第七巻 資本市場 第六回 有限責任
訴えの書き付けは、紐で三重に括られていた。
刑部の奥の書庫だった。賈知節が棚の一番上からそれを下ろして、卓の上に置いた。紙の端が黄ばんで、鼠に齧られた跡があった。
「八年前の泉州の件だ」
賈知節は紐を解いた。
「海の商人の合本。十四の家が銭を出し合って、船を一艘、南の海へ出した。——船は戻らなかった。嵐か、海の賊か、分からぬ。積み荷を買うために、合本は泉州の両替の店から三千貫借りていた」
賈知節は書き付けの一枚目を修平の前に滑らせた。
「十四の家のうち大きな家は三つ。三つの家は、泉州の外に田と蔵を持っていた。——両替の店が取り立てに来る前に、田を親類の名に書き換えた」
修平は書き付けを読んだ。
「残りの十一の家は」
「小さな家だ」
賈知節は言った。
「そのうちの一つが、茶の小商人の申阿四という男だった。合本に二十貫出していた。——茶の店を十年やって、ようやく貯めた二十貫だ。船が戻れば倍になると聞いて」
賈知節は二枚目の書き付けをめくった。
「両替の店は、三千貫を取れるところから取った。大きな三つの家の田は、もう親類の名になっていた。——取れるところは、小さな十一の家の蔵と店と家だった」
修平は紙の上の申阿四という名を見ていた。
「申阿四は二十貫を出した。失ったのは、茶の店と家と娘の嫁入りの支度」
賈知節は書き付けを閉じた。
「刑部はその取り立てを止められなかった。合本の借りは、合本に出し合った者全員の借り。——今の扱いではそうなる。大きな家が田を隠したのを暴くのに、二年かかった。暴いたときには、申阿四の家はもう人手に渡っていた」
賈知節は書き付けにまた紐を掛けた。
「林詳定。株を十貫で国中の民に売ると言う。——十貫の株を一つ買った職人が、申阿四にならぬと、誰が言える」
◇
春の終わりの刑部の広間に人が集まったのは、その三日後だった。
刑部から賈知節と侍郎が一人。戸部から孟季常。太府寺から范汝舟。中央銀行から鄭仲謙。工部から員外郎が一人。それに、磁州から閻守業が呼ばれて来ていた。揚州の邱承緒は来られなかった。代わりに手紙を寄越していた。
修平は広間の正面の壁に紙を貼った。
年の暮れに、詳定官の詰所の壁に貼った紙の写しだった。一番下の一行を朱で囲ってあった。
——潰れて借りを返しきれぬとき、出し合った者はどこまで負うか。
「今日はこの一行を決めます」
修平は言った。
「今の扱いでは、どこまでも、です。出し合った者は、組の借りを自分の家の蔵で負う。組が返しきれなければ、出し合った者の田と店と家まで」
修平は賈知節の方を見た。
「泉州の申阿四の件を、賈どのから聞きました」
賈知節は黙って頷いた。
「この扱いのままで、鉄の道の株を十貫で売れば」
修平は言った。
「二つのことが起きます。一つは、誰も買わない。十貫の株を一つ買うのに、家を賭ける者はいません。——もう一つは、買った者が道の帳面を毎日見に行かねばならなくなる。自分の家が道のしくじりに繋がっているのですから。十万の手が毎日、駅に来て帳面を見せろと言う」
閻守業が少し笑った。
「それは困る」
「困ります」
修平は言った。
修平は朱で囲った一行の下に、新しい一行を書いた。
——株を持つ者は、株に払った額を限りとして負う。
「株を十貫で買った者は、道が潰れたとき、十貫を失う。——それ以上は失わない。家の蔵にも田にも店にも、道の借りは取り立てに行かない」
広間が静かになった。
「私の国ではこれを、有限の責め、と呼びました」
修平は言った。
「負う責めに限りがある。——限りは自分が出した額」
◇
孟季常が口を開いた。
「それは、道に銭を貸した者から見れば、どうなる」
孟季常は言った。
「竇どのの行が、道に二十万貫、貸したとする。道が潰れた。棒と車を売っても、五万貫にしかならぬ。——今の扱いなら、残りの十五万貫は、道を出し合った者たちの蔵から取れる。有限の責めなら取れぬ。行が十五万貫をかぶる」
「かぶります」
修平は言った。
「それは、株を持つ者が負わずに済んだ損を、貸した者に押し付けることではないのか」
孟季常の声は落ち着いていた。けれど、問いは鋭かった。
鄭仲謙が腕を組んだ。
「行の側から言えば、孟君の言うとおりだ」
鄭仲謙は言った。
「今までは、行が合本や組に貸すとき、組の帳面だけでなく、組に出し合った家の蔵を見て貸した。泉州の三つの大きな家が組に入っているなら、貸してもよい、と。——有限の責めになれば、その家の蔵はもう当てにできぬ」
「当てにできません」
修平は言った。
「では、行は何を見て貸すのか」
修平は少し間を置いた。
「会社、そのものを」
修平は言った。
「道の棒と車と駅。道が一年にいくら稼ぐか。今、いくら借りているか。元手がどれだけ厚いか。——出し合った者の家の蔵ではなく、会社の帳面を見て貸す」
鄭仲謙はしばらく黙っていた。
「そのためには、会社の帳面が正しくなければならぬ」
「はい」
「正しいと、誰が請け合う」
修平は頷いた。
「それを決めねばなりません。——有限の責めを法に書けば、次に、帳面を外に見せる決まりと、帳面を外から検める者とが要ります。有限の責めだけを決めて、帳面の決まりを決めなければ、行は会社に貸さなくなる」
鄭仲謙はゆっくりと頷いた。
「会社の帳面が見えぬのなら、行は会社に貸さぬ。——見えるなら貸す」
范汝舟が帳面に書きつけた。
——有限の責め。貸す者は会社の帳面を見る。帳面の決まり、要る。
◇
閻守業が手を挙げた。
「もう一つ、行でない貸し手がいる」
閻守業は言った。
「私は鉄の問屋だ。道の会社に棒の鉄を納める。代銀はふた月後に受け取る約束で。——そのふた月の間に道が潰れたら、私の代銀はどうなる」
「行の貸しと同じです」
修平は言った。
「会社の借りの一つです。会社の持ち物から順に返します。株を持つ者より先に」
「先に、でも、返しきれなければ」
「かぶります」
閻守業は少し顔をしかめた。
「行は大きい。十五万貫をかぶっても、倒れぬかもしれぬ。——磁州の小さな鍛冶が、道の会社に枕の木を留める鉄の釘を、千貫納めていたら。その鍛冶は倒れる」
修平はすぐには答えなかった。
閻守業の言うことは正しかった。
「……だから、会社と組とを、名で分けます」
修平は言った。
「有限の責めを負う者たちは、会社、と名乗る。今までどおり、出し合った者が家の蔵まで負う者たちは、組、と名乗る。——看板に書く。証文にも書く。鍛冶が釘を納める前に、相手が会社か組かを、見て分かるように」
「会社と取引をする者は、会社の帳面を見て決める」
「はい。組と取引をする者は、今までどおり組の家々の蔵を見て決める」
修平は紙に書いた。
——会社と名乗る者は、有限の責め。組と名乗る者は、今までどおり。看板と証文に、どちらかを書く。
「それに、会社には元手の下限を定めます」
修平は言った。
「百万貫の道を、元手一万貫と借り九十九万貫とで敷くことは、許さない。——元手が薄すぎる会社は、潰れたとき、貸した者と納めた者とに損を押し付けすぎる」
鄭仲謙が少し笑った。
「銀行の元手の下限と同じだ」
「はい」
修平は言った。
「十年あまり前、銀行について決めたことです」
工部から来た員外郎が、そこで口を挟んだ。年の暮れに、詳定官の詰所で工部の五万貫は工部の蔵へ行くのかと、問うた男だった。
「磁州の機械の工場は、工部が五万貫を出しております」
員外郎は言った。
「あの工場が会社になれば、工部も有限の責めか」
「はい」
修平は言った。
「工部が株を持つなら、工部も株を持つ者の一人です。出した五万貫を限りとして負う。——工場が潰れても、工部の蔵へ取り立ては行かない」
員外郎は少し安堵したような顔をした。
「その代わり」
修平は言った。
「工部だから、他の株を持つ者より先に返してもらえる、ということもありません。工部の五万貫も、十一の家の七万貫と同じ欄に載る。——官が持つ株だけ損をしない、という決まりを作れば、民の株を持つ者が、その分損をかぶります」
員外郎は頷いた。
葉正言がここにいれば、何と言うか。修平は少しそれを思った。国が負うべき道と、負わなくてよい道。——国が株を持つ道は、その間のどこかにある。
鄭仲謙が卓の上の一通の手紙を手に取った。
「揚州の邱どのからだ」
鄭仲謙は言った。
「組は会社になりたい、と。——新しい四隻が夏に揃う。舟が六隻になれば、組の七つの家の蔵だけでは、何かあったときに背負いきれぬ。有限の責めの法ができたら、すぐに会社と名乗りたい」
鄭仲謙は手紙の後半を読み上げた。
「ただ、一つ案じておる。組が会社になれば、春に刷った四百枚の証文はどうなるのか。証文を買った者たちは、組の七つの家の蔵を当てにして買ったのではないか。——茶館で、証文を持つ寡婦にそう問われた、と」
修平は少し考えた。
「証文を持つ者は、組に貸した者です」
修平は言った。
「組が会社になっても、貸した約束はそのまま会社が引き継ぐ。——ただ、証文を買ったときの約束は、組の七つの家が蔵まで負う、という前提だった。その前提を後から変えることになる」
「変えてよいのか」
「証文を持つ者の許しが要ると思います」
修平は言った。
「会社になるなら、春の証文は今、会社になる前の条件で返すか。それとも、証文を持つ者に、会社になった後の条件で持ち続けるかを選ばせるか。——貸した後から、貸した者に黙って、借り手が責めを軽くしてはなりません」
賈知節が頷いた。
「それも法に書いてくれ」
賈知節は言った。
「刑部に来る訴えは、たいていそういう途中で形が変わった借りの話だ」
◇
賈知節が静かに口を開いた。
「刑部として、一つだけ言うておく」
賈知節は言った。
「泉州の件で、刑部が一番悔しかったのは、何だと思う」
修平は賈知節を見た。
「大きな三つの家が、田を親類の名に書き換えたことだ」
賈知節は言った。
「有限の責めを法に書く。——それはよい。申阿四のような者を救う。だが、有限の責めを盾にして、会社の持ち物を自分の家へ移す者が、必ず出る。道の会社の蔵の銭を、自分の家の蔵へ夜のうちに移しておいて、会社を潰す。会社の借りは有限。家の蔵には手が届かぬ。——そういう者を、刑部はどう裁けばよい」
広間が静まった。
「有限の責めは、欺く者には及びません」
修平は言った。
「会社の持ち物を隠した者。移した者。——出したと言って、出していなかった者。十貫を払ったと帳面に書いて、払っていなかった者。わざと決まりに背いて、会社に損をさせた者」
修平は紙に一行ずつ書いた。
——会社の持ち物を隠し、移した者。
——出したと偽って、出さなかった者。
——帳面を偽った者。
——わざと法に背いて、会社と貸し手とに損をさせた者。
「こういう者には、有限の責めの限りはありません」
修平は言った。
「移したものを取り戻し、偽った分を家の蔵から償わせる。——罪は別に裁く」
賈知節は紙を長いこと見ていた。
「限りのある責めと、限りのない責めとを分ける線」
賈知節は言った。
「その線を刑部が引く」
「はい」
「線の手前でしくじった者は、出した額を失って終わる。線を越えて欺いた者は、家の蔵まで」
賈知節は頷いた。
「それなら、刑部は受ける」
◇
戸部から葉正言が遅れて広間に来た。
葉正言は広間の隅の椅子に座り、壁の紙を黙って読んでいた。
話が一段落したところで、葉正言は口を開いた。
「民はこれをどう聞くかな」
葉正言は言った。
「株を買っても、出した額しか失わぬ。——町の者はそこだけを聞く。茶館で小報の書き手がそう書く。株は損をせぬ、とまでは書かぬかもしれぬ。だが家は失わぬ、と書けば、読む者の半分は、株は安全だ、と読む」
葉正言は修平を見た。
「わが祖父の代に、戸部は、会子は官が請け合う、と言うた。官が請け合うのは、会子の交換の手続きだった。値ではなかった。——町の者は、値を請け合ったと読んだ」
修平は頷いた。
「有限の責めは、損をしない権ではありません」
修平は言った。
「十貫の株を買った者は、十貫全部を失うことがある。——道が潰れれば、十貫は戻らない。有限の責めが約束するのは、十貫より多くは失わない、ということだけです」
修平は壁の紙の一番下に書いた。
——有限の責めとは、損をしない権ではない。損の上限を先に決めておく決まりである。
「これを株の札の裏に刷ります」
修平は言った。
「揚州の組の証文の裏に、組が倒れたときの返す順を刷ったように。——株の札の裏には、これを」
葉正言はしばらくその一行を見ていた。
「読まぬ者もいるぞ」
「います」
修平は言った。
「揚州で証文を買った四百人のうち、裏を読んだ者が何人いたか、私には分かりません。——ただ、一人は読んで、自分で選んでいました」
葉正言は少し笑った。
「一人か」
「一人です」
修平は言った。
「刷らなければ、その一人もいませんでした」
◇
広間を出た後、閻守業が修平に並んだ。
刑部の門の脇の柳の下だった。春の終わりの柳の綿が、風に舞っていた。
「林どの」
閻守業は言った。
「私は四十年、問屋をやってきた。問屋が傾けば、私の家が傾く。私の家が傾けば、問屋を支える。——店と家とは一つだった」
閻守業は柳の綿を手で払った。
「今日、会社という名の別の家ができた。私の家とは別の家が」
「はい」
「会社の家が潰れても、私の家は潰れぬ。——私の家が潰れても、会社の家は潰れぬ」
閻守業は修平を見た。
「そういうことだな」
「そういうことです」
修平は言った。
「会社は、閻どのの家とも、十万の手のどの家とも、別の一つの家になります。自分の名で持ち物を持ち、自分の名で借り、自分の名で訴え、訴えられる。——それを、次に法に書きます」
閻守業は長いこと黙っていた。
「四十年、問屋の看板を掛けてきた」
閻守業は言った。
「会社の看板は誰が掛ける」
修平は答えなかった。
閻守業も答えを待たなかった。柳の下をゆっくりと宿の方へ歩いていった。




