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第二巻 新法 第一回 異邦の策

 砂を含んだ風が、長城の上を西から東へ吹き抜けていった。


 狄承武は、胸壁の陰に身を低くして、北の平原を見ていた。


 河西路の北辺。甘州から馬で二日の距離にある、古い長城の一区画である。漢の時代に築かれ、何度も崩れ、何度も積み直された土の城壁は、ところどころで背丈ほどの高さしかない。その内側に、大宋の禁軍が一指揮、およそ四百の兵で詰めていた。


 指揮使は、狄承武だった。二十九歳になる。


 平原の向こうに、砂煙が上がっていた。


「来ます」


 隣で、韓奇捷が言った。副指揮使で、狄承武より三つ下になる。声が弾んでいた。


「数はおよそ百五十。いや、二百。騎馬のみ。散開して、三つに分かれています」


「見えている」


 狄承武は、目を細めた。


 砂煙は、横に長く広がっていた。一団になって突っ込んでくる動きではない。間隔を空け、互いに見える距離を保ちながら、こちらの城壁の端から端までを舐めるように近づいてくる。


 いつものやり方だった。


「神臂弓、第一列、構え。まだ射るな」


 狄承武の声を、伝令が城壁の上に沿って伝えていく。胸壁の陰で、弩兵たちが弩の弦を足で踏んで引き、矢を番える音が、乾いた木の音となって続いた。


「火槍は、下へ。門の内側で待て」


「指揮使、打って出ましょう」


 韓奇捷が、身を乗り出した。


「二百なら、玄甲の半隊で蹴散らせます。やつら、城壁の上からの矢には慣れている。騎馬で出てくるとは思っていない。今日こそ——」


「出れば、やつらは退く」


 狄承武は、平原から目を離さずに言った。


「退いて、我らを平原へ引き出す。引き出された我らの後ろに、見えていない別の二百が回り込む。去年の秋、粛州の北でそれをやられた指揮を、お前も知っているだろう」


 韓奇捷は、口を閉じた。


 砂煙が、近づいてきた。


 やがて、騎馬の姿が見えた。


 小柄な馬に、革の鎧をつけた騎手が乗っている。一騎につき、替えの馬を一頭か二頭、後ろに引いている。騎手の多くは、頭に毛皮の帽子を被り、背に短い弓を負っていた。


 ここからでは、顔までは見えない。


 だが、狄承武は、その中に、人よりも一回り大きな影がいくつか混じっていることを知っていた。帽子の下から、角が突き出している者がいることも。


 騎馬の列が、城壁から三百歩ほどの位置で、止まった。


 それから、中央の一団から、数騎が前に出た。


 その騎手たちは、弓を手にしていなかった。


 代わりに、片手を高く掲げた。


「盾!」


 狄承武が叫ぶのと、掲げられた手の先に光が生じるのが、ほとんど同時だった。


 光は、橙色だった。拳ほどの大きさの塊になり、次の瞬間、矢よりも速く、城壁へ向かって飛んだ。


 胸壁の手前で、光が爆ぜた。


 熱い風が、狄承武の頬を打った。土の胸壁が焦げる匂いがした。どこかで、兵の悲鳴が上がった。


挿絵(By みてみん)


「負傷一! 腕です!」


「下げろ! 次が来るぞ!」


 二発目、三発目の光が、城壁の別の区画に当たった。胸壁の陰に伏せた兵たちの上を、焦げた土の粉が舞った。


 術者だ。


 距離は、三百歩。神臂弓の届く距離だった。


「第一列、放て!」


 城壁の上で、弦の音が一斉に鳴った。


 数十本の矢が、低い弧を描いて平原へ飛んだ。


 術者たちの前方の空中で、矢の群れが、見えない何かにぶつかったように、ばらばらと向きを変えた。何本かは地面に突き刺さり、何本かは横へ逸れた。


 障壁だ。


 だが、全部ではなかった。障壁の端をすり抜けた矢が、一騎の馬の首を貫いた。馬が棹立ちになり、騎手が地面に投げ出された。もう一本が、別の術者の肩に突き立った。


 騎馬の列が、揺れた。


「第二列、放て!」


 二度目の斉射が、同じ位置を襲った。今度は、障壁が薄かった。術者の一人が、馬の上で身を折った。


 騎馬の列が、動いた。


 前へではなく、横へ。散開していた三つの群れが、城壁の射程の縁をなぞるように、東と西へ流れていく。流れながら、騎手たちは馬上で振り返り、弓を引いた。


 矢が、城壁の上に降ってきた。


 大半は、胸壁に当たって落ちた。何本かが、胸壁を越えて、城壁の内側の地面に突き刺さった。


「射返すな。射程の外だ。矢を無駄にするな」


 狄承武は、伏せたまま言った。


「やつらは、射程の縁でこちらの矢を数えている。こちらが何本射て、何本当たったか。どこの区画の弩が少ないか。見せてやる必要はない」


 騎馬の群れは、半刻ほど城壁の前を行き来した。ときおり、数騎が近づいてきては矢を放ち、神臂弓の射程に入る前に離れた。


 それから、日が傾き始めると、北へ去っていった。


 平原には、倒れた馬が二頭と、動かない人影が二つと、まだ動いている人影が一つ、残された。


  ◇


 動いている人影は、城壁から百五十歩ほどのところに倒れていた。


 足を、神臂弓の矢に貫かれていた。自分で矢を抜こうとしたのか、矢柄が途中で折れている。


「捕らえます」


 韓奇捷が言った。


「半隊を連れて。罠かもしれません。伏兵がいれば——」


「斥候を先に出せ。左右の窪地を見てから行け」


 四半刻後、韓奇捷と十人ほどの兵が、その人影を担いで門をくぐってきた。


 城壁の内側の空き地に下ろされたそれを、兵たちが遠巻きに囲んだ。


 狄承武は、人垣を分けて、前に出た。


 若い兵だった。


 少なくとも、狄承武にはそう見えた。背丈は人の少年ほどしかない。肌は灰色がかった緑で、下顎から小さな牙が二本、上へ突き出している。耳は尖っていた。革の鎧は、ところどころ擦り切れて、継ぎが当ててあった。


 捕虜は、狄承武を見上げた。


 その目に浮かんでいたのは、敵意ではなかった。


 怯えだった。


 両手で、自分の頭を抱えるようにして、地面の上で体を丸めている。肩が、小刻みに震えていた。足の傷から、黒ずんだ血が流れ続けていた。


 捕虜が、何か言った。


 言葉は、分からなかった。だが、その声の調子は、狄承武が何度も戦場で聞いてきたものと同じだった。捕らえられた兵が、命乞いをするときの声だった。


「指揮使」


 韓奇捷が、狄承武の横に立った。


「こいつら、去年の秋に粛州の北で、捕らえた我が方の兵を——」


「知っている」


 狄承武は、短く言った。


「だが、これは、この兵がやったことではない」


 狄承武は、捕虜の前に膝をついた。


 捕虜が、びくりと身を引いた。


 狄承武は、両手を開いて見せた。武器を持っていないことを示すように。それから、捕虜の足の傷を指さし、自分の足を叩いた。


「医官を呼べ」


 振り返らずに言った。


「矢を抜き、傷を洗え。水と粥を与えろ。縛るのは手だけでいい。足は縛るな。この傷では、どうせ逃げられん」


「……はい」


 韓奇捷は、一瞬だけ黙ってから、伝令を走らせた。


 医官が来るまで、狄承武はその場を離れなかった。


 捕虜は、狄承武の顔と、周りの兵たちの顔を、何度も見比べていた。やがて、医官が来て、捕虜の足を押さえ、折れた矢柄を抜いた。捕虜は、悲鳴を上げた。その悲鳴も、人の兵のものと、何も変わらなかった。


 狄承武は、立ち上がった。


 あの兵も、誰かの命令でここへ来たのだ。自分が指揮使の命令でここにいるのと同じように。向こうの国にも、軍令があり、上官がいて、逆らえない命令がある。


 戦うのは、それが軍令だからだ。


 憎いからでも、殺したいからでもない。


 狄承武は、そう思って、城壁の上へ戻った。


  ◇


 その夜、狄承武は、指揮所で帳面を広げていた。


 今日の戦いの報告を、甘州の経略安撫司へ送らねばならない。負傷四、うち重傷一。死者なし。敵の死者二、捕虜一。射た矢の数、四百十二。回収できた矢、百八十。失われた矢、二百三十二。


 狄承武は、矢の数を書いたところで、筆を止めた。


 失われた矢、二百三十二。


 この区画の矢の備蓄は、もう四千を切っている。補充の矢は、先月、甘州へ請求を出した。まだ届いていない。


 矢だけではない。


 馬の飼い葉が、足りなかった。この冬の備えとして、近くの村から干し草を買い付けるよう、甘州から指示が来ていた。買い付けのための銭も、一緒に送られてきた。


 東南の会子だった。


 村の者たちは、それを受け取ろうとしなかった。


 この辺りで通るのは、鉄銭と、わずかな銅銭と、それから、布や塩との物々交換だった。東南の会子を持っていても、この辺りの市では使えない。使うには、甘州まで持っていって、両替商で鉄銭か銅銭に換えなければならない。両替商は、相場の二割を手数料として取る。


 しかも、甘州の両替商の手元にも、銅銭は多くなかった。


 狄承武は、先月、韓奇捷を甘州へやって、会子を銭に換えさせようとした。韓奇捷は、三日かけて甘州の両替商を回り、持っていった会子の半分しか換えられずに戻ってきた。


 残りの半分で、村の者たちに頭を下げて、次の収穫の時に払うという約束で干し草を分けてもらった。


 掛けだ。


 国の禁軍が、村の百姓に、掛けで飼い葉を買っている。


 狄承武は、帳面の端に、小さく書き足した。


 飼い葉、なお不足。会子の両替、困難。


 書き足しながら、狄承武は思った。


 この戦は、兵の数や、弩の数や、術者の数だけで決まるのではない。矢が届くか。飼い葉が届くか。届けるための銭が、ここで銭として通るか。


 それが通らなければ、兵がどれだけ勇敢でも、この城壁は守れない。


 今日の戦いで、兵たちはよく戦った。術者の光弾にも崩れず、神臂弓の斉射は正確だった。敵は、何も得ずに去った。


 だが、敵も、ほとんど何も失わずに去った。


 そして、明日か、明後日か、また来る。


 そのたびに、こちらは矢を失い、飼い葉を食い、兵を削られていく。


 狄承武は、筆を置いた。


 窓の外で、砂を含んだ風が鳴っていた。


  ◇


 同じころ、開封の宮城では、御前廷議の支度が整えられていた。


 林修平は、殿の隅の、説明員の立つ位置で、両手を前に組んでいた。


 夜対から、十日が経っていた。


 廷議の場は、夜対の小殿とは比べものにならないほど広かった。正面の一段高い座に、皇帝・趙祺。その左右に、宰執たちが席を連ねている。左丞相・李徳彰。右丞相・張文謹。参知政事の王懐遠と陳世昌。そして、今日の議題に関わる者として、戸部尚書・葉正言。


 修平の立つ位置は、その列の、さらに後ろだった。


 宰執ではない。都堂にも出られない。説明員として召され、問われたことに答え、許されたことを述べる。それが、詳定官の立場だった。


 修平は、葉正言の横顔を見た。


 五十歳。痩せていて、顎が細く、目の下に濃い隈があった。膝の上には、分厚い帳面の束が置かれていた。一冊や二冊ではない。十冊を超える帳面が、紐で束ねられて、二つの山になっていた。


 葉正言は、修平の方を一度も見なかった。


「始めよ」


 趙祺の声がした。


 李徳彰が、議題を読み上げた。


 銭法のこと。殿試の策問に示された銭荒の問題について、詳定官・林修平の答案に述べられた論を検討する。


 それから、李徳彰は、修平の方を向いた。


「林詳定。述べよ」


  ◇


 修平は、一歩前に出て、拝礼した。


 この十日、何を言うべきかを、何度も考えた。


 殿試の答案と同じことを、もう一度、もう少し丁寧に言うこともできた。官が認めた行。行の貸出と預り。行を束ねる行。紙幣の発行の、戸部からの切り離し。


 だが、修平は、それをやめることにした。


「陛下」


 修平は、顔を上げた。


「本日、私から申し上げたいことは、一つだけでございます」


 殿の中が、少し静かになった。


「私の殿試の答案が、この国の貨幣の制を、どこまで正しく捉えていたのか。それを、まず確かめさせていただきたいのです」


 宰執たちが、顔を見合わせた。


 陳世昌が、わずかに眉を上げた。


「私は、答案の中で、この国にはすでに紙幣があり、手形があり、預りがあると書きました。けれど、それは、江南西路の片田舎で、私塾の書物と、邸報と、州城の書肆で得た知識から書いたものです。この国の紙幣が、実際にどこで、どれだけ、どのように発行され、交換され、回収されているのか。私は、その帳簿を一冊も見たことがありません」


 修平は、葉正言の方を見た。


「帳簿を見ずに、制度を論じるわけにはまいりません。答案に書いた構想を申し上げる前に、この国がすでに持っているものを、正しく知りたいのです」


 殿の中が、しばらく静かだった。


 やがて、趙祺が、葉正言の方を向いた。


「葉尚書」


「はい」


 葉正言は、帳面の束に手を置いたまま、答えた。


「林詳定は、そう申しておる」


「……承りました」


 葉正言は、立ち上がった。


 それから、膝の上の帳面の束を、一つ持ち上げ、殿の中央に置かれた卓の上に、どさりと下ろした。


 紐を解いた。


  ◇


 帳面は、一冊ずつ、卓の上に広げられた。


 葉正言は、それを並べながら、淡々と説明した。


「これは、戸部の会子の帳簿。東南で流通する会子の、界ごとの発行額と、回収額と、残高を記したものでございます」


 修平は、卓に近づいた。


 帳面の頁には、細かい字がぎっしりと並んでいた。会子の界——発行の単位となる期ごとに、発行した枚数と額面、そのうち旧界から新界への引換えに回った分、税として官庫へ戻ってきた分、期限を過ぎて失効した分、そして市中に残っている分。それが、年ごと、界ごとに記されていた。


「これは、四川の銭引の帳簿。成都府の銭引務から写しを取り寄せました」


 別の帳面が開かれた。


 銭引の発行額。鉄銭との交換比率。成都府路の市場での実勢相場。それが、月ごとに記されていた。


「これは、転運司から上がってきた、各路の租税の受納の記録。どの路で、どれだけの税を、銅銭で、鉄銭で、会子で、銭引で、あるいは現物で受け取ったか」


「これは、会子と銭引の交換の条件。どの路で、どの紙幣を、どの比率で、どの銭と引き換えられるか」


「これは、偽造の摘発の記録。どこで、どの界の会子が、何枚偽造されたか」


「これは、紙と印刷の費用の記録。一枚の会子を刷るのに、紙がいくらで、墨がいくらで、刻工の手間がいくらかかるか」


 葉正言は、帳面を並べ終えると、一歩下がった。


 卓の上は、帳面で埋まっていた。


 修平は、その前に立ち尽くした。


 一冊ずつ、頁をめくった。


 会子の界ごとの残高。旧界から新界への引換えの期限と、その期限までに引き換えられなかった分の処理。税として受け取るときの会子の扱いと、その会子を再び市中へ出すときの規則。偽造の手口と、それに対する紙質や印刷の改良。


 修平は、答案の中で、紙幣があると書いた。手形や預りがあると書いた。


 それは、間違いではなかった。


 だが、自分が書いたのは、紙幣があるということだけだった。この帳面には、その紙幣を、何十年、何百年と、どうやって管理してきたかが書かれていた。発行し、交換し、回収し、期限を切り、偽造を防ぎ、税で受け取り、また出す。その一つひとつの手続きが、数字として、ここに積み上がっていた。


 自分が本で読んだ、どこかの国の中央銀行が生まれたころの帳簿に、引けを取らないのではないか。そう思えるほど、この帳面は精密だった。


「……想像していた以上です」


 修平は、思わず、そう口にした。


 葉正言が、初めて修平を見た。


「何が」


「この帳簿です」


 修平は、会子の帳面の一頁を指した。


「界ごとの発行と回収と残高を、ここまで細かく追っている。旧界の引換えの期限と、期限後の失効分まで。税で受け取った会子を、どれだけ再び市中へ出したかまで。私は、この国に紙幣があることは知っていました。けれど、その紙幣を、これほど細かく管理してきたことは、知りませんでした」


 葉正言は、しばらく修平の顔を見ていた。


 それから、低い声で言った。


「紙が銭になることなど、交子以来、我らはとうに知っている」


 殿の中が、静まった。


「林詳定の答案は、読んだ。紙幣を新たに発明する必要はない、朝廷はすでに紙幣を持っている。そう書いてあった。その通りだ。我らは、紙幣を持っている。そして、紙幣を持っているからこそ、知っていることがある」


 葉正言は、会子の帳面の、ある頁を開いた。


 数字が、急に大きくなっている頁だった。


「紙を増やせば、価値が薄れる。この界を見よ。北辺の軍費が足りず、界の発行額を三倍に増やした。一年のうちに、会子の相場は半値になった。商人は会子を受け取らなくなり、民は会子を持つことを恐れた。その後始末に、二十年かかった」


 葉正言は、別の頁を開いた。


 今度は、数字が小さい頁だった。


「だから、発行を絞った。こちらの界では、発行額を半分にした。相場は戻った。だが、今度は銭荒がひどくなった。取引に使える銭が足りず、商人は取引を控え、農民は収穫を売れず、税を納められなくなった」


 葉正言は、帳面を閉じた。


「紙を増やせば、価値が薄れる。増やさなければ、銭荒が残る。——林詳定。そなたは、この二つのあいだに、どんな道があると言うのだ」


  ◇


 修平は、すぐには答えなかった。


 卓の上の帳面を、もう一度、端から端まで見渡した。


 この十日、自分が考えてきたことを、頭の中で並べ直した。そして、今、目の前の帳面が教えてくれたことと、突き合わせた。


「葉尚書のお示しくださった帳簿から、私が読み取れたことを、申し上げてもよろしいでしょうか」


 葉正言は、黙って頷いた。


 修平は、指を一本ずつ折りながら、話した。


「一つ目。銅銭と鉄銭が、国の中で偏っております。都や大きな商業の町には集まり、辺境や内陸には届かない。届いても、人々が蓄えてしまい、市中を回らない。国の外へも流れ出ている。転運司の受納の記録で、路ごとに銅銭の割合が大きく違うことから、そう読めます」


 葉正言の目が、わずかに動いた。


「二つ目。会子と銭引は、それぞれ通じる土地が違い、信用の度合いも違います。東南の会子は、四川では通りにくく、四川の銭引は、東南では通りにくい。交換の条件の帳簿で、路ごとに相場が違うことから、そう読めます」


「三つ目。紙幣の発行が、国の財政の必要と近すぎます。北辺の軍費が足りなくなるたびに、発行が膨らんでいる。先ほど尚書がお示しになった界が、その例です」


 陳世昌が、腕を組んだ。


「四つ目。民間の手形や、掛けや、預りは、この国には十分にあります。けれど、それは、商人と商人、店と店、町と町のつながりの中に閉じていて、国中で共通に清算される仕組みにつながっていません」


「五つ目。これらが全部同時にあるせいで、官府も商人も、取引のたびに、決済の手段を換算しなければなりません。会子を銭に、銭引を会子に、鉄銭を銅銭に。そのたびに手数料がかかり、時間がかかり、換えられないこともあります」


 修平は、五本の指を折り終えた。


「銭荒とは、貨幣が一種類足りないということでは、ないのだと思います」


 修平は、顔を上げた。


「銅銭もあり、鉄銭もあり、会子もあり、銭引もあり、手形も預りもある。貨幣と信用は、この国に、いくつもある。足りないのは、それらを国中で安定して清算する仕組みです。あちらの紙幣と、こちらの銭と、そちらの手形とを、同じ物差しで、同じ帳簿の上で、やり取りできる仕組みがないのです」


 殿の中が、静かになった。


 葉正言は、何も言わなかった。


 修平は、続けた。


「ですから、私は、殿試の答案に書いたことを、改めます」


 宰執たちが、修平を見た。


「答案では、官が認めた行を置き、その行を束ねる行を中央に置く、と書きました。その骨格は、変えません。けれど、その書き方では、まるで何もないところに新しいものを作るように読めます。そうではありません。この国には、すでに、紙幣を発行し、交換し、回収してきた官署があります。帳簿があります。商人の信用があります。私が申し上げるべきだったのは、新しい紙幣や新しい仕組みを持ち込むことではなく、それら今あるものを、一つの決済の網へ組み直すことです」


  ◇


「では」


 正面の座から、声がした。


 趙祺だった。


「そなたの案は、会子を廃するのか」


 修平は、振り返り、拝礼した。


「廃しません」


「なぜだ。一つの網へ組み直すなら、今ある紙幣をすべて廃して、新しいものへ改めた方が早かろう」


「早いかもしれません。けれど、それをすれば、国中の取引が止まります」


 修平は、言った。


「今、この国の民と商人は、会子と銭引を持っています。それを明日から使えないと言えば、手元の会子は紙切れになります。民は財産を失い、商人は取引の手段を失います。銭荒を治すどころか、国中の取引を壊すことになります」


「では、どうする」


「まず、調べます」


 修平は、葉正言の帳面の方を見た。


「今ある会子と銭引が、どこで、どれだけ流通しているのか。発行の残高はいくらか。交換の条件はどうなっているか。市場の相場はどうか。それを扱う官署は、どんな帳簿で、どんな手続きをしているか。その上で、何を残し、何を中央へまとめ、何を地方に残すかを決めます。それを決めないうちに、中央の行の話をしても、空論です」


 修平は、最後の一言を、葉正言に向けて言った。


 葉正言の口の端が、ほんのわずかに動いた。


 趙祺は、しばらく修平を見ていた。


 それから、李徳彰の方を向いた。


「李丞相」


「はい」


「都堂より、戸部、会子と銭引の発行の官署、各路の転運司、および主だった商業の都市へ、追加の資料の提出を命じよ。林詳定が今申したものを、すべて」


「承りました」


 李徳彰が、頭を下げた。


 趙祺は、宰執たちを見渡した。


「本日の廷議は、これまでとする。銭法のことは、資料が揃い次第、再び議す」


  ◇


 廷議が終わり、宰執たちが殿を出ていったあと、修平は、卓の上の帳面を片付ける戸部の吏員たちを、少し離れて見ていた。


 葉正言が、修平の方へ歩いてきた。


 手に、帳面を一冊と、古びた紙の束を持っていた。


「林詳定」


「はい」


 葉正言は、それを修平の前に差し出した。


「交子の発行の記録の写しだ。交子務の古い帳簿から写させた。それから、銭引の初めのころの記録。会子の、最初の界の記録」


 修平は、両手でそれを受け取った。


 ずしりと重かった。紙は黄ばみ、ところどころ虫に食われていた。一番上の頁に、細い字で、交子の発行の年と、額と、準備の銭の額が記されていた。


「そなたは、先ほど、空論だと言ったな」


 葉正言は、修平の顔を見た。


「私は、そなたの答案を読んで、実務を知らぬ者の空論だと言った。李丞相から聞いているだろう」


「はい」


「そなたは、自分で、空論だと言った。帳簿を見ずに制度を論じるのは空論だ、と」


 葉正言は、少し間を置いた。


「未来の制度を申す前に、まず我らが何をしてきたかを読め」


 修平は、紙の束を胸に抱えた。


「読みます」


 修平は、頭を下げた。


「全部、読みます」


 葉正言は、それ以上何も言わず、踵を返して殿を出ていった。


 修平は、紙の束を抱えたまま、しばらくその場に立っていた。


 この国は、紙幣を発明するところから始まるのではない。


 もう何世代も前に紙幣を発明し、それで成功し、それで失敗し、その後始末をし、また成功し、また失敗してきた。その全部が、この紙の束に書いてある。


 自分がやるべきことは、この国に紙幣を教えることではない。


 すでに高度な紙幣の国を、次の形へどう進めるか。それを、この国の帳簿の上で考えることだ。


 殿の窓から、初夏の光が差し込んでいた。


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