第七巻 資本市場 第十二回 株価
板の上の白い字がまた書き換えられた。
竇守義の行の帳場の奥の壁に、二枚の板が掛かっていた。秋の初めに、竇守義が手形の割り引きの帳場のやり方を株に当てはめて掛けさせた板だった。左の板に、売りたい者。右の板に、買いたい者。株の数と、いくらなら売るか、いくらなら買うか。
板の下にもう一枚小さな板が足されていた。
——磁邢鉄道会社。この日、売り買いの成った値。
秋の初めの受付が終わった翌週、その小さな板には十貫と書いてあった。
十日後、十貫五百文。
ひと月後、十一貫。
秋の半ばの今朝、十四貫。
帳場の前に人が集まっていた。行の客ではない者も混じっていた。小報の書き手が板の字を帳面に写していた。
翌日の小報に一行が載った。
——磁邢の株、秋の初めより、四割上がる。
◇
秋の半ばの御前廷議は、中央銀行の半年の報せの日だった。
鄭仲謙が利を五分半のまま据え置いたことを述べた。春に上げた利の後、鉄と石炭の値の上がりは少し鈍った。けれど止まってはいない。職人の賃が、磁州と相州と衛州とで上がり始めている。
報せが終わって、兵部尚書の呉承烈が手を挙げた。
「一つ、林詳定に聞きたい」
呉承烈は六十八になっていた。背はまだまっすぐだった。
「昨日の小報に、磁州の道の株が四割上がった、とあった」
呉承烈は懐から小報の紙を取り出した。
「十貫で売り出した株が、十四貫になった。——十万株だ。一株あたり四貫。四十万貫」
呉承烈は紙を畳んだ。
「磁州の会社の蔵に四十万貫が新しく入ったのか。——入ったのなら、兵部としては、あの会社に北の軍鎮への糧の車を敷いてもらう話ができる」
座の間が少しざわついた。
「入っておりません」
修平は言った。
呉承烈が眉を上げた。
「入っておらぬ、とは」
「会社に銭が入ったのは、秋の初めの十日間だけです」
修平は言った。
「十万株を十貫で売り出して、百万貫が会社に入った。——会社はその銭で、鋼の場に棒を頼み、邯鄲の土地を買い、石工に前払いをしました」
「では四割の上がりは」
「その後で、株を持つ者と欲しい者とが売り買いした、値です」
修平は言った。
「十貫で買った者が欲しい者に十四貫で譲った。——その十四貫は、買った者の懐から、売った者の懐へ移りました。会社の蔵には一文も入っていません」
呉承烈はしばらく黙っていた。
「では十四貫というのは何の値だ」
「会社の十万分の一の持分を、今いくらで譲ってもらえるか、の値です」
修平は言った。
「会社に入った銭の値でも、会社の蔵の銭の値でもありません。——持分に、今ついている売り買いの値です」
皇帝が口を開いた。
「持分についている値」
皇帝は言った。
「田にも値がつく。——豊作の年の翌年、江南の田の値は上がる。田は同じ田だ。田から取れる米も同じかもしれぬ。だが値は上がる」
「はい」
修平は言った。
「田の値が上がっても、田の持ち主の蔵に米が増えるわけではありません。——株も同じです」
呉承烈は小報を懐へ戻した。
「では兵部は糧の車の話をどこへ持っていけばよい」
「会社の董事の議へ」
修平は言った。
「会社が新しく道を敷く銭を集めたいかどうか。——そのときに、今の株の値が十四貫なら、新しい株を十貫より高く売り出せます」
呉承烈は少し笑った。
「値上がりは会社には入らぬ。だが次に銭を集めるときには効く、か」
「はい」
皇帝がもう一度口を開いた。
「逆に、株の値が十貫から六貫に下がったとする」
皇帝は言った。
「それは道が危ういということか」
修平は少し考えた。
「道が危ういと皆が見込んでいる、ということです」
修平は言った。
「本当に危ういかどうかは別です。邯鄲の南の橋が大水で崩れた、という噂が流れただけで、値は下がるかもしれない。噂が嘘だと分かれば、また戻る。——値は道そのものではなく、道を見る皆の目の映りです」
「目の映り」
皇帝はその言葉を繰り返した。
「ではその目が曇らぬようにするのは誰だ」
「会社です」
修平は言った。
「会社が帳面を正しく見せる。橋が崩れたなら崩れたと、崩れていないなら崩れていないと、会社の名で告げる。——目が曇るのは、見るものがないときです」
皇帝は頷いた。
「揚州の茶館の壁の話は、朕も聞いた」
皇帝はそれだけ言って、次の議へ移った。
◇
閻守業が開封に来たのは、その十日後だった。
竇守義の行の奥の部屋だった。修平も竇守義に呼ばれていた。
閻守業は磁邢鉄道会社の株を三千株持っていた。四十二の家の長として。
「十四貫」
閻守業は言った。
「三千株で、四万二千貫。——秋の初めには、三万貫だった」
閻守業は竇守義を見た。
「問屋の冬の鉄の買い付けに、二万貫要る。今年は鶴壁の道のおかげで、磁州の鋼の場が石を倍欲しがっておる。——その二万貫を株の値打ちで払えぬか」
「株では鉄の山の主に払えませぬ」
竇守義は言った。
「鉄の山の主が欲しいのは、銭か、預りです。磁邢の株を渡されても困るでしょう。——株を銭に替えねば」
「替える」
閻守業は言った。
「千五百株売れば、二万一千貫だ」
竇守義は少し黙った。
それから閻守業と修平とを、帳場の奥の二枚の板の前へ連れていった。
右の板。買いたい者。
——十三貫八百文。五十株。
——十三貫五百文。百二十株。
——十三貫。二百株。
——十二貫五百文。八十株。
——十二貫。三百株。
「今、買いたい者はこれだけです」
竇守義は言った。
「十四貫で買いたい者は今朝、全部買い終えました。——今、閻の旦那が千五百株を売りたいと、左の板に書けば」
竇守義は右の板の上から指で辿っていった。
「最初の五十株は、十三貫八百文で売れます。次の百二十株は、十三貫五百文。次の二百株は、十三貫。——それで三百七十株。まだ千百三十株残る。次の八十株は、十二貫五百文。次の三百株は、十二貫」
竇守義は指を止めた。
「それで七百五十株。——残りの七百五十株を買いたい者は今、この板の上にはいません」
閻守業は板を睨んでいた。
「十四貫というのは嘘か」
「嘘ではございません」
竇守義は言った。
「今朝、十四貫で売り買いが成った。——ただ、その十四貫で買いたい者は五十株分しかいなかった。千五百株を、十四貫で買う者はどこにもいない」
修平は板の字を見ていた。
「閻どの」
修平は言った。
「閻どのの三千株に、十四貫の値がついている。——それは今朝、誰かと誰かが十四貫で少しの株を売り買いした、という値です。三千株を全部今日売ったら、いくらになるか、ではありません」
閻守業は長いこと板を見ていた。
「売れば売るほど値が下がる」
「はい」
修平は言った。
「閻どのが千五百株を一度に売ろうとすれば。——閻どの自身の売りが、十四貫の値を十二貫に押し下げる」
閻守業はゆっくりと息を吐いた。
「……五百株だけ売ろう」
閻守業は言った。
「残りの一万四千貫は、行に借りる」
左の板に閻守業の名で、五百株が書かれた。
昼過ぎに、板の右に新しい買いがいくつか並んだ。夕方までに、五百株は売れた。十三貫八百文から、十三貫まで。——翌朝、小さな板の売り買いの成った値は、十三貫になっていた。
その翌日の小報にまた一行が載った。
——磁邢の董事の長、株を売る。
閻守業はその小報を握りしめて、竇守義の行に来た。
「わしは道を見限ったのではない」
閻守業は言った。顔が赤かった。
「鉄の買い付けの銭が要っただけだ。——それを董事の長が株を売った、と書けば、読んだ者は道が危ういと思う」
「思います」
修平は言った。
「董事の長は道のことを誰よりもよく知っている者です。その者が売った。——読んだ者が、何か悪い報せを董事の長だけが先に知っているのではないかと、思うのは無理もありません」
閻守業は小報を卓の上に叩きつけた。
「では董事は株を売ってはならぬのか」
「売っていいと思います」
修平は言った。
「ただ、董事が売るときには、いつ、何株、何のために売ったかを董事の名で先に告げておく方がいい。——黙って売れば、噂が理由を作ります」
閻守業はしばらく黙っていた。
「……会社の法にはそんなことは書いておらぬ」
「書いていません」
修平は言った。
「書くべきかどうか考えます」
閻守業は小報を拾い上げて畳んだ。
十三貫の値はその週のうちに、十三貫五百文に戻った。
◇
竇守義が閻守業に一つ案を出した。
「株を質に取りましょう」
竇守義は言った。
「閻の旦那の残りの二千五百株を、行が預かる。その値打ちの半分まで貸す。十三貫なら、一株、六貫五百文。二千五百株で、一万六千貫あまり。——一万四千貫なら足ります」
閻守業は頷きかけた。
修平は竇守義を見た。
「株の値が下がったら」
「下がったら」
竇守義は言った。
「質の値打ちが減ります。十三貫が八貫になれば、二千五百株の値打ちは、二万貫。その半分は、一万貫。——貸した一万四千貫に足りない」
「そのときは」
「閻の旦那に足りない分を、何か別の質で足してもらう。足せなければ、行が預かった株を売る」
竇守義はそう言ってから少し黙った。
自分で言ったことを、もう一度頭の中で辿っているような顔だった。
「……株を売れば、また値が下がる」
竇守義は言った。
修平は何も言わなかった。
竇守義は元は両替の店の番頭だった。二十四年前、永豊櫃坊が潰れた秋の取り付けの三日間を、まだ若い手代として主の脇で銭を数えて耐えた男だった。持ち物の値が下がりかけたとき、皆が一度にそれを売れば、何が起きるかを知っていた。
「半分ではなく」
竇守義は言った。
「値打ちの四割までにしましょう。——それに閻の旦那の問屋の蔵の鉄も質に足していただく」
閻守業は苦笑した。
「厳しいな」
「永豊櫃坊の主はあの冬に死にました」
竇守義は言った。
閻守業はそれ以上何も言わなかった。
閻守業が帰った後、修平は竇守義と二人で帳場の奥に残った。
「株を質に取る話は、閻の旦那だけではありませぬ」
竇守義は言った。
「この半月で四人来ました。磁邢の株を質に、銭を貸してくれ、と。——四人とも借りた銭で何を買うつもりか、聞きました」
「何を」
「三人は商いの仕入れ。一人は」
竇守義は少し言い淀んだ。
「磁邢の株をもっと買いたい、と」
修平は黙った。
「株を質に、銭を借りて、その銭でまた株を買う。——株の値が上がれば、質の値打ちが増えて、また借りられる」
竇守義は板の方を見た。
「断りました。今はまだ。——ただ、開封の行はうちだけではありませぬ」
「鄭どのに話しておいてください」
修平は言った。
「中央銀行の行を検める者たちに。株を質に、いくらまで貸しているか。何のために貸しているか。——数えておかねば分からなくなります」
竇守義は頷いた。
◇
その晩、修平は戸部の葉正言の部屋に呼ばれた。
葉正言は小報のあの一行の載った紙を卓の上に置いていた。
「戸部の中で話が出た」
葉正言は言った。
「磁邢の株が四割上がって、十万株で四十万貫。——国中で四十万貫の銭が生まれたのか、と。物の値に響くのではないか、と」
「生まれていません」
修平は言った。
「十四貫の値がついて、株を持つ八千三百人の帳面の上の持ち物の値打ちは増えました。——けれどそれは、銭が新しく刷られたのでも、行の預りが新しく生まれたのでもありません」
修平は葉正言の卓の上の紙を一枚借りた。
——株。会社の持分という持ち物。
——株の値。その持ち物に、今ついている売り買いの値。
——銭と預り。そのまま払いに使える持ち物。
「十二年前、この部屋の隣の詰所で孟どのに申し上げました」
修平は言った。
「持ち物があることと、今日払えることは同じではない。——閻どのは今日、それを竇どのの行の板の前で知りました。四万二千貫の値打ちの株を持っていても、鉄の山の主には払えない。払うには売らねばならない。売れば値が下がる」
葉正言は黙って聞いていた。
「値が上がって帳面の値打ちが増えても、銭が生まれたのではありません」
修平は言った。
「逆に明日、株の値が八貫に下がって、帳面の値打ちが減っても。——八千三百人の蔵から銭が焼けて消えるのでもありません」
「では株の値など幻か」
葉正言は言った。
「幻でもありません」
修平は言った。
「閻どのは株を質にして、行から一万四千貫を借りられました。株の値が十四貫でなく、八貫なら借りられなかった。——株の値が上がれば、質の値打ちが増える。行から借りやすくなる。借りた銭で鉄が買われ、人が雇われる」
修平は紙に一行足した。
「それに株を持つ者の気持ちが変わります。四割、持ち物が増えたと思えば、財布の紐を少し緩めるかもしれない。会社は次に株を売り出すとき、高く売れる」
「逆もある」
「逆もあります」
修平は言った。
「値が下がれば、質の値打ちが減り、行は貸し渋る。株を持つ者は紐を締める。会社は次の株を売り出せなくなる」
葉正言は紙を長いこと見ていた。
「株の値は銭ではない。だが銭の巡りに手を突っ込んでくる」
「はい」
修平は言った。
「株の値は、これから会社が稼ぐと皆が見込む儲けと、その危うさとを、今の値に映したものです。——幻でも銭でもありません。そのあいだの何か、です」
◇
東水門の外の紡ぐ場の昼の休みに、何四娘が帳場の脇で娘たちに囲まれていた。
修平は紡ぐ場の機械の音の帳面を見に来ていた。
「女頭の株が二十八貫になったって」
娘の一人が言った。
「二十貫で買ったのに。八貫も儲かったのね」
何四娘は首を振った。
「儲かっちゃいないよ」
何四娘は言った。
「竇どのの行の板の上で、今朝、誰かが十四貫で少し売り買いした。——それだけさ。私の株は行の帳面の中に二つあるだけ。二十八貫の銭が私の財布に入ったわけじゃない」
何四娘は懐から財布を出して振ってみせた。小銭の音が少しした。
「今日の米は、この財布の銭で買う。株で米は買えない」
娘たちが笑った。
何四娘は財布を懐にしまった。
修平の方をちらりと見た。修平が会釈をすると、何四娘は少しだけ口の端を上げた。
「でもね」
何四娘は娘たちに言った。
「二十八貫の値がついてるっていうのは、悪い気はしないね」
娘たちがまた笑った。
機械の建屋から休みの終わりの鐘が鳴った。




