第二巻 新法 第二回 紙幣国家
戸部の東の廊の突き当たりに、窓の小さな部屋が一つ、修平のために空けられた。
元は、古い帳簿を積んでおく物置だったらしい。床には、まだ紙の埃が薄く残っていた。机が二つ、椅子が四つ、壁際に空の書棚。窓からは、戸部の中庭の槐の木が、枝の半分だけ見えた。
詳定官の詰所、と呼ばれることになった。
呼んでいるのは、戸部の吏員たちだった。修平が自分で名づけたわけではない。朝、修平が部屋に入ると、戸口に小さな木札が掛けられていて、そこにそう書かれていた。誰が掛けたのかは、分からなかった。
廷議から三日後には、その部屋の書棚が、帳簿で埋まり始めた。
会子務の帳簿。成都府の銭引務から写しを取った帳簿。各路の転運司から上がってきた受納の記録。開封府の商税の記録。それらが、毎日、戸部の吏員の手で、何冊かずつ運び込まれてきた。
修平は、葉正言から渡された古い紙の束を、最初に読んだ。
読み終えるのに、十日かかった。
◇
交子は、四川で生まれた。
葉正言の紙の束の、一番古い頁には、そのことが淡々と記されていた。
四川では、昔から鉄銭が使われていた。鉄銭は、銅銭よりも値が低い。同じ額の取引をするのに、何倍もの重さの銭が要る。布一反を買うのに、鉄銭を何斤も担いでいかなければならない。
そこで、成都の商人たちが、鉄銭を預かって、その代わりに預り証を渡すことを始めた。預り証を持っていけば、いつでも鉄銭と引き換えられる。人々は、重い鉄銭の代わりに、軽い預り証で取引をするようになった。
それが、交子だった。
はじめは、商人たちが勝手に出していた。やがて、商人たちの中に、預かった鉄銭を使い込んで、預り証を引き換えられなくなる者が出た。交子の信用が揺らぎ、取引が混乱した。
そこで、官がそれを引き取った。
官が交子を発行し、官がその引き換えを保証する。発行の額を定め、準備の銭を蓄え、期限を定めて古い交子を新しいものに引き換える。
修平は、その記録を読みながら、何度も手を止めた。
知っていた。高校の資料集にも、大学の経済史の講義にも、交子は出てきた。世界で最初の、国家が発行する紙幣。
だが、知っていたのは、それだけだった。
この紙の束には、その先が書かれていた。
交子の発行額が、何度も改められたこと。北辺の軍費を賄うために、発行が膨らんだこと。膨らみすぎて、交子の相場が下がったこと。それを立て直すために、交子の名を改めて、新しい紙幣を出したこと。
それが、銭引だった。
銭引もまた、四川を中心に使われた。だが、交子とは発行の官署も、流通の範囲も、交換の条件も違った。交子の名は終わったが、紙幣そのものは終わらなかった。名を変え、器を変え、規則を変えて、続いた。
そして、東南では、別の系統の紙幣が生まれていた。
会子だった。
東南の商業の町々で、商人たちの間で使われていた手形や預り証を、やはり官が引き取って、官の紙幣とした。会子は、東南を中心に広く流通し、やがて、この国で最もよく使われる紙幣になった。
修平は、紙の束を閉じて、しばらく目を閉じた。
交子、銭引、会子。
大学の講義では、それを一本の線で習った。交子が生まれ、銭引になり、会子になった。そういう、一つの制度の発展として。
この紙の束は、違うことを言っていた。
交子と銭引は、四川の系統。会子は、東南の系統。発行する官署も、流通する土地も、交換の条件も、期限も、違う。それぞれが、それぞれの土地で、それぞれの事情から生まれ、並行して使われ、互いに影響し合い、時には一方がもう一方を引き継いだ。
一本の線ではない。
何本もの線が、絡まり合いながら、何百年も続いてきたのだ。
◇
十一日目の朝、修平の詰所に、客が二人来た。
一人は、戸部の郎中で、鄭仲謙という男だった。四十代の半ば。葉正言よりいくらか恰幅がよく、よく笑う。会子務に長くいて、会子の発行と交換の実務を十年以上扱ってきたという。
もう一人は、白髪の老吏だった。名を、蔣守拙といった。
「会子務で、四十年、帳簿をつけてきた男です」
鄭仲謙が、紹介した。
「葉尚書が、林詳定の相手には、この人がいちばんよかろうと」
蔣守拙は、修平に向かって、深々と頭を下げた。背が曲がっていて、頭を下げると、ほとんど腰が折れたようになった。
「交子務の、古い帳簿を扱っておりました。今は、会子務の書庫の番をしております」
修平は、思い出した。李徳彰が、殿試の答案について意見を聞いた四人の中に、交子務の古い帳簿を扱ってきた吏員がいたはずだ。帳簿の書き方は正しい、と言ったという。
「李丞相に、私の答案の帳簿のくだりを見せられたのは、あなたですか」
蔣守拙は、少し驚いたように顔を上げ、それから、にこりと笑った。
「書き手の名は、伏せておられました。まさか、こんなにお若い方とは」
◇
それから半月、鄭仲謙と蔣守拙は、毎日のように修平の詰所に通ってきた。
二人が教えてくれたのは、紙幣の実務だった。
「会子を一界出すのに、何が要るか」
鄭仲謙は、机の上に、白い紙を一枚置いた。
「まず、紙だ。この紙は、そこらの紙ではない。会子のためだけに漉かせた紙で、楮の皮に、特別な繊維を混ぜてある。光に透かすと、模様が見える」
鄭仲謙は、紙を窓の光にかざした。
修平は、目を凝らした。紙の中に、うっすらと、何かの模様が浮かんでいた。
「偽造を防ぐためだ。この紙を漉ける工房は、国に三つしかない。工房から出た紙は、一枚ずつ数えて、会子務へ納める。一枚でも足りなければ、工房の主が罰せられる」
「印刷は」
「版木を、何枚も重ねて刷る。色も、一色ではない。版木は、刻工が彫る。刻工も、決まった者しか使わない。版木は、刷り終えたら、封をして会子務の蔵に納める。界が終われば、焼く」
蔣守拙が、横から、古い会子を一枚出した。
黄ばんで、角が擦り切れていた。だが、刷られた模様は、まだはっきりと見えた。数字と、発行の界と、官の印と、偽造した者を罰する文言が、細かい模様の中に刷り込まれていた。
「三十年前の界の会子でございます」
蔣守拙は、それを大事そうに指で撫でた。
「期限が過ぎて、引き換えられずに残ったものでございます。これを持っていた者は、損をいたしました」
「期限を過ぎたら、引き換えられないのですか」
「界には、期限がございます。三年、あるいは五年。期限までに、新しい界の会子と引き換えねばなりません。引き換えなければ、失効いたします」
「なぜ、期限を」
鄭仲謙が、答えた。
「紙が傷むからだ。何年も人の手を渡れば、紙は擦り切れ、破れ、汚れる。偽造も増える。古い界ほど、偽造の手口が出回っている。だから、界ごとに期限を切り、古いものを回収して、新しいものに換える。そのときに、発行の額も改められる」
「それに、もう一つ」
蔣守拙が、小さな声で言った。
「期限を切れば、引き換えにこない分が出ます。失くした者、忘れた者、遠くにいて引き換えに来られない者。その分は、官の手元に残ります」
修平は、蔣守拙の顔を見た。
老吏は、目を伏せていた。
「それも、紙幣の実務の一つでございます。あまり、表では言われませぬが」
修平は、黙って頷いた。
期限が切れた紙幣の分、発行した官が得をする。それは、紙幣を発行する者にとっての、一種の収入だった。
知っていることだった。紙幣を出す者が得る益の、一つの形だ。
この国の老吏は、それを、四十年の帳簿の中で、自分の目で見てきたのだ。
◇
税への受納の話も、聞いた。
会子で税を納めることができる。それが、会子の信用を支えている、と鄭仲謙は言った。
「民が会子を受け取るのは、それで税が払えるからだ。官が会子を税として受け取らなければ、民は会子を持とうとしない。官が受け取るから、民も受け取る。商人も受け取る」
「会子は、全部、税で受け取るのですか」
「全部ではない。税の何割かを会子で納めてよい、と決めている。残りは、銭か、現物だ。その割合を、何割にするかが、難しい」
鄭仲謙は、帳簿を一冊開いた。
「割合を高くすれば、会子の信用は上がる。だが、その分、官の手元に銭が入らなくなる。北辺の軍費は、銭で払わねばならぬものも多い。辺境の市では、会子が通らんからだ。割合を低くすれば、官の手元に銭が入るが、会子の信用が下がる」
北辺の市で会子が通らないという話は、夜対の夜に楊崇武が見せた記録の中にも、ちらりと出てきた。飼い葉の買い付けに困っている、という報告だった。
修平は、帳簿の数字を見た。
路ごとの、税の受納の割合。会子の割合が高い路と、低い路。
東南の両浙路や福建路では、会子の割合が高かった。北辺の河西路や燕山路では、ほとんど会子を受け取っていなかった。
「北辺では、会子で税を受け取らないのですね」
「受け取れんのだ」
鄭仲謙は、苦い顔をした。
「受け取っても、使い道がない。北辺の官府は、兵の給与も、飼い葉も、武具の修理も、その土地の銭で払わねばならん。会子を受け取っても、それを銭に換えるには、東南まで送らねばならぬ。だから、北辺の路では、会子を受け取る割合を低くしている。すると、北辺では、会子の信用がさらに下がる」
修平は、その話を、帳面に書き留めた。
紙幣の信用は、それで税が払えるかどうかで決まる。そして、税で受け取る割合は、官がその紙幣を使い道のある場所で使えるかどうかで決まる。使い道のない土地では、紙幣は税で受け取られず、信用を失い、さらに使い道がなくなる。
悪い循環だった。
◇
過去の失敗の話は、蔣守拙がした。
「私が会子務に入って、五年目のことでございました」
蔣守拙は、帳簿の、ある界の頁を開いた。
廷議の日に、葉正言が開いたのと同じ頁だった。数字が、急に大きくなっている頁。
「北で、大きな戦がございました。軍費が、まるで足りなくなりました。戸部から会子務へ、界の発行額を増やすようにと、何度も命が下りました。はじめは、二割増し。次に、五割増し。最後には、三倍になりました」
蔣守拙の声は、静かだった。
「会子務の者は、皆、分かっておりました。こんなに刷れば、会子の値が下がると。けれど、戸部の命でございます。北の兵が飢えれば、国が危うい。刷らぬわけにはまいりませんでした」
修平は、黙って聞いていた。
「一年で、会子の相場は、半値になりました。開封の両替商の店先では、会子一貫で、銅銭五百文しか換えてもらえなくなりました。商人は会子を受け取らなくなり、受け取っても、すぐに銭か品物に換えようとしました。米の値が上がり、塩の値が上がり、布の値が上がりました。俸給を会子で受け取っていた下級の役人は、暮らしが立たなくなりました」
蔣守拙は、一度、言葉を切った。
「私の父も、会子務の吏員でございました。俸給は、半分が会子でした。あの年、父は、母の嫁入りの時の簪を質に入れました」
修平は、何も言えなかった。
「その後、朝廷は、発行を絞りました。新しい界では、発行額を半分に減らしました。会子の相場は、ゆっくりと戻りました。けれど、今度は、市中の銭が足りなくなりました」
蔣守拙は、別の頁を開いた。
「刷りすぎれば、値が崩れる。絞りすぎれば、取引が止まる。私は、四十年、この二つのあいだを、行ったり来たりする帳簿を見てまいりました」
老吏は、顔を上げた。
「林詳定。私は、答えを存じません。ただ、帳簿は、嘘をつきませぬ。どちらの年も、民は困りました。刷りすぎた年も、絞りすぎた年も」
◇
その日の夕方、修平は、一人で詰所に残り、机の上に紙を広げた。
この一月で読んだものを、整理しようと思った。
紙の左上に、「紙幣」と書いた。
交子、銭引、会子。地域と発行の系統が異なる、いくつもの紙幣。それぞれが、発行され、交換され、期限を切られ、回収され、税で受け取られる。
紙の右上に、「銭」と書いた。
銅銭、鉄銭、銀。地域によって偏り、蓄えられ、国の外へ流れ出る。
紙の下に、「民間の信用」と書いた。
手形、掛け、預り、両替、質庫、商人の間の信用。
修平は、それらを、線でつなごうとした。
紙幣と銭のあいだには、交換の条件がある。両替商がいる。
銭と民間の信用のあいだにも、両替商がいる。櫃坊がいる。
紙幣と民間の信用のあいだは——。
修平は、筆を止めた。
つながっていなかった。
正確に言えば、つながっているところは、あった。商人が会子で手形を決済することもある。櫃坊が会子を預かることもある。けれど、それは、一つひとつの商人、一つひとつの店が、自分の判断でやっていることだった。国として、紙幣と民間の信用をつなぐ仕組みは、どこにもなかった。
修平は、紙の真ん中に、丸を一つ描いた。
その丸から、紙幣へ、銭へ、民間の信用へ、線を引いた。
殿試の答案に書いた、行を束ねる行。
修平は、その丸を、しばらく見つめていた。
新しいのは、信用そのものではない。
この国には、信用は溢れるほどある。紙幣も、手形も、預りも、掛けも。足りないのは、それらを、国の中で共通の帳簿の上に載せる仕組みだ。散らばった信用を、全国の決済の網へ束ねる仕組みだ。
修平は、丸の中に、小さく書いた。
銀行を束ねる銀行。
それから、その横に、もう一つ書き足した。
権限、未定。独立、未定。財政との境、未定。手段、未定。
まだ、決めてはいけない。
この丸が何をするのか。どこまでの権限を持つのか。国の財政とどう線を引くのか。それを決めるのは、もっと先だ。
その前に、確かめなければならないことがある。
◇
翌日、修平は、この一月の整理を、葉正言のもとへ持っていった。
戸部尚書の執務室は、修平の詰所の何倍も広かった。けれど、机の上の帳簿の量は、修平の詰所と変わらなかった。
葉正言は、修平の紙を、黙って読んだ。
読み終えると、紙を机の上に置いた。
「紙幣を発明する必要はない、とそなたは答案に書いた」
「はい」
「今も、そう思うか」
「そう思います」
修平は、答えた。
「この国は、もう何世代も前に、それをやっています。この一月、それを読みました。交子も、銭引も、会子も。成功したことも、失敗したことも」
葉正言は、何も言わなかった。
「問題は、紙が銭になるかどうかではありません」
修平は、紙の真ん中の丸を指した。
「散らばっている紙と信用を、どう同じ決済の仕組みへつなぐかです」
「それで、この丸を置く、と」
「いずれは」
修平は、丸の横の、未定と書いた四つの文字を指した。
「ただ、この丸が何をすべきかを決める前に、確かめなければならないことがあります。この丸がつなぐのは、紙幣と銭だけではありません。民間の行——官が認めた銀行です。その銀行そのものが、どこで危うくなるのか。それを先に見なければ、この丸に何をさせるべきかも決まりません」
葉正言は、修平の顔を、じっと見た。
それから、机の上に、両手を組んだ。
「では、聞こう」
葉正言の声は、廷議の日と同じく、低かった。
「そなたの言う銀行が、貸すことで預りを作るとする。帳簿の上で、貸出と預りが、同時に生まれる。預りは、支払いに使える。銭は動かない。——ここまでは、答案に書いてあった。蔣守拙も、帳簿の書き方は正しいと言った」
「はい」
「では、その預りを持つ者が、皆、同時に、銭で返せと言ったら、どうなる」
葉正言は、修平を見据えた。
「銀行の蔵には、貸した額ほどの銭はない。帳簿の上で作ったのだからな。預りを持つ者が、皆、同時に蔵の前に並んだら。銀行は、どうする」
修平は、少し間を置いてから、答えた。
「それが、次に考えなければならない問題です」
葉正言は、頷きもせず、首を振りもしなかった。
ただ、机の端に積まれた帳簿の山から、一冊を抜き出し、修平の前に置いた。
「十二年前、開封の櫃坊が一つ、潰れた。そのときの開封府の記録だ。読んでおけ」
修平は、その帳簿を受け取った。
表紙に、開封府の印と、櫃坊の名と、「閉店始末」の四文字が記されていた。




