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第七巻 資本市場 第十一回 取引市場

 孫は三日、熱が下がらなかった。


 牛把頭は坑口の脇の長屋の狭い部屋の隅に座っていた。部屋の真ん中に孫が寝かされていた。四つになる男の子だった。額に濡らした布が載っていた。嫁がその布を何度も替えていた。


 鶴壁の坑口の周りの家は、この二年で倍になった。井戸は増えなかった。去年の夏に腹を下す病が広がった。今年は熱の病だった。坑口の村の医者は一人しかいなかった。その医者が三日前に首を振った。


「相州の城の薬の店の医者を呼べ」


 医者は言った。


「あそこの医者なら、この熱に効く薬を持っておる。——ただ、呼ぶには銭が要る」


 十五貫、と医者は言った。医者の往き来の車の代と、薬の代と。


 牛把頭は坑夫頭を二十五年あまりやってきた。坑の底で燃える気を見つけ、旧い坑の水を錐で確かめ、鉄の網の灯を坑夫の一人一人に持たせてきた。俸は坑夫頭の中では悪くなかった。


 けれど蓄えはひと月前に使っていた。


 磁州から邢州への道の株を二つ。二十貫。


 牛把頭は部屋の隅の行李の中から、紙を一枚取り出した。相州の行で爪印と引き換えに受け取った預りの書き付けだった。——磁邢鉄道会社の株、二株。持ち主、牛某。


 牛把頭は字が読めなかった。株の書き付けの自分の名の字だけは、坑冶寺の喬仲堅に教わって覚えていた。


「返してもらう」


 牛把頭は嫁に言った。


「磁州の会社に行って、二十貫を返してもらう」


  ◇


 鶴壁から磁州まで車で半日だった。


 この春まで荷車で二日の道だった。牛把頭は、その道の切り通しの岩を砕く粘土の棒の蔵の帳面を、坑の蔵と同じやり方で付けさせた男の一人だった。


 磁州の会社の建物は閻守業の問屋の隣にあった。


 帳場の奥から痩せた男が出てきた。日に焼けて、目の下に深い皺があった。


「掌事の晏崇礼です」


 男は言った。


「牛把頭どの。——衛州の学びの場で、坑から来た者たちの区間の札の教えを私がしました。牛把頭どのの組の者もいた」


 牛把頭は書き付けを晏崇礼の前に置いた。


「孫が熱を出した」


 牛把頭は言った。


「相州の医者を呼ぶのに、十五貫要る。——この株を返す。二十貫を返してくれ」


 晏崇礼は書き付けを手に取った。


 しばらく黙っていた。


 それから帳場の脇の棚から紙の束を一つ取り出して、牛把頭の前に広げた。


「これが牛把頭どのの二十貫です」


 晏崇礼は言った。


「鋼の場への棒の注文。邯鄲の南の土地の代。橋の石を切る石工の組への前払い。——会社に入った百万貫は、ひと月で半分がもうここになっています」


 牛把頭は紙を見た。読めなかった。


「会社の蔵には二十貫を返す銭がないのか」


「あります」


 晏崇礼は言った。


「今日、牛把頭どのに二十貫を返すことはできます。——けれど明日、別の人が同じように来ます。その次の日も。八千三百人のうち、一人でも返せと言えば返さねばならないなら、会社は蔵に百万貫を寝かせておかねばならない。寝かせた銭では棒は敷けません」


 晏崇礼は書き付けを牛把頭の前に戻した。


「会社の法にそう書いてあります。株は会社に貸した銭ではない。会社は元を返す約束をしていない」


 牛把頭は書き付けを見下ろしていた。


「……告げ書の十二枚目に書いてあったと、相州の行の手代が読んでくれた」


 牛把頭は言った。


「読んでもらったときは分かった気がした」


 牛把頭の太い指が書き付けの端を握っていた。


 晏崇礼はしばらくその指を見ていた。


「会社は返せません」


 晏崇礼は言った。


「けれど牛把頭どのの株を欲しがっている者はいます」


  ◇


 相州の民の行の帳場は夕方で混んでいた。


 ひと月前、磁邢鉄道会社の株の受付をした行の一つだった。晏崇礼は牛把頭をそこまで車で連れてきた。磁州から相州まで、車で一刻あまり。


 行の手代は晏崇礼の話を聞くと、奥の帳面を一冊持ってきた。


 株の申し込みの帳面だった。


「十株を超える申し込みは、申し込んだ数の割合でしか買えなかった」


 手代は言った。


「百株を申し込んで、五十三株しか買えなかった家が相州に何軒もあります。——その家の手代が今でも、残りの四十七株をどこかで譲ってもらえないかと、うちの行に聞きに来る」


 手代は帳面のある頁を指でなぞった。


「この家です。相州の石炭の問屋。明日の朝、手代が預りを下ろしに来る」


 翌朝、行の帳場の奥の小さな卓で、二人は向かい合った。


 牛把頭と、石炭の問屋の若い手代。


 手代は牛把頭の太い指を見ていた。石炭の問屋の手代なら、鶴壁の坑夫頭の名は知っていた。


「二株」


 手代は言った。


「一株、十貫五百文でいかがでしょう」


 行の手代が脇で少し眉を上げた。


 牛把頭は書き付けを握ったまま黙っていた。


 牛把頭は商いをしたことがなかった。坑の中で石炭を掘ってきた。掘った石炭をいくらで売るかは、問屋が決めた。


「……わしが買ったのは、十貫だった」


 牛把頭は言った。


「十貫でいい。二十貫で、二株持っていけ」


 石炭の問屋の手代が少し驚いた顔をした。


 晏崇礼が口を開いた。


「牛把頭どの」


 晏崇礼は言った。


「この手代の主は百株を欲しかったのに、五十三株しか持てなかった。——十貫五百文でも欲しいと言っている。十一貫でも欲しいかもしれない」


 牛把頭は晏崇礼を見た。


「わしの株が十一貫になったのか」


「牛把頭どのの株は同じ株です」


 晏崇礼は言った。


「株の値打ちをひと月前より高く見る者がいる。——それだけです」


 石炭の問屋の手代は少し苦笑した。


「十一貫」


 手代は言った。


「それで手を打ちます。——主に叱られぬ、ぎりぎりです」


  ◇


 行の手代が二枚の紙を書いた。


 一枚目は、石炭の問屋の行の預りから、二十二貫を牛把頭の名の新しい預りの口へ移す書き付け。行の手間の代、二百文を牛把頭の方から引く。


 二枚目は、磁邢鉄道会社への書き付け。株、二株。持ち主を牛某から、相州の石炭の問屋の主へ書き換える。


 二枚目の書き付けは晏崇礼が持って帰った。


 その日の午後、磁州の会社の建物の帳場で、修平は晏崇礼の脇に立っていた。


 車の工場の縄張りを見に来ていた。帰りがけに会社の建物に寄った。


 監事が株を持つ者の名の帳面を開いていた。相州の頁。牛把頭の名。爪印。


 監事は牛把頭の名の上に、朱で一本の線を引いた。


 その脇に相州の石炭の問屋の主の名を書いた。株、二株。書き換えの日付。相州の行の手代の書き付けの番号。


「これで牛把頭どのは、この道の持ち主ではなくなりました」


 晏崇礼が言った。


「石炭の問屋の主が持ち主になった」


 修平は名の帳面の朱の線を見ていた。


「会社には何が起きましたか」


 修平は問うた。


 晏崇礼は少し考えた。


「何も」


 晏崇礼は言った。


「会社の預りの口には一文も入っていない。一文も出ていない。——名の帳面の一行が書き換わっただけです」


「牛把頭どのには」


「株が二株なくなった。預りが二十一貫八百文増えた」


「石炭の問屋には」


「預りが二十二貫減った。株が二株増えた」


 修平は紙に書いた。


 ——買った者。預りが減り、株が増える。


 ——売った者。株が減り、預りが増える。


 ——会社。何も入らない。何も出ない。


「秋の初めの十日間は違いました」


 修平は言った。


「株を買った八千三百人の預りは、会社の口に入った。——会社が新しい株を売り出した。会社に銭が入った。それが一つ目の市です」


 修平は紙にもう一行書いた。


「今日の相州の行の小さな卓の上で起きたのは、二つ目の市です。——会社が株を新しく出すのではない。もう出ている株を、持っている者と欲しい者とが売り買いする。銭は会社を通らず、買った者から売った者へまっすぐ移る」


  ◇


 監事が名の帳面を閉じた。


「一つ聞いておきたい」


 監事は言った。


「牛把頭は十貫で買った株を、十一貫で売った。二株で、二貫儲けた。——その二貫はどこから来た。誰かが損をしたのか」


「石炭の問屋は一株十一貫を払って、株を二株手に入れました」


 修平は言った。


「石炭の問屋はその株に十一貫の値打ちがあると見ていた。いや、十一貫より値打ちがあると見ていた。——だから払った。損をしたとは思っていません」


「では誰も損をしておらぬのか」


「今日のところは」


 修平は言った。


「牛把頭どのは、十貫が十一貫になった。その儲けは売ったことで手に入りました。——売らなければ、帳面の上の十一貫の値打ちがついた株を持っているだけでした」


 修平は少し言葉を切った。


「そして石炭の問屋の二株は明日、九貫になるかもしれない。十五貫になるかもしれない。——それは石炭の問屋が自分で引き受けた」


 監事は頷いた。


「売り買いで銭が増えたのではない」


「増えていません」


 修平は言った。


「石炭の問屋の預りが牛把頭どのの預りへ移っただけです。相州の行の預りの総額は、行の手間の代の二百文を除けば、変わっていない」


 修平はそこで少しためらった。


「ただ」


 修平は言った。


「石炭の問屋が手元の預りではなく、行から新しく二十二貫を借りて、株を買っていたら。——行が貸した分だけ、行の帳面に新しい預りが生まれます。十二年前に戸部の詰所で話した、行の貸付と預りの話と同じです」


 監事は少し眉を寄せた。


「株の売り買いが銭の量を増やすこともある、と」


「借りて買えば。——それはまた別の日に議さねばなりません」


  ◇


 晏崇礼が帳場の窓の外を見ていた。


「林どの」


 晏崇礼は言った。


「今日のことは会社には一文も入らなかった。——それでも、会社にとってよいことだったのでしょうか」


 修平は少し考えた。


「秋の初めに、紡ぐ場の女頭が二株申し込みました」


 修平は言った。


「あの人は十貫を二つ、道に入れた。——二年、分け前はない。道は二十年走る。その間に、あの人が病になるかもしれない。娘を嫁に出すかもしれない」


 修平は窓の外の会社の看板を見た。


「そのときに、株を誰かに売れる。——会社は返さない。けれど欲しい者がいれば、その者に売れる。そう分かっていれば、あの人は二株を申し込める。分かっていなければ、申し込まなかったかもしれません」


 晏崇礼は黙って聞いていた。


「二つ目の市は会社に銭を入れません」


 修平は言った。


「けれど二つ目の市があるから、一つ目の市で人が株を買う。——売れると分かっている物だから、買える」


 晏崇礼はゆっくりと頷いた。


「米と同じですか」


 晏崇礼は言った。


「市で米を買う者と売る者とが、値と量で折り合えば、米が動く。——今日の相州の行の卓の上もそうでした。株を二つ。十一貫で」


「売り買いの形だけを見るなら、株もまず一つの品物と考えていいのです」


 修平は言った。


「欲しい者と売りたい者がいて、値と量とが合えば、売り買いが成り立つ。——ただ、株は米のように食べてなくなるものではありません。道の十万分の一の持分です。分け前を受け取る権と、畳むときの残りを受け取る権と、会で票を入れる権とを束ねたものです。品物だと思って買えば、その束の中身を読まずに済ませてしまう」


 晏崇礼は少し笑った。


「十二枚目を」


「はい」


 晏崇礼はしばらく窓の外を見ていた。


「今日は運がよかった」


 晏崇礼は言った。


「相州の行に申し込みの帳面が残っていた。百株を申し込んで、五十三株しか持てなかった家がたまたま相州にいた。——牛把頭どのが邢州の人で、邢州の行にそういう帳面がなかったら。買い手を探すのに、ひと月かかったかもしれない。孫の熱は待ってくれない」


「はい」


 修平は言った。


「売りたい者と買いたい者とが、互いを見つけられる場所が要ります」


 修平は開封の竇守義の行のことを話した。


 秋の初めの受付が終わってから、竇守義の行の帳場の奥の壁に、二枚の板が掛けられた。一枚には、磁邢鉄道会社の株を売りたい者の名と、株の数と、いくらなら売るか。もう一枚には、買いたい者の名と、株の数と、いくらなら買うか。——竇守義の番頭の頃からの手形の割り引きの帳場のやり方を、株に当てはめたものだった。


「板を見て値が合えば、竇どのの行の手代が両方を呼ぶ。——行は手間の代を両方から少しずつ取る」


 晏崇礼が少し身を乗り出した。


「開封に板があるのなら」


「揚州にも、茶館に同じようなものができかけています。通済の会社の株と証文の」


 修平は言った。


「今は開封の板と、揚州の茶館と、相州の行の帳面とがばらばらです。同じ磁邢の株が、開封では十一貫、相州では十貫五百文、ということも起きる。——いずれ一つに束ねねばなりません」


 晏崇礼は黙って頷いた。


 駅の吏を十五年やった男だった。ばらばらの駅の割符を一つの決まりに束ねることの難しさを知っている顔だった。


  ◇


 牛把頭は相州の城の薬の店の前で、医者を待っていた。


 懐に預りの書き付けが入っていた。二十一貫八百文。医者の往き来の車の代と、薬の代と、十五貫を払っても、六貫あまりが残る。


 医者が店から薬の箱を抱えて出てきた。


 二人は相州の駅から鶴壁への車に乗った。


 車の窓の外を夕方の野が流れていった。二本の棒と電信の柱とが並んで北へ延びていた。


 牛把頭は窓の外を見ていた。


 この道の北の端の磁州の鋼の場の、さらに北へまた道が延びる。邢州まで。その道の十万分の二を、牛把頭はひと月だけ持っていた。


 今は持っていない。


 持っていたひと月の間に、株は一貫ずつ値打ちを増していた。牛把頭は何もしていなかった。坑の底でいつもどおり石炭を掘っていた。


 牛把頭はそのことが少し不思議だった。


 車の揺れの中で、医者が薬の箱を膝に抱え直した。


  ◇


 孫の熱が下がったのは、医者が来て四日目の朝だった。


 嫁が濡らした布を額から外した。孫は薄い粥を半分食べた。


 牛把頭は坑へ出る前に、部屋の隅の行李を開けた。


 株の預りの書き付けはもうなかった。代わりに、相州の行の預りの書き付けが一枚入っていた。六貫と八百文。


 牛把頭はその紙をしばらく見ていた。


 それから行李を閉じた。


 坑口の脇の井戸の前に、朝の水を汲む女たちが並んでいた。列は去年より長かった。

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