第一巻 覚醒 第七回 皇帝の高評価、及第と待次
読巻の官たちが集まったのは、殿試から三日目の朝だった。
宮城の一室に、答案の写しの束が積まれていた。束は、すでに何度も官たちの手を渡り、それぞれの写しの余白には、何人分もの評価が小さく書き込まれている。
順位の案を作るのは、その日のうちに終えなければならなかった。案を整え、皇帝の裁可を仰ぎ、唱名の儀の日取りを決める。その段取りは、毎回同じだった。
上位の答案については、官たちの評価はほとんど割れなかった。典拠の正確さ、文章の格調、論の穏当さ。ある一枚の答案は、どの官の評価でも最上位に近かった。
議論が止まったのは、孫伯庸が一枚の写しを卓の中央に置いたときだった。
「この答案について、諸公の意見を聞きたい」
読巻の官の一人が、写しを手に取り、ざっと目を通した。
「文章は、中ほどより下ですな。典拠が少ない。古人の議論をほとんど踏まえていない。格調で言えば、第三甲か、第四甲あたりが相応でしょう」
「文章の評価としては、私も同じ意見だ」
孫伯庸は、頷いた。
「だが、中身を読んでもらいたい。帳簿のくだりからだ」
官たちは、写しを回し読みした。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、一人が、慎重に言った。
「……これは、銭荒の策というより、別のことを論じておりますな」
「そうだ」
「行が貸せば、預りが生まれる。その預りが支払いに使える。ならば、銭が足りずとも取引は回る。——理屈は分かる。商人の帳場で起きていることを、帳簿の言葉で書き直したものだ。だが、それを官が認めた行に集め、さらにその行を束ねる行を中央に置くというのは——」
「紙幣の発行を、戸部から切り離すとまで書いている」
別の官が、眉をひそめた。
「交子以来の紙幣の行政を、別の器へ移せと言っているのだ。大胆にもほどがある」
「大胆だが、筋は通っている」
孫伯庸は、静かに言った。
「財政が苦しいときに紙幣を刷って穴を埋めれば、紙幣の値は崩れる。それは、この国が実際に経験したことだ。この答案は、それを防ぐには、刷る者と使う者を分けねばならぬと言っている。私は、この一文を読んで、しばらく考え込んだ」
官たちは、また黙った。
「順位を、上げるべきだと?」
最初に口を開いた官が、聞いた。
「いや」
孫伯庸は、首を横に振った。
「順位は、文章で決めるべきだ。それが殿試の定めだ。この答案は、文章の格調では上位に入らぬ。中身が異質だからといって、順位を曲げれば、殿試そのものの信が損なわれる」
孫伯庸は、写しを手元に引き寄せた。
「だが、この答案を、ただ第三甲の一枚として埋もれさせるのは惜しい。順位の案とは別に、この答案の写しを添え、陛下のお目に入れるよう上申したい。読巻の官として、正式の筋道で」
官たちは、顔を見合わせた。
しばらくして、一人、また一人と、頷いた。
◇
皇帝・趙祺が、その写しを読んだのは、その日の夕刻だった。
順位の案に目を通し、裁可の朱を入れたあと、孫伯庸の上申書と、添えられた一枚の写しを手に取った。
三十五歳になる。十三で即位し、二十で親政を始めてから、十五年になる。殿試の答案に目を通すのも、もう何度目か分からなかった。
上申書には、孫伯庸の筆で、こう書かれていた。
この答案の文章は第三甲相応にて、順位を改むべきにあらず。ただ、その論ずるところ、既存の紙幣の制を前提とし、官の認めたる行の貸出によって預りの貨を生じ、さらにこれを中央の一行にて清算せしむるの制を、一続きに説くものなり。臣、読巻の職にありて、これを陛下のお目に入れざるは、職を尽くさざるに等しと思い、あえて上申す。
趙祺は、写しを読んだ。
一度読み、それから、帳簿のくだりに戻って、もう一度読んだ。
傍らに控えていた内侍が、灯りを近づけた。
趙祺は、写しを置き、しばらく窓の外を見ていた。
「孫尚書は、順位を改めるべきにあらず、と書いている」
誰に聞かせるともなく、言った。
「その通りだ。文章は、上手くない」
内侍は、黙っていた。
「だが」
趙祺は、もう一度写しを手に取った。
「この者は、朕の国にすでにあるものを、見ている。会子も、銭引も、手形も、預りも。何も新しく作れとは言っておらぬ。すでにあるものを、どうつなぐかを言っている」
趙祺は、写しの冒頭を指で叩いた。
紙幣を新たに発明する必要はない。朝廷はすでに紙幣を持っている。
「この一文を書ける者は、少ない」
趙祺は、順位の案を見直した。その答案は、第三甲の中ほどに置かれていた。
趙祺は、それを動かさなかった。
順位は、読巻の官たちが、殿試の定めに従って決めたものだ。皇帝が一枚の答案に惹かれたからといって、それを第一甲へ引き上げれば、他の数百の答案の評価が意味を失う。士人たちは、文章ではなく、皇帝の好みに合わせて答案を書くようになるだろう。
それは、この国の試験を、壊すことだ。
趙祺は、裁可の朱をそのままにした。
それから、内侍に言った。
「この答案の者の名を、糊名を解いたのちに知らせよ。それから、明朝、李丞相を」
◇
唱名の儀は、殿試から七日目に行われた。
合格者全員が、再び宮城の殿の前に並んだ。今度は、答案を書くためではない。皇帝の前で、順位を告げられるためだった。
礼官が、名を呼び始めた。
第一甲。
最初に呼ばれたのは、温州の葉承宗だった。
広場に、小さなどよめきが起きた。葉承宗は、列の中から進み出て、殿に向かって拝礼した。その背中は、宿の食堂で見たときと同じように、穏やかで、目立たなかった。
第一甲の名が、いくつか続いた。第二甲の名が、続いた。
修平は、列の中で、自分の名が呼ばれるのを待っていた。
呼ばれなかった。第一甲では。第二甲でも。
そうだろう、と思った。
あの答案で、上位に入れるとは思っていなかった。
第三甲。
礼官の声が、名を一つずつ呼び上げていく。
その中ほどで、修平の名が呼ばれた。
林修平。
修平は、列から進み出た。殿に向かって、手を組み、頭を下げた。
頭を上げたとき、殿の高い座に、また人影が見えた。
やはり遠かった。顔は見えなかった。けれど、修平は、その人影が、ほんの少しだけ自分の方へ向いたような気がした。
気のせいだろう、と思った。
列に戻った。
第三甲。
上位ではない。けれど、最下位でもない。宋代の殿試は、第一甲から第五甲までの五つに分かれる。第三甲は、その真ん中だった。
文章の格調も、経学も、典故も、自分は最上位の士人には及ばなかった。その通りの順位だった。
修平は、それで、満足だった。
異質な答案を書いた。それでも、落ちなかった。順位は、文章で決められた。あの答案が、他の答案と同じ基準で読まれ、同じ基準で順位をつけられた。
それが、この国の試験だった。
進士。
自分は、この国の進士になった。
◇
唱名の儀のあと、新しい進士たちは、それぞれの初任の手続きに入った。
第一甲の者は、すぐに良い官職を告げられた。第二甲の者も、多くは数日のうちに、どこかの州の属官や、中央の書記の職を告げられた。
第三甲の者も、同じだった。一人、また一人と、吏部に呼ばれ、差遣を告げられていった。どこかの県の主簿。どこかの州の司理参軍。どこかの監当官。
宿の食堂で、同じ第三甲の男たちが、告げられた任地の話をしていた。遠い、近い。暑い、寒い。良い州だ、悪い州だ。
修平のところには、何の知らせも来なかった。
五日経っても、十日経っても、来なかった。
修平は、最初、それを事務の遅れだと思った。
これだけの数の進士に、一人ずつ差遣を決めていくのだ。欠員のある職と、進士の数が合わなければ、待たされる者も出るだろう。第三甲の中ほどなら、後回しにされてもおかしくない。
十五日目、修平は、吏部の窓口に出向いた。
窓口の胥吏は、修平の名を聞くと、帳簿をめくり、それから、少し困ったような顔をした。
「林修平。第三甲。——ああ、あなたは」
胥吏は、帳簿のある箇所を指で押さえた。
「差遣は、まだ決まっておりません」
「定員の都合でしょうか」
「いえ、そういうわけでは」
胥吏は、言葉を濁した。
「お沙汰を待て、とのことです。都を離れずに。宿の場所を、こちらに届け出ておいてください。何かあれば、こちらから使いを出します」
修平は、宿の場所を届け出た。
宿へ戻る道で、修平は考えた。
お沙汰を待て。都を離れずに。
定員の都合ではない、と胥吏は言った。では、何なのか。
来住の籍のことだろうか。自分の出自は、県の記録では「留保」とされている。進士として及第はしたが、官として任じる前に、改めて身元を確かめ直す必要がある、ということかもしれない。
それなら、筋は通る。
出自の分からない者を、そのまま官に任じるわけにはいかない。それは当然のことだ。
修平は、そう考えて、自分を納得させた。
◇
実際には、事情はもう少し込み入っていた。
修平が吏部の窓口で首を傾げていたころ、都堂の調べは、すでに半ばまで進んでいた。
始まりは、殿試から四日目の朝だった。左丞相・李徳彰は、一通の文書を前にしていた。
皇帝から下された命令書だった。
第三甲の進士・林修平について、その身元と学識を調べよ。
及第を取り消すのではない。科挙の結果は、殿試の定めに従って確定している。林修平は、進士である。
ただ、具体的な官職に任じるのを、しばらく止める。そのあいだに、この人物が何者なのかを、調べよ。
李徳彰は、命令書に添えられた一枚の写しを読んだ。
殿試の答案だった。
読み終えて、李徳彰は、それを卓の上に置いた。
「吏部の胡尚書に」
傍らの属官に、言った。
「この者の籍と履歴の記録を、すべて取り寄せるよう頼んでくれ。江南西路の、吉州の、泰和県だ。県の記録、州の解試の記録、私塾の師の推薦状、保証人の証言。何もかも」
属官が、記録をとった。
「それから、孫尚書に、時間をいただきたいと」
李徳彰は、写しの帳簿のくだりに、もう一度目を落とした。
「この答案について、話を聞きたい」
◇
その夜、修平は宿の自室で、手紙を書き始めた。
宛先は、石塘村の呉守田と、永和鎮の徐文礼だった。
殿試に及第したこと。第三甲であったこと。進士になったこと。
そこまで書いて、筆が止まった。
次に書くべきことは、差遣のことだった。まだ決まらず、都で待つよう命じられている。理由は分からない。おそらく自分の籍のことだろう。
心配はいらない、と書けばいい。けれど、理由の分からない待ちを、心配はいらないと言い切る根拠が、自分にはなかった。
借りた銭のことも、書くつもりでいた。官になれば、俸給が出る。その俸給で、少しずつでも返していく、と。
けれど、まだ任じられていない官に、俸給はない。いつから、いくらずつ返せるのか。数のない約束を、呉守田に送りたくはなかった。呉守田は、秋の籾の値まで帳面につける男だった。
修平は、書きかけの紙を、しばらく見ていた。
それから、墨が乾くのを待って紙を畳み、文箱の底にしまった。任地が決まってから、書き直せばいい。
修平は筆を置いた。
窓の外では、都の夜がざわめいていた。
遠くの通りで、酒楼の灯りが揺れていた。どこかで、新しい進士たちが祝いの宴を開いているのだろう。任地が決まった者たちが、互いの前途を祝い、別れを惜しんでいるのだろう。
修平は、その灯りを、しばらく眺めていた。
手元の銭は、春の終わりまでもつかどうか。書肆の筆写の仕事は、続けられるだろうか。
修平は、紙に数字を並べ始めた。
一日の宿代。一日の食費。紙と墨の代。
並べながら、修平は、ふと手を止めた。
この国の皇帝は、自分の答案を、読んだのだろうか。
唱名の儀のとき、高い座の上の人影が、ほんの少しだけ自分の方を向いたような気がした。
気のせいだ、と修平は思った。
数百人の進士の中の、第三甲の一人に、皇帝が目を留める理由などない。
修平は、数字の続きを書いた。




