあお手上げですぜ」
亀吉が、ひしゃげた丸太のコロを抑えながら、絶望的な顔で天を仰いだ。
「こんな鉄の山を何十台も、官軍の本隊が来る二十日までに海まで運ぶなんて、神様仏様でも不可能だ。奴らが来る前に、こいつらだけは諦めて、せめて火をつけて燃やすしか……」
「馬鹿野郎。こいつらは俺たちの血と汗の結晶だぞ。燃やして灰にするくらいなら、俺も一緒に燃え……」
伝蔵が血走った目で言い返した、まさにその時だった。
「燃やす必要も、諦める必要もない」
下曾根が、整然とした足取りで巨大なブランチャード・コピー旋盤の横に進み出た。彼の表情には焦り一つなく、二千五百人の工員とこの巨大なシステムを導くリーダーとしての、極めて冷徹な理知の光だけが宿っている。
「下曾根様! ですが、この重さでは高瀬舟には」
伝蔵が訴えかけるのを、下曾根は片手で制した。
「伝蔵。この機械の総重量のうち、約七割を占めているものは何だ?」
「へ? そりゃあ、機械の土台になってる、あの分厚い鋳鉄製の台座ですが……」
「そうだ。ならば、その台座は置いていけ」
下曾根の言葉に、伝蔵も亀吉も、そして周囲の職人たちも、一瞬自分の耳を疑い、凍りついたように言葉を失った。
「下曾根様……台座を置いていくって、つまり……」
「文字通りの意味だよ。引き抜くのは、動力を伝える主軸、複雑な回転を生み出すギアボックス、そして刃物を精密に動かす送りネジ(リード・スクリュー)だけだ。他の重たい鋳鉄のフレームや脚は、すべてこの場に捨て置く!」
その大胆すぎる指示に、いち早く反応したのは亀吉だった。彼は優秀であるがゆえに、機械の構造的な前提にとらわれていた。
「お、お待ちくだせえ、下曾根様! 台座がなけりゃあ、南山に着いたって機械を据え付けられねえですよ! それに、あの重たい土台があるからこそ、刃物が鉄を削る時の酷い振動を吸収して、毛筋一本の精度が出せるんじゃねえんですか!」
亀吉の反論は、工作機械の原理としては完全に正しかった。旋盤などの工作機械は、自重が重ければ重いほど振動に強く、精度が高まる。台座はそのための「重り」でもあるのだ。
だが、下曾根は亀吉の言葉を否定せず、深く頷きながらも力強く言った。
「亀吉、お前の言う通りだ。機械の振動を殺すためにあの質量は不可欠だ。だがな、物事の価値の本質を履き違えてはならない。あの巨大な台座は、確かに重いが、あれの正体は単なる砂型に溶けた鉄を流し込んだだけの、重たい鋳鉄の塊に過ぎんのだよ」
下曾根は、ステッキでライフルリング・マシンの心臓部である、銀色に光る精緻なネジ山を指し示した。
「南山には、元より反射炉やキュポラ(溶銑炉)がある。向こうに着いてから、図面通りに砂を固め、鉄を溶かして流し込めば、台座などいくらでも鋳造み直すことができる。
だが……この送りネジの精緻なピッチと、サイン・バー方式の複雑なギアの噛み合わせだけは、現地の野鍛冶には絶対に造り出せない。これは、江戸の関口という高度な技術の集積地でしか生まれなかった、取り替えのきかない根幹部品なのだ」
その言葉に、伝蔵の顔にハッと稲妻のような理解の光が走った。
「……そうか! 機械のドンガラ(外殻)と中身(作動部)を切り離すってことか!」
伝蔵は、狂喜したようにスパナを振り上げた。
「すげえ……考えもしなかったぜ! 重たいだけの鋳鉄の塊なんざ、向こうで造り直しゃいい。俺たちが本当に持っていくべきなのは、機械の根幹そのものだ!」
「その通りだ、伝蔵。新政府の田舎侍どもに、空っぽの鉄の骸をくれてやれ。中身はすべて我々が海へ逃がす」
下曾根の口角が、微かに、しかし確かに上がった。
「おう! 野郎ども、聞いたな! 丸ごと運ぶ必要はねえ! 機械の臓物を引っこ抜くんだ! スパナと油壺を持て!」
伝蔵の号令とともに、職人たちは一斉に工作機械へと群がった。
それはまさに、外科医による精密な「臓器摘出」の手術であった。
汗と油にまみれた職人たちが、巨大なボルトを外し、油紙で丁寧に包みながら、ライフルリング・マシンのカッターヘッドや、深穴ボール盤の精密な主軸を次々と引き抜いていく。
亀吉もまた、伝蔵の横で無我夢中でスパナを回していた。
「すげえ……親方、どんどん機械が軽くなっていきやすぜ!」
「当たり前だ! 二トンあった機械から、中身の三百キロだけを抜き取ってるんだからな! これなら高瀬舟でも余裕で運べる!」
分解された精密なギアや送りネジは、油をたっぷりと塗られ、衝撃を和らげる真綿に包まれて木箱へと収められていく。
結果として、一基あたり二トンあった巨大な工作機械は、約三百キロから五百キロにまで劇的に軽量化されたのである。
屈強な職人数人で木枠ごと持ち上げられる重さとなり、高瀬舟への積載量と移送スピードは、これまでの何倍にも爆発的に跳ね上がった。
工場の床には、臓器を失い、空っぽになった巨大な鋳鉄の台座だけが、主を失った古代の巨石遺跡のようにゴロゴロと取り残されていく。
その異様で、しかし圧倒的な光景を見下ろしながら、下曾根は深く安堵の息を吐いた。
物理的な「質量」に囚われることなく、技術の「本質」のみを抽出する。これこそが、小栗忠順と彼らテクノクラートが描いた、真の大脱出の姿であった。
官軍本隊が到着するまで、あと数日。
臓器を失った帝都の脳髄は、神田川の暗い水脈を通って、次々と南の海へと流出していく。新政府軍に絶対的な絶望を突きつけるための「空の器」の完成が、いよいよ目前に迫っていた。
慶応四年(一八六八年)四月二十日。
新政府軍の本隊が江戸市中へなだれ込んでくるまで、もはや数日という極限の状況下にあって、関口製造所の解体作業はいよいよ最終の仕上げ、すなわち「工場の息の根を止める」段階へと突入していた。
巨大な工作機械群から心臓部であるギアや送りネジが引き抜かれ、神田川の水脈を通って次々と海へ逃れていく中、第一製造棟の天井付近では、高所作業に長けた鳶の職人たちが命綱一本で梁にぶら下がり、大掛かりな解体を行っていた。
「よし! ラインシャフトの留め具、全部外れたぞ! ゆっくり降ろせ!」
頭上からの掛け声とともに、太い麻縄がギシギシと軋み、全長数十メートルにも及ぶ長大な鋼鉄の駆動軸が、幾つもの滑車をつけたまま、ゆっくりと土間の上へと降ろされていく。
さらに、建屋の外では、神田上水の豊かな水流を受けて力強く回っていた巨大な水車が、中心の軸棒から外され、いくつもの木製パーツに分解されて木箱へと収められていた。
これらは、ボイラーの蒸気や水車の動力を、工場内の何百台という工作機械へと分配するための血管と神経である。
伝蔵は、天井から降ろされた分厚い牛革の伝動ベルトを、愛おしそうに撫でた。
「親方、その革ベルトも持っていくんですかい? そんなもん、南山に着いてから牛の皮をなめして新しく作ればいいじゃねえですか」
丸められた革ベルトの重さに辟易しながら、亀吉が尋ねる。
「莫迦を言え。南山に牛はいるだろうが、機械の凄まじい張力に耐えられる伝動ベルト用に皮をなめすには、何ヶ月もかかるんだ。江戸で使い込まれ、機械の油がたっぷりと染み込んだこの革ベルトとシャフトがなけりゃあ、南山に着いた初日から機械を回すことはできねえんだよ」
伝蔵は、鋭い刃物で不要な端の革を切り落とし、綺麗に巻き上げながら答えた。
「それにだ。このベルトが外されたってことは、あの重てえドンガラ(台座)どもは、もう二度と動かねえってことだ。今日、この関口の工場は完全に死んだのさ」
伝蔵の言う通りであった。
動力を分配するシャフトが引き抜かれ、石炭を喰らう蒸気ボイラーも分解され運び出された工場は、もはや鉄と油の匂いが染み付いた巨大な空箱に過ぎない。
だが、解体されているのは、工場という物理的な建屋だけではなかった。
製造所の周囲に広がる、工員とその家族合わせて約一万人が住まう広大な長屋街、関口周辺のコミュニティそのものが、都市からそっくりそのまま剥がれ落ちようとしていたのである。
「おっかあ、この教科書も持っていくの?」
工場の裏手にある長屋の薄暗い土間で、工場付属の技術教習所に通う少年の勇太が、真新しい算術の本を高く掲げて尋ねた。
「当たり前だよ、勇太」
母親のおタキは、幕府から支給された紺色の丈夫な関口職工制服を、シワにならないよう丁寧に行李へと畳み込みながら、力強く頷いた。
「南山へ行ったら、あんたはお父ちゃんみたいに立派な機械を操る技師になるんだ。あっちの新しい国じゃあ、威張り散らすお侍さんの顔色を伺うより、図面が引けて数字が読める方が、ずっと偉いんだからね」
関口の職工たちは、幕府直参の職工という強いプライドを持ち、同年代の武士よりも高い給与を得ていた。おタキのような妻たちもまた、ミシンという最新の道具を使い、銃を運ぶための布製ケースや、兵士が肩から下げる弾薬帯を縫い上げるという、この巨大な兵器製造システムの重要な一部を担っていたのである。
彼女たちにとって、居場所とは土地ではなく、「最新の機械と、自分たちの腕を正当に評価してくれる仕組み」がある場所であった。同じように考える途方もない数の人々が、見知らぬ南半球への移住という恐怖よりも、新しい時代を自分たちの手で切り拓くという希望を胸に、喜んで荷造りを進めていた。
長屋街のさらに外縁部、関口周辺に密集する約五十軒もの下請け工房群でも、狂騒的な撤収作業が行われていた。
「俺たちの長屋ごと、海を渡るってんだから驚きだぜ」
輸送用の木箱を製造する製材所の親方、六兵衛は、長年使い古した大鋸を分厚い油紙で幾重にも包みながら、泥だらけの顔で豪快に笑った。
「江戸の街からこの木屑の匂いが消えちまうのは少しばかり寂しいが、南山に行きゃあ、見渡す限りの処女林(原生林)が俺たちを待ってるって聞くじゃねえか。向こうに着いたら、手始めに一生分の銃床の木取りをしてやりますよ!」
一方で、喜びばかりではない。
長屋の隅では、職人の年老いた祖母が、動かすことのできない先祖の墓石にすがって泣いていた。
「私はここで死にます。あんな南の果ての、化け物のいるような島へは行けません……」
その隣で、若者が南十字星という未知の単語を誇らしげに語り、子供たちが「蒸気船、蒸気船!」とはしゃぎ回る。
木箱工場、ミシンを備えた皮革工房、真鍮の小間物を加工する町工場。
下曾根金三郎と小栗忠順が描いた関口近辺の大脱出は、中核となる兵器工場だけを切り取るのではなく、それを根底で支える末端の職人やサプライチェーン全体を、一つの生態系として根こそぎ移植する計画であった。
下曾根は、続々と大八車に家財道具を積み込み、横浜の乗船地へと向けて歩き始める一万人の群衆を、工場の二階の窓から静かに見下ろしていた。
「見事なものだ」
下曾根は、無精髭の伸びた顎を撫でながら、誰に言うともなく呟いた。
「家や土地という不動産に縛られる武士と違い、自らの腕と知恵だけを頼りに生きる職人たちは、かくも身軽で、そして力強い。彼らこそが、未来の国造り礎となるのだよ」
希望と、かすかな郷愁。そして未知の海へ漕ぎ出す興奮。
人々の巨大な感情のうねりが、春の夜風に乗って神田川へと流れ込み、そして静かに江戸の街から消えていく。
四月二十三日。
新政府軍の本隊が江戸市中へ本格的な展開を始める直前。
関口製造所は、すべての人間と、機械の心臓部、そして動力を伝える血管のすべてを失い、冷え切った鋳鉄のドンガラ(台座)だけが墓標のように並ぶ、完全なる”死んだ工場”へと変貌を遂げていた。
江戸の産業文明を外科手術のように切り取る、冷酷なまでの計画は、いよいよ最終局面、敵に絶対的な絶望を突きつける空っぽの器の引き渡しへと向かおうとしていた。
慶応四年(一八六八年)四月二十四日の深夜。
すべての工員と家族が江戸を去り、完全な闇と静寂に包まれた関口製造所の裏手から、港へ向かうものとは別の一団の舟が出ていった。
それは、これから南の海へと亡命する彼ら自身の再起の種であると同時に、東国の産業資産や人々を逃がすため、列島に残って新政府に遅滞戦闘を続ける東国諸藩への、最後の援護でもあった。
「千住大橋を経由する北廻りの舟、すべて出ました」
闇の中で、若い職人が下曾根に報告した。
これまでの撤退作業の裏で、彼らは工作機械が解体される直前までに、あらかじめ数万点に及ぶ金属部品と木製銃床を削り出して、ストックしていたのである。
そして、シャフトが外され工場の動力が完全に止まった後も、残された組み立て専門の職人たちが昼夜を違わず手作業で組み上げを行い、最新式スナイドル銃、五、〇〇〇挺を完成させていたのだ。
それらは今、密かに会津、そして長岡へと向けて出荷された。
「これと大砲屋が用意する大砲が、俺たちから送る最後の手土産ってわけだ」
伝蔵は、北へ向かって闇に溶けていく舟の航跡を見送り、大きく伸びをした。
「あとは南山で、もっと鋭い牙を造ってやるよ」
下曾根も深く頷き、もぬけの殻となった広大な工場を一度だけ振り返った。
「これで、ここでの仕事はすべて終わりだ。敵に渡すのは、動かすことのできないデカいドンガラだけだ。奴らがその本当の意味に気づいたときには、我等は海の向こうへ消えているだろうよ」
彼らは最後の小舟に乗り込み、神田川の濁流に乗って品川沖へと滑り出していった。彼らが去った後の関口製造所には、冷え切った機械の殻と、切断され残った革ベルトの残骸だけが、不気味な静寂の中に残されていた。
翌日、この地を接収した山縣有朋が目にするのは、立派なレンガの壁と重たい鋳鉄の残骸だけの、脳死した廃工場である。
山縣は、きっと床に落ちているブランチャード旋盤の設計図の端切れを拾い上げるだろう。だが、それをどう読み、どう動かせば良いのかを知る者は、もうこの列島には一人もいない。
機械の刃物も、目盛りも、治具も、そしてそれらを使いこなす知性と技能も、すべては南へ去っていった。
翌日、朝の横浜の埠頭では、一万人の関口の職人とその家族たちが、自分たちの「暮らし」と「流儀」を背負って巨大な輸送船へと乗り込んでいた。
甲板の手すりに寄りかかり、伝蔵の背中を亀吉が追う。
「親方! 見てくだせえ、すっげえデカい蒸気船だ! あっちの船からも、こっちの船からも、黒い煙がモクモク上がってる!」
「ああ。見ろ、亀吉。あの煙突の煙の向こうに、俺たちの新しい国があるんだ」
伝蔵は、袂に入れたヤスリの感触を確かめ、一度だけ江戸の空を振り返った。もはや未練はなかった。自分たちが信じた技と、自分たちを腕一本で生きる者として認めてくれた仕組みは、すべてこの船の中に詰め込まれている。
「でも親方」
亀吉がふと真顔になって、海風に吹かれながら尋ねた。
「俺たちは、鉄を削って銃を造ることはできる。だけどよ、鉄砲ってのは弾と火薬がなけりゃあ、ただの重てえ鉄の棒じゃねえか。その弾と火薬は、南山に着いてからどうやって造るんで?」
その疑問に、伝蔵はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、北の空、板橋や王子がある方角を指差した。
「心配すんな。俺たちが鉄砲の機械を切り刻んで運んだように、石神井川の谷間じゃあ、銃の血液を創り出す連中が、同じように狂った真似をしてるはずだ」
「血液、ですか?」
「ああ。真鍮を紙みたいに薄く絞る女工たちや、爆発と隣り合わせで火薬を練るいぶし銀の親父たちさ。
あいつらも今頃、俺たちと同じように機械の心臓を引っこ抜いて、別の船の底で真鍮の部品を抱きしめてるはずだ。
南山に着きゃあ、俺たちの造った銃に、あいつらの造った弾薬がピタリと収まる。それがメリケン・システムってやつだ」
伝蔵の言葉に、亀吉の目がパァッと輝いた。
彼らは知っている。自分たちが運び出したものが単なる機械の断片ではなく、集まることで一つの巨大な生命体となる、強靭な細胞であることを。
新政府が、失われた「寸分の狂いもない精度」を取り戻すために、お雇い外国人に莫大な外貨を払い、再び数十年を費やすことになる絶望をまだ誰も知らない。
慶応四年四月二十五日、午後。
客船 第二徳衛丸の上部デッキ。
「お父ちゃん、南山って、春はあるの?」
子供が、旋盤職人の父親の服の裾を引いた。
「ああ。あっちには、これから俺たちが造り上げる、最高の春が待ってるよ」
一万人の足音が、江戸の闇を揺らす。
それは、古い国を葬る弔いの音ではなく、新しい文明が産声を上げるための、力強い足音であった。
第四部 第20話 完
最後までお付き合いいただき感謝します。
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渾身の新連載!
「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
https://ncode.syosetu.com/n7215lz/
シリーズの短編もアップしました。
「異聞 五稜郭」
https://ncode.syosetu.com/n4984mc/
宜しければこちらもどうぞ
「南山共和国建国史シリーズ」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/
ご興味がある方はご一読くださいませ。




