第一巻 覚醒 第八回 李徳彰による尋問
左丞相・李徳彰は、命令書を受け取ってから二十日あまりのあいだ、林修平という名の進士を一度も呼ばなかった。
呼ぶ前に、知っておくべきことが多すぎた。
最初の十数日で、吏部の胡敬之が、江南西路から急ぎの駅便で取り寄せた記録の写しを届けてきた。
泰和県の籍の記録。到着の時期、保護者の名、居住の場所、働いている家、学んでいる私塾、納めている税。保護者・呉守田、耆長・曾某、近隣の農家数名の証言。四年目の春に正式に籍へ編まれたこと。出自の申し立ては「東方の海の向こう、日本という国」とされ、その所在は確かめようがないとして留保されていること。
吉州の解試の記録。受験の願い、保証人の名、師・徐文礼の推薦状。
李徳彰は、その推薦状を、二度読んだ。
この者、来住の初めは言葉通ぜず、字は知れども文を知らず。四年にして経書を読み、論策を書くに至る。詩賦は拙し。算術と数の論は、師たる私の及ぶところにあらず。人となりは実直にして、恩を知り、己の分を越えず。保護者の家に損を負わせぬことを常に心にかけ、筆写と算術の手伝いにて自らの学費を賄う。
簡潔な文だった。褒めすぎてもいなかった。詩賦は拙し、と書いている。
李徳彰は、推薦状を卓に置き、別の記録を手に取った。
泰和県の主簿が、到着の年に書き留めた最初の聞き取りの写しだった。
答えの欄に、ひどく不格好な字が並んでいた。日本。東。海。一月前。学。父母在遠。
毛筆を初めて持った者の字だ、と李徳彰は思った。
その字を書いた者が、五年後、殿試で、あの答案を書いた。
◇
その間に、李徳彰は、礼部尚書・孫伯庸を都堂の一室に招いた。
「読巻の場で、この答案を推されたのは、尚書だと聞いております」
「推したのではない」
孫伯庸は、茶碗を置いた。
「順位は、文章で決めるべきだと申し上げた。第三甲が相応だ。ただ、中身を陛下のお目に入れるべきだと上申した。それだけのことだ」
「その中身について、尚書のお考えを伺いたい」
孫伯庸は、しばらく黙っていた。
「丞相は、交子の起こりをご存じか」
「四川の商人が、鉄銭の重さに困り、預り証を銭の代わりに使い始めた。それを、やがて官が引き取った」
「そうだ。預り証が、銭になった」
孫伯庸は、答案の写しを卓の上に広げた。
「この答案は、その話の、続きを書いている。預りが銭になるなら、行が貸すことによって生まれる預りも、銭になる。ならば、行が貸せば、銭が増える。——私は、最初、それを読んで、紙幣の乱発と同じではないかと思った」
「私もです」
「だが、読み返して、少し違うと思った。紙幣の乱発は、官が、返す当てのないまま紙を刷ることだ。この答案の行は、返す当てのある者に貸す。借り手が返せば、預りは消える。行の帳簿の上で、貸出と預りが、同時に生まれ、同時に消える」
孫伯庸は、写しの一か所を指で押さえた。
「理屈は、分かる。だが、それが本当に、国中の行で、何年も何十年も、うまく回るのか。私には、分からぬ。それを判断する力は、私にはない」
「では、誰にあると」
「戸部の者に聞くべきだろう。実際に紙幣の出し入れを扱っている者に。それから、商人に。行の帳場を知っている者に」
李徳彰は、頷いた。
それから数日のあいだ、李徳彰は、戸部の実務を知る官を二人、交子務の古い帳簿を扱ってきた吏員を一人、そして開封の大きな両替商の主人を一人、それぞれ別々に呼び、答案の帳簿のくだりだけを見せて、意見を聞いた。
答案の書き手の名は、伏せた。
戸部の官の一人は、理屈は通っているが、行が貸しすぎれば同じことだ、と言った。もう一人は、中央の行が損を抱えたときに誰が穴埋めするのかが書かれていない、と言った。交子務の吏員は、帳簿の書き方は正しい、と言った。両替商の主人は、長いこと黙って写しを眺めたあと、自分の帳場ではこれに近いことを毎日やっている、ただこれほど大きな話として考えたことはなかった、と言った。
李徳彰は、それらの意見を、すべて書き留めた。
二十日目の夜、李徳彰は、書き留めたものを卓の上に並べた。
出自。言葉の習得の履歴。五年の学習の記録。師と保護者と村の人々の評。答案の理論についての、四人の意見。
どれも、欠けてはいなかった。どれも、互いに矛盾してはいなかった。
ただ、一つだけ、どうしても埋まらない穴があった。
五年前、この男がどこから来たのか。
◇
呼び出しの使いが宿に来たのは、殿試から二十五日目の朝だった。
修平は、書肆の筆写の仕事に出かけようとしていたところだった。使いの男は、都堂の属官だと名乗り、左丞相が話を聞きたいと仰せだ、と告げた。
左丞相。
修平は、その言葉を、しばらく飲み込めなかった。
都堂は、この国の最高の政務の場だ。左丞相は、その筆頭にいる。宰相だ。第三甲の進士が、差遣も決まらないうちに、宰相に呼ばれる。
籍のことではない、と修平は悟った。
籍のことなら、吏部で済む。
修平は、長衣を整えた。それから、少し迷って、黒い鞄を手に取った。
なぜ持っていこうとしたのか、自分でもはっきりとは分からなかった。ただ、宰相が自分を呼んだ理由が、籍ではなく、答案なのだとしたら。そして、答案の中身の出どころを問われるのだとしたら。
そのとき、自分が言えることの裏づけは、この鞄の中にしかない。
◇
都堂の一室は、思っていたよりも簡素だった。
卓が一つ。椅子がいくつか。壁際の棚には、書類の束が整然と積まれている。窓からは、中庭の木が見えた。
卓の向こうに、男が一人座っていた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。痩せても太ってもおらず、背は高くない。紫の官服を着ているが、それを除けば、どこかの州の有能な通判と言われても信じたかもしれない。
ただ、目が違った。
修平が部屋に入った瞬間から、その目は修平を見ていた。値踏みするのでも、威圧するのでもなく、ただ、見ていた。修平の歩き方、手の組み方、拝礼の仕方、黒い鞄の持ち方。何もかもを、一つずつ、書き留めるように。
「林修平か」
「はい」
「座りなさい」
修平は、卓の手前の椅子に座った。黒い鞄を、膝の上に置いた。
李徳彰の目が、一瞬だけ、鞄に止まった。それから、修平の顔に戻った。
卓の上には、紙の束が置かれていた。一番上の一枚は、修平が五年前、泰和県の役人に書かされた、あの不格好な字の聞き取りの写しだった。
修平は、それを見て、背筋が冷たくなった。
この人は、自分のことを、もう全部調べている。
「そなたの答案を読んだ」
李徳彰は、前置きなしに言った。
「三つ、聞きたいことがある。短く答えなさい」
◇
「一つ目」
李徳彰は、指を一本立てた。
「この国には、すでに会子があり、銭引がある。紙幣がある。そなた自身が、答案の冒頭にそう書いた。ならば、なぜ、行の預りなどというものまで要るのか。紙幣で足りぬのか」
修平は、少し考えてから答えた。
「会子や銭引は、官が刷って、官が出すものです。量は、官が決めます。けれど、商人がどれだけ取引をしたいか、どれだけの支払いが要るかは、日によって、土地によって、商人によって違います。官が、それを全部見て、ちょうどいい量の紙幣を、ちょうどいい場所へ出すことはできません」
「それで」
「行の預りは、商人が行から借りるときに生まれます。借りたい者が、借りたいときに、借りたい額だけ借りる。支払いが要る分だけ、預りが生まれる。返せば、消える。紙幣は、官が上から出すもの。行の預りは、取引の中から生まれるもの。両方が要ります」
李徳彰は、何も言わなかった。
修平は、続けるべきか迷った。けれど、李徳彰は短く答えろと言った。修平は、口を閉じた。
「二つ目」
李徳彰は、二本目の指を立てた。
「行が貸すと同時に預りが生まれるなら、行はいくらでも貸せることになる。帳簿に書くだけで、銭が増えるのだから。それは、紙幣の乱発と何が違う」
「行は、貸したものを返してもらわねばなりません」
修平は、答えた。
「返す当てのない者に貸せば、行は損をします。損が重なれば、預けた者が銭を返せと言ったときに、行は返せなくなる。行は潰れます。だから、行には、いくらでも貸す理由がありません。官が紙幣を刷るときには、返してもらう相手がいません。そこが違います」
「行が、潰れることを恐れずに貸しすぎたら」
「それを防ぐ仕組みが要ります」
修平は、少し間を置いた。
「行がどれだけ貸してよいか。行がどれだけの準備を持っていなければならないか。行が損をしたとき、その損を誰が負うか。それを、官が定め、官が見張る仕組みです。——ただ、その具体的な定め方は、実際に制度へ落とす段階で詰めるべきです。今ここで私が申し上げても、机上の話にしかなりません」
李徳彰は、やはり何も言わなかった。
ただ、その目が、ほんのわずかに細くなった。
「三つ目」
三本目の指が立った。
「そなたは、行を束ねる行を中央に置け、と書いた。健全な行が銭に窮したとき、中央の行がそれを支える、と。——では、中央の行そのものが損を抱えたら、どうなる。行を支えるために銭を出し、その行が結局潰れたら。中央の行は、損を抱える。その損は、結局、朝廷が穴埋めするのではないか。ならば、紙幣の発行を戸部から切り離しても、同じことではないか」
修平は、すぐには答えなかった。
これは、いちばん痛いところを突いた問いだった。
中央銀行の損失。最後の貸し手の損失。財政との関係。大学の講義で、何度も議論された話だ。それに、完全な答えはない。どの国の、どの時代の中央銀行も、この問いと付き合いながら、それぞれの答えを作ってきた。
「その通りです」
修平は、まず、そう言った。
「中央の行が損を抱えれば、最後には、朝廷が負うことになるかもしれません。それは、否定できません」
李徳彰の目が、修平をじっと見ていた。
「だからこそ、中央の行は、支える相手を選ばねばなりません。健全な行が、一時的に銭に窮しているのか。それとも、もともと損を抱えている行なのか。何でも支えれば、中央の行は、潰れるべきものまで抱え込むことになります」
修平は、言葉を選んだ。
「それから、中央の行が朝廷の損を負うことと、朝廷の財政の穴を中央の行が紙幣を刷って埋めることは、別のことです。前者は、避けられないこともあります。後者は、避けねばなりません。切り離すというのは、後者を防ぐためです」
修平は、最後に付け加えた。
「ただ、それも、どこまでを中央の行が負い、どこからを朝廷が負うのか、その線をどう引くかは——」
「実際に制度へ落とす段階で詰めるべきだ、と」
李徳彰が、先に言った。
「はい」
修平は、頷いた。
李徳彰は、しばらく黙っていた。
それから、卓の上の紙の束に目を落とし、何かを一行書き留めた。
◇
「そなたの答えは、分かった」
李徳彰は、筆を置いた。
「どれも、原理としては筋が通っている。そして、どれも、具体的な仕組みについては答えを保留した。——それでよい。ここで細かい仕組みまで淀みなく語られたら、私はかえって疑ったろう」
修平は、黙って頭を下げた。
「だが、もう一つ、聞かねばならぬことがある」
李徳彰は、泰和県の聞き取りの写しを、修平の前に滑らせた。
「そなたは、どこから来た」
修平は、その写しを見た。
日本。東。海。
五年前、自分が書いた字だった。
「この答案の理屈を、そなたは、どこで学んだ」
李徳彰の声は、変わらなかった。静かで、平らだった。
「徐文礼の私塾で学んだのではない。徐文礼自身が、推薦状に書いている。算術と数の論は、師たる私の及ぶところにあらず、と。——戸部の官も、交子務の吏員も、両替商も、この答案を読んで、理屈は分かると言った。だが、誰一人、これと同じことを考えたことがあるとは言わなかった」
李徳彰は、修平の目を見た。
「言葉も文字も知らずに現れた者が、五年で、この国の誰も考えたことのないことを、この国の帳簿の言葉で書いた。そなたの学んだ場所は、どこだ」
部屋の中が、静かになった。
修平は、膝の上の鞄に、手を置いた。
五年、この問いを、誰にもされなかった。呉守田は、聞かなかった。徐文礼も、聞かなかった。県の役人は、答えられないことを「留保」として記録した。
この人は、聞いた。
そして、この人は、自分が何と答えても、それをそのまま信じはしないだろう。調べ、確かめ、別の証拠と照らし合わせるだろう。
だから、言葉だけで答えるわけにはいかなかった。
修平は、鞄の留め金を外した。
「丞相」
修平は、言った。
「私の言葉だけでは、信じていただけないと思います。私自身、自分の身に起きたことを、うまく説明できません。ですから、まず、これを見ていただけますか」
修平は、鞄の中から、それを取り出した。
灰色の、薄い、四角い板だった。
◇
李徳彰は、すぐには手を伸ばさなかった。
修平が卓の上に置いたそれを、しばらく黙って眺めていた。
それから、傍らの属官に、何か短く言った。属官が、部屋を出ていった。
「工匠を呼んだ」
李徳彰は、修平に言った。
「私は、器物の目利きではない。見るべき者に見せる」
しばらくして、属官が二人の男を連れて戻ってきた。
一人は、五十前後の、指の太い男だった。文思院の工匠で、宮中の器物の細工を長く務めてきた者だと紹介された。もう一人は、三十代の、痩せた官人だった。将作監の技官で、金属と木材の加工に通じているという。
二人とも、卓の上の板を見て、足を止めた。
修平は、立ち上がった。
「触れていただいて構いません。ただ、いくつか、お願いがあります」
修平は、板の縁を指で示した。
「持つときは、この縁の、ここと、ここを持ってください。上と下の板のあいだに、指を差し込まないでください。ここは、開くようになっていますが、無理に開こうとすると、中の細い線が切れます」
工匠は、修平の顔を一度見て、それから、言われた通りの場所に指をかけ、板を持ち上げた。
眉が、跳ね上がった。
「……軽い」
工匠は、板を掌の上で傾けた。
「この大きさで、この軽さか。表は金属だ。錫でも鉛でもない。銅でもない。銀のように白いが、銀ではない」
技官が、横から覗き込んだ。板の縁を、爪の先でそっと撫でた。
「継ぎ目が、ない」
技官は、呟いた。
「いや、ある。だが、細すぎて、指では分からん。この角の丸みは、鋳物か。打ち出しか。いや、どちらでもない。削ったのか。この面を、この平らさで」
修平は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
アルミニウムの筐体だった。この国には、まだアルミニウムそのものがない。それを精錬する電気もない。それを削り出す機械もない。
「開きます」
修平は、言った。
「私が開けます。見ていてください」
修平は、工匠から板を受け取り、卓の上に置き、上の板の縁に指をかけて、ゆっくりと持ち上げた。
蝶番が、滑らかに回った。
上の板の内側には、黒いガラスの面があった。下の板の内側には、小さな四角い鍵が、何十と整然と並んでいた。その一つひとつに、字が刻まれていた。
工匠が、息を呑んだ。
技官は、黒いガラスに顔を近づけた。自分の顔が、ぼんやりと映っていた。
「これは、鏡か」
「鏡では、ありません」
修平は、答えた。
「本来は、ここに字や絵が映ります。ただ、それには、これを動かす力が要ります。——五年、一度も動かしていません。今、動くかどうか、私にも分かりません」
李徳彰が、初めて口を開いた。
「動かしてみることは、できるのか」
「できるかもしれません。ただ、中に蓄えた力は、使えば減ります。そして、この国には、それを補う手段がありません。ここで一度動かせば、次に動かせる保証はありません」
修平は、李徳彰を見た。
「画面が点けば、私の言うことの証になるかもしれません。けれど、点かなかったとしても、これが何なのかは変わりません。まずは、これそのものを、見ていただきたいのです。形と、材料と、作りを」
李徳彰は、しばらく修平を見ていた。
それから、頷いた。
「動かさずに、見よう」
◇
工匠と技官は、それから一刻近く、その板を調べた。
修平は、そのあいだ、二人の横について、一つずつ指示を出した。ここは押してよい。ここは押すと沈むが、壊れはしない。この穴は、線を差し込むためのものだ。ここは、力を入れて曲げてはいけない。
工匠は、指示に従って、慎重に板を扱った。指の太い男だったが、その動きは驚くほど繊細だった。宮中の器物の細工を長く務めてきたというのは、嘘ではなかった。
やがて、工匠は、板を裏返した。
底面に、小さなねじが並んでいた。
工匠は、そのねじの一つに、目を近づけた。それから、懐から小さな拡大鏡を取り出し、もう一度見た。
「……頭に、十字の溝が切ってある」
工匠は、呟いた。
「この小ささで、この溝の正確さか。一本や二本ではない。十本近く、全部同じだ」
「中を、ご覧になりますか」
修平は、聞いた。
工匠と技官が、顔を上げた。
「このねじを外せば、底の板が外れます。中の作りが見えます。ただ、このねじを回すには、この溝に合う道具が要ります。今ここにある道具では、溝を潰してしまいます」
修平は、ねじの頭を指した。
「先が十字になった、細い回し具です。溝の大きさに、ぴったり合うもの。作れますか」
工匠は、しばらくねじを見つめていた。
「作れる」
やがて、そう言った。
「三日、いただきたい。鋼の細い棒の先を、この溝に合わせて削る。何本か作って、合うものを選ぶ」
李徳彰は、頷いた。
「三日後に、もう一度集まろう」
それから、修平の方を向いた。
「林修平。その三日のあいだ、この器物は、どこに置く」
「私がお預けします」
修平は、答えた。
「丞相のところに。ただ、それとは別に、もう一つ、お預けしたいものがあります」
修平は、鞄の中から、白い充電器と、ケーブルを取り出した。
「これは、この器物に力を補うための道具です。この国には、これを使える場所がありません。けれど、いつか、それが要る日が来るかもしれません。器物とは別に、封をしてお預かりいただけますか。器物を調べるあいだに、これが失われたり、壊されたりしないように」
李徳彰は、充電器とケーブルを見た。
それから、属官に命じて、それらを箱に収めさせ、その場で封をさせた。封の上に、李徳彰自身の印が押された。
「もう一つ、聞く」
李徳彰は、鞄を見た。
「その中に、まだ何かあるな」
修平は、少し間を置いてから、鞄からスマートフォンを取り出し、卓の上に置いた。
「これも、同じ国の器物です。ただ、これは、お預けすることはできません」
「なぜだ」
「作りが、あちらよりさらに細かく、そして、閉じています」
修平は、スマートフォンの縁を指でなぞった。
「こちらには、ねじがほとんど見えません。中を見ようとすれば、どこかを割らねばなりません。割れば、元には戻りません。中にある、火を出しかねない部分を傷つける恐れもあります。見るだけなら、どうぞ。ただ、開けることは、しないでいただきたいのです」
工匠が、スマートフォンを手に取り、光にかざし、しばらく眺めた。それから、黙って卓の上に戻した。
「確かに」
工匠は、言った。
「これは、開けたら終わりだ。どこから開けるのかも分からん」
◇
三日後、同じ部屋に、同じ顔ぶれが集まった。
工匠は、細い鋼の回し具を五本、布に包んで持ってきた。先の十字の大きさが、少しずつ違った。
修平は、そのうちの一本を選び、ねじの溝に当てた。
ぴたりと合った。
「回す向きは、こちらです」
修平は、指で示した。
「力は、ほとんど要りません。押しながら、ゆっくり」
工匠は、言われた通りに回した。ねじは、抵抗なく緩み、やがて、底の板から抜けた。
工匠は、それを掌に載せた。
米粒よりも小さな、黒いねじだった。
工匠は、しばらく、それを見つめていた。
それから、残りのねじを一本ずつ、同じように外していった。外したねじは、技官が一本ずつ紙の上に並べ、その位置を墨で書き留めた。どのねじがどの穴から出たのか、後で分かるように。
修平は、それを見て、胸の奥で小さく頷いた。
言われなくても、そうする人たちなのだ。
すべてのねじが外れると、修平は、底の板の縁に指をかけ、ゆっくりと持ち上げた。
中が、見えた。
◇
工匠も、技官も、しばらく口をきかなかった。
李徳彰は、卓の向こうから身を乗り出していた。
中には、緑色の薄い板が敷かれていた。その上に、黒い小さな四角い部品が、いくつも並んでいた。その間を、髪の毛よりも細い金色の線が、無数に走っていた。板の端には、薄い銀色の袋のようなものが、何枚か重なって収まっていた。細い線を束ねた帯が、あちらこちらへ延びていた。小さな羽根車のついた部品が、一つあった。
「これは」
技官が、ようやく声を出した。
「これは、何だ」
「一つずつ、ご説明することはできます」
修平は、言った。
「この緑の板は、力と知らせを、あちこちへ運ぶための道です。この黒い四角は、その知らせを扱う部品です。この銀色の袋は、力を蓄えておくところです。この羽根車は、中に籠もる熱を外へ逃がすためのものです」
修平は、そこで一度言葉を切った。
「ただ、これを説明しても、作ることはできません」
工匠が、顔を上げた。
「この黒い四角の中には、さらに、目に見えないほど細かい仕組みが詰まっています。それを作るには、特別な砂から、極めて純粋な材料を取り出す技が要ります。その材料に、光で細かい模様を焼きつける技が要ります。それをするための機械が要り、その機械を作るための機械が要り、それらを動かすための大きな力が要ります」
修平は、工匠と技官を見た。
「この器物は、一つの発明でできたものではありません。何百年もかけて積み上げられた、何千という技の、いちばん上に乗っているものです。この器物だけを見ても、その下にある技は、見えません」
技官は、黙って緑の板を見つめていた。
工匠は、細い金色の線に、拡大鏡を当てていた。
「ねじ一本なら、作れる」
工匠は、拡大鏡を下ろさずに言った。
「三日あれば、あの回し具が作れたように。ねじ一本、この小ささで、この溝で、作れと言われれば、時間をかければ作ってみせる」
工匠は、拡大鏡を下ろした。
「だが、これは、ねじ一本の話ではない。この金属。このガラス。この緑の板。この線。この黒い部品。この、何か分からぬ柔らかいもの。どれ一つとして、今の我々には、同じものが作れぬ。それが、この大きさの中に、何百と集まって、しかも、互いにぴたりと噛み合っている」
工匠は、李徳彰の方を向いた。
「丞相。私は、宮中の器物を三十年扱ってきました。遠い異国の品も、見たことがあります。細工の見事なもの、材料の珍しいもの、形の奇抜なもの。いろいろありました」
工匠は、首を横に振った。
「だが、これは、そのどれとも違います。一つの品が見事なのではない。この品を作れる国の、仕事の全部が、ここに見えている。——こんなものを作れる国は、今のこの世のどこにもない。少なくとも、私の知るかぎり」
◇
工匠と技官が、記録を取り終えて部屋を出たあと、李徳彰と修平だけが残った。
底の板は、修平がねじを一本ずつ元の穴へ戻し、閉じてあった。灰色の板は、卓の上で、五年前と同じ姿に戻っていた。
李徳彰は、しばらく、その板を眺めていた。
「そなたの国は」
やがて、口を開いた。
「どこにある」
修平は、息を吸った。
「私にも、はっきりとは分かりません」
修平は、言った。
「私のいた国は、日本といいます。大陸の東の海に浮かぶ島の国です。ただ、私のいた日本は、この国から見て、ずっと後の時代にあるのだと思います。私の知っている歴史の中では、宋という国は、私の生まれるより千年近く前にありました」
李徳彰は、何も言わなかった。
「ただ、この国は、私の知っている宋と、同じではありません」
修平は、続けた。
「私の知っている歴史では、燕雲十六州は、宋の手に戻りませんでした。河西も、西夏も、安南も、大理も、宋の版図には入りませんでした。私は、この国の地図を見て、自分の知っている歴史と違うことに気づきました。だから、ここが、私の知っている歴史の、ただの昔なのかどうか、私にも分からないのです」
修平は、膝の上で、手を組んだ。
「どうして自分がここに来たのかも、分かりません。朝、道を歩いていて、車——大きな車が、私に向かってきて、目を閉じて、開けたら、田の中にいました。それだけです。証明することは、できません」
部屋の中が、静かになった。
李徳彰は、卓の上の紙の束を、一枚ずつめくった。
泰和県の聞き取りの写し。徐文礼の推薦状。呉守田の証言。解試と省試の記録。殿試の答案。戸部の官と、交子務の吏員と、両替商の意見。そして、今日、工匠と技官が書き残した記録。
李徳彰は、それらを、卓の上に並べた。
「一つずつなら」
李徳彰は、言った。
「どれも、別の説明がつく」
李徳彰は、泰和県の聞き取りを指した。
「突然現れた、言葉の通じない男。遠い異国から流れ着いた者なら、ありうる」
徐文礼の推薦状を指した。
「五年で経書を読み、論策を書くに至った。並外れた才を持つ者なら、ありうる」
答案を指した。
「この国の誰も考えたことのない、紙幣と行の論。どこかの異国に、そういう学問があるなら、ありうる」
最後に、灰色の板を指した。
「この器物。どこかの異国に、並外れた工匠がいるなら——」
李徳彰は、そこで言葉を切った。
「いや。これは、ありえぬ。文思院の工匠が、あれほど言い切ったのだ。このような品を作れる国は、今のこの世にない」
李徳彰は、並べた紙の束と、灰色の板を、交互に見た。
「一つずつなら、別の説明がつく。だが、全部を同時に説明しようとすると、別の説明は、どれも無理が出る。遠い異国から来た、並外れた才を持つ者が、どこかの異国の学問を学び、どこかの異国の工匠が作った品を持っていた。——そのどこかの異国は、どこにある。なぜ、この国の誰も、その国を知らぬ」
李徳彰は、修平の目を見た。
「そなたの言うことを、そのまま信じるわけではない」
「はい」
「だが、そなたの言うこと——後の世から来た、という説明は、今ここにある証を、いちばん無理なく説明する」
李徳彰は、並べた紙の束を揃えた。
「私は、これを、今のところ最も筋の通った仮説として受け入れる。新しい証が出れば、改める。それだけのことだ」
修平は、深く頭を下げた。
胸の奥で、何かがほどけた。
信じてもらえた、とは思わなかった。この人は、信じたのではない。調べ、並べ、比べ、いちばん無理のない説明を選んだのだ。
それが、ありがたかった。
◇
「一つ、言っておく」
李徳彰は、灰色の板を修平の方へ押し戻した。
「後の世から来た者だということと、後の世の技を、そなた一人でこの国に再現できるということは、別だ。そなた自身、今日、工匠たちにそう言った」
「はい」
「そなたの答案も、同じだ。理屈は、筋が通っていた。だが、それが本当にこの国で回るのかは、そなたの言葉だけでは分からぬ。調べ、試し、確かめねばならぬ。戸部の官も、交子務の吏員も、両替商も、それぞれに疑いを述べた。そなたは、そのすべてに答えられるか」
「答えられません」
修平は、即座に言った。
「私の知っていることは、この国のことではありません。この国の商人の帳場も、この国の戸部の出し入れも、私は知りません。知っているのは、よその国で、こういう仕組みを作ろうとした人々が、どこで成功し、どこで失敗したか、その大まかな筋だけです。それも、全部を正確に覚えているわけではありません」
李徳彰は、頷いた。
「それでよい」
李徳彰は、立ち上がった。
「その言葉を、忘れるな。そなたが万能だと言い出したら、私は、そなたを疑い直す」
修平も、立ち上がり、拝礼した。
部屋を出るとき、修平は、振り返った。
李徳彰は、卓の上の紙の束に目を落とし、何かを書き込んでいた。その横に、封をされた小さな箱が置かれていた。李徳彰自身の印が、封の上に押されていた。




