第一巻 覚醒 第九回 夜対デビュー
宮城から使いが来たのは、李徳彰の部屋を出て五日目の夕刻だった。
使いは、内侍だった。宿の主人は、その装いを見て、顔色を変えた。
「今宵、召される」
内侍は、それだけを告げた。
「日が落ちたら、東華門へ。迎えの者がいる」
修平は、使いが去ったあと、しばらく宿の土間に立ち尽くしていた。
召される。
誰に、とは言われなかった。言われなくても、分かった。宮城の内侍が、日が落ちてから召すと告げに来る相手は、一人しかいない。
夜対、という言葉が、頭に浮かんだ。
宋の皇帝が、夜、少人数の臣下を呼んで、経書や史書や時事を語り合う席。正式な朝議ではない。記録も、朝議ほどには残らない。皇帝が、気に入った学者や、信頼する臣下と、肩肘張らずに話すための場。
本で読んだ。
科挙官僚の人生ゲームにも、その目があった。夜対に召される。皇帝の覚えがめでたくなり、次の昇進の賽の目が一つ増える。
あのときは、ただの一マスだった。
修平は、自室に戻り、長衣を改めた。唱名の儀のときに着た、礼部から支給された衣だった。
黒い鞄は、置いていった。
◇
東華門の前で待っていたのは、夕刻に来たのと同じ内侍だった。
内侍に導かれて、修平は宮城の中を歩いた。殿試のときに通った石畳の大通りではなく、脇の細い道だった。灯籠の明かりが、等間隔に足元を照らしていた。衛士が、ところどころに立っていた。誰も、口をきかなかった。
いくつかの門をくぐり、いくつかの回廊を抜けた先に、小さな殿があった。
殿試の殿とは比べものにならないほど小さかった。けれど、軒の造りは、それよりもずっと細やかだった。窓紙越しに、灯りが漏れていた。
内侍が、戸口で声をかけた。
中から、短い返事があった。
内侍が戸を開け、修平を促した。
修平は、敷居をまたぎ、中へ入った。そして、心得書で覚えた通りに、床に膝をつき、拝礼した。
「顔を上げよ」
声が、した。
修平は、顔を上げた。
部屋は、思っていたよりも狭かった。書棚が壁を覆い、中央に低い卓が一つ。卓の上には、茶器と、灯りと、何冊かの書物が置かれていた。
卓の奥に、男が一人、座っていた。
三十代の半ばくらいだろうか。面長の顔に、穏やかな目をしていた。衣は、黄色ではあったが、朝議の礼服ではなく、家で寛ぐときに着るような、簡素なものだった。
その脇に、李徳彰が座っていた。
男が、修平を見た。
「林修平か」
「はい」
「朕は、そなたの答案を読んだ」
皇帝・趙祺は、そう言って、卓の上の茶碗を手に取った。
「座れ。今宵は、朝議ではない」
◇
修平は、李徳彰に促されて、卓の手前の席に座った。
内侍が、修平の前にも茶碗を置いた。修平は、それに手をつけることができなかった。
趙祺は、最初、答案の話をした。
「紙幣を新たに発明する必要はない。朝廷はすでに紙幣を持っている」
趙祺は、答案の冒頭を、そらんじた。
「朕は、この一文を読んで、最後まで読まねばならぬと思った。殿試の答案で、朕の国にすでにあるものを、まず認めてから論を始めた者は、少ない。多くの者は、古の賢君の話から始める。それも悪くはないが」
趙祺は、茶を一口飲んだ。
「李丞相から、そなたの話は聞いた。器物のことも、そなたがどこから来たと言っているのかも」
修平は、背筋を伸ばした。
「李丞相は、それを、今のところ最も筋の通った仮説として受け入れると言った。朕も、それに倣う。信じるのではない。今ある証を、いちばん無理なく説明する考えとして、受け入れる」
「ありがたく存じます」
「礼には及ばぬ。朕は、そなたの話が本当かどうかより、そなたの答案の中身の方に関心がある」
趙祺は、修平をまっすぐに見た。
「そなたの言う行と、行を束ねる行。あれを、この国で作るとすれば、何年かかる」
修平は、少し考えた。
「分かりません」
修平は、正直に言った。
「私の知る国々では、何十年、あるいは百年以上かけて、少しずつ作られてきました。途中で何度も失敗しました。行が潰れ、預けた者が銭を失い、取り付けが起きました。その失敗のたびに、仕組みが直されてきました」
「この国でも、同じだけかかるか」
「同じだけかかる必要はない、と思います。どこで失敗したかは、分かっていますから。ただ、この国の商人と、この国の役所と、この国の帳場で、それが本当にうまく回るかどうかは、やってみなければ分かりません。私は、この国の帳場を知りません」
趙祺は、李徳彰を見た。
李徳彰は、黙って頷いた。
「李丞相にも、同じことを言ったそうだな」
「はい」
「ならば、それはそなたの本心なのだろう」
趙祺は、茶碗を置いた。
◇
話が北に及んだのは、夜が更けてからだった。
趙祺は、修平の答案から、この国の財政の話に移った。紙幣の発行を戸部から切り離すというが、戸部は今、何に最も銭を使っているか。
「北辺の軍費だ」
趙祺は、自分で答えた。
「国の歳出の、半ばを超える。紙幣の乱発が起きたのも、もとはと言えば、北辺の軍費を賄うためだった。そなたの言う通り、財政が苦しいときに紙幣を刷って穴を埋めれば、紙幣の値は崩れる。朕の祖父の代に、それが起きた」
修平は、黙って聞いていた。
「そなたは、北のことを、どこまで知っている」
趙祺が、聞いた。
修平は、少し迷った。
「ほとんど知りません。江南西路では、北の戦の話は遠いものでした。州城の茶屋で、商人の噂を聞いた程度です。北の敵は騎兵で押し寄せ、馬上から弓を射る。退きながら射る。追えば逃げ、追うのをやめれば戻ってくる、と」
「それだけか」
「それから、地図を見ました。北の国境の外には、国の名がなく、ただ、北虜、と書かれていました」
趙祺と李徳彰が、顔を見合わせた。
「そなたは、北の敵を、何だと思っていた」
李徳彰が、聞いた。
「私の知る歴史では、宋の北には、遼という国がありました。契丹という民が建てた国です。その後、女真という民が、金という国を建てました。どちらも、騎兵を多く使う国でした。ですから、この国の北にも、そのような国があるのだろうと考えていました。遼か、金か、あるいは、私の知らない、別の北方の国か」
李徳彰は、しばらく黙っていた。
それから、趙祺に向かって、言った。
「陛下。北のことは、臣より、楊枢密に語らせた方がよいかと存じます。臣が語れば、聞きかじりが混じります」
趙祺は、頷いた。
「呼べ」
内侍が、部屋を出ていった。
◇
しばらくして、戸口に、もう一人の男が現れた。
五十を過ぎた、がっしりとした体つきの男だった。修平は、最初、武将かと思った。けれど、その男が着ていたのは、李徳彰と同じ文官の紫の服だった。手には、紙の束を抱えていた。
男は、戸口で膝をつき、趙祺に拝礼した。
「枢密使・楊崇武、参りました」
「夜分にすまぬ」
「いえ。北の報せは、夜も参りますゆえ」
楊崇武は、李徳彰の隣に座った。修平の方を一度見て、軽く会釈した。
「この者が、例の」
「林修平だ」
李徳彰が、言った。
「北のことを、ほとんど知らぬ。遼か金か、そのような北方の国だと思っていたそうだ」
楊崇武は、修平の顔を見た。
その目には、驚きも、侮りもなかった。ただ、少しだけ、同情のようなものが混じっていた。
「無理もない」
楊崇武は、言った。
「北のことは、江南ではほとんど語られぬ。朝廷も、あえて広くは知らせておらぬ。民に知らせても、ただ恐れさせるだけだからな」
楊崇武は、抱えてきた紙の束を、卓の上に置いた。
「林進士。北の国境の向こうにいるのは、遼でも金でもない」
楊崇武は、紙の束の一番上の一枚を、修平の前に滑らせた。
「ヴォルガル帝国という」
◇
修平は、その紙を見た。
枢密院の記録だった。上段に、北辺のどこかの軍鎮の名。日付。その下に、細かい字で、観測の記録が書かれていた。
「北の国境の向こう、東は森林と平原から、西は乾いた草原と山地まで、四つの大きな王国がある。それを束ねる帝の国が、ヴォルガル帝国だ。我らは、その帝を魔帝と呼んでいる」
楊崇武は、淡々と言った。
「そして、その国の民を、魔族と呼んでいる」
修平は、顔を上げた。
「魔族」
「多くは、人ではない」
楊崇武は、紙の束から、別の一枚を取り出した。
「捕虜の記録だ。この十年で、北辺の各軍鎮が捕らえた者の、姿形と、言葉と、供述をまとめたものだ」
修平は、それを読んだ。
読みながら、手が冷たくなっていくのが分かった。
記録には、捕虜の一人ひとりについて、身の丈、肌の色、目の色、髪の色が書かれていた。そこまでは、どこの国の捕虜の記録でも同じだろう。
その先が、違った。
額から、角が二本生えている者。肌が、灰色の鱗に覆われている者。耳が、人の倍ほども長く尖っている者。背丈が人の子ほどしかなく、しかし力は成人の男を上回る者。瞳が、猫のように縦に裂けている者。
記録は、それを、一切の誇張なく、牛の毛色を記すのと同じ調子で書き留めていた。
「角のある者と、鱗のある者が、上に立つことが多い」
楊崇武は、言った。
「耳の長い者は、文書や術に通じた者が多い。背の低い者は、力仕事と軍役に使われている。——ただ、種族と身分は、必ずしも一つには決まっていないようだ。捕虜の供述を合わせると、そう見える」
修平は、紙から目を上げることができなかった。
楊崇武は、さらに別の紙を出した。
「そして、これが、そなたがまだ知らぬ、もう一つのことだ」
◇
それは、北辺のある軍鎮の、戦闘の報告だった。
修平は、読んだ。
敵の騎兵が接近。弩の射程に入る前に、敵騎兵の中の数騎が、手を掲げた。その手の先に、光が生じた。光は、矢よりも速く飛び、こちらの前列の盾に当たって、爆ぜた。盾は焦げ、盾を持った兵は倒れた。火傷であった。
こちらの神臂弓が斉射。敵騎兵の前方の空中で、矢の多くが、見えぬ壁に当たったように逸れた。逸れなかった矢は、敵騎兵に当たった。
夜間、敵は灯りを持たずに接近した。こちらの哨戒を、あらかじめ知っていたかのように避けた。
「光を放つ者を、我らは術者と呼んでいる」
楊崇武は、言った。
「矢を逸らす見えぬ壁を、障壁と呼んでいる。夜目の利く者や、こちらの兵の位置を感じ取る者もいるらしい。捕虜の供述では、それらを、魔法と呼んでいる」
修平は、紙を持ったまま、動けなかった。
「一つの報告なら、兵の見間違いだと言える」
楊崇武は、紙の束の厚みを、指で示した。
「だが、これは、十年分だ。十数の軍鎮から、別々の将が、別々の日に、別々の兵の目で見たものを書いている。焼けた盾が、実物として残っている。障壁に逸らされた矢の落ちた位置を、測った記録もある。捕虜の供述も、互いに食い違わぬ。——我らは、これを、見間違いとも、噂とも扱っておらぬ。実在する戦力として扱い、それに対する備えを考えている」
楊崇武は、修平の顔を見た。
「林進士。そなたの知る歴史に、このようなものはあったか」
修平は、首を横に振った。
声が、出なかった。
◇
修平は、自分の手元の紙を、見つめていた。
角のある捕虜。鱗のある捕虜。手から光を放つ騎兵。矢を逸らす見えぬ壁。
燕雲十六州。河西回廊。旧西夏領。安南。大理。
地図を見たとき、修平は、ここを「歴史の違う宋」だと考えた。どこかで歴史が曲がり、宋が強くなった世界。自分の知っている歴史の、枝分かれした先。
それなら、まだ、自分の知っている世界の延長だった。人がいて、国があり、戦があり、歴史が違うだけの。
これは、違う。
歴史が違うのではない。生き物が違う。この世の成り立ちが違う。人ではない者が国を建て、人の知らない力で戦っている。
ここは、自分の知る世界の過去ではない。自分の知る世界の、枝分かれした先でもない。
宋という国を土台にしながら、歴史も、生き物も、この世の理も違う、別の世界なのだ。
修平は、ゆっくりと息を吐いた。
五年前、畦の上で目を開けたとき、自分は、夢か、幻か、と疑った。それから、ここは昔の中国だと思った。それから、ここは過去の宋だと思った。それから、ここは歴史の違う宋だと思った。
それが、全部、違った。
なぜ、自分はここにいるのか。どうすれば帰れるのか。帰れるのか。
その問いは、五年前よりも、はるかに遠くへ行ってしまった。
◇
「林修平」
趙祺の声がした。
修平は、顔を上げた。
趙祺は、修平を見ていた。その目は、穏やかなままだった。
「そなたは、今、何を考えている」
修平は、すぐには答えられなかった。
何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。頭の中で、いくつもの考えが、互いにぶつかり合っていた。
ここは、自分の知っている世界ではない。
だから、自分の知っている歴史は、ここでは役に立たないかもしれない。
いや、そうだろうか。
修平は、手元の紙を、もう一度見た。枢密院の記録。北辺の軍費が、国の歳出の半ばを超えると、趙祺は言った。紙幣の乱発が起きたのも、北辺の軍費を賄うためだったと。
敵が人ではなくても、敵が魔法を使っても、この国が軍費を賄わなければならないことは変わらない。軍費を賄うために財政が苦しくなり、紙幣が刷られ、紙幣の値が崩れる。銭荒が起き、取引が止まり、民が困る。
それは、自分が大学で学んだことと、何も変わらない。
人がいて、取引があり、税があり、銭があり、信用がある。それらがどう動くかは、この世界でも、同じなのではないか。
角のある者の国と戦っていても、この国の商人は銭荒に困っている。呉守田は、秋に納屋を一杯にしながら、春には銭がない。
修平は、呉守田の苦笑いを思い出した。
籾は余っているのに、銭は足りんのだな。
毎年、そうだ。
「陛下」
修平は、言った。
「正直に申し上げます。今、私は、動揺しております。この国が、私の知っている世界とはまるで違うのだと、今夜、初めて分かりました。私がどうしてここにいるのか、これからどうなるのか、何も分かりません」
趙祺は、黙って聞いていた。
「ですが」
修平は、膝の上で手を組んだ。
「この五年、私は、この国で暮らしてきました。江南西路の農家に拾われ、その家で働き、私塾で学び、この国の民として籍に編まれました。その家の主人は、秋に納屋を籾で一杯にしながら、春には銭が足りずに困っていました。毎年そうだ、と言っていました」
修平は、趙祺を見た。
「北に何がいようと、その主人の困りごとは、変わりません。この国の銭の回り方も、変わりません。私が学んできたことは、魔法とは何の関係もありません。けれど、銭と、信用と、取引のことなら、少しは分かります。それが、この国の役に立つのなら」
修平は、言葉を切り、それから、はっきりと言った。
「私は、この国の官として、それを使いたいと思います」
◇
趙祺は、しばらく何も言わなかった。
李徳彰も、楊崇武も、黙っていた。灯りが、小さく揺れた。
やがて、趙祺は、李徳彰の方を向いた。
「李丞相」
「はい」
「この者の差遣を、決める」
李徳彰は、頭を下げた。
「林修平には、第三甲の定めに従い、寄禄の官階を与える。そのうえで、差遣として、詳定官を命じる」
修平は、その言葉を、すぐには理解できなかった。
「詳定官」
「そうだ」
趙祺は、修平を見た。
「この国には、昔から、特定の法や制度を検討するために、その都度、詳定の官を置いてきた。法令を整理し、制度の是非を詳しく定めるための、臨時の職だ。そなたには、それを命じる。銭と、紙幣と、そなたの言う行の制を、詳しく定めよ」
趙祺は、続けた。
「詳定官は、宰執ではない。都堂には、出られぬ。政を執り行う権もない。そなたが何を詳定しても、それを実際に行うかどうかは、都堂が議し、朕が裁可する」
「はい」
「ただし、朕が御前で廷議を開くとき、議題がそなたの詳定するものに関わるなら、そなたを召す。そこで、説明し、分析し、進言せよ。それから、戸部をはじめ、実務の官庁とは、直接にやり取りしてよい。帳簿を見せてもらい、実務の官の意見を聞け。そなたは、この国の帳場を知らぬと言った。ならば、知れ」
修平は、床に手をつき、深く頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
声が、少し震えた。
頭を下げたまま、修平は、ふと、自分の部屋の机の引き出しに入っていた、あの紙束のことを思い出した。
科挙官僚の人生ゲーム。寄禄官の官階と、実際の職である差遣が、別に動く。宋の官制の、いちばん分かりにくく、いちばん面白いところ。
自分は今、その通りの任官を受けた。
寄禄の官階は、第三甲の定めの通りに。差遣は、詳定官。
あのゲームには、こんなマスはなかった。
◇
夜対が終わったのは、夜半を過ぎてからだった。
楊崇武は、先に下がった。北の報せを待たねばならぬ、と言って。帰り際に、修平の肩に、一度だけ手を置いた。
「北のことで分からぬことがあれば、枢密院へ来なさい。そなたが銭のことを学ぶように、我らも、銭のことを学ばねばならぬ。軍は、銭で動く」
李徳彰は、修平と一緒に部屋を出た。
回廊を歩きながら、李徳彰は、前を向いたまま言った。
「十日のうちに、陛下が御前で廷議を開かれる。銭法のことだ。そなたは説明員として召される。戸部の葉尚書も列する。葉正言という。財政の実務の頭だ。そなたの答案を読んで、理屈は分かるが、実務を知らぬ者の空論だ、と言っていた」
「……はい」
「怒ってはおらぬ。疑っているだけだ。疑う者に、疑いを晴らしてもらえ。それが、そなたの最初の仕事だ」
東華門の前で、李徳彰は足を止めた。
「林修平」
「はい」
「後の世から来たということは、忘れよ。とは言わぬ。忘れられるものでもあるまい。だが、この国で、それを理由に何かを通そうとするな。そなたの言うことは、この国の帳簿と、この国の官の目で、確かめられる。確かめられて、通るものだけが、通る」
修平は、頭を下げた。
「心得ております」
李徳彰は、頷き、宮城の中へ戻っていった。
◇
宿へ戻る道は、暗かった。
都の夜は遅くまで眠らないが、夜半を過ぎれば、さすがに通りの灯りは減る。修平は、月明かりを頼りに、州橋の方へ歩いた。
汴河に架かる橋の上で、修平は足を止めた。
川面に、月が映っていた。
北の国境の向こうに、魔族の帝国がある。角のある者、鱗のある者が、手から光を放ち、矢を逸らす壁を立てて、この国と戦っている。
ここは、自分の知っている世界ではない。
それでも、橋の下では、明日の朝の市に向けて、荷を積んだ舟がもう動き始めていた。船頭が、低い声で何かを言い交わしていた。どこかの店で、竈に火を入れる音がした。
明日も、この都で、誰かが何かを売り、誰かが何かを買う。銭が足りなければ、手形を書き、掛けにする。
それは、どこの世界でも変わらない。
修平は、橋の欄干に手を置いた。
五年前、畦の土に手をついたとき、自分の手元の資料は、土と、風と、匂いだけだった。それらは全部、ここが現実だと言っていた。
今、自分の手元の資料は、枢密院の十年分の記録と、角のある捕虜の姿と、焼けた盾だった。それらは全部、ここが自分の知らない世界だと言っていた。
そして、呉守田の帳面が、この世界でも銭は足りないのだと言っていた。
修平は、欄干から手を離した。
十日のうちに、御前で廷議がある。
宿に帰ったら、石塘村と永和鎮に、手紙を書こう。差遣が決まった、と。詳定官という、少し変わった職だ、と。借りた銭は、最初の俸給から返していく、と。
北のことは、書かないでおこう。
修平は、また歩き出した。




